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第三巻
巻ノ三十四『死してなお願う』
しおりを挟む景色が、目で追えないほど速く流れていた。
封印の力を紫藤の珠に戻し、珠が緑に光るのを見た時には、俺の魂は外に投げ出されていた。
紫藤の側に佇むこともできず、何かに引っ張られるように空を飛んだ。
止まった先は、自分の体の側だった。眠る体を見つめ、入れないかと触れてみたけれど。拒むように弾かれた。
やはり、俺の体はもう、死んでいた。
覚悟はしていた。紫藤の封印の力を戻せば、何のつてもなく俺の魂は彷徨うことになる。導いてもらわなければ、体に戻ることは難しいことは聞いていた。
だが、人の姿の紫藤では、充分な力は出せない。松田や喜一の破壊の力でも、開放された悪鬼の力を抑え込むことはできなかっただろう。
紫藤と、彼にできた仲間を守るためならば、俺の体一つなど、安い物だった。
主が楽しそうに喧嘩や言い合いをし、砕けていく姿をどれほど嬉しく思ったことか。
【紫藤様……今戻ります】
自分の体に別れを告げた。
死んでもなお、側に居る。
その約束を果たすため、紫藤のもとへ戻ろうと空を飛びかけた俺は、透けていく魂に戸惑った。もともと不安定に揺れるような存在にはなっていたけれど、色が無くなるように透けていく。
両手を見てみれば、もう、指の先が消えていた。
【これは……!】
成仏、しようとしているのか。
それとも紫藤が言っていたように、魂が消滅しようとしているのか。
【……まだ、消える訳にはいかぬのです……! 死してなお、お側に居るとお誓い申し上げたのです……!】
震える我が身で膝をつく。誰に祈って良いのかも分からなかった。
【後生です……! どうか……どうかお側に……! 紫藤様のお側に……!! どの様な形でも構いませぬ……! ただお側に……!!】
祈った俺の魂が、消えていく。
この世から、消えていく。
頭を垂れた俺の魂が、掻き消えようとしていた。
【トワノツナガリヲ】
誰かの声が、響いた気がして。
顔を上げた時、鳥になった紫藤の姿が見えた気がした。耳鳴りのような音がし、魂が引っ張られていく。
ここで待っていたかった。紫藤ならきっと、迎えに来てくれるはずなのに。
【お待ちを……! ここで紫藤様のお帰りを待たせて下され……!】
消滅する前に、せめて一目会いたかった。
願いは通じず、景色が後ろへ後ろへと流れていく。掠れた景色を飛び越えた俺は、暗い闇の中に居た。
【紫藤様……! 紫藤様……!】
声の限りに呼んだ。闇は俺を捕らえて離さない。見えない空間に必死に叫んだ。
【紫藤様……! 紫藤様!!】
何かがざわめいた。消えようとしていた俺の魂を囲っている気配がする。
ここがあの世なのだろうか?
【紫藤様……紫藤様……】
意識が、少しずつ薄れていく気がした。何度も、何度も、紫藤の名を呼び続けたけれど、もう、声が出ているのかも分からない。
それでも呼び続けた。
紫藤の名を。
主の名を。
呼び続けた。
「父様! 清次郎様の声が聞こえた!」
「何言ってるだか。清次郎様がおられる訳ねぇだよ。それよりご神木様の葉が落ちなすったでねぇか! 紫藤様に何かあったでねぇのか?」
「絶対聞こえたよ! 凄い光だったし……。ねぇ、清次郎様! 居るんでしょう?」
ここは何処だ?
紫藤は何処に?
【……紫藤……様……】
見えない闇の中で、主の名を呼び続けた。
***
「ふむ。話を聞くかぎり、舞姫の言霊が間に合ったのだろうな。消えかけたお主と紫藤殿の繋がりを強くしたのだろう」
「そう、なのでしょうか。夢中でしたので、紫藤様のもとへ戻らねばと、そればかりでした」
「紫藤殿の札と、神木としてのあの木が、お主の弱った魂を守っておったのだろう。同じ紫藤殿の札だ、お主を守るため、引き寄せたのやもしれぬな」
目の前に座った松田は、杯を手に笑っている。俺の隣には美祢が座っていた。同じく杯を手にしている。
その側で七乃助が酒を注いでいた。俺にも注ごうとしたので、そっと辞退する。紫藤の口付けで一時的に強張っていた体を治してもらっているけれど、胃が熱い物を拒んでいた。
村長の家で話していた俺達は、村人総出で世話をしてもらっている。表では餅が突かれていた。賑やかな声が聞こえている。
神木になった紅葉の木は札を噴き出した後、枯れたまま戻ることもできず朽ち果ててしまった。松田が言う通りなら、俺の魂を守ってくれたせいだろう。
せっかくの神木をと、謝る俺に皆は優しく気にしないで良いと言ってくれた。俺が紫藤のもとに戻ったことを心から喜んでくれた。
命ある限り、紫藤と、この村を守ろうと決意した。大事にしていた紅葉の木が神木になっていなかったら、俺の魂は帰る場所もなく、力を補ってもらうこともできず、消滅していたはずだった。
本当に、心から感謝している。
「なんにしても」
松田が俺を見つめ、ぐいっと酒を煽っている。美味そうに飲んだ彼は、ニヤリと笑った。
「今までにない甘え方だの」
隣の美祢も噴き出している。
苦笑した俺は、べったりとくっ付いている紫藤の長い白髪を撫でてやった。
胡座をかいていた俺の膝に飛び乗り、両腕は首に、両足は腰に回してしがみ付いている。もう、大丈夫だからと説得しても、降りようとはしなかった。
少し細くなった気がする。一月の間、俺の魂を探し求めていたと聞いている。江戸に増えてしまった魂の声に、精神的にも疲れていたと美祢に聞いた。
俺が目覚める数刻前までは、ほとんど食べていなかったらしい。
「紫藤様。とにかく何か食って下され」
「……うむ」
「しがみ付いていてもよろしゅうございますから」
背中を撫で、落ち着かせようと試みる。そろそろと腕の力を抜いた紫藤は、肩に両手を乗せたまま近い距離で見つめてくる。
「食ったら、またしがみ付くぞ」
「はい」
笑ってやれば、ホッとしたように笑ってくれる。
見つめ合っていた俺達の側に、美祢がすり寄った。じっと俺の顔を見つめてくる。するりと、腕に抱き付いてくる。
「清ちゃんって、良い男だね。本気で惚れちまいそうだよ」
「…………!!」
美祢の言葉に紫藤が飛びついた。俺を押し倒し、胸に顔を抱いてくる。
「ならぬ!! 清次郎は私のものだ!! 美祢とてやれぬ!!」
「し、紫藤様!? 苦しいです……!」
「清次郎は私の清次郎だ!!」
息がし辛いほど、胸に押し付けられてしまった。まだ思うように体が動かない俺は、もがいてももがいても、外すことができない。食っていなかった体は、力を保てなかった。
「あっはっはっ! 冗談だよ、冗談! 本気で良い男だとは思うけど、惚れても取ったりしないよ!」
「本当か!?」
「ああ。約束する。あんたが笑ってられるんなら、それが一番さ」
紫藤の背中に美祢も飛び乗った。二人分の重みを受けてしまう。もがく俺に紫藤が抱き付き、その紫藤には美祢が抱き付いている。
正直、この体で二人分の重みはきつかった。松田は酒を呷るばかりで助けてはくれず、七乃助は新しい酒を取りに行っている。
どうしたものかと重みに堪えていた俺の頭上に、影が差した。
「お粥を作ってきました。餅もそろそろ、突き上がります」
太助が椀に盛った熱い粥を盆に乗せて運んでくれた。不機嫌そうに言い捨てた彼は、じろりと俺を睨んでいる。
「清ちゃん、先に食べなよ。お腹空いてんだろう?」
「しかし紫藤様が先に……」
「この期に及んで何を言う! お主が先ぞ!」
二人に引き起こされ、頭を掻いてしまった。乱暴に盆を置いた太助は、ふんっとそっぽを向いている。
「あんた、何怒ってんだい? てっきり清ちゃんを慕ってんだとばかり思ってたのにさ」
美祢が太助に顔を寄せていく。ほんのりと頬を赤らめた彼は、ますます俺から視線を外した。
太助が、神木に入った俺の声を聞き取ったから、紫藤に知らせることができた。俺にとっては、命の恩人になるのだが。
不機嫌な彼に、困ってしまう。やはり紫藤のことになると、彼は俺に対して強く当たってくる。
「お主には感謝してもしきれぬのだが……そう、膨らまれると礼も言い難い。何かしただろうか?」
問い掛ければ、キッと睨んでくる。
「清次郎様はずるいです!」
「……俺がずるい?」
「そうです! 清次郎様の側にはお美しい方ばかりがいらっしゃいます! 紫藤様だけでも、どれほど光栄なことなのかお分かりになっていらっしゃらない! なのにもう一人、囲まれるとは……!」
「それってあたしの事かい?」
美祢がからから笑いながら自分を指差している。太助は頬を赤く染め、熱心に頷いた。
「お美しい方です……!」
「でも、あんたと同じもんが付いてるよ?」
言われた意味が分からないのか、赤い頬のまま首を傾げている。酔った目をした松田が太助の肩をポンッと叩いた。
「美祢は女だが、男根も付いている、と言う事だ」
「………………!」
太助の顔が、今までにないほど真っ赤に染まった。美祢の豊かな胸を見つめ、その視線が下へと下がっていく。まじまじとそこを見た彼は、ハッと我に返ったように頭を垂れると、もつれる足を動かして退出してしまった。
「……初めての反応だね~」
ポフッと下を叩いた美祢に、松田が笑っている。
「久々に、抱いてみたいがの」
「あら嫌だ。子供作ってくれない奴とはしないよ」
「それは残念……」
ゴッ、と松田の頭から鈍い音がする。盆を打ち付けたのは、七乃助だった。
「……痛いぞ、お七ちゃん」
「あなた様は一度、生死を彷徨われた方がよろしゅうございますな!!」
「も~、焼き餅なんて、可愛い子だよ!」
怒鳴っていた七乃助を抱き締めた美祢。豊かな胸に顔を埋めた七乃助がじたばた暴れている。松田は頭をさすりながら、七乃助の袴の裾から手を差し込んでいる。
「これ、美祢。七乃助で遊ぶのは俺だぞ」
「良いじゃないか。一緒に遊ぼうよ」
「ふむ。それも良いの」
「…………!?」
背中は松田に、前は美祢に、がっしりと抑え込まれた七乃助。二人に弄ばれ始めてしまった。
止めた方が良いかと腰を浮かし掛けていた俺の目の前に、匙が出てくる。
「さ、清次郎」
にこにこと笑った主・紫藤蘭丸は、掬ったお粥を差し出してくる。
「自分で食えますから」
「遠慮するでない。さ、ほれ、はよう!」
なおも差し出され、七乃助の様子が気になりつつも口に入れた。程良く塩加減の効いたお粥に胃が温められていく。
楽しそうにお粥を掬った紫藤は、ふーふーと息を吹きかけて冷ましている。大人しくお粥を口に入れた俺は、紫藤の髪を少し摘んだ。
サラサラした髪は、俺の手を滑っては流れ落ちた。
***
皆に突いてもらった餅をたらふく食った紫藤と共に、久しぶりの屋敷へと帰った。美祢は村に残り、松田と七乃助は付いてきた。
俺が家事をしようと動くと、紫藤がくっついて来てしまうためだった。今日ばかりは大人しくしているように、と松田に言われ、家の事は七乃助と二人でやってくれると言った。
最も、手早く動くのは七乃助だった。松田はのんびりと布団を敷いたくらいだった。小柄な体で動き回った七乃助は、風呂まで沸かしてくれた。さすがに水を張る時は手伝った松田が、ニヤニヤと笑っていた。
「俺達も、後でゆっくり使わせてもらう」
その言葉を聞いた七乃助が、尻を蹴飛ばしていた。何かを先読みした彼は、真っ赤になって外に出ていってしまった。
不思議に思いながらも、紫藤に手を引かれ風呂場へ向かった。部屋の中は村人に掃除をしてもらっていたおかげで綺麗なものだ。二人して着物を脱ぎ、湯気が立ちこめる風呂場に降り立った。長い紫藤の髪は上の方で結んでやった。
「さ、紫藤様。お背中を流します故、座られて下され」
「私が先だ!」
手拭いを掴んだら、それをひったくられてしまう。強引に木製の丸椅子に座らされ、布に石鹸を擦り付けている彼を振り返る。
「紫藤様。俺が洗います故……」
「良いではないか。ほれ、向こうを向いておれ」
コシコシと、手拭いが当てられる。熱心に擦り始めた彼に、小さな溜息をつきながらも任せた。
背中が終わり、腕を持ち上げられる。楽しそうに俺の体を洗った紫藤は、足も丁寧に擦っていく。足の裏まで洗おうとした彼に、さすがにそれはと止めに入ったけれど。手拭いて包み込まれ、揉むように洗われてしまった。
くすぐったいし、恥ずかしいしで、頬に熱が集まった。足を洗い終えた紫藤は、伸び上がってくると俺の下に手を当てている。
「し、紫藤様……!」
「丁寧に、洗わねばの」
「そ、そのような事はせずとも……!」
「ずいぶん、熱を込めておるようだ」
両手に、直接包まれていた。揉みしだかれ、息が詰まる。外には七乃助が控え、火加減を調節している。迂闊な声は出せなかった。
声を抑える俺の唇に、紫藤の唇が重なる。触れ合った唇に、目眩がしそうなほど感じてしまう。
ゆっくりと、舌を絡め合った。紫藤に押し入られ、押し返しながら熱を与え合う。次第に紫藤の息も上がり始め、目を細めると腰を抱き上げた。
互いのモノを触れ合わせる。泡で滑りながら俺の首に抱き付いた紫藤は、片手で熱心に擦ってくる。その手を覆うように俺も擦った。
熱くて、溶けそうな熱が弾けた。唇で声を塞ぎ合った俺達は、静かに離れると笑い合っていた。
「……さ、紫藤様も」
「うむ」
簡単に泡を流し、椅子に座らせると白い背中を擦っていく。隅々まで洗ってやれば、嬉しそうに笑っていた。
二人で浴槽に浸かり、身も心も温めた俺達は、外の七乃助に声を掛けてから部屋に戻った。寝装束に身を包み、敷かれていた布団の側で座る。濡れた彼の髪を丁寧に拭き上げていると、障子の外から声が掛かった。
「風呂を使わせて頂きます。それと、我らはここより離れた部屋を使わせて頂きますので」
「うむ。構わぬぞ。好きに使え」
「では。明日の朝、食事の準備が整った後、ご挨拶申し上げます」
障子は開けられなかった。小柄な体が廊下を歩いていく。途中、松田に会ったのか、一言二言喚いた声が聞こえたけれど、すぐに遠ざかった。
「松田め。風呂で悪さをするつもりだの」
「分かりますか。俺もそうではないかと思っておりましたが……」
「七乃助も気付いておったのだろう。蹴り飛ばしたくらいで、あの男が諦めるものか」
ふんっ、と鼻息を吐き出した紫藤は、俺を振り返っている。頬に両手が添えられた。
「もう少し、体を治してやろう。今宵はたっぷり、抱いて欲しい故な」
「……いえ。このままで」
彼の唇を遮るように手で塞いだ。少し寂しそうな顔をしたけれど、何かを察したようにフルフルと首を横へ振っている。
「……そうか。そうだな。きついであろうし。今宵は共に寝るだけで我慢するとするか」
紫藤は一つ頷き、布団を捲っている。先に寝転がった彼は、隣をポンポン、叩いて見せる。
「さ、はよう!」
「はい。今宵が初めてになります。お手柔らかに願います」
正座したまま、軽く頭を下げた。意味が分からないのか、紫藤が下から見上げてくる。
「清次郎?」
「中から直接注いだ方が、力が行き渡るのでございましょう?」
そう、告げた俺に跳ね起きている。まじまじと見つめられ、頬が熱くなった。
「せ、清次郎……それは……それは……!?」
「覚悟はとうに固まっております。この体が生きておるのだと、教えて下され。紫藤様のもとへ戻ってきたのだと、教えて下され」
頭を下げた俺の体は、紫藤の胸に抱かれていた。見上げた俺を、泣きそうな顔で見ていた主・紫藤蘭丸は、額に一つ、口付けをくれた。
「……愛しいぞ、清次郎」
「俺も……愛しております、紫藤様」
頬を包まれ、降り注ぐ熱い口付けを受け止めた。
応援ありがとうございます!
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