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第二話 亡霊、知らず生者の気を啜る
浮世の理不尽
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どうやら、来客らしい。
障子に、九郎先生と誰かもう一人のなよやかな影が重なり合って映っている。
「――うふふ。九郎先生ったら、また寝てないのね。あんまり忙しくしてると、身体を壊すわよ……」
「いやあ、あなたには敵いませんね……」
九郎先生が誰かと酒を酌み交わしているらしく、楽しげな話し声が聞こえる。
相手は、どうやら若い女人のようだ。
(九郎先生の恋人かな?)
わざわざめずらしいお香まで用意するのだ。
きっと、特別な相手なのだろう。
黄昏に会った時には、九郎先生は妻を亡くしたと言っていた。
であれば、九郎先生も相応に寂しいはずだ。
婚姻の時に誓い合ったように、死が二人を別ったとしても永久の愛を貫ければいいが――そうもいかないのが人間というものなのかもしれない。
特に、九郎先生はまだ若い。
春右衛門の父・新兵衛のように、後添えを探したくなったっておかしくはない。
ふいに切なく疼いた胸を押さえ、春右衛門はため息をついた。
「……」
春右衛門の胸にはまだ、……幸せにできなかった初恋の女人の面影がある。
日下部千代だ。
助けられず、何もできず、彼女は彼方に去ってしまった。
幽世に去った人は二度と黄泉返らないが、……浮世を生きる人の時間は常に流れていく。
深い愛も、固い誓いも……、いつかは変わるのだ。
(……九郎先生はお優しい方だ。過去に囚われず、幸せになってほしいものだ)
盗み聞きもなんだと思って、春右衛門はさっさと家路を急いだ。
長屋から漏れ聞こえてくる話し声は――、あの髑髏の影に感じたような不吉さとはほど遠い、まるで毬がポンポン跳ねるような楽しげな声だった。
♢ 〇 ♢
くだんの脚無し娼婦の怪事件に進展があったのは、翌日のことだった。
どこぞの半端者の博徒が、下手人として捕まったのだ。
ほっとしたように、兄の新介が冷酒の入ったお猪口に唇をつけた。
「……ああ、やれやれだぜ。これで、口さがない者達のむやみな噂も止むだろう。
これにて一件落着というわけだ」
かしこまって差し向かいに座り、春右衛門は仕事から帰った兄を労った。
「お疲れ様でございました。下手人は兄上が捕まえたのですか?」
「ああ。奴め、情婦と心中の約束をしたはいいが、土壇場になって怖気づいちまったらしい。女を殺しといて自分は死にきれねえで、小石川の博打場に潜んでやがった。甲斐性なしの女ったらしが末路といえばさもありなんだが、捕まってまでも我が身惜しさで大嘘こきやがる。情けねえ野郎だぜ」
「は……。大嘘と申しますと?」
「だからさ。奴め、自分は女を殺してねえって言いやがんだよ。女は自分で死んだとか何とか。
ったく、往生際の悪い奴だぜ」
「では、失せた両脚のことも」
「当然、知らねえとさ。……あれじゃ、死んだ女があんまり哀れだ」
久々の休みで酒に酔った新介は、いつになくゆるゆると口を滑らせた。
胸につっかえた鉛でも吐き出すようにして、新介は悲しそうに語った。
「死んだ情婦はほんの十ばかりで色茶屋に奉公に入ったんだとよ。それも、場末の汚え店にな。それからはもう、毎夜店で身体を売る日々さ。夜の世界は熟知しても世間は知らぬ哀れな女の出来上がりよ。馬鹿で貧しい親が日銭のために売った子さ。顔は悪いし頭も悪い。売れっ子でもねえから、同輩が嫌がる銭湯にも行けねえ汚えのばかりを客に取らされる。唯一あった若さも年々なくなる。子は果たして何人堕ろしたかな……そうなれば、死にたくもなるってもんよ。そこへ現れたのがあの宿六というわけだ。女はしばらく男をヒモにしていたようだが、男がやった博打でかさんだ借金を肩代わりしきれなくなって、とうとう思い詰めて――」
〈これが一生か、一生がこれか〉――とは後世の創作だが、女がどんな心持ちで生きていたかは、想像に難くない。※
女には、ふいに現れた恋人が自分を生き地獄から救う光に見えたのだろうか。
それとも、死ぬための方便に利用しただけ?
いつの世も、最も深く理不尽の皺寄せを喰らうのは弱い女だ。菜種を搾るように女を搾る人でなしは、穢土から消えることはない。
---
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
以下、苦手な方はご注意ください。
※零れ話
こちらの一節は、樋口一葉「にごりえ」のものです。
青空文庫で読めますので、URLを記載します。
傑作です。
にごりえ 樋口一葉著
https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/387_15293.html
障子に、九郎先生と誰かもう一人のなよやかな影が重なり合って映っている。
「――うふふ。九郎先生ったら、また寝てないのね。あんまり忙しくしてると、身体を壊すわよ……」
「いやあ、あなたには敵いませんね……」
九郎先生が誰かと酒を酌み交わしているらしく、楽しげな話し声が聞こえる。
相手は、どうやら若い女人のようだ。
(九郎先生の恋人かな?)
わざわざめずらしいお香まで用意するのだ。
きっと、特別な相手なのだろう。
黄昏に会った時には、九郎先生は妻を亡くしたと言っていた。
であれば、九郎先生も相応に寂しいはずだ。
婚姻の時に誓い合ったように、死が二人を別ったとしても永久の愛を貫ければいいが――そうもいかないのが人間というものなのかもしれない。
特に、九郎先生はまだ若い。
春右衛門の父・新兵衛のように、後添えを探したくなったっておかしくはない。
ふいに切なく疼いた胸を押さえ、春右衛門はため息をついた。
「……」
春右衛門の胸にはまだ、……幸せにできなかった初恋の女人の面影がある。
日下部千代だ。
助けられず、何もできず、彼女は彼方に去ってしまった。
幽世に去った人は二度と黄泉返らないが、……浮世を生きる人の時間は常に流れていく。
深い愛も、固い誓いも……、いつかは変わるのだ。
(……九郎先生はお優しい方だ。過去に囚われず、幸せになってほしいものだ)
盗み聞きもなんだと思って、春右衛門はさっさと家路を急いだ。
長屋から漏れ聞こえてくる話し声は――、あの髑髏の影に感じたような不吉さとはほど遠い、まるで毬がポンポン跳ねるような楽しげな声だった。
♢ 〇 ♢
くだんの脚無し娼婦の怪事件に進展があったのは、翌日のことだった。
どこぞの半端者の博徒が、下手人として捕まったのだ。
ほっとしたように、兄の新介が冷酒の入ったお猪口に唇をつけた。
「……ああ、やれやれだぜ。これで、口さがない者達のむやみな噂も止むだろう。
これにて一件落着というわけだ」
かしこまって差し向かいに座り、春右衛門は仕事から帰った兄を労った。
「お疲れ様でございました。下手人は兄上が捕まえたのですか?」
「ああ。奴め、情婦と心中の約束をしたはいいが、土壇場になって怖気づいちまったらしい。女を殺しといて自分は死にきれねえで、小石川の博打場に潜んでやがった。甲斐性なしの女ったらしが末路といえばさもありなんだが、捕まってまでも我が身惜しさで大嘘こきやがる。情けねえ野郎だぜ」
「は……。大嘘と申しますと?」
「だからさ。奴め、自分は女を殺してねえって言いやがんだよ。女は自分で死んだとか何とか。
ったく、往生際の悪い奴だぜ」
「では、失せた両脚のことも」
「当然、知らねえとさ。……あれじゃ、死んだ女があんまり哀れだ」
久々の休みで酒に酔った新介は、いつになくゆるゆると口を滑らせた。
胸につっかえた鉛でも吐き出すようにして、新介は悲しそうに語った。
「死んだ情婦はほんの十ばかりで色茶屋に奉公に入ったんだとよ。それも、場末の汚え店にな。それからはもう、毎夜店で身体を売る日々さ。夜の世界は熟知しても世間は知らぬ哀れな女の出来上がりよ。馬鹿で貧しい親が日銭のために売った子さ。顔は悪いし頭も悪い。売れっ子でもねえから、同輩が嫌がる銭湯にも行けねえ汚えのばかりを客に取らされる。唯一あった若さも年々なくなる。子は果たして何人堕ろしたかな……そうなれば、死にたくもなるってもんよ。そこへ現れたのがあの宿六というわけだ。女はしばらく男をヒモにしていたようだが、男がやった博打でかさんだ借金を肩代わりしきれなくなって、とうとう思い詰めて――」
〈これが一生か、一生がこれか〉――とは後世の創作だが、女がどんな心持ちで生きていたかは、想像に難くない。※
女には、ふいに現れた恋人が自分を生き地獄から救う光に見えたのだろうか。
それとも、死ぬための方便に利用しただけ?
いつの世も、最も深く理不尽の皺寄せを喰らうのは弱い女だ。菜種を搾るように女を搾る人でなしは、穢土から消えることはない。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。
以下、苦手な方はご注意ください。
※零れ話
こちらの一節は、樋口一葉「にごりえ」のものです。
青空文庫で読めますので、URLを記載します。
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