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第3節
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その夜も交差点には、不審な女はいなかった。毎日毎晩、宗教の勧誘をしているわけではないらしい。
いつも通りビールを飲んで、仕事での記憶を洗い流す。昨年、本社で研修を受けていたときには、こんなにアルコールは飲まなかったはずだ。
少し腹も出てきた気がする。社会人2年目、まだ23歳だ。まだビール腹になるわけにはいかない。
『こんなに酒を飲むようになったのは、管理主義者の社長や粘着質の課長のせいだ』
孝一はそう考えていた。
本社に戻って出世すれば、子会社社長よりも上の立場に立てる。そのときには徹底的に管理して社長を困らせてやることができる。ねちねちと責め立てて課長をいじめてやることもできる。
「ふん」
ビール缶を握ってへこませた。
ドラマやバラエティー番組、ニュース番組をザッピングしているうちに、深夜0時になる。いつもこの調子だ。
そろそろ寝なければならない。子会社になついていないとはいえ、遅刻するわけにはいかない。あからさまな怠慢は、本社に報告が行くはずだった。
アルコールが軽く全身にまわっている。体がいくぶん軽く感じられる。
歯を磨くために、冷房が効いていた6畳間のドアを開けて、キッチンを兼ねた短い廊下に出た。孝一の体を感知して、玄関ライトが自動で点灯する。黄色く廊下を照らし出す。
キッチンに置いた歯ブラシをつかもうとして、ふと手を止めた。
玄関ドアの覗き穴が、気になったのだ。
今朝のオーナーの言葉を思い出す。
「昨夜の女の子は彼女? それともお姉さん?」
「君の部屋のドアの前で会ったよ」
「細くて、髪を1つに結んだ、いまどき珍しいくらい化粧気のない子だったよ。確か白いワンピースを着てたかな」
今朝は交差点で右に振り向くことができなかった。
しかし、今はアルコールのおかげで少し気が大きくなっている。
「ふん」
もう一度鼻で笑って、朝の臆病風をどこかへと追いやった。
足音をひそめて、玄関に近づく。革靴が帰ってきたときのまま、ハの字に散らばっている。
玄関ドアまでたどり着く。
『この鉄の扉1枚を挟んで、向こう側に誰かがいるのだろうか?』
ゆっくりと覗き穴に顔を近づけていく。
しかし、覗き穴と目が重なる直前で、孝一は動きを止めてしまう。どこかへ追いやったはずの臆病風が、またどこからともなく吹いてきた。
『部屋の外に、白いワンピースを着たやせ細った女が立っていたら……』
ごくり。
のどが上下した。
アルコールを飲んだせいで、のどが渇いていた。
それなのに、頭はすっきりと冴え始めていた。
『もし覗き穴の向こう側から、誰から覗いていたら……』
覗き穴の向こう側から、大きな眼球がこちらを見つめているイメージが脳裏に浮かぶ。
夜になっても気温は下がらず、汗腺からは汗が噴き出し始めた。
しかし、背中には冷たい汗が、伝って流れ落ちていく。
孝一は長い時間、ドアの前で硬直していた。すると、感知式の玄関ライトは、「不在」と判断したらしい。身動きを止めてしまった孝一の上空で、玄関ライトは消灯した。
「あ……」
孝一はそれに弾かれ促されるように、穴を覗き込んでしまった。
不用意な行動への後悔に、呼吸が一瞬止まった。
覗き穴の向こう側には、マンションの廊下がゆがんで広がっている。向かい側の104号室の玄関ドアが見えた。
「はあぁ……」
忘れていた呼吸を再開する。ドアの向こう側には誰もいなかったのだ。
腰をまっすぐに伸ばすと、玄関ライトが孝一の存在を再び感知して点いた。
足元にひんやりとした空気の流れを感じた。冷房の効いた6畳のワンルームから、冷気が床を這って流れ出てきていた。
どうも神経が過敏になっているらしい。
「ちっ」
そんな自分を苦々しく感じた。舌打ちをして、キッチンにやってきた本来の目的である歯磨きを済ませた。
玄関ドアの鍵がしまっていることを確認する。これは寝る前には必ず行っているルーティンである。トイレと風呂の電気が消えていること、蛇口が閉まっていることも確認する。
6畳のワンルームに戻り、部屋の電灯を消した。
ベッドは折りたたみ式だが、面倒なので折りたたむことはなく広げっぱなしだ。孝一がベッドに腰をおろすと、折りたたみベッドはギシギシと不吉な悲鳴を上げた。最近、シーツを洗ったり、ふとんを干したりしていない。梅雨のせいでふとんがじっとりと湿っているような気がした。次のデートまでに、ふとんを掃除しておかなければならない。
孝一はふとんの上に横になろうとして、ふと動きを止めた。カーテンを通して、うっすらと街灯の明かりが、部屋の中に漏れ入っている。遮光カーテンだが、外の明かりは透けて見える。
孝一はベッドからおりた。無性にカーテンの向こう側、窓の外が気になったのだ。
暗い部屋の中で足を進める。たたまずに積んだままの洗濯物や雑誌などが、床には散らばっている。
『このカーテンの向こうには……』
大きな窓があり、ベランダがある。
その先には、マンションの小さな植え込みがあり、駐輪スペースがある。今朝、オーナーが掃き掃除をしていた場所だ。
さらにその先には、小さな道と線路が視界をさえぎっているはず。
カーテンに指をかける。
『もしベランダに誰かが立っていたら……』
この部屋に住み始めて3カ月、そんなふうに考えたことはなかった。通りに面した1階に住んでいるので、もちろん空き巣を警戒し、戸締りには注意はしている。
しかし、『誰かが自分をこっそりと見ているのではないか』と、誰かの視線を意識したことはなかった。しかも、具体的な人物をイメージして。
女の青白い顔を思い出して、孝一の太ももを鳥肌が埋め尽くした。
『いや、ベランダに入り込むなんて法律に触れる。ありえない』
孝一はそう思い直す。しかし……。
『もしかしたら道路から101号室を見つめている女が立っていたら……』
妄想がふくらんでいく。
ひとりで風呂に入るようになった頃、孝一はシャンプーが怖かった。父や母に頭を洗ってもらっているときはよかった。そこに父と母がいるのだから安心感があった。しかし、ひとりで髪を洗うときは違った。目をつむって髪を洗う。
目を開くのが怖い。
はじめはシャンプーが目に入ってしみることを怖がっているのだと、自分に思い込ませようとした。しかし、やはり違うのだ。
『目を開けたときに、誰かの顔が目の前にあるのではないか』
『浴槽の中に、誰かが立っているのではないか』
『曇った鏡の中に、何者かが映っているのではないか』
そんな妄想をふくらませてしまうのだった。
すっかりそんな思い出など忘れてしまっていた。しかし、今、目の前を遮るカーテンを前にして、孝一は思い出してしまった。臆病だった頃の自分を。
『でも、今の俺は違う』
高校は進学校に入り、上位の成績をキープした。有名大学にも進学し、一流企業にも就職できた。運動神経も良かったので、陸上部でもそこそこの成績を残すことができた。容姿も悪くはなく、女と話をするのも得意で、女に困ったこともなかった。
『臆病だったあの頃の俺とは違う』
孝一は自分に言い聞かせて、カーテンを握る指に力を込めた。
指が震えている。
『さっき覗き穴の向こうには誰もいなかったじゃないか』
もう一度自分に言い聞かせ、カーテンを開いた。
薄暗いベランダがあった。
街灯に照らされた植え込みと駐輪スペースが見える。
人通りの少ない道と、線路が見えた。
そこには誰もいなかった。
ただ見慣れた景色が広がっているだけだった。
「はあぁ……」
玄関ドアの覗き穴のときと同様、深いため息をついた。
ここに来て、1つの考えが、ふと頭に思い浮かんだ。
もしかしたら、オーナーが見た女は、1階の他の住人への訪問客だったのではないだろうか。その女がたまたま101号室の前を通ったところで、オーナーと出くわしただけなのではないか。だとしたら、住人の顔と名前を覚えているオーナーの記憶データに合致しなかったとしても、別におかしくはない。
『きっとそうだったのだ』
その考えが正解のように思えてきた。
『ビビらせるようなこと言いやがって』
オーナーへの怒りがふつふつとわき上がってきた。
カーテンを勢いよく閉めた。足元の洗濯物を蹴散らしながら、ベッドに戻る。
幼い頃の臆病な記憶も、久々に感じた恐怖心も、波が引くように消えていく。
『1度しか会っていない女を恐れるなんて、どうかしていたんだ』
孝一はそのように思いなおすことができた。
その夜は、よく眠ることができた。
その夜は。
いつも通りビールを飲んで、仕事での記憶を洗い流す。昨年、本社で研修を受けていたときには、こんなにアルコールは飲まなかったはずだ。
少し腹も出てきた気がする。社会人2年目、まだ23歳だ。まだビール腹になるわけにはいかない。
『こんなに酒を飲むようになったのは、管理主義者の社長や粘着質の課長のせいだ』
孝一はそう考えていた。
本社に戻って出世すれば、子会社社長よりも上の立場に立てる。そのときには徹底的に管理して社長を困らせてやることができる。ねちねちと責め立てて課長をいじめてやることもできる。
「ふん」
ビール缶を握ってへこませた。
ドラマやバラエティー番組、ニュース番組をザッピングしているうちに、深夜0時になる。いつもこの調子だ。
そろそろ寝なければならない。子会社になついていないとはいえ、遅刻するわけにはいかない。あからさまな怠慢は、本社に報告が行くはずだった。
アルコールが軽く全身にまわっている。体がいくぶん軽く感じられる。
歯を磨くために、冷房が効いていた6畳間のドアを開けて、キッチンを兼ねた短い廊下に出た。孝一の体を感知して、玄関ライトが自動で点灯する。黄色く廊下を照らし出す。
キッチンに置いた歯ブラシをつかもうとして、ふと手を止めた。
玄関ドアの覗き穴が、気になったのだ。
今朝のオーナーの言葉を思い出す。
「昨夜の女の子は彼女? それともお姉さん?」
「君の部屋のドアの前で会ったよ」
「細くて、髪を1つに結んだ、いまどき珍しいくらい化粧気のない子だったよ。確か白いワンピースを着てたかな」
今朝は交差点で右に振り向くことができなかった。
しかし、今はアルコールのおかげで少し気が大きくなっている。
「ふん」
もう一度鼻で笑って、朝の臆病風をどこかへと追いやった。
足音をひそめて、玄関に近づく。革靴が帰ってきたときのまま、ハの字に散らばっている。
玄関ドアまでたどり着く。
『この鉄の扉1枚を挟んで、向こう側に誰かがいるのだろうか?』
ゆっくりと覗き穴に顔を近づけていく。
しかし、覗き穴と目が重なる直前で、孝一は動きを止めてしまう。どこかへ追いやったはずの臆病風が、またどこからともなく吹いてきた。
『部屋の外に、白いワンピースを着たやせ細った女が立っていたら……』
ごくり。
のどが上下した。
アルコールを飲んだせいで、のどが渇いていた。
それなのに、頭はすっきりと冴え始めていた。
『もし覗き穴の向こう側から、誰から覗いていたら……』
覗き穴の向こう側から、大きな眼球がこちらを見つめているイメージが脳裏に浮かぶ。
夜になっても気温は下がらず、汗腺からは汗が噴き出し始めた。
しかし、背中には冷たい汗が、伝って流れ落ちていく。
孝一は長い時間、ドアの前で硬直していた。すると、感知式の玄関ライトは、「不在」と判断したらしい。身動きを止めてしまった孝一の上空で、玄関ライトは消灯した。
「あ……」
孝一はそれに弾かれ促されるように、穴を覗き込んでしまった。
不用意な行動への後悔に、呼吸が一瞬止まった。
覗き穴の向こう側には、マンションの廊下がゆがんで広がっている。向かい側の104号室の玄関ドアが見えた。
「はあぁ……」
忘れていた呼吸を再開する。ドアの向こう側には誰もいなかったのだ。
腰をまっすぐに伸ばすと、玄関ライトが孝一の存在を再び感知して点いた。
足元にひんやりとした空気の流れを感じた。冷房の効いた6畳のワンルームから、冷気が床を這って流れ出てきていた。
どうも神経が過敏になっているらしい。
「ちっ」
そんな自分を苦々しく感じた。舌打ちをして、キッチンにやってきた本来の目的である歯磨きを済ませた。
玄関ドアの鍵がしまっていることを確認する。これは寝る前には必ず行っているルーティンである。トイレと風呂の電気が消えていること、蛇口が閉まっていることも確認する。
6畳のワンルームに戻り、部屋の電灯を消した。
ベッドは折りたたみ式だが、面倒なので折りたたむことはなく広げっぱなしだ。孝一がベッドに腰をおろすと、折りたたみベッドはギシギシと不吉な悲鳴を上げた。最近、シーツを洗ったり、ふとんを干したりしていない。梅雨のせいでふとんがじっとりと湿っているような気がした。次のデートまでに、ふとんを掃除しておかなければならない。
孝一はふとんの上に横になろうとして、ふと動きを止めた。カーテンを通して、うっすらと街灯の明かりが、部屋の中に漏れ入っている。遮光カーテンだが、外の明かりは透けて見える。
孝一はベッドからおりた。無性にカーテンの向こう側、窓の外が気になったのだ。
暗い部屋の中で足を進める。たたまずに積んだままの洗濯物や雑誌などが、床には散らばっている。
『このカーテンの向こうには……』
大きな窓があり、ベランダがある。
その先には、マンションの小さな植え込みがあり、駐輪スペースがある。今朝、オーナーが掃き掃除をしていた場所だ。
さらにその先には、小さな道と線路が視界をさえぎっているはず。
カーテンに指をかける。
『もしベランダに誰かが立っていたら……』
この部屋に住み始めて3カ月、そんなふうに考えたことはなかった。通りに面した1階に住んでいるので、もちろん空き巣を警戒し、戸締りには注意はしている。
しかし、『誰かが自分をこっそりと見ているのではないか』と、誰かの視線を意識したことはなかった。しかも、具体的な人物をイメージして。
女の青白い顔を思い出して、孝一の太ももを鳥肌が埋め尽くした。
『いや、ベランダに入り込むなんて法律に触れる。ありえない』
孝一はそう思い直す。しかし……。
『もしかしたら道路から101号室を見つめている女が立っていたら……』
妄想がふくらんでいく。
ひとりで風呂に入るようになった頃、孝一はシャンプーが怖かった。父や母に頭を洗ってもらっているときはよかった。そこに父と母がいるのだから安心感があった。しかし、ひとりで髪を洗うときは違った。目をつむって髪を洗う。
目を開くのが怖い。
はじめはシャンプーが目に入ってしみることを怖がっているのだと、自分に思い込ませようとした。しかし、やはり違うのだ。
『目を開けたときに、誰かの顔が目の前にあるのではないか』
『浴槽の中に、誰かが立っているのではないか』
『曇った鏡の中に、何者かが映っているのではないか』
そんな妄想をふくらませてしまうのだった。
すっかりそんな思い出など忘れてしまっていた。しかし、今、目の前を遮るカーテンを前にして、孝一は思い出してしまった。臆病だった頃の自分を。
『でも、今の俺は違う』
高校は進学校に入り、上位の成績をキープした。有名大学にも進学し、一流企業にも就職できた。運動神経も良かったので、陸上部でもそこそこの成績を残すことができた。容姿も悪くはなく、女と話をするのも得意で、女に困ったこともなかった。
『臆病だったあの頃の俺とは違う』
孝一は自分に言い聞かせて、カーテンを握る指に力を込めた。
指が震えている。
『さっき覗き穴の向こうには誰もいなかったじゃないか』
もう一度自分に言い聞かせ、カーテンを開いた。
薄暗いベランダがあった。
街灯に照らされた植え込みと駐輪スペースが見える。
人通りの少ない道と、線路が見えた。
そこには誰もいなかった。
ただ見慣れた景色が広がっているだけだった。
「はあぁ……」
玄関ドアの覗き穴のときと同様、深いため息をついた。
ここに来て、1つの考えが、ふと頭に思い浮かんだ。
もしかしたら、オーナーが見た女は、1階の他の住人への訪問客だったのではないだろうか。その女がたまたま101号室の前を通ったところで、オーナーと出くわしただけなのではないか。だとしたら、住人の顔と名前を覚えているオーナーの記憶データに合致しなかったとしても、別におかしくはない。
『きっとそうだったのだ』
その考えが正解のように思えてきた。
『ビビらせるようなこと言いやがって』
オーナーへの怒りがふつふつとわき上がってきた。
カーテンを勢いよく閉めた。足元の洗濯物を蹴散らしながら、ベッドに戻る。
幼い頃の臆病な記憶も、久々に感じた恐怖心も、波が引くように消えていく。
『1度しか会っていない女を恐れるなんて、どうかしていたんだ』
孝一はそのように思いなおすことができた。
その夜は、よく眠ることができた。
その夜は。
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