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第二話 亡霊、知らず生者の気を啜る
石燕先生、モノノケでござる! (第二話 完)
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宵闇の中を、亡霊のように死体を探して一人さ迷い歩く九郎先生の姿が、瞼の裏にありありと浮かぶ。
あまりの哀れさに、春右衛門は唇を噛んだ。
九郎先生のために何かしてやりたくとも――何もできない。
絞り出すように、春右衛門は訊いた。
「……しかし、先刻見た九郎先生の奥方は、ずいぶん生気に満ちているように見えましたが」
「それも道理さ。たぶん、彼女はまだ己が死んだことに気づいちゃいねえ」
「えっ」
「おそらく永久に気づかぬだろう。だからこそ、二人は今も夫婦でいられるのだ」
春右衛門は、またも返す言葉を失った。
「……九郎先生の影が呪われているのは、あの返魂香がためでしょう」
「ああ」
「どう見ても、あれは正道の術ではありますまい。奥方の死した魂は、それと知らず九郎先生の生気を啜り、寿命を縮めているのではないですか?」
春右衛門が訊くと、石燕は目を細めた。
「医術先生もわかってやっているのだろう」
「あんなことをしても、過去は帰らない。九郎先生の奥方は黄泉返りません」
「奴は医者だぜ。人の死なんぞは山ほど見てきただろう。よく理解っているさ」
「奥方が真実を知れば、きっと己を責めます」
「それも承知の上だろうよ」
「……」
やるせなく、春右衛門は唇を引き結んだ。
……取り憑いているのは死んだ奥方ではなく、生きている九郎先生だったのだ。
術が醒めた後のあの九郎先生の絶望を思えば、一時の気休めにもならない。
無為を越えて有害にすら思える。
そして――その禍つ所業は、愛する人を苦しめる。
それでも、九郎先生は亡き妻と過ごしている。
……夜の江戸には、死んだように人気がなかった。
春右衛門と石燕以外、誰も居なくなってしまったような夜だった。
いつか遠い千年もの先、この世から誰もいなくなってしまうとしたら、春右衛門や石燕に、存在する意味は――この世に渦巻く理不尽や哀しみに抗って生きていく意味は、果たしてあるのだろうか?
答えのない問いに、それでも何とか今を生きる者として答えるように、石燕が言った。
「……すべてはいずれ無に帰す。
儚く消えゆくからこそ、生というのは尊く有り難いのだ。
あのまやかしの刻が、医術先生にはどうしても必要なのだろう。
急かさずとも、奴もいつかは現実を見なければならん時が来る。
決心が着くまで、放っておいてやろうぜ」
「……」
石燕の言葉を聞いて、春右衛門は思った。
意味など、なくていいのだ。
九郎先生のためにどうすべきが最善かわからず抗していた春右衛門も、もはや頷くよりなかった。
「……そうですね……」
夜の江戸を歩くうちに――、いつの間にか、東の空が白々と明けてくる。
またも、春右衛門と石燕は二人で江戸の朝を迎えた。
暁光に払われていく夜闇を眺めて、春右衛門は思った。
(闇があるのは、何も江戸の町だけではない。……人の心にもまた、闇はあるのだ)
そして、そこにも――物の怪が棲まう。
心に人ならざる者を飼っているのは、もしかすると、敢えて棲まわせている人間ばかりなのかもしれない。
これだけの人が生きる、この憂き世で。
♢ 〇 ♢
その後、娼婦と心中し損ねて生き残った男が死んだという一報が江戸の町を駆け巡った。
浄閑寺から南西――小伝馬町にある無宿牢に収まっていたというその男は、夜更けにギャアという断末魔だけを残して死んでいたらしい。
どうしたことか、誰かが忍び込んだ形跡もないのに、男の左手の小指は千切り取られ、牢屋敷のどこからも出てこなかったそうだ。
だが、春右衛門には、切られた男の左手の小指がどこにあるのかわかる気がした。
(……きっと、あの哀れな女人の合葬塚にあるのだろう)
九郎先生が脚を返したから、あの女人の亡霊は本願を果たしたのだ。
(――穢土の町には、底知れぬ闇がある)
春右衛門は、胸が痛いほどに深く、その事実を知ったのだった。
♢ 〇 ♢
朝を迎えた江戸は、日が巡れば、また黄昏を越えて宵闇になる。
いつの間にかすっかり縁深くなった物の怪の噂を聞きつけ、その夕暮れ、春右衛門は一人江戸の町を駆けた。
あるモノを、目にしたからだ。
目指す先は当然――あのあばら屋敷だった。
尊敬する天才画師が暮らすその家へ息せき切って飛び込むと、春右衛門は叫んだ。
「――石燕先生、モノノケでござる!」
(完)
---
ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました!
二話連作短編「石燕先生、モノノケでござる!」は今回で完結です。
少しんでも楽しんでいただけたら幸いです!
※零れ話
鳥山石燕 「返魂香」
出典:Wikimedia Commons (Public Domain)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SekienHangonko.jpg
あまりの哀れさに、春右衛門は唇を噛んだ。
九郎先生のために何かしてやりたくとも――何もできない。
絞り出すように、春右衛門は訊いた。
「……しかし、先刻見た九郎先生の奥方は、ずいぶん生気に満ちているように見えましたが」
「それも道理さ。たぶん、彼女はまだ己が死んだことに気づいちゃいねえ」
「えっ」
「おそらく永久に気づかぬだろう。だからこそ、二人は今も夫婦でいられるのだ」
春右衛門は、またも返す言葉を失った。
「……九郎先生の影が呪われているのは、あの返魂香がためでしょう」
「ああ」
「どう見ても、あれは正道の術ではありますまい。奥方の死した魂は、それと知らず九郎先生の生気を啜り、寿命を縮めているのではないですか?」
春右衛門が訊くと、石燕は目を細めた。
「医術先生もわかってやっているのだろう」
「あんなことをしても、過去は帰らない。九郎先生の奥方は黄泉返りません」
「奴は医者だぜ。人の死なんぞは山ほど見てきただろう。よく理解っているさ」
「奥方が真実を知れば、きっと己を責めます」
「それも承知の上だろうよ」
「……」
やるせなく、春右衛門は唇を引き結んだ。
……取り憑いているのは死んだ奥方ではなく、生きている九郎先生だったのだ。
術が醒めた後のあの九郎先生の絶望を思えば、一時の気休めにもならない。
無為を越えて有害にすら思える。
そして――その禍つ所業は、愛する人を苦しめる。
それでも、九郎先生は亡き妻と過ごしている。
……夜の江戸には、死んだように人気がなかった。
春右衛門と石燕以外、誰も居なくなってしまったような夜だった。
いつか遠い千年もの先、この世から誰もいなくなってしまうとしたら、春右衛門や石燕に、存在する意味は――この世に渦巻く理不尽や哀しみに抗って生きていく意味は、果たしてあるのだろうか?
答えのない問いに、それでも何とか今を生きる者として答えるように、石燕が言った。
「……すべてはいずれ無に帰す。
儚く消えゆくからこそ、生というのは尊く有り難いのだ。
あのまやかしの刻が、医術先生にはどうしても必要なのだろう。
急かさずとも、奴もいつかは現実を見なければならん時が来る。
決心が着くまで、放っておいてやろうぜ」
「……」
石燕の言葉を聞いて、春右衛門は思った。
意味など、なくていいのだ。
九郎先生のためにどうすべきが最善かわからず抗していた春右衛門も、もはや頷くよりなかった。
「……そうですね……」
夜の江戸を歩くうちに――、いつの間にか、東の空が白々と明けてくる。
またも、春右衛門と石燕は二人で江戸の朝を迎えた。
暁光に払われていく夜闇を眺めて、春右衛門は思った。
(闇があるのは、何も江戸の町だけではない。……人の心にもまた、闇はあるのだ)
そして、そこにも――物の怪が棲まう。
心に人ならざる者を飼っているのは、もしかすると、敢えて棲まわせている人間ばかりなのかもしれない。
これだけの人が生きる、この憂き世で。
♢ 〇 ♢
その後、娼婦と心中し損ねて生き残った男が死んだという一報が江戸の町を駆け巡った。
浄閑寺から南西――小伝馬町にある無宿牢に収まっていたというその男は、夜更けにギャアという断末魔だけを残して死んでいたらしい。
どうしたことか、誰かが忍び込んだ形跡もないのに、男の左手の小指は千切り取られ、牢屋敷のどこからも出てこなかったそうだ。
だが、春右衛門には、切られた男の左手の小指がどこにあるのかわかる気がした。
(……きっと、あの哀れな女人の合葬塚にあるのだろう)
九郎先生が脚を返したから、あの女人の亡霊は本願を果たしたのだ。
(――穢土の町には、底知れぬ闇がある)
春右衛門は、胸が痛いほどに深く、その事実を知ったのだった。
♢ 〇 ♢
朝を迎えた江戸は、日が巡れば、また黄昏を越えて宵闇になる。
いつの間にかすっかり縁深くなった物の怪の噂を聞きつけ、その夕暮れ、春右衛門は一人江戸の町を駆けた。
あるモノを、目にしたからだ。
目指す先は当然――あのあばら屋敷だった。
尊敬する天才画師が暮らすその家へ息せき切って飛び込むと、春右衛門は叫んだ。
「――石燕先生、モノノケでござる!」
(完)
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ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました!
二話連作短編「石燕先生、モノノケでござる!」は今回で完結です。
少しんでも楽しんでいただけたら幸いです!
※零れ話
鳥山石燕 「返魂香」
出典:Wikimedia Commons (Public Domain)
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