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第03話 大きな夢
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和泉慧翔の完璧な物語を作ろうという奇妙な提案の後、私たちは一緒に自分たちのアパートがある建物へと戻った。
彼は一緒に暮らそうと言ってくれたが、まだその時ではなかった。まずは荷物をまとめなければならなかったし、それに小説を完成させる必要があった……あるいは、もう少し引き延ばすのもアリかもしれない。どちらの選択肢も悪くはなかった。
エレベーターに乗り込むと、夕暮れの暖かな橙色の光が金属の壁に映し出された。ケイトは静かにしていた。まるで高校でのあの演技が、本当にただの演技だったかのように。
別に気にしていたわけではないが、あの約束はまるでなかったことになっているようだった。よく考えてみれば、それは問題なのかもしれない……特に、私の両親にとっては。
エレベーターの単調な音が、私を思考の渦に引き込んでいった。
*
数日前、私は両親と喧嘩をした。
彼らは決して私を信じなかった。私が夢を追いかけさえすれば、どれほどのことができるのか、まったく理解してくれなかった。
昔からずっとそうだった。「私たちの望む生き方をしなさい。」
この肩にのしかかる重圧……できることなら解き放たれたい。
幼い頃から、私は小説が大好きだった。世界中の物語を読み、それぞれのスタイルや独自の魅力に触れてきた。だが、初めてライトノベルを手にしたのは、十二歳の誕生日の時だった。
その年、祖父母が両親に日本での留学を求めた。両親は渋々承諾したものの、それはただの始まりに過ぎなかった。その頃にはすでに、私の夢を壊そうとしていたが、祖父母のおかげで、その夢はむしろ強くなった。
彼らはいつも夢を追いなさいと言ってくれた。私は本当に感謝している…でも、母と父が敵となった今、私に残された道は、立ち向かうことだけだ。
*
エレベーターが目的の階に到着する音が、私の思考を途切れさせた。
ちょうど降りようとしたとき、落ち着いた、しかし確信に満ちた控えめな声が背後の静寂を破った。
「それで、いつ俺の部屋に引っ越す?急に来られても困るからさ。」
泉圭人だった。まぁ……彼なりに約束は守っているようだ。私は彼を横目で見て、表情を崩さずに答えた。
「明日、土曜の午後にはできると思う。まだ荷造りが残ってるけど。」
「分かった。準備ができたら手伝うから教えて。」
私は軽く頷き、自分の部屋へ向かった。
部屋に入ろうとしたそのとき、ふと何かを思い出した。
もう一度顔を出すと、彼はすぐに私に気づいた。
「聞きそびれてたことがあるんだけど…」
彼は何気ない表情のまま、少し疑問を含んだ声で返した。
「うん……何のこと?」
「あなたのこと、何て呼べばいい?フルネーム?それとも名字だけ?」
「フルネームはちょっと変だろ。名字でいいよ。」
「分かった。じゃあ、また明日ね、泉君。」
彼は自分の部屋へ向かいながら、自然な口調で最後の一言を返した。
「ああ、また明日、黒川さん。」
こうして、私たちは別れた。
部屋に入ると、私はすぐに明かりをつけた。部屋の隅々まで照らされる。
一人暮らしに慣れすぎて、「ただいま」と言うのも無意味に感じてしまう。
このマンションはモダンなデザインで、白い壁に必要なものが揃っている。でも……散らかっていた。掃除は週末にしかやらない。ほとんどの時間を小説執筆に費やしていて、片付ける余裕すらなかった。でも今日は……さすがにやらなきゃ。
床にはゴミ袋がいくつか転がっていて、廊下にはシャツが適当に置かれていた。その光景に、少し恥ずかしくなる。
掃除を始める前に、私は自分の部屋でノートパソコンを探した。そこは他の部屋よりは片付いていたが、それでも完璧ではなかった。
ノートパソコンをコンセントに繋ぎながら、スマホで今日書いた小説の最新話を確認する。公開しなきゃ。
そろそろ、この物語の結末を書き始める頃かもしれない。
充電をセットした後、私は着替えて掃除用の格好に着替えた。
午後5時50分、キッチンから掃除を始め、気づけば午後11時02分。すべてのゴミ袋をまとめ、マンションのゴミ置き場まで捨てに行った後、階段を上がって戻る。
しかし、部屋に入ろうとしたとき、まだ一つ箱が残っていることに気がついた。
古びて、少し潰れかけた大きな箱。なぜか気になって、私はそれを開けた。
中には、焼け焦げた跡のあるノートが入っていた。
それを見た瞬間、記憶が鮮明に蘇ってきた。
◇◆◇◆
あの日、私は小説に夢中になりすぎて、自分でも書いてみようと決めた。
嬉しくて、物語への愛を両親に話した。彼らは理解したふりをしていたが、本当は――私の言葉など、聞いていなかった。ただ、その時の私はそれに気づかなかった。
それが起こったのは、私が十二歳の時だった。
その日、私はとても感動した小説を読んで、自分のノートに物語を書き始めた。
学校から帰る道すがら、次の章のアイデアで頭がいっぱいだった。心から幸せだった。
私が書いていたのは、親の期待に縛られながらも、本当は自由を求める少女の物語だった。
それは――私自身の願いでもあった。
でも、その時だった。家の近くまで来たとき、黒い煙が庭から立ち昇っているのが見えた。
燃え尽きた紙片が空中を舞い、すでに何の形も留めていなかった。そのすぐ後ろで、風にあおられながら、私の小説の一枚の挿絵が儚くも宙を漂っていた。それは、まるで自らの運命に抗っているかのように。
何が起こっているのか、頭が理解することを拒んだ。けれど、私の身体は先に反応していた。
走った。信じたくなかった。信じるわけにはいかなかった。
家は大きかったはずなのに、その時ばかりは、走れば走るほど距離が遠くなるように感じた。
黒煙を目印に、裏庭へとたどり着く。そこには、決して燃えてはならないものが、業火に包まれていた。
そして――彼女がいた。
炎の前に立ち、冷たい表情で、本をゴミのように投げ込んでいく母の姿が。
それは私の――ライトノベルだった。
痛かった。
叫びたかった。泣きたかった。
でも、泣けば、負けたように思えてしまう。
目が熱くなった。それでも、私は目を逸らさなかった。
ただ、無力に見つめるしかなかった。
私の努力が、私の情熱が、炎に呑み込まれていくのを。
すると、母の手に握られているものが目に入った。
私の体が震えた。
「ママ! 何をしてるの ⁉どうしてこんなことを……! そのノートだけは……お願いだから……!」
必死で、ただのわがままをぶつけるような声だった。
けれど、母の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
その間に、母はノートを開き、最初の数ページに目を通した。
その顔が変わる。
「……そう。あなた、こんな人間になりたいのね?」
その言葉には、軽蔑が滲んでいた。
母は勢いよくノートを閉じると、炎へと一歩踏み出した。
「これが、あんたのやっていたこと……そういうことね? なら、燃えたくなければ取り戻してみなさい。」
その瞬間、すべてが決まった。
母は――ノートを投げた。
そして私は、理性を失った。
母が背を向けたまま立ち去る中、私の頭は必死に回転していた。どうにかしなければ。何としてでも、取り戻さないと。
でも、炎が。
手を入れれば、火傷するかもしれない。
……そんなこと、どうだっていい。
私は靴を脱ぎ、そのまま炎に向かって突き出した。盾にするように、ノートをかき出すように。
必死だった。
怖かった。でも、それ以上に。
絶対に、諦めるわけにはいかなかった。
ようやく引きずり出したとき――私の手は震えていた。
ノートの端は焦げ、いくつかのページは完全に失われていた。
残った部分すら、読めるかどうかもわからないほどだった。
それでも。
私は、そのノートに一年間のすべてを詰め込んでいたのだ。
あと少しで、完成するはずだったのに。
しかし今は――。
あの夜、私は泣いた。
これまでにないほど、声を押し殺して泣いた。
まるで、言葉そのものを奪われたような気がした。
まるで、何があっても書かせまいとするかのように。
◇◆◇◆
現在、私の部屋は見違えるほど綺麗だった。
そして、私の手の中には、あの時のままのノートがあった。
焼け焦げた跡は今も残っている。あの日から、私はこのノートを手放したことがない。どこへ行くにも持ち歩き、今、一人暮らしをしているこの部屋にも置いてある。
箱の中には他にも小説が入っていた。色褪せることのない物語がそこにあった。だが今は、休むべき時だろう。
眠る前に、私はノートパソコンを開き、今日書いた最新話を投稿した。細かい部分を確認し、誤字を修正し、ようやく公開ボタンを押す。
特に期待はしていなかった。
最近の読者は、たった二十人ほどしかいない。
それでも、諦めるつもりはなかった。
投稿が終わると、Xでリンクを共有した。誰かが読んでくれることを願って。
そして私は布団に入り、明日が新しい一日になることを確信した。
大きな変化が訪れる日。
なぜなら、ある疑問が頭から離れなかったからだ。
彼と一緒に、どんな小説を書こうか?
それを知るのが待ちきれなかった。
◇◆◇◆
翌朝、私は早く目を覚ました。
今日は、一人暮らしを終え、初めて親の金に頼らず生きる日だ。もしかすると、これで本当の自由を手にできるのかもしれない。でも、その実感はまだ心の奥底に沈んでいた。
自分の人生で何を望むのか、分かっているのは私だけだ。小説を書くこと、それこそが私の何よりの願い。男の子と一緒に暮らすことになっても、特に問題がなければ、それでいい。
そんな考えが頭を巡る中、私はまだベッドから出ていなかった。朝食を探す前に、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨いた。
家には食べ物がなかったが、幸いクレジットカードにはあと二週間分の生活費が残っている。
鏡に映る自分は、どこかぼんやりとしていた。まるで、これから訪れる変化をまだ受け入れられていないかのように。ため息をつき、顔を洗って洗面所を出た。
外出するために、長ズボンを履き、顔を隠すための帽子をかぶった。あまり目立ちたくなかったからだ。
サンダルを履こうとした時、ゴミ袋が一つ残っていることに気がついた。どうせ外に出るのだから、一緒に捨てた方がいいだろう。
右手にゴム手袋をはめ、ゴミ袋を持って階段を降りる。指定の場所にゴミを置くと、そのまま食料品店へ向かった。
店に着くと、自動ドアが静かに開き、迷わず中へ入った。誰にも気づかれることはないと思っていたが、なぜか視線を感じた。私の姿は思ったより目立っていたのかもしれない。それでも気にせず、棚の方へ向かった。
インスタントラーメンを三つ手に取り、レジへ行こうとしたその時、ふとある考えが浮かんだ。
一瞬立ち止まり、新鮮な食材コーナーへと足を向ける。
たまには、もっと健康的な食事をするのもいいかもしれない。それに、今夜からはもう一人ではない。
せめて今日くらいは、料理をするべきだろう。
しばらく作っていなかったけれど、試してみてもいいはず。
何より——彼は、私の願いを受け入れてくれた。せめてそのお礼に、何か作ってあげたい。
私は白米とカレーを作るための材料を買うことにした。もしかすると、彼も久しく手作りの食事を食べていないかもしれない。
会計を済ませて店を出ると、さっきまで気になっていた視線はすっかり消えていた。
帰り道、ゴミ置き場の近くで見覚えのある姿を見つけた。遠くから見ても、それが泉君だと分かった。いくつものゴミ袋を処分しているところだった。きっと彼も朝早く起きて、部屋を掃除していたのだろう。
私に気づくと、彼は少しゴミ置き場から離れ、道路の向こう側で私を待った。
何か言いたいことがあるのだろうか。そう思い、私はまっすぐ彼の元へ歩いて行った。
昨日よりも少し落ち着いた表情で、彼は私を見つめる。
「黒川さん、自分のSNSはもう確認しましたか?」
彼の問いかけと、その言い方に、なんとなく嫌な予感がした。まさか、何かあったのだろうか?
「いいえ、まだ見てません。そういえば、私も聞きたいことがあるんだけど。」
私はさらに歩み寄り、彼は建物の方へと歩き出した。
「何の話ですか?」
「一緒に暮らす前に、冷蔵庫の中に何か食べ物があるのか知りたいの。あまり外出しないだろうし、学校以外で出かけることも少ないと思うから。」
「いや、実は冷蔵庫はほぼ空っぽだよ。でも、後で買い物に行くつもりだ。黒川さんが料理できるなら、交代で作るのもありかもしれないな。」
そんな会話をしながら、私たちはエレベーターへと乗り込んだ。
「分かった、ちょうど夕食の材料を買ってきたから、後で君の部屋に置いておくよ。」
彼は軽く頷き、それからエレベーターの中は再び静寂に包まれた。
その沈黙のまま、私たちは自分たちの部屋がある階に到着し、ぎこちない雰囲気の中、それぞれの部屋へと向かった。
自分の部屋に入ると、私はサンダルを脱ぎ、すぐにキッチンへ向かった。買ったものを取り出し、とりあえずシンクの横に置いた。
その後、食材を袋に戻し、今度は泉君の部屋へ向かう準備をした。
再びサンダルを履き直し、彼の部屋の前まで歩いて行き、インターホンを押した。
…………………………
しばらくして、彼がドアを開けた。
顔だけを覗かせていたが、ほんの一瞬だけ部屋の中が見えた。想像以上に散らかっていた。ほんの数秒だったが、それだけでなぜ彼が片付けに時間がかかると言っていたのかが理解できた。
「どうかしましたか、黒川さん?」
そう言いながら彼は視線を下げ、私の持っている袋に気づいた。
それだけで、彼は察したようだった。
「夕食の材料よ。あとは任せるわ。」
私は無表情のままそう伝えた。
彼は袋を受け取り、簡単に別れの挨拶をすると、部屋の中へ戻っていった。
私も自分の部屋へと戻ることにした。早くインスタントラーメンを食べたくて、足早にキッチンへ向かった。
お湯を沸かしながら、パソコンの電源を入れる。彼の言葉がまだ頭の中に残っていた。
パソコンの起動を待つ間、キッチンへ戻り、お湯を止めてラーメンに注いだ。
私はラーメンを持ってパソコンの前に座り、すぐに昨日の章の閲覧数を確認した。
そして、目を疑った。
たった一日で、一万を超えるアクセスがあったのだ。
信じられなかった。嬉しすぎて涙が出そうだった。
こんなことが起こるなんて、初めてだった。
どうして一晩でこんなことになるの?全く分からない。でも、これはとても良いことのはず。
もしかしたらXからの流入が多いのかもしれない。そう思い、アプリを開いた。
私はスマホを「おやすみモード」に設定していたため、通知は一切届いていなかった。
Xを開くと、驚きはさらに大きくなった。
通知のアイコンには「+99」と表示されている。
投稿の閲覧数も膨大で、引用リツイートもたくさんあった。
私はそのうちの一つを開き、新しい章の感想を期待して読んだ。
……だが、期待は一瞬で砕かれた。
それは、私の作品を酷評する投稿だった。
(@true__
「このパクリ野郎が。新人作家は他人の小説を真似ることしかできないのか?文字通り、一時間前に投稿されたRenji_Kamizato先生の新作をコピペしただけじゃないか。恥を知れ。こんなのが小説を書く資格なんてない。」)
……何を言ってるの?
なぜ私が泉君の章を盗作したことになっているの?
他の引用リツイートも確認したが、ほとんどが同じような内容だった。
私の大切な作品を否定する言葉が、次々と目に飛び込んでくる。
コメント欄を覗くと、さらに心が締め付けられた。
「小説を書くのをやめたほうがいい。他の作家の真似しかできないなんて、最低だ。」
「お前みたいなやつは死んだほうがいい。」
……耐えられなかった。
パソコンから身を引き、動揺したままスマホを手に取る。
「おやすみモード」を解除し、そのままバルコニーへ向かった。
突然、雨が降り始めた。
私は苛立ちを押し殺しながら、視線を落としてスマホを見つめた。
泉君は私を騙したの?どうして彼が私と同じものを投稿できたの?
違うのは登場人物の名前だけ。ほとんどそのままじゃないか。
なぜ?
彼には何か言い分があるのだろうか? それとも……ただの偶然?
分からない。頭が追いつかない。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとした。
――そのとき、スマホが鳴った。
母からだった。
……なんでこんなときに?
ため息をつきながら、仕方なく通話を受ける。
耳にスマホを当てた瞬間、母の苛立った声が響いた。
「だから言ったでしょう?何度も言ったわよね。あんな小説を書くのはやめなさいって。それがあなたを不幸にするだけなのよ。いい加減、恥をかかせないで。さっさと帰ってきなさい。」
母の声が、雨の音と混ざり合う。
「そのアカウントを削除して、今すぐ帰ってきなさい。心配しなくていいわ。先生方には話をつけておくから、すぐに海外の高校へ転校できるように――」
「…………ママ、考える。少し考えさせて。」
そう言って、通話を切った。
私は、親の期待に沿えなかった娘。
親の望む道を歩めなかった娘。
それでも……こんな状況になってまで、私はまだ続けるべきなの?
胸元のネックレスを握りしめる。
それは祖母がくれたものだった。
唯一、私の小説を応援してくれた人。
彼女はいつも言っていた。
「真希、夢を追いなさい。たとえ世界がそれを阻もうとしても、諦めずに進み続けるのよ。」
その言葉を思い出しながらも、私は迷っていた。
私は……本当にできるの?
それとも、結局、親の望む道を歩むしかないの?
どうしたらいいのか分からず、ただ体を丸めて、声を押し殺して泣いた。
考える時間がほしかった。まだ夢を諦めたくない。でも、何もできない。
しばらく静かに過ごした後、部屋に戻り、ベッドの端で膝を抱えた。どうすればいいのか分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
ふと、祖父母のことを思い出した。母や父が私に義務を押し付けるたび、彼らは私を守ってくれた。
「好きなことをやりたいなら、戦え。どんなに難しくても、どんなに批判されても、諦めなければ、いつか証明できるはずだ。」
そんな言葉を思い出しているうちに、気づけばもう午後1時になっていた。
その時、不意に玄関の扉が開く音がした。
鍵を閉めるのを忘れていた――けど、もうどうでもよかった。
何が起こっても構わない。もう、どうでもいい。
目を閉じかけたとき、足音がすぐそばで止まった。
「……なるほど、諦めるつもりか。本当にそれでいいのか?」
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは泉君だった。
彼は真顔だったが、その瞳の奥には深い真剣さが宿っていた。
視線をそらし、また俯く。
彼が勝手に家に入ってきたことも、今はどうでもよかった。
でも、ふと思った。このまま彼に、約束をなかったことにしようと伝えるべきだろうか?
そう考え、口を開こうとした瞬間――
「本当に諦めるのか?」
彼の低く、真っ直ぐな声が私を遮った。
その表情と問いかけが、まるで私の心を見透かしているようで、息が詰まる。
「――……………」
何も言えないままいると、彼はスマホを取り出し、私の方へと投げた。
「これを見ろ。少しは落ち着くはずだ。」
彼のスマホを手に取り、画面を覗き込むと、そこには彼の投稿が表示されていた。
それを見た瞬間、驚きとともに、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
(@Renji_Kamizato
@Akane_fuji を責めるのはやめてくれ。
彼女は何も悪くない。むしろ、彼女が俺の新しい章を書くきっかけをくれたんだ。
だから、もう批判したり攻撃したりしないでほしい。
もしこれ以上続けるなら、俺が相手になる。)
スクロールし、コメントを確認すると、さっきまで批判していた人たちが次々と謝罪の言葉を残していた。
この投稿はすでに多くの人の目に触れているようで、状況を知らない人たちまで話題にしていた。
――気づけば、泉君は少し離れた場所にいた。
彼は静かにキッチンへ向かい、そして戻ってくると、私の前に立ち、そっとコップを差し出した。
「飲め。少し落ち着いて考えろ。」
私はゆっくりとコップを受け取り、両手で包み込むように持ち、静かに口をつけた。
冷たい水が喉を通るたびに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。
再びスマホの画面を見つめながら、表情こそ変わらなかったが、内心では安堵していた。
――この騒動が、ようやく落ち着き始めている。
「まだ、一緒に小説を書いてくれるか?」
泉君の問いかけに、私はふと視線を落とし、少しだけ肩の力を抜いて答えた。
「……ありがとう、泉君。でも、まだ分からない。両親が私に家に戻れって言ってて、もう小説を書くのをやめろって……。」
「そうか。」
彼はそう呟くと、ゆっくりと部屋の左側へ歩き、机の上に置かれたノートを手に取った。
パラパラとページをめくりながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、本当に夢を諦めるのか? それが、お前の望みなのか?」
………………
「――私は、書き続けたい! 諦めたくない……でも……」
私は視線を落としながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「泉君、もし私の両親が君に立ちはだかっても、それでも私を守ってくれる? ……そんなの、無理だよね?」
彼は、迷いのない目で私を見つめた。
「お前が本気で俺と一緒にやるつもりなら、俺はお前を守る。約束する。」
「……私の家族にとって、『約束』って、石に名前を刻むのと同じくらいの意味があるんだよ。」
「石は風化する。だけど、言葉は消えない。」
彼の声は、まるで覚悟を決めたかのように変わっていた。
まさか、こんなにも真剣に答えるとは思っていなかった。
だけど――もし彼が本当にそう言うのなら、私も……。
「分かった。泉君がその責任を受け入れるなら、私は絶対に諦めない。」
そう言いながら、私は彼の目をしっかりと見つめた。
――もう、答えは決まっている。
私はスマホを手に取り、両親に再び電話をかけた。
コール音が鳴るのは、ほんの数秒だった。
「……ママ、もう決めた。私はここで勉強を続けるし、小説も書き続ける。
ごめんなさい。でも、これが私の本当の気持ち。」
母が何か言いかける前に通話を切ろうとしたが、次の言葉で指が止まった。
「あなた、自分が今の生活費をどうやって払っているか分かっているの?
パパも私も、もう家賃は払わないつもりよ。
それでも、ここに残るつもり?」
その言葉に、私は小さく笑った。
――まるで、私の勝利を確信するかのように。
「私は、私のやり方で何とかするから。だから、その心配はいらない。」
それだけ言い残し、私は通話を切った。
胸がスッと軽くなる。長い溜息をつきながら、泉君へと満足げな笑顔を向けた。
「……これで、全部解決したみたい。」
すると、彼は少し考え込んだ後、あっさりとした口調で言った。
「じゃあ、さっさと荷物を運ぶのを手伝うぞ。日が暮れる前にな。」
「うん、お願い。」
泉君―― 君が今、何に巻き込まれたのか、分かってる?
君が言った『守る』という言葉は、私の家族にとって単なる約束じゃない。
それは――すなわち、求婚を意味する。
私は結婚するつもりなんてない。でも……小説を書き続けるためなら、この契約を受け入れるしかない。
彼は一緒に暮らそうと言ってくれたが、まだその時ではなかった。まずは荷物をまとめなければならなかったし、それに小説を完成させる必要があった……あるいは、もう少し引き延ばすのもアリかもしれない。どちらの選択肢も悪くはなかった。
エレベーターに乗り込むと、夕暮れの暖かな橙色の光が金属の壁に映し出された。ケイトは静かにしていた。まるで高校でのあの演技が、本当にただの演技だったかのように。
別に気にしていたわけではないが、あの約束はまるでなかったことになっているようだった。よく考えてみれば、それは問題なのかもしれない……特に、私の両親にとっては。
エレベーターの単調な音が、私を思考の渦に引き込んでいった。
*
数日前、私は両親と喧嘩をした。
彼らは決して私を信じなかった。私が夢を追いかけさえすれば、どれほどのことができるのか、まったく理解してくれなかった。
昔からずっとそうだった。「私たちの望む生き方をしなさい。」
この肩にのしかかる重圧……できることなら解き放たれたい。
幼い頃から、私は小説が大好きだった。世界中の物語を読み、それぞれのスタイルや独自の魅力に触れてきた。だが、初めてライトノベルを手にしたのは、十二歳の誕生日の時だった。
その年、祖父母が両親に日本での留学を求めた。両親は渋々承諾したものの、それはただの始まりに過ぎなかった。その頃にはすでに、私の夢を壊そうとしていたが、祖父母のおかげで、その夢はむしろ強くなった。
彼らはいつも夢を追いなさいと言ってくれた。私は本当に感謝している…でも、母と父が敵となった今、私に残された道は、立ち向かうことだけだ。
*
エレベーターが目的の階に到着する音が、私の思考を途切れさせた。
ちょうど降りようとしたとき、落ち着いた、しかし確信に満ちた控えめな声が背後の静寂を破った。
「それで、いつ俺の部屋に引っ越す?急に来られても困るからさ。」
泉圭人だった。まぁ……彼なりに約束は守っているようだ。私は彼を横目で見て、表情を崩さずに答えた。
「明日、土曜の午後にはできると思う。まだ荷造りが残ってるけど。」
「分かった。準備ができたら手伝うから教えて。」
私は軽く頷き、自分の部屋へ向かった。
部屋に入ろうとしたそのとき、ふと何かを思い出した。
もう一度顔を出すと、彼はすぐに私に気づいた。
「聞きそびれてたことがあるんだけど…」
彼は何気ない表情のまま、少し疑問を含んだ声で返した。
「うん……何のこと?」
「あなたのこと、何て呼べばいい?フルネーム?それとも名字だけ?」
「フルネームはちょっと変だろ。名字でいいよ。」
「分かった。じゃあ、また明日ね、泉君。」
彼は自分の部屋へ向かいながら、自然な口調で最後の一言を返した。
「ああ、また明日、黒川さん。」
こうして、私たちは別れた。
部屋に入ると、私はすぐに明かりをつけた。部屋の隅々まで照らされる。
一人暮らしに慣れすぎて、「ただいま」と言うのも無意味に感じてしまう。
このマンションはモダンなデザインで、白い壁に必要なものが揃っている。でも……散らかっていた。掃除は週末にしかやらない。ほとんどの時間を小説執筆に費やしていて、片付ける余裕すらなかった。でも今日は……さすがにやらなきゃ。
床にはゴミ袋がいくつか転がっていて、廊下にはシャツが適当に置かれていた。その光景に、少し恥ずかしくなる。
掃除を始める前に、私は自分の部屋でノートパソコンを探した。そこは他の部屋よりは片付いていたが、それでも完璧ではなかった。
ノートパソコンをコンセントに繋ぎながら、スマホで今日書いた小説の最新話を確認する。公開しなきゃ。
そろそろ、この物語の結末を書き始める頃かもしれない。
充電をセットした後、私は着替えて掃除用の格好に着替えた。
午後5時50分、キッチンから掃除を始め、気づけば午後11時02分。すべてのゴミ袋をまとめ、マンションのゴミ置き場まで捨てに行った後、階段を上がって戻る。
しかし、部屋に入ろうとしたとき、まだ一つ箱が残っていることに気がついた。
古びて、少し潰れかけた大きな箱。なぜか気になって、私はそれを開けた。
中には、焼け焦げた跡のあるノートが入っていた。
それを見た瞬間、記憶が鮮明に蘇ってきた。
◇◆◇◆
あの日、私は小説に夢中になりすぎて、自分でも書いてみようと決めた。
嬉しくて、物語への愛を両親に話した。彼らは理解したふりをしていたが、本当は――私の言葉など、聞いていなかった。ただ、その時の私はそれに気づかなかった。
それが起こったのは、私が十二歳の時だった。
その日、私はとても感動した小説を読んで、自分のノートに物語を書き始めた。
学校から帰る道すがら、次の章のアイデアで頭がいっぱいだった。心から幸せだった。
私が書いていたのは、親の期待に縛られながらも、本当は自由を求める少女の物語だった。
それは――私自身の願いでもあった。
でも、その時だった。家の近くまで来たとき、黒い煙が庭から立ち昇っているのが見えた。
燃え尽きた紙片が空中を舞い、すでに何の形も留めていなかった。そのすぐ後ろで、風にあおられながら、私の小説の一枚の挿絵が儚くも宙を漂っていた。それは、まるで自らの運命に抗っているかのように。
何が起こっているのか、頭が理解することを拒んだ。けれど、私の身体は先に反応していた。
走った。信じたくなかった。信じるわけにはいかなかった。
家は大きかったはずなのに、その時ばかりは、走れば走るほど距離が遠くなるように感じた。
黒煙を目印に、裏庭へとたどり着く。そこには、決して燃えてはならないものが、業火に包まれていた。
そして――彼女がいた。
炎の前に立ち、冷たい表情で、本をゴミのように投げ込んでいく母の姿が。
それは私の――ライトノベルだった。
痛かった。
叫びたかった。泣きたかった。
でも、泣けば、負けたように思えてしまう。
目が熱くなった。それでも、私は目を逸らさなかった。
ただ、無力に見つめるしかなかった。
私の努力が、私の情熱が、炎に呑み込まれていくのを。
すると、母の手に握られているものが目に入った。
私の体が震えた。
「ママ! 何をしてるの ⁉どうしてこんなことを……! そのノートだけは……お願いだから……!」
必死で、ただのわがままをぶつけるような声だった。
けれど、母の手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
その間に、母はノートを開き、最初の数ページに目を通した。
その顔が変わる。
「……そう。あなた、こんな人間になりたいのね?」
その言葉には、軽蔑が滲んでいた。
母は勢いよくノートを閉じると、炎へと一歩踏み出した。
「これが、あんたのやっていたこと……そういうことね? なら、燃えたくなければ取り戻してみなさい。」
その瞬間、すべてが決まった。
母は――ノートを投げた。
そして私は、理性を失った。
母が背を向けたまま立ち去る中、私の頭は必死に回転していた。どうにかしなければ。何としてでも、取り戻さないと。
でも、炎が。
手を入れれば、火傷するかもしれない。
……そんなこと、どうだっていい。
私は靴を脱ぎ、そのまま炎に向かって突き出した。盾にするように、ノートをかき出すように。
必死だった。
怖かった。でも、それ以上に。
絶対に、諦めるわけにはいかなかった。
ようやく引きずり出したとき――私の手は震えていた。
ノートの端は焦げ、いくつかのページは完全に失われていた。
残った部分すら、読めるかどうかもわからないほどだった。
それでも。
私は、そのノートに一年間のすべてを詰め込んでいたのだ。
あと少しで、完成するはずだったのに。
しかし今は――。
あの夜、私は泣いた。
これまでにないほど、声を押し殺して泣いた。
まるで、言葉そのものを奪われたような気がした。
まるで、何があっても書かせまいとするかのように。
◇◆◇◆
現在、私の部屋は見違えるほど綺麗だった。
そして、私の手の中には、あの時のままのノートがあった。
焼け焦げた跡は今も残っている。あの日から、私はこのノートを手放したことがない。どこへ行くにも持ち歩き、今、一人暮らしをしているこの部屋にも置いてある。
箱の中には他にも小説が入っていた。色褪せることのない物語がそこにあった。だが今は、休むべき時だろう。
眠る前に、私はノートパソコンを開き、今日書いた最新話を投稿した。細かい部分を確認し、誤字を修正し、ようやく公開ボタンを押す。
特に期待はしていなかった。
最近の読者は、たった二十人ほどしかいない。
それでも、諦めるつもりはなかった。
投稿が終わると、Xでリンクを共有した。誰かが読んでくれることを願って。
そして私は布団に入り、明日が新しい一日になることを確信した。
大きな変化が訪れる日。
なぜなら、ある疑問が頭から離れなかったからだ。
彼と一緒に、どんな小説を書こうか?
それを知るのが待ちきれなかった。
◇◆◇◆
翌朝、私は早く目を覚ました。
今日は、一人暮らしを終え、初めて親の金に頼らず生きる日だ。もしかすると、これで本当の自由を手にできるのかもしれない。でも、その実感はまだ心の奥底に沈んでいた。
自分の人生で何を望むのか、分かっているのは私だけだ。小説を書くこと、それこそが私の何よりの願い。男の子と一緒に暮らすことになっても、特に問題がなければ、それでいい。
そんな考えが頭を巡る中、私はまだベッドから出ていなかった。朝食を探す前に、洗面所へ向かい、顔を洗って歯を磨いた。
家には食べ物がなかったが、幸いクレジットカードにはあと二週間分の生活費が残っている。
鏡に映る自分は、どこかぼんやりとしていた。まるで、これから訪れる変化をまだ受け入れられていないかのように。ため息をつき、顔を洗って洗面所を出た。
外出するために、長ズボンを履き、顔を隠すための帽子をかぶった。あまり目立ちたくなかったからだ。
サンダルを履こうとした時、ゴミ袋が一つ残っていることに気がついた。どうせ外に出るのだから、一緒に捨てた方がいいだろう。
右手にゴム手袋をはめ、ゴミ袋を持って階段を降りる。指定の場所にゴミを置くと、そのまま食料品店へ向かった。
店に着くと、自動ドアが静かに開き、迷わず中へ入った。誰にも気づかれることはないと思っていたが、なぜか視線を感じた。私の姿は思ったより目立っていたのかもしれない。それでも気にせず、棚の方へ向かった。
インスタントラーメンを三つ手に取り、レジへ行こうとしたその時、ふとある考えが浮かんだ。
一瞬立ち止まり、新鮮な食材コーナーへと足を向ける。
たまには、もっと健康的な食事をするのもいいかもしれない。それに、今夜からはもう一人ではない。
せめて今日くらいは、料理をするべきだろう。
しばらく作っていなかったけれど、試してみてもいいはず。
何より——彼は、私の願いを受け入れてくれた。せめてそのお礼に、何か作ってあげたい。
私は白米とカレーを作るための材料を買うことにした。もしかすると、彼も久しく手作りの食事を食べていないかもしれない。
会計を済ませて店を出ると、さっきまで気になっていた視線はすっかり消えていた。
帰り道、ゴミ置き場の近くで見覚えのある姿を見つけた。遠くから見ても、それが泉君だと分かった。いくつものゴミ袋を処分しているところだった。きっと彼も朝早く起きて、部屋を掃除していたのだろう。
私に気づくと、彼は少しゴミ置き場から離れ、道路の向こう側で私を待った。
何か言いたいことがあるのだろうか。そう思い、私はまっすぐ彼の元へ歩いて行った。
昨日よりも少し落ち着いた表情で、彼は私を見つめる。
「黒川さん、自分のSNSはもう確認しましたか?」
彼の問いかけと、その言い方に、なんとなく嫌な予感がした。まさか、何かあったのだろうか?
「いいえ、まだ見てません。そういえば、私も聞きたいことがあるんだけど。」
私はさらに歩み寄り、彼は建物の方へと歩き出した。
「何の話ですか?」
「一緒に暮らす前に、冷蔵庫の中に何か食べ物があるのか知りたいの。あまり外出しないだろうし、学校以外で出かけることも少ないと思うから。」
「いや、実は冷蔵庫はほぼ空っぽだよ。でも、後で買い物に行くつもりだ。黒川さんが料理できるなら、交代で作るのもありかもしれないな。」
そんな会話をしながら、私たちはエレベーターへと乗り込んだ。
「分かった、ちょうど夕食の材料を買ってきたから、後で君の部屋に置いておくよ。」
彼は軽く頷き、それからエレベーターの中は再び静寂に包まれた。
その沈黙のまま、私たちは自分たちの部屋がある階に到着し、ぎこちない雰囲気の中、それぞれの部屋へと向かった。
自分の部屋に入ると、私はサンダルを脱ぎ、すぐにキッチンへ向かった。買ったものを取り出し、とりあえずシンクの横に置いた。
その後、食材を袋に戻し、今度は泉君の部屋へ向かう準備をした。
再びサンダルを履き直し、彼の部屋の前まで歩いて行き、インターホンを押した。
…………………………
しばらくして、彼がドアを開けた。
顔だけを覗かせていたが、ほんの一瞬だけ部屋の中が見えた。想像以上に散らかっていた。ほんの数秒だったが、それだけでなぜ彼が片付けに時間がかかると言っていたのかが理解できた。
「どうかしましたか、黒川さん?」
そう言いながら彼は視線を下げ、私の持っている袋に気づいた。
それだけで、彼は察したようだった。
「夕食の材料よ。あとは任せるわ。」
私は無表情のままそう伝えた。
彼は袋を受け取り、簡単に別れの挨拶をすると、部屋の中へ戻っていった。
私も自分の部屋へと戻ることにした。早くインスタントラーメンを食べたくて、足早にキッチンへ向かった。
お湯を沸かしながら、パソコンの電源を入れる。彼の言葉がまだ頭の中に残っていた。
パソコンの起動を待つ間、キッチンへ戻り、お湯を止めてラーメンに注いだ。
私はラーメンを持ってパソコンの前に座り、すぐに昨日の章の閲覧数を確認した。
そして、目を疑った。
たった一日で、一万を超えるアクセスがあったのだ。
信じられなかった。嬉しすぎて涙が出そうだった。
こんなことが起こるなんて、初めてだった。
どうして一晩でこんなことになるの?全く分からない。でも、これはとても良いことのはず。
もしかしたらXからの流入が多いのかもしれない。そう思い、アプリを開いた。
私はスマホを「おやすみモード」に設定していたため、通知は一切届いていなかった。
Xを開くと、驚きはさらに大きくなった。
通知のアイコンには「+99」と表示されている。
投稿の閲覧数も膨大で、引用リツイートもたくさんあった。
私はそのうちの一つを開き、新しい章の感想を期待して読んだ。
……だが、期待は一瞬で砕かれた。
それは、私の作品を酷評する投稿だった。
(@true__
「このパクリ野郎が。新人作家は他人の小説を真似ることしかできないのか?文字通り、一時間前に投稿されたRenji_Kamizato先生の新作をコピペしただけじゃないか。恥を知れ。こんなのが小説を書く資格なんてない。」)
……何を言ってるの?
なぜ私が泉君の章を盗作したことになっているの?
他の引用リツイートも確認したが、ほとんどが同じような内容だった。
私の大切な作品を否定する言葉が、次々と目に飛び込んでくる。
コメント欄を覗くと、さらに心が締め付けられた。
「小説を書くのをやめたほうがいい。他の作家の真似しかできないなんて、最低だ。」
「お前みたいなやつは死んだほうがいい。」
……耐えられなかった。
パソコンから身を引き、動揺したままスマホを手に取る。
「おやすみモード」を解除し、そのままバルコニーへ向かった。
突然、雨が降り始めた。
私は苛立ちを押し殺しながら、視線を落としてスマホを見つめた。
泉君は私を騙したの?どうして彼が私と同じものを投稿できたの?
違うのは登場人物の名前だけ。ほとんどそのままじゃないか。
なぜ?
彼には何か言い分があるのだろうか? それとも……ただの偶然?
分からない。頭が追いつかない。
深く息を吸い込み、気持ちを落ち着けようとした。
――そのとき、スマホが鳴った。
母からだった。
……なんでこんなときに?
ため息をつきながら、仕方なく通話を受ける。
耳にスマホを当てた瞬間、母の苛立った声が響いた。
「だから言ったでしょう?何度も言ったわよね。あんな小説を書くのはやめなさいって。それがあなたを不幸にするだけなのよ。いい加減、恥をかかせないで。さっさと帰ってきなさい。」
母の声が、雨の音と混ざり合う。
「そのアカウントを削除して、今すぐ帰ってきなさい。心配しなくていいわ。先生方には話をつけておくから、すぐに海外の高校へ転校できるように――」
「…………ママ、考える。少し考えさせて。」
そう言って、通話を切った。
私は、親の期待に沿えなかった娘。
親の望む道を歩めなかった娘。
それでも……こんな状況になってまで、私はまだ続けるべきなの?
胸元のネックレスを握りしめる。
それは祖母がくれたものだった。
唯一、私の小説を応援してくれた人。
彼女はいつも言っていた。
「真希、夢を追いなさい。たとえ世界がそれを阻もうとしても、諦めずに進み続けるのよ。」
その言葉を思い出しながらも、私は迷っていた。
私は……本当にできるの?
それとも、結局、親の望む道を歩むしかないの?
どうしたらいいのか分からず、ただ体を丸めて、声を押し殺して泣いた。
考える時間がほしかった。まだ夢を諦めたくない。でも、何もできない。
しばらく静かに過ごした後、部屋に戻り、ベッドの端で膝を抱えた。どうすればいいのか分からないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
ふと、祖父母のことを思い出した。母や父が私に義務を押し付けるたび、彼らは私を守ってくれた。
「好きなことをやりたいなら、戦え。どんなに難しくても、どんなに批判されても、諦めなければ、いつか証明できるはずだ。」
そんな言葉を思い出しているうちに、気づけばもう午後1時になっていた。
その時、不意に玄関の扉が開く音がした。
鍵を閉めるのを忘れていた――けど、もうどうでもよかった。
何が起こっても構わない。もう、どうでもいい。
目を閉じかけたとき、足音がすぐそばで止まった。
「……なるほど、諦めるつもりか。本当にそれでいいのか?」
聞き覚えのある声だった。
ゆっくりと顔を上げると、そこに立っていたのは泉君だった。
彼は真顔だったが、その瞳の奥には深い真剣さが宿っていた。
視線をそらし、また俯く。
彼が勝手に家に入ってきたことも、今はどうでもよかった。
でも、ふと思った。このまま彼に、約束をなかったことにしようと伝えるべきだろうか?
そう考え、口を開こうとした瞬間――
「本当に諦めるのか?」
彼の低く、真っ直ぐな声が私を遮った。
その表情と問いかけが、まるで私の心を見透かしているようで、息が詰まる。
「――……………」
何も言えないままいると、彼はスマホを取り出し、私の方へと投げた。
「これを見ろ。少しは落ち着くはずだ。」
彼のスマホを手に取り、画面を覗き込むと、そこには彼の投稿が表示されていた。
それを見た瞬間、驚きとともに、心がじんわりと温かくなるのを感じた。
(@Renji_Kamizato
@Akane_fuji を責めるのはやめてくれ。
彼女は何も悪くない。むしろ、彼女が俺の新しい章を書くきっかけをくれたんだ。
だから、もう批判したり攻撃したりしないでほしい。
もしこれ以上続けるなら、俺が相手になる。)
スクロールし、コメントを確認すると、さっきまで批判していた人たちが次々と謝罪の言葉を残していた。
この投稿はすでに多くの人の目に触れているようで、状況を知らない人たちまで話題にしていた。
――気づけば、泉君は少し離れた場所にいた。
彼は静かにキッチンへ向かい、そして戻ってくると、私の前に立ち、そっとコップを差し出した。
「飲め。少し落ち着いて考えろ。」
私はゆっくりとコップを受け取り、両手で包み込むように持ち、静かに口をつけた。
冷たい水が喉を通るたびに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。
再びスマホの画面を見つめながら、表情こそ変わらなかったが、内心では安堵していた。
――この騒動が、ようやく落ち着き始めている。
「まだ、一緒に小説を書いてくれるか?」
泉君の問いかけに、私はふと視線を落とし、少しだけ肩の力を抜いて答えた。
「……ありがとう、泉君。でも、まだ分からない。両親が私に家に戻れって言ってて、もう小説を書くのをやめろって……。」
「そうか。」
彼はそう呟くと、ゆっくりと部屋の左側へ歩き、机の上に置かれたノートを手に取った。
パラパラとページをめくりながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……じゃあ、本当に夢を諦めるのか? それが、お前の望みなのか?」
………………
「――私は、書き続けたい! 諦めたくない……でも……」
私は視線を落としながら、絞り出すように言葉を紡ぐ。
「泉君、もし私の両親が君に立ちはだかっても、それでも私を守ってくれる? ……そんなの、無理だよね?」
彼は、迷いのない目で私を見つめた。
「お前が本気で俺と一緒にやるつもりなら、俺はお前を守る。約束する。」
「……私の家族にとって、『約束』って、石に名前を刻むのと同じくらいの意味があるんだよ。」
「石は風化する。だけど、言葉は消えない。」
彼の声は、まるで覚悟を決めたかのように変わっていた。
まさか、こんなにも真剣に答えるとは思っていなかった。
だけど――もし彼が本当にそう言うのなら、私も……。
「分かった。泉君がその責任を受け入れるなら、私は絶対に諦めない。」
そう言いながら、私は彼の目をしっかりと見つめた。
――もう、答えは決まっている。
私はスマホを手に取り、両親に再び電話をかけた。
コール音が鳴るのは、ほんの数秒だった。
「……ママ、もう決めた。私はここで勉強を続けるし、小説も書き続ける。
ごめんなさい。でも、これが私の本当の気持ち。」
母が何か言いかける前に通話を切ろうとしたが、次の言葉で指が止まった。
「あなた、自分が今の生活費をどうやって払っているか分かっているの?
パパも私も、もう家賃は払わないつもりよ。
それでも、ここに残るつもり?」
その言葉に、私は小さく笑った。
――まるで、私の勝利を確信するかのように。
「私は、私のやり方で何とかするから。だから、その心配はいらない。」
それだけ言い残し、私は通話を切った。
胸がスッと軽くなる。長い溜息をつきながら、泉君へと満足げな笑顔を向けた。
「……これで、全部解決したみたい。」
すると、彼は少し考え込んだ後、あっさりとした口調で言った。
「じゃあ、さっさと荷物を運ぶのを手伝うぞ。日が暮れる前にな。」
「うん、お願い。」
泉君―― 君が今、何に巻き込まれたのか、分かってる?
君が言った『守る』という言葉は、私の家族にとって単なる約束じゃない。
それは――すなわち、求婚を意味する。
私は結婚するつもりなんてない。でも……小説を書き続けるためなら、この契約を受け入れるしかない。
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