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頬を伝う、涙
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この夜の丑三つ刻にも、春坊は千代の夢を見た。
夢うつつの中で、千代が春坊の顔を心配そうにじっと覗き込んでいるのだ。
――春右衛門様。春右衛門様……
悲しげな声で、彼女が春坊を呼んでいる。
薄目を開けて、春坊は重い手を千代の頬へ伸ばした。
白い肌に、手が触れる。
ふよふよと手応えのない柔らかさと、ひんやりとした触感。
春坊は、つい夢の彼女に言った。
(千代殿。縁談の話はもう聞かれましたか。俺は、とても嬉しい。まさか、あなたと夫婦になれるなんて……)
春右衛門様。春右衛門様……
(ただ、俺はあなたのお気持ちが心配なのです。この縁談が、お嫌でないといいのですが……)
春右衛門様。春右衛門様……
(……泣いているのですか。千代殿……)
生真面目に剣ばかり振るってきた春坊の無骨な手に、温かな雫が伝わる。
ひんやりとした頬を伝うその熱が、千代の心を表しているように感じられた。
春右衛門様。春右衛門様……
(俺がお嫌いですか、千代殿……)
春坊が見つめると、千代はそっと瞳を伏せた。
「……どうか、日下部の家には来ないで。あたしのことは、お忘れください……」
その夜初めて意味のある言葉を口にすると、夢の中の千代は、すっと姿を消した。
♢ 〇 ♢
気がついた時には、早朝の白い光が狭い床べりの臥所に差していた。
早朝稽古の時間だ。
慌てて飛び起きると、春坊の頬を雫がつうと伝う。
「……?」
目を瞬いて、春坊は自分の頬を触った。
そこには、確かに雫が流れていた。
それも……、まだ温もりを残している。
春坊は、怪訝に首を傾げた。
(……俺は、夢を見て泣いていたのだろうか?)
泡沫のように消えた夢の名残を追って頭を振ると、……どうも、自分はまた千代の夢を見ていたらしい。
(縁談に浮かれすぎだ。男のくせに、情けない)
千代のことは好きだが、ただの夢で涙まで零してしまうとは……、さすがに自分でも呆れる。
しかし、春坊は首を捻った。
憧れの女人と、結婚できる。
それは、この上なく嬉しいことだ。
しかし、彼女がこの縁談をどう思っているかは気がかりとはいえ、果たして、泣くほどのことがあるだろうか。
「……」
春坊は、思った。
この涙は、本当に自分のものなのだろうか? ……と。
♢ 〇 ♢
(この町は、変化が目まぐるしいなあ)
道場稽古の帰り道に下町をぐるぐると歩きまわりながら、春坊は剣の老師匠を倣ってそんなことを思った。
〈何処迄が江戸の内にて、是より田舎なりという境これなく、民の心のままに家を建てつづくる故、江戸の広さ年々に広まりゆき……〉
……とは後年荻生何某が日記に残した言葉だが、膨張を続けるこの江戸の町を上手く評したものだ。※
江戸の町には日々あらゆる地から新しい人が流入し、新しい家が建ち、新しい珍奇な商売が現れては消える。
まだ十五歳の春坊には、湯に立つあぶくのように次々湧いて出るそれらが、種の知れない謎めいた奇術のようで目新しくて面白い。
ちょっと目をやれば、埃っぽい路地の角からにぎやかな声が聞こえてきた。
「――ちょろが、ちょろが参じましたァ! 嗚、ちょろを見る者、福来たるゥ!」
---
ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます!
この後も読んでいただけたら嬉しいです。
※零れ話
荻生徂徠(1666年~1728年)
「政談」より
〈何処迄が江戸の内にて、是より田舎なりという境これなく、民の心のままに家を建てつづくる故、江戸の広さ年々に広まりゆき〉
こんな昔から「どこまでが都(都会)?」みたいな感覚はあったんだなと思うと感慨深いですね…!
夢うつつの中で、千代が春坊の顔を心配そうにじっと覗き込んでいるのだ。
――春右衛門様。春右衛門様……
悲しげな声で、彼女が春坊を呼んでいる。
薄目を開けて、春坊は重い手を千代の頬へ伸ばした。
白い肌に、手が触れる。
ふよふよと手応えのない柔らかさと、ひんやりとした触感。
春坊は、つい夢の彼女に言った。
(千代殿。縁談の話はもう聞かれましたか。俺は、とても嬉しい。まさか、あなたと夫婦になれるなんて……)
春右衛門様。春右衛門様……
(ただ、俺はあなたのお気持ちが心配なのです。この縁談が、お嫌でないといいのですが……)
春右衛門様。春右衛門様……
(……泣いているのですか。千代殿……)
生真面目に剣ばかり振るってきた春坊の無骨な手に、温かな雫が伝わる。
ひんやりとした頬を伝うその熱が、千代の心を表しているように感じられた。
春右衛門様。春右衛門様……
(俺がお嫌いですか、千代殿……)
春坊が見つめると、千代はそっと瞳を伏せた。
「……どうか、日下部の家には来ないで。あたしのことは、お忘れください……」
その夜初めて意味のある言葉を口にすると、夢の中の千代は、すっと姿を消した。
♢ 〇 ♢
気がついた時には、早朝の白い光が狭い床べりの臥所に差していた。
早朝稽古の時間だ。
慌てて飛び起きると、春坊の頬を雫がつうと伝う。
「……?」
目を瞬いて、春坊は自分の頬を触った。
そこには、確かに雫が流れていた。
それも……、まだ温もりを残している。
春坊は、怪訝に首を傾げた。
(……俺は、夢を見て泣いていたのだろうか?)
泡沫のように消えた夢の名残を追って頭を振ると、……どうも、自分はまた千代の夢を見ていたらしい。
(縁談に浮かれすぎだ。男のくせに、情けない)
千代のことは好きだが、ただの夢で涙まで零してしまうとは……、さすがに自分でも呆れる。
しかし、春坊は首を捻った。
憧れの女人と、結婚できる。
それは、この上なく嬉しいことだ。
しかし、彼女がこの縁談をどう思っているかは気がかりとはいえ、果たして、泣くほどのことがあるだろうか。
「……」
春坊は、思った。
この涙は、本当に自分のものなのだろうか? ……と。
♢ 〇 ♢
(この町は、変化が目まぐるしいなあ)
道場稽古の帰り道に下町をぐるぐると歩きまわりながら、春坊は剣の老師匠を倣ってそんなことを思った。
〈何処迄が江戸の内にて、是より田舎なりという境これなく、民の心のままに家を建てつづくる故、江戸の広さ年々に広まりゆき……〉
……とは後年荻生何某が日記に残した言葉だが、膨張を続けるこの江戸の町を上手く評したものだ。※
江戸の町には日々あらゆる地から新しい人が流入し、新しい家が建ち、新しい珍奇な商売が現れては消える。
まだ十五歳の春坊には、湯に立つあぶくのように次々湧いて出るそれらが、種の知れない謎めいた奇術のようで目新しくて面白い。
ちょっと目をやれば、埃っぽい路地の角からにぎやかな声が聞こえてきた。
「――ちょろが、ちょろが参じましたァ! 嗚、ちょろを見る者、福来たるゥ!」
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ここまで読んでいただきまして、ありがとうございます!
この後も読んでいただけたら嬉しいです。
※零れ話
荻生徂徠(1666年~1728年)
「政談」より
〈何処迄が江戸の内にて、是より田舎なりという境これなく、民の心のままに家を建てつづくる故、江戸の広さ年々に広まりゆき〉
こんな昔から「どこまでが都(都会)?」みたいな感覚はあったんだなと思うと感慨深いですね…!
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