夫が愛する妾との子供を認めない私は酷い悪女ですか?それならどうぞ、お好きになさって旦那様 〈ルイディアとマートルの日常〉

はなたろう

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結婚生活 2年8ヵ月 睡蓮が眠る頃に

華の伝説

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「あぁ、空気がおいしいわね」


結婚2年目の夏のお話です。

高台に立つ静かな侯爵家の別荘。テラスを吹き抜ける風には、朝露に濡れた針葉樹の香りが混じっていました。


「ねぇ、ルイディア」


朝食のあと、旦那様がキョロキョロと視線を泳がせました。


「その……少し、湖畔を散歩してくるよ」

「それなら、誰か付き添わせましょうか?旦那様おひとりでは心配ですわ。ここは、イノシシも出ますからね」

「大丈夫!ルイディアのお茶の時間は邪魔しないから!」


そう言うと、旦那様はそそくさと別荘を出て行かれました。


――見え透いた嘘ですこと。


侍女のマルス子爵夫人が、部屋から出てきました。


「ルイディア様、お茶の準備ができました」


「ありがとう、いただくわ」


この地方の特産、ストロベリーティーの良い香りです。


「あら、マートル様がいらっしゃいませんね」


「お散歩ですって」


「ランチまでには帰られるのでしょうか?」


「さぁ、どうかしらね」


数日前、社交界で旦那様に熱い視線を送っていた、マダム・エレーヌとの密会なのでしょう。彼女の別荘もこの近くにありますからね。


「マートル様、迷子になりませんか?」


まるで子どもですね。


「今頃、旦那様が村人に変装したカリンに、道を尋ねている頃ね。カリンは『森の奥に、さらに美しい群生地がある』と答えるのでしょう」


「左様ですか」


「ランチはテラスでいただきましょう。旦那様がいないなら、のんびり食べられるわね」


私は微笑み、お茶を一口すすりました。



◆◆◆



私はマルス子爵夫人を伴い、日傘をさしてゆっくりと森の奥へ向かいました。


水面を埋め尽くすほどの野生の睡蓮が咲き誇る、静謐な池へ。


そして、池のほとりの木陰で――


「あっ……ん!」


期待を裏切らない展開です。


旦那様とマダム・エレーヌがお楽しみ中のご様子。


社交界では「風が吹けば倒れてしまいそう」と噂される儚げな未亡人。けれど今は、その面影もございません。


旦那様の首に強引に腕を回し、獲物に食らいつく肉食獣のような激しさで、執拗に口づけを交わしています。


殿方の服の合わせを荒々しく引き剥がすなんて、その情熱は素晴らしいわ。私にはとても真似できません。


「あらまあ」


私は、わざと穏やかな声で言いました。


「散歩中に、思わぬものを見てしまいましたわ」


茂みから悠然と姿を現すと、二人は弾かれたように離れます。


「イノシシが出ると思ったら、盛りのついたお猿さんがいたなんてね」


「珍しいものを見ましたね」


目の前の光景を、マルス子爵夫人も涼やかな顔で見ています。


旦那様がずるずると私の方へ這い寄ってきました。


「ルイディア、これ、その――」


必死に言葉を探し、情けない声を上げます。


私は小さく首を傾げました。


「……あら。謝る必要なんてございませんわ」


「ごめんあそばせ。邪魔するつもりはなかったのです。私は、この池の睡蓮が見たかっただけですもの」


そして、マダム・エレーヌを見下ろすと、彼女は微かに口元を緩ませました。


「あぁ、ルイディア様。申し訳ありません。マートル様からの誘いを断れず、このようなところで抱かれてしまいましたわ。殿方の情熱には抗えませんの」


「え!違うでしょ、エレーヌ!君が、夫が亡くなり肌恋しい、マートルの若さが羨ましい、抱いてくれって、泣きついてきたんじゃないか!」


「そのようなこと、言ってませんわ!あなたこそ、私を抱きながら奥様のことを、家柄だけの石像だなんて悪態をついておられたでしょう!」


「そ、それは君が言わせたんだろう!それに、もう一回しようっていうから、帰るのが遅くなってルイディアに見つかったんじゃないか!」


やれやれ、ですね。


「僕にはルイディアだけだよ!彼女が、彼女が僕を誘惑したんだ!」


私は、池の中央を指さします。


「でしたら、あの真ん中に咲く紫色の睡蓮を取ってくださる?この地の睡蓮には、こんな伝説がございますの」


静かに、しかし確実に言い聞かせました。


「真実の愛を持つ者だけが、花が閉じる前に摘み取れる――」


微笑みを深めます。


「えっ、本当?」


旦那様は、ぱっと顔を輝かせました。


「だったら僕が取ってくるよ!信じてよ、ルイディア!」


都会の革靴を汚すのも厭わず、池へ飛び込む旦那様。


しかし――


野生の睡蓮の根元は、長年積み重なった深い泥。一歩踏み出すたび、ズブズブと足を取られていきます。


「う、わあ……っ意外と深いんだね、ここ……歩きにくいよぉ……」


「旦那様」


私は冷ややかに声をかけました。


「お急ぎくださいな。睡蓮は、とても繊細な植物ですのよ」


手元の懐中時計に視線を落とします。


午後1時。


太陽が真上に昇り、湿った熱気が肌にまとわりつく、その瞬間――


「あ、あれ?おかしいな……花が……!」


旦那様の指先の先で、誇らしげに開いていた紫色の花びらが、ゆっくりと、そして頑なに閉じ始めました。


「睡蓮は、欲深い者が近づくと眠ってしまうのです」


私は静かに微笑を消しました。


「わたくしの心も閉じてしまいましたわ」


「えっ、あ……待って!閉じないでよ!」


次の瞬間。


「ぐわあああっ!」


絡み合う睡蓮の根に足を取られ、旦那様は勢いよく顔から泥沼へ突っ込みました。


びしゃぁぁっ!


盛大な泥はねが、岸辺で高みの見物を決め込んでいたエレーヌに降り注ぎます。


「いやあああっ!」


「ドレスが!顔が!泥だらけじゃない!」


甲高い悲鳴。


「最悪よ!」


エレーヌは顔を真っ赤にして地団駄を踏みました。


そして泥まみれの旦那様を見捨て、森の奥へと逃げ去っていきます。


やがて、泥水の中から――


「ぷはっ……!」


旦那様が顔を上げました。その鼻先には、一匹の巨大なウシガエル。


「ゲコゲコッ!」


まるで腹を抱えて笑うかのような鳴き声。


「僕は……僕はルイディアが一番好きなのにぃ……」


泥まみれで半泣きをする成人男性。私は、溜息すら出ませんでした。


「カリン」

「はい、ここに」


カリンが木陰から姿を現しました。


「適当なところで助けてあげて」

「……かしこまりました、ルイディア様」


こらこら、カリン。主人の前であからさまに『不本意』と顔に書くなんて、まだまだ未熟者ですわ。


「マルス子爵婦人、帰りましょう」

「ええ、美味しいお茶をお入れしましょうね」


背後で響くゲコゲコという笑い声と、旦那様の情けない叫び声を聞きながら、軽やかな足取りで別荘へと戻りました。


一度閉じた睡蓮は、その日、二度と開くことはありません。


そして私の心もまた――。
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感想 1

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みんなの感想(1件)

M.R.U
2025.09.25 M.R.U

読みやすいです!短編集を読んでいくうちに内容がわかっていく、って良いですね。面白いです。
「美しき花壇に雑草は不要」ですが、マルス子爵夫人が「数人のメイドを2人連れて」になってますよ!

解除

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