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とぼとぼと夜道を翔平と並んで歩き、途中で、手土産買うつもりで、コンビニに寄ってみた。
いつもはお菓子を買い込むんだけど、今日は、何故だか翔平が着いてきている。
隣に並んでお菓子を選んでる翔平を見上げると、とてもじゃないけど高校生には見えなかった。
翔平の顔は大人びてて、意思をハッキリと宿した瞳は鋭く強いし、全体的にシャープな印象を与える顔で、しかも体格は立派だ。
いつもは買えない酒を、今日は買えるんじゃないだろうか。
コンビニの店員さんも、妙な迫力ある、一歩間違えば極道にも見える翔平に「未成年じゃないですか?」と面と向かって聞いてこないような気がする。というか、怖くて聞いてこないだろう。
内心翔平連れてきて正解だったな。と、ほくそ笑んでると、翔平は切れ長の綺麗に整ったシャープな目を細めて、俺の額を指で弾いた。
「痛」
「何、見てんですか?」
「いや、翔平と一緒だと酒が買えるのかな? と思ってただけなんだけど」
ヒリヒリとした額をさすっていると、翔平は驚いたように軽く目を見開いた。
「酒? あんた神保先輩の家でそんなもの飲んでたんですか?」
「いや、飲んでない。神保先輩にもシラフでいろ。て言われてるし、第一酒飲んで帰って親にバレてみろ。どんな大目玉をくらうか分かったもんじゃない」
「そりゃ、そうでしょう。工作までして家抜け出してるんですから」
翔平は陳列されたお菓子から目を離さずに、いつもよりも低く響くような声をだした。
「なら、あんた。神保先輩の為に酒を用意したいって訳ですか?」
「いやみんなにだよ。みんな飲むし」
「……いいですか。俺たちはまだ、未成年なんです。酒なんか持って行く必要はありません。ほら、あんたにはこれが似合ってる」
コロリ。翔平はイチゴ味の小さなチョコレートを俺の手のひらに乗せた。
酸っぱくて甘くて美味しいイチゴ味のチョコレート。これは俺の大好物だ。
でも似合ってるというのは、どういう意味だろう。
翔平は『小さな』チョコレートを手にした俺を見て、何故だか少し嬉しそうに微笑んだ。
そうか。小さい俺には、小さいチョコレートがお似合いだと言いたいのか。
失礼だな。
「いらない。俺は子供じゃない」
俺だってすました顔をすれば、子供っぽく見えないことくらい自分でも知ってる。
俺はチョコレートを翔平に突っ返すと、ツン。と、すました顔してレジへと向かい、お菓子を入れたカゴをカウンターに置いた。その後を翔平は長い足を使って、悠々と俺に追いついてくる。
……身長差というのは侮れない。牛乳と相談しないといけないのかも。
レジに着くと、コロコロとたくさんの小さなチョコが翔平の手のひらからカウンターに転がって、俺の置いたカゴにコツンとぶつかった。
「あんたこのチョコレート好きでしょう?」
好きじゃない。
と言ってやろうかと思ったけど、イチゴ味のチョコレートは大好きだった。しかもカウンターに転がったチョコレートは期間限定品だ。今の季節にしか食べれない。
チョコレートが食べて。食べて。と俺を見つめてる。
……でも、食わない。
俺が「子供じゃない」と言った手前、食えない。
「好きじゃない」そう言ってやろうと口を開きかけた時。店員さんがチョコレートを手に取り、バーコードを、ぴっ。と鳴らした。
「あ………」
次々と商品にバーコードを鳴らす店員に、今更「いらない」と言えない。
しまった。チョコレートの誘惑に勝てずに、判断がつい、遅れてしまった……。
翔平が整った口元を手で押さえ、肩を揺らしながら、背を背けた。
笑われてる。
カウンターに転がってるイチゴ味のチョコレートは俺を見て、食べて。食べて。と訴えていた。
コンビニを出ると俺はさっそく口の中にチョコレートを放り込んだ。
甘酸っぱくて美味しいチョコレートは昔から俺の大好物で気分も高揚してくる。
ウキウキした気分で車通りがまばらな大通りを、点々とした街灯とヘッドライトの明かりに照らされながら、翔平とコンビニの袋を持って歩いた。
もうひとつ。とチョコレートの包みを開けると、隣から翔平の声が降ってきた。
「あんたチョコレートを食うと機嫌良くなるのは、昔から変わらないんですね」
確かにチョコレートを食べると、昔から妙にテンションが上がってしまう。でも。
「大好物を口にしてテンションの上がらない奴なんていない」
俺がそう言って翔平を見上げると、翔平は口角を微かに上げて微笑んでた。
そんな中。
すっと翔平の顔色が変わった。
「危ない!」
翔平が俺の腕をグッと掴んで、引き寄せると、俺たちの車のヘッドライトが横顔を照らし、真横を通り過ぎて行く。
翔平は歩く速度を変えたかと思えば、車道側に移動して俺を歩行者側へと追いやった。
「翔平ってフェミニストだな」
「あんた見た目は女ですが、男でしょう?」
「見た目も立派な漢だよ」
「そんな事は髭の1本でも生やしてから、言って下さい」
「生えてるから! 見る?」
翔平は俺の顎を掴むと、ポツリと呟いた。
「女のようなたまご肌ですね」
「……うるさい」
翔平は肩を揺らして笑った。
「あんたと通学以外でこうして話すのも久しぶりですね」
「……そうか?」
「あんた最近、うちに遊びに来ないでしょう?」
「……最近忙しいから」
「何がそんなに忙しいって言うんですか?」
何って……別に忙しいなんて、言い訳にしか過ぎない。
俺はただ、翔平と距離を置いてただけだ。
でもそんな事、面と向かって翔平に言えるはずもない。
俺は目を泳がせながら何かうまい言い訳がないかと探していると、ふとコンビニの袋の中にあるチョコレートが目に付いた。
「チョコレート……俺はチョコレート食うのに忙しかったんだ」
口にしてから、自分でも苦しい、いい訳だと思った。
二人の間に沈黙が落ちる。
でも咄嗟に他に何も言い訳が思い浮かばなかったんだから、仕方ない。
俺は翔平みたいに塾に通ってる訳じゃないし、帰宅部で部活動にも参加してなかったから、それらしい言い訳なんてそうそう思い浮かぶはずなんてない。
「ほう」
翔平が沈黙を打ち破るように綺麗に整った眉を片方上げた。
「そんなに忙しいなら、俺が手伝ってあげましょうか?」
「え? どうやって?」
と、いうより何を?
翔平は優美に笑うと、俺の手にしたコンビニ袋を取り上げ、チョコレートの包を開くと、俺の口の中にチョコレートをポイッと放り込んだ。
口の中には甘酸っぱいチョコレートの味が広がっていく。
「……美味しい」
「まだありますよ。手伝ってあげますから、ほら口を大きく開けて」
チョコレートを食うのに忙しいと言ってしまった手前、手伝ってやると言われれば、逆らえずはずもない。俺は口を大きく開けてみた。
すると翔平は次々とチョコレートの包を開いて、次々とチョコレートを俺の口の中へと放り込み始め。
「む、むぐ……っ、も、もういい……! 翔平、やめ……」
口を固く閉ざすと、翔平は整った端正な顔にふてぶてしい表情を浮かべてニヤリと笑い、大きな手でガッシリと俺の顎を掴んだ。
「遠慮しなくても、いいんですよ」
何? その妙な迫力?
俺はいやいや、無理、無理。と首をブンブン降って拒否すると、翔平は諦めたのか、ガサゴソとコンビニ袋の中から、パック牛乳を取り出した。
そんなものいつの間に買ったんだろう。
口の中に放り込まれたチョコをもぐもぐと咀嚼していると、翔平はパック牛乳にストローをプスリと差し込み、俺にその牛乳を差し出した。
牛乳とチョコレートの組み合わせは大好きだけど、今は無理。口の中にはチョコレートがいっぱいで飲めない。喋ることさえ出来ない。
身振り手振りで翔平に伝えてみると、翔平は鼻で笑った。
「口の中がいっぱいなら、鼻から飲めばいいでしょう? 人体構造上、可能なはずです」
人体構造上可能でも、俺には無理。
半泣きになって翔平を見上げると、翔平は綺麗に整った片方の眉を上げて俺を見下ろした。
「くだらないことを言ってると、後悔しますよ」
ゴクリ。ろくに味も楽しめなかったチョコレートを飲み込む。
「後悔する前に言って欲しかった」
半べそをかいて、コンビニ袋の袋を覗くとそこにはチョコレートはひとつも残されていなかった。
同じようにコンビニ袋を覗いた翔平の吐息が、俺の肩口にふわりと落ちる。
「まだ食い足りないと言うのなら、買って来ましょうか?」
「いい、もういらない」
俺はドキンと鳴る心臓の音が翔平に聞こえてしまったんじゃないかと慌て、せかせかと歩き出した。その後ろを翔平が長い脚で悠々と着いてくる。
今日の翔平はどうもおかしい。
翔平は俺の苦しい言い訳を追求せずに、付き合ってくれる性格なのは昔からだ。翔平は優しさを加虐的な行為に変えて俺の逃げ道を作り、けっして俺を責めてこようとはしなかった。
でも今日の翔平はいつもとどこかが違う。違和感がある。
なんだろう。と首を傾げると、俺はまた歩道側に追いやられ、翔平は車道側を歩き始めた。
おかしい。今夜の翔平は、本気で保護者にでもなったつもりなんだろうか。俺と翔平は対等の関係だったはずなのに。
恋心を捨てたい相手なのに、翔平は肩が触れ合う程の距離で保護者みたいな顔して歩いてる。
離れていればいつか忘れる。きっと忘れられるはずなのに。どうして翔平は俺の隣にいるんだろう?
外灯がポツリポツリと照らす道を翔平と二人並んで歩く。
会話はもうなかった。でも二人を包む空気はいつものように穏やかに流れてる。
そして短い沈黙の中、俺の住むマンションからそう離れていない、神保先輩の家へとたどり着くと、翔平は大きな屋敷を見つめて、感心したように呟いた。
「デカいな」
神保先輩の親は建築デザイン関係の仕事をしているらしく、神保家の広大な敷地内に、自宅とは別棟で神保先輩の家を建てて与えていた。
神保先輩の為に建てられた別棟の家は、神保先輩が結婚しても暮らせるような家。をコンセプトに建てた訳じゃないようで、生活実用性を重視にはしておらず、ただ大学生活、もしくは独身生活を楽しむように建てられたかのようにも見える。
だからだろうか。神保先輩の家がたまり場になっているのは。
それでも贅沢そうに見える神保先輩の為に建てられた家は、土地を有効利用するためか、一階を駐車スペースに、二階を神保先輩の居住区にと建てられてた。
二階に上がるための螺旋階段を、とつとつと登っている時、神保先輩に「翔平を連れてく」と送ったメールに神保先輩からの返信にない事に俺は気付いた。
神保先輩はメールに気が付かなかっただけかもしれないけど、このまま翔平を一緒に連れて行ってもいいものなのかどうか、扉の前で今更ながらに悩んでみる。
「あんた、インターフォンも鳴らさずに何ぼんやりしてんですか?」
翔平が不思議そうに眉をひそめた。
「神保先輩に送ったメールに返信がないんだ。このまま家に上がり込んでもいいのかどうか分からなくて」
「もう家の目の前に来てるのに、神保先輩に携帯かけるのも変でしょう? 直接聞いてみたらどうですか?」
でも神保先輩は直接「翔平を連れて来るな」と言えないから、返信しなかったんだとしたらどうすればいいんだ? と、言葉にして言えないでいると、翔平が舌打ちして、インターフォンを鳴らしてしまった。
「あ……! 何、勝手な事してんだよ!?」
「ここまで来て、何言ってんですか?」
騒いでるとドアが開き、真澄(ますみ)さんが顔を覗かせた。
真澄さんはアパレル関係の仕事をしていて、匂い立つようないい男の人で、スタイルがいいのかセンスがいいのか、男から見ても美形だと思う顔を、今日もスタイリッシュなコーディネートで引き立てていた。
「騒がしいと思えば、桜也じゃないか」
「こ、こんばんは」
「……で、そいつが幼馴染? ふーん、思ったより、いい男じゃないか」
真澄さんが顎に指先を置いて、ふむ。と言いながら俺と翔平を交互に見比べた。
「真澄さん神保先輩から翔平を連れてく事、聞いてました? 俺の携帯には神保先輩から返事がなかったんですけど、翔平も一緒で大丈夫ですか?」
「いんじゃないか? でも神保は機嫌が悪い。返信がなかったのはそのせいだろ。まぁ……多分」
真澄さんは目を泳がせた。
機嫌の悪い神保先輩。
元々そう愛想のいい人じゃない。気分屋なのでメールの返信もマメじゃないタイプの人だ。それでも真澄さんが「連れて帰れ」とは言わなかった訳だから、ここでは翔平は招かざる客、という訳ではなさそうだ。
俺はホッと息を付いて、真澄さんの後に続き、玄関の扉をくぐった。
扉の向こうは少し大きめの玄関ホールが広がっている。
そこにはベンダーの前に置いてあるような赤いロゴ入りベンチと、駅で見かけるような立方体の灰皿が置いてあって、小さな喫煙所スペースになっている。その場所で3、4人が煙草をふかしながら向かい合わせにベンチに座っていたが、ひとりの男が俺たちに気が付いて手を振ってきた。
「おお、桜也じゃねぇか。今日も綺麗だな……って、男前を連れて来たのかよ?」
男の声でみんなも俺たちに気が付くと、一斉に息を呑んで、呆けたような表情を浮かべた。誰か一人、口に咥えてた煙草の灰がポロリと床に落ちる。
「どうも」
俺が翔平と歩くと目を引くのは知っていた。
俺が女に間違えられやすい『男装の麗人』と呼ばれる容姿は、伊達じゃないようだ。その上、やたらと背の高い翔平は、ふてぶてしい表情を浮かべてるけど、顔の造形はこの上ない美形になる。
でも今更「美男美女」と見られることにはお互い慣れっこで、俺は恥ずかしいとも嬉しいとも感じないし、翔平も慣れたもののようで、みんなの視線をものともしないようだった。
「しかし『姫』は、今日も目の覚めるような綺麗さだな」
誰かがため息混じりで、この言葉を吐かなければ。
翔平の精悍で整った顔立ちに鋭い眼光が宿る。
綺麗な眉がピクリと上がり、横柄な態度で俺を見下ろしてきた。
「あんた、ここで『姫』と呼ばれてんですか?」
「みたいだな」
「他人事じゃないでしょう? 学校では『男装の麗』ここでは『姫』、なんであんたはそんなに女扱いされるんですか?」
俺が小柄だからじゃないだろうか。
でも改めて自分でそう口にするのもどうかと思う。俺は適当な会話で話を切り上げ、更に複雑な表情を浮かべる翔平を無視して、靴を脱いでフロアの床を踏んだ。
神保先輩の家はワンフロアタイプの、ドでかい作りになっている。
打ちっぱなしのコンクリートの壁にやたらと高い天井。大きな部屋に見合った大きなTVやオーディオ機材が壁面を飾り、その横にはみんなが持ち込んだCDやDVDなんかが散乱していた。
そして今日は水曜日。オーデイオ機材に混じって、誰かが持ち込んだDJブースが誂えられていた。ノリのいいDJの後ろには大きなスクリーンが広がり、そこからは絶えずサイケデリックな映像が流れ出している。
DJの前には少し距離を置いて7,8人がゆったりと座れるソファースペースがあり、そこはもう人だかりで埋まってた。
その脇を通り過ぎると、大きな黒いダイニングテーブルが置いてある場所。椅子に腰掛けた7,8人の中がちょっとした盛り上がりを見せていた。
そこに腰掛けてたケンタさんが俺たちを見つけて、手招きしてくる。
「桜也じゃないか。ちょうどいいところに来たな。おまえも食うか?」
テーブルには色とりどりに包装された綺麗で小さな包みが、たくさん並んであった。
「これってチョコレートじゃないか! 俺も食べてもいいの?」
「食え食え。桜也が好きなの、食え」
ケンタさんは大きな手で、テーブルの上にあった綺麗に包装されたチョコを、俺の方へと滑らせた。
色とりどりの包装紙でラッピングされてるチョコレートの中から、俺は赤褐色した包みのチョコレートを選び、四角いチョコを口の中に放り込む。
「旨いか?」
「……何とも言えない味」
味はチョコレートなんだけど、何だかキツイ匂いがする。チョコレートの香りに混じって、花のような香りがしてる。その香りに眉をしかめると、テーブルに居たみんなが一斉に笑いだした。
「香水なんだよ。そのチョコレート。香りは体につけて楽しむだけじゃなく、食べて楽しむことができるんだ。しかも体からもその香りを漂わせることが出来る。そこで、だ。調香師の俺がパテシエの結城(ゆうき)と組んで作ってみた」
「桜也、美味しくなかった?」
結城さんが頼りなさそうな顔で微笑み、結城さんの手作りチョコレートだと知らなかった俺は少し自分がしたリアクションに焦った。
「ううん。チョコは濃厚で甘くて美味しいよ。でもトロリとした中身が口の中に溶けだすと、花みたいな匂いがして……驚いただけ」
「無理しなくていいよ。その顔、微妙だと書いてある。ケンタ、やはりまだ、改良の余地があるみたいだね」
「結城が気にするこたぁない。俺はパフューマーだ。主にシャンプーや香水なんかの体の外部で使用する商品を取り扱ってる。口から体内に取り込む香料には弱い。結城の作ったチョコレートは文句無しに旨い」
結城さんが肩を落とすと、ケンタさんがその肩を慰めるように叩いて笑った。
「食べる香水なら、味だけじゃなくて香りの効果も確かめないと。桜也、匂いの効果はそのチョコだと30~60分で現れて、8時間くらい持つ」
「8時間……」
なら、親にはバレないな。
「香りっていうのはな、桜也。脳の「考える」部分を通さずに「感じる」部分に一瞬で伝わる。そこから視床下部という身体の生理機能をコントロールする部分へ伝わって、自律神経、免疫系、ホルモン系の働きのバランスをとることで心身へ影響を及ぼす素晴らしい効果をもたらすんだ。ふとした香りでイライラや沈んだ気持ちが晴れたという経験ないか?」
「あ、あるある」
「なら楽しんでくれや。その香りの濃度は2~5%くらい、日常生活に最適なオーデコロン並みの爽やかな香りだ」
「ふ~ん。でも俺は何の匂いのするチョコレートを食ったの?」
「桜也が食ったのは、アネモネをイメージした香りのチョコレートだな」
「アネモネ?」
「ギリシャ神話から、ちなんで作ってみた。実際のアネモネは全草有毒だから青林檎の香りがベースになってる」
「ギリシャ神話……アネモネ……?」
アネモネってなんだ?
俺が首を傾げると翔平が興味深そうに、俺の持ってた包み紙を取り上げて、包の香りを嗅いだ。
「アネモネの花。ギリシア神話の壮絶に美しい青年、アドニスの話ですか?」
ケンタさんが翔平を面白そうに見上げる。
「ほう、ギリシャ神話を知ってるのか?」
「んん? 翔平、詳しく教えてくれる?」
「いいですよ。確か、アドニスはキュプロスの王とその娘との近親相姦の末に木の又から生まれたんですよね? それからアドニスが生まれるのを見守っていた美の女神、アフロディーテは子育てが好きじゃないと言う理由で、冥界の王ハデスの妻、ペルセフォネにアドニスを育てるよう頼んだ。ところが日に日に美しく成長するアドニスをペルセフォネは溺愛するようになり、アフロディーテとペルセフォネのアドニス争奪戦が始まります。見かねたゼウスが仲裁に入り、アドニスは1年の3分の1をアフロディーテと、もう3分の1をペルセフォネと、残り3分の1は自分の時間を自由に生きるようになるんです。でもアフロディーテはその約束を破った。アフロディーテは絶世の美しさを誇るアドニスを離そうとはしなかったんです。怒り狂ったペルセフォーネはアフロディーテの愛人である軍神アレスに、そのことを密告します。そして嫉妬に狂ったアレスはアドニスの狩りの最中に、獰猛な猪に変身してアドニスを襲ったんです。アフロディーテがその場に駆けつけた時にはもうアドニスは手遅れで、息をひきとってしまいます。そして、アドニスの血が滴った大地から真っ赤な『アネモネ』の花が生まれ、アフロディーテが流した血の涙からは真っ赤な薔薇が生まれた。……そんな話だったように思いますが、違いますか?」
チョコの包を俺に手渡す翔平を見て、ケンタさんが面白そうに翔平を見上げた。
「そこまで詳しくは覚えてないが。そうだ。そしてアネモネはギリシャ語で「風」を意味する。俺は美しいが風が吹くと散ってしまうはかなさを香りで表現したかった」
ケンタさんがチョコの包を俺から取り上げて匂いを確かめ、ニタリと笑った。
「見ない顔だな。新入りか」
「ええ、桜也の幼馴染で、翔平と言います」
「幼馴染? という事はもしかして、おまえも高校生か?」
「そうです」
翔平が頷くと、ケンタさんが額を抱え込んだ。
「く~~ッ! 神保の奴……。何考えてるんだ。ここはまだ、高校生には早過ぎるだろ」
「ケンタ、神保は気まぐれだ。深く考えないほうがいいよ」
隣にいた結城さんが、そっとケンタさんの肩を抱いた。
この二人はいつも思うんだけど、すごく仲がいい。
いつもはお菓子を買い込むんだけど、今日は、何故だか翔平が着いてきている。
隣に並んでお菓子を選んでる翔平を見上げると、とてもじゃないけど高校生には見えなかった。
翔平の顔は大人びてて、意思をハッキリと宿した瞳は鋭く強いし、全体的にシャープな印象を与える顔で、しかも体格は立派だ。
いつもは買えない酒を、今日は買えるんじゃないだろうか。
コンビニの店員さんも、妙な迫力ある、一歩間違えば極道にも見える翔平に「未成年じゃないですか?」と面と向かって聞いてこないような気がする。というか、怖くて聞いてこないだろう。
内心翔平連れてきて正解だったな。と、ほくそ笑んでると、翔平は切れ長の綺麗に整ったシャープな目を細めて、俺の額を指で弾いた。
「痛」
「何、見てんですか?」
「いや、翔平と一緒だと酒が買えるのかな? と思ってただけなんだけど」
ヒリヒリとした額をさすっていると、翔平は驚いたように軽く目を見開いた。
「酒? あんた神保先輩の家でそんなもの飲んでたんですか?」
「いや、飲んでない。神保先輩にもシラフでいろ。て言われてるし、第一酒飲んで帰って親にバレてみろ。どんな大目玉をくらうか分かったもんじゃない」
「そりゃ、そうでしょう。工作までして家抜け出してるんですから」
翔平は陳列されたお菓子から目を離さずに、いつもよりも低く響くような声をだした。
「なら、あんた。神保先輩の為に酒を用意したいって訳ですか?」
「いやみんなにだよ。みんな飲むし」
「……いいですか。俺たちはまだ、未成年なんです。酒なんか持って行く必要はありません。ほら、あんたにはこれが似合ってる」
コロリ。翔平はイチゴ味の小さなチョコレートを俺の手のひらに乗せた。
酸っぱくて甘くて美味しいイチゴ味のチョコレート。これは俺の大好物だ。
でも似合ってるというのは、どういう意味だろう。
翔平は『小さな』チョコレートを手にした俺を見て、何故だか少し嬉しそうに微笑んだ。
そうか。小さい俺には、小さいチョコレートがお似合いだと言いたいのか。
失礼だな。
「いらない。俺は子供じゃない」
俺だってすました顔をすれば、子供っぽく見えないことくらい自分でも知ってる。
俺はチョコレートを翔平に突っ返すと、ツン。と、すました顔してレジへと向かい、お菓子を入れたカゴをカウンターに置いた。その後を翔平は長い足を使って、悠々と俺に追いついてくる。
……身長差というのは侮れない。牛乳と相談しないといけないのかも。
レジに着くと、コロコロとたくさんの小さなチョコが翔平の手のひらからカウンターに転がって、俺の置いたカゴにコツンとぶつかった。
「あんたこのチョコレート好きでしょう?」
好きじゃない。
と言ってやろうかと思ったけど、イチゴ味のチョコレートは大好きだった。しかもカウンターに転がったチョコレートは期間限定品だ。今の季節にしか食べれない。
チョコレートが食べて。食べて。と俺を見つめてる。
……でも、食わない。
俺が「子供じゃない」と言った手前、食えない。
「好きじゃない」そう言ってやろうと口を開きかけた時。店員さんがチョコレートを手に取り、バーコードを、ぴっ。と鳴らした。
「あ………」
次々と商品にバーコードを鳴らす店員に、今更「いらない」と言えない。
しまった。チョコレートの誘惑に勝てずに、判断がつい、遅れてしまった……。
翔平が整った口元を手で押さえ、肩を揺らしながら、背を背けた。
笑われてる。
カウンターに転がってるイチゴ味のチョコレートは俺を見て、食べて。食べて。と訴えていた。
コンビニを出ると俺はさっそく口の中にチョコレートを放り込んだ。
甘酸っぱくて美味しいチョコレートは昔から俺の大好物で気分も高揚してくる。
ウキウキした気分で車通りがまばらな大通りを、点々とした街灯とヘッドライトの明かりに照らされながら、翔平とコンビニの袋を持って歩いた。
もうひとつ。とチョコレートの包みを開けると、隣から翔平の声が降ってきた。
「あんたチョコレートを食うと機嫌良くなるのは、昔から変わらないんですね」
確かにチョコレートを食べると、昔から妙にテンションが上がってしまう。でも。
「大好物を口にしてテンションの上がらない奴なんていない」
俺がそう言って翔平を見上げると、翔平は口角を微かに上げて微笑んでた。
そんな中。
すっと翔平の顔色が変わった。
「危ない!」
翔平が俺の腕をグッと掴んで、引き寄せると、俺たちの車のヘッドライトが横顔を照らし、真横を通り過ぎて行く。
翔平は歩く速度を変えたかと思えば、車道側に移動して俺を歩行者側へと追いやった。
「翔平ってフェミニストだな」
「あんた見た目は女ですが、男でしょう?」
「見た目も立派な漢だよ」
「そんな事は髭の1本でも生やしてから、言って下さい」
「生えてるから! 見る?」
翔平は俺の顎を掴むと、ポツリと呟いた。
「女のようなたまご肌ですね」
「……うるさい」
翔平は肩を揺らして笑った。
「あんたと通学以外でこうして話すのも久しぶりですね」
「……そうか?」
「あんた最近、うちに遊びに来ないでしょう?」
「……最近忙しいから」
「何がそんなに忙しいって言うんですか?」
何って……別に忙しいなんて、言い訳にしか過ぎない。
俺はただ、翔平と距離を置いてただけだ。
でもそんな事、面と向かって翔平に言えるはずもない。
俺は目を泳がせながら何かうまい言い訳がないかと探していると、ふとコンビニの袋の中にあるチョコレートが目に付いた。
「チョコレート……俺はチョコレート食うのに忙しかったんだ」
口にしてから、自分でも苦しい、いい訳だと思った。
二人の間に沈黙が落ちる。
でも咄嗟に他に何も言い訳が思い浮かばなかったんだから、仕方ない。
俺は翔平みたいに塾に通ってる訳じゃないし、帰宅部で部活動にも参加してなかったから、それらしい言い訳なんてそうそう思い浮かぶはずなんてない。
「ほう」
翔平が沈黙を打ち破るように綺麗に整った眉を片方上げた。
「そんなに忙しいなら、俺が手伝ってあげましょうか?」
「え? どうやって?」
と、いうより何を?
翔平は優美に笑うと、俺の手にしたコンビニ袋を取り上げ、チョコレートの包を開くと、俺の口の中にチョコレートをポイッと放り込んだ。
口の中には甘酸っぱいチョコレートの味が広がっていく。
「……美味しい」
「まだありますよ。手伝ってあげますから、ほら口を大きく開けて」
チョコレートを食うのに忙しいと言ってしまった手前、手伝ってやると言われれば、逆らえずはずもない。俺は口を大きく開けてみた。
すると翔平は次々とチョコレートの包を開いて、次々とチョコレートを俺の口の中へと放り込み始め。
「む、むぐ……っ、も、もういい……! 翔平、やめ……」
口を固く閉ざすと、翔平は整った端正な顔にふてぶてしい表情を浮かべてニヤリと笑い、大きな手でガッシリと俺の顎を掴んだ。
「遠慮しなくても、いいんですよ」
何? その妙な迫力?
俺はいやいや、無理、無理。と首をブンブン降って拒否すると、翔平は諦めたのか、ガサゴソとコンビニ袋の中から、パック牛乳を取り出した。
そんなものいつの間に買ったんだろう。
口の中に放り込まれたチョコをもぐもぐと咀嚼していると、翔平はパック牛乳にストローをプスリと差し込み、俺にその牛乳を差し出した。
牛乳とチョコレートの組み合わせは大好きだけど、今は無理。口の中にはチョコレートがいっぱいで飲めない。喋ることさえ出来ない。
身振り手振りで翔平に伝えてみると、翔平は鼻で笑った。
「口の中がいっぱいなら、鼻から飲めばいいでしょう? 人体構造上、可能なはずです」
人体構造上可能でも、俺には無理。
半泣きになって翔平を見上げると、翔平は綺麗に整った片方の眉を上げて俺を見下ろした。
「くだらないことを言ってると、後悔しますよ」
ゴクリ。ろくに味も楽しめなかったチョコレートを飲み込む。
「後悔する前に言って欲しかった」
半べそをかいて、コンビニ袋の袋を覗くとそこにはチョコレートはひとつも残されていなかった。
同じようにコンビニ袋を覗いた翔平の吐息が、俺の肩口にふわりと落ちる。
「まだ食い足りないと言うのなら、買って来ましょうか?」
「いい、もういらない」
俺はドキンと鳴る心臓の音が翔平に聞こえてしまったんじゃないかと慌て、せかせかと歩き出した。その後ろを翔平が長い脚で悠々と着いてくる。
今日の翔平はどうもおかしい。
翔平は俺の苦しい言い訳を追求せずに、付き合ってくれる性格なのは昔からだ。翔平は優しさを加虐的な行為に変えて俺の逃げ道を作り、けっして俺を責めてこようとはしなかった。
でも今日の翔平はいつもとどこかが違う。違和感がある。
なんだろう。と首を傾げると、俺はまた歩道側に追いやられ、翔平は車道側を歩き始めた。
おかしい。今夜の翔平は、本気で保護者にでもなったつもりなんだろうか。俺と翔平は対等の関係だったはずなのに。
恋心を捨てたい相手なのに、翔平は肩が触れ合う程の距離で保護者みたいな顔して歩いてる。
離れていればいつか忘れる。きっと忘れられるはずなのに。どうして翔平は俺の隣にいるんだろう?
外灯がポツリポツリと照らす道を翔平と二人並んで歩く。
会話はもうなかった。でも二人を包む空気はいつものように穏やかに流れてる。
そして短い沈黙の中、俺の住むマンションからそう離れていない、神保先輩の家へとたどり着くと、翔平は大きな屋敷を見つめて、感心したように呟いた。
「デカいな」
神保先輩の親は建築デザイン関係の仕事をしているらしく、神保家の広大な敷地内に、自宅とは別棟で神保先輩の家を建てて与えていた。
神保先輩の為に建てられた別棟の家は、神保先輩が結婚しても暮らせるような家。をコンセプトに建てた訳じゃないようで、生活実用性を重視にはしておらず、ただ大学生活、もしくは独身生活を楽しむように建てられたかのようにも見える。
だからだろうか。神保先輩の家がたまり場になっているのは。
それでも贅沢そうに見える神保先輩の為に建てられた家は、土地を有効利用するためか、一階を駐車スペースに、二階を神保先輩の居住区にと建てられてた。
二階に上がるための螺旋階段を、とつとつと登っている時、神保先輩に「翔平を連れてく」と送ったメールに神保先輩からの返信にない事に俺は気付いた。
神保先輩はメールに気が付かなかっただけかもしれないけど、このまま翔平を一緒に連れて行ってもいいものなのかどうか、扉の前で今更ながらに悩んでみる。
「あんた、インターフォンも鳴らさずに何ぼんやりしてんですか?」
翔平が不思議そうに眉をひそめた。
「神保先輩に送ったメールに返信がないんだ。このまま家に上がり込んでもいいのかどうか分からなくて」
「もう家の目の前に来てるのに、神保先輩に携帯かけるのも変でしょう? 直接聞いてみたらどうですか?」
でも神保先輩は直接「翔平を連れて来るな」と言えないから、返信しなかったんだとしたらどうすればいいんだ? と、言葉にして言えないでいると、翔平が舌打ちして、インターフォンを鳴らしてしまった。
「あ……! 何、勝手な事してんだよ!?」
「ここまで来て、何言ってんですか?」
騒いでるとドアが開き、真澄(ますみ)さんが顔を覗かせた。
真澄さんはアパレル関係の仕事をしていて、匂い立つようないい男の人で、スタイルがいいのかセンスがいいのか、男から見ても美形だと思う顔を、今日もスタイリッシュなコーディネートで引き立てていた。
「騒がしいと思えば、桜也じゃないか」
「こ、こんばんは」
「……で、そいつが幼馴染? ふーん、思ったより、いい男じゃないか」
真澄さんが顎に指先を置いて、ふむ。と言いながら俺と翔平を交互に見比べた。
「真澄さん神保先輩から翔平を連れてく事、聞いてました? 俺の携帯には神保先輩から返事がなかったんですけど、翔平も一緒で大丈夫ですか?」
「いんじゃないか? でも神保は機嫌が悪い。返信がなかったのはそのせいだろ。まぁ……多分」
真澄さんは目を泳がせた。
機嫌の悪い神保先輩。
元々そう愛想のいい人じゃない。気分屋なのでメールの返信もマメじゃないタイプの人だ。それでも真澄さんが「連れて帰れ」とは言わなかった訳だから、ここでは翔平は招かざる客、という訳ではなさそうだ。
俺はホッと息を付いて、真澄さんの後に続き、玄関の扉をくぐった。
扉の向こうは少し大きめの玄関ホールが広がっている。
そこにはベンダーの前に置いてあるような赤いロゴ入りベンチと、駅で見かけるような立方体の灰皿が置いてあって、小さな喫煙所スペースになっている。その場所で3、4人が煙草をふかしながら向かい合わせにベンチに座っていたが、ひとりの男が俺たちに気が付いて手を振ってきた。
「おお、桜也じゃねぇか。今日も綺麗だな……って、男前を連れて来たのかよ?」
男の声でみんなも俺たちに気が付くと、一斉に息を呑んで、呆けたような表情を浮かべた。誰か一人、口に咥えてた煙草の灰がポロリと床に落ちる。
「どうも」
俺が翔平と歩くと目を引くのは知っていた。
俺が女に間違えられやすい『男装の麗人』と呼ばれる容姿は、伊達じゃないようだ。その上、やたらと背の高い翔平は、ふてぶてしい表情を浮かべてるけど、顔の造形はこの上ない美形になる。
でも今更「美男美女」と見られることにはお互い慣れっこで、俺は恥ずかしいとも嬉しいとも感じないし、翔平も慣れたもののようで、みんなの視線をものともしないようだった。
「しかし『姫』は、今日も目の覚めるような綺麗さだな」
誰かがため息混じりで、この言葉を吐かなければ。
翔平の精悍で整った顔立ちに鋭い眼光が宿る。
綺麗な眉がピクリと上がり、横柄な態度で俺を見下ろしてきた。
「あんた、ここで『姫』と呼ばれてんですか?」
「みたいだな」
「他人事じゃないでしょう? 学校では『男装の麗』ここでは『姫』、なんであんたはそんなに女扱いされるんですか?」
俺が小柄だからじゃないだろうか。
でも改めて自分でそう口にするのもどうかと思う。俺は適当な会話で話を切り上げ、更に複雑な表情を浮かべる翔平を無視して、靴を脱いでフロアの床を踏んだ。
神保先輩の家はワンフロアタイプの、ドでかい作りになっている。
打ちっぱなしのコンクリートの壁にやたらと高い天井。大きな部屋に見合った大きなTVやオーディオ機材が壁面を飾り、その横にはみんなが持ち込んだCDやDVDなんかが散乱していた。
そして今日は水曜日。オーデイオ機材に混じって、誰かが持ち込んだDJブースが誂えられていた。ノリのいいDJの後ろには大きなスクリーンが広がり、そこからは絶えずサイケデリックな映像が流れ出している。
DJの前には少し距離を置いて7,8人がゆったりと座れるソファースペースがあり、そこはもう人だかりで埋まってた。
その脇を通り過ぎると、大きな黒いダイニングテーブルが置いてある場所。椅子に腰掛けた7,8人の中がちょっとした盛り上がりを見せていた。
そこに腰掛けてたケンタさんが俺たちを見つけて、手招きしてくる。
「桜也じゃないか。ちょうどいいところに来たな。おまえも食うか?」
テーブルには色とりどりに包装された綺麗で小さな包みが、たくさん並んであった。
「これってチョコレートじゃないか! 俺も食べてもいいの?」
「食え食え。桜也が好きなの、食え」
ケンタさんは大きな手で、テーブルの上にあった綺麗に包装されたチョコを、俺の方へと滑らせた。
色とりどりの包装紙でラッピングされてるチョコレートの中から、俺は赤褐色した包みのチョコレートを選び、四角いチョコを口の中に放り込む。
「旨いか?」
「……何とも言えない味」
味はチョコレートなんだけど、何だかキツイ匂いがする。チョコレートの香りに混じって、花のような香りがしてる。その香りに眉をしかめると、テーブルに居たみんなが一斉に笑いだした。
「香水なんだよ。そのチョコレート。香りは体につけて楽しむだけじゃなく、食べて楽しむことができるんだ。しかも体からもその香りを漂わせることが出来る。そこで、だ。調香師の俺がパテシエの結城(ゆうき)と組んで作ってみた」
「桜也、美味しくなかった?」
結城さんが頼りなさそうな顔で微笑み、結城さんの手作りチョコレートだと知らなかった俺は少し自分がしたリアクションに焦った。
「ううん。チョコは濃厚で甘くて美味しいよ。でもトロリとした中身が口の中に溶けだすと、花みたいな匂いがして……驚いただけ」
「無理しなくていいよ。その顔、微妙だと書いてある。ケンタ、やはりまだ、改良の余地があるみたいだね」
「結城が気にするこたぁない。俺はパフューマーだ。主にシャンプーや香水なんかの体の外部で使用する商品を取り扱ってる。口から体内に取り込む香料には弱い。結城の作ったチョコレートは文句無しに旨い」
結城さんが肩を落とすと、ケンタさんがその肩を慰めるように叩いて笑った。
「食べる香水なら、味だけじゃなくて香りの効果も確かめないと。桜也、匂いの効果はそのチョコだと30~60分で現れて、8時間くらい持つ」
「8時間……」
なら、親にはバレないな。
「香りっていうのはな、桜也。脳の「考える」部分を通さずに「感じる」部分に一瞬で伝わる。そこから視床下部という身体の生理機能をコントロールする部分へ伝わって、自律神経、免疫系、ホルモン系の働きのバランスをとることで心身へ影響を及ぼす素晴らしい効果をもたらすんだ。ふとした香りでイライラや沈んだ気持ちが晴れたという経験ないか?」
「あ、あるある」
「なら楽しんでくれや。その香りの濃度は2~5%くらい、日常生活に最適なオーデコロン並みの爽やかな香りだ」
「ふ~ん。でも俺は何の匂いのするチョコレートを食ったの?」
「桜也が食ったのは、アネモネをイメージした香りのチョコレートだな」
「アネモネ?」
「ギリシャ神話から、ちなんで作ってみた。実際のアネモネは全草有毒だから青林檎の香りがベースになってる」
「ギリシャ神話……アネモネ……?」
アネモネってなんだ?
俺が首を傾げると翔平が興味深そうに、俺の持ってた包み紙を取り上げて、包の香りを嗅いだ。
「アネモネの花。ギリシア神話の壮絶に美しい青年、アドニスの話ですか?」
ケンタさんが翔平を面白そうに見上げる。
「ほう、ギリシャ神話を知ってるのか?」
「んん? 翔平、詳しく教えてくれる?」
「いいですよ。確か、アドニスはキュプロスの王とその娘との近親相姦の末に木の又から生まれたんですよね? それからアドニスが生まれるのを見守っていた美の女神、アフロディーテは子育てが好きじゃないと言う理由で、冥界の王ハデスの妻、ペルセフォネにアドニスを育てるよう頼んだ。ところが日に日に美しく成長するアドニスをペルセフォネは溺愛するようになり、アフロディーテとペルセフォネのアドニス争奪戦が始まります。見かねたゼウスが仲裁に入り、アドニスは1年の3分の1をアフロディーテと、もう3分の1をペルセフォネと、残り3分の1は自分の時間を自由に生きるようになるんです。でもアフロディーテはその約束を破った。アフロディーテは絶世の美しさを誇るアドニスを離そうとはしなかったんです。怒り狂ったペルセフォーネはアフロディーテの愛人である軍神アレスに、そのことを密告します。そして嫉妬に狂ったアレスはアドニスの狩りの最中に、獰猛な猪に変身してアドニスを襲ったんです。アフロディーテがその場に駆けつけた時にはもうアドニスは手遅れで、息をひきとってしまいます。そして、アドニスの血が滴った大地から真っ赤な『アネモネ』の花が生まれ、アフロディーテが流した血の涙からは真っ赤な薔薇が生まれた。……そんな話だったように思いますが、違いますか?」
チョコの包を俺に手渡す翔平を見て、ケンタさんが面白そうに翔平を見上げた。
「そこまで詳しくは覚えてないが。そうだ。そしてアネモネはギリシャ語で「風」を意味する。俺は美しいが風が吹くと散ってしまうはかなさを香りで表現したかった」
ケンタさんがチョコの包を俺から取り上げて匂いを確かめ、ニタリと笑った。
「見ない顔だな。新入りか」
「ええ、桜也の幼馴染で、翔平と言います」
「幼馴染? という事はもしかして、おまえも高校生か?」
「そうです」
翔平が頷くと、ケンタさんが額を抱え込んだ。
「く~~ッ! 神保の奴……。何考えてるんだ。ここはまだ、高校生には早過ぎるだろ」
「ケンタ、神保は気まぐれだ。深く考えないほうがいいよ」
隣にいた結城さんが、そっとケンタさんの肩を抱いた。
この二人はいつも思うんだけど、すごく仲がいい。
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