視線

一ノ瀬なつみ

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第10節

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 大谷芳子が廊下を歩いていた。理科室から3年2組の教室へと戻る最中だった。化学の教材をかかえながら、1組の教室の前を通っていると、数名の男子生徒達が1組のドアから飛び出してきた。
 「きゃっ!」
 昔から細かった芳子は、廊下に倒れ込んだ。化学の教科書や筆記用具が廊下に散らばる。
 「お前、謝れよ」
 「知らねえよ、追いかけてきたお前が悪いんだろ」
 2人の男子生徒は責任をなすりつけあいながら、謝りもせずじゃれ合っている。学校でも目立っている陸上部の連中だった。
 芳子もそんな男たちに謝ってもらおうなどと思っていない。彼女は廊下に散らばった教材を拾い始めた。
 芳子のそばで、筆箱とノートを拾って差し出した男子生徒がいた。
 芳子はぎょろぎょろとした目を上目づかいに見上げた。
 1組の男子生徒だった。
 確かさっきの2人と同じ陸上部員だったはずだ。
 「あ……ありがとうございます……」
 芳子は男子生徒から筆箱とノートを受け取って、ぺこりと頭をさげた。
 「すまん」
 ぶつかった本人でもないのに、その男子生徒は友人のかわりに謝った。そして、責任をなすりつけあっている2人の友人の元に向かっていった。
 「さすが孝一くん、女の子には優しいなぁ」
 「俺たちにももっと優しくしてくれよ、今岡」
 「うるせえよ」
 芳子は、その親切な男子生徒の背中を見つめ続けた。
 「今岡孝一」
 芳子はその名をしっかりと脳に刻み込み、その姿を目に焼き付けた。
 芳子は大学に進学し、他の生徒たちと同じように就職活動を行った。売り手市場で周囲の学生たちは順調に内定を勝ち取っていく。しかし、芳子には、どこの企業からも声がかかることはなかった。
 また、芳子自身、就職活動に意味を見いだせていなかった。
 『どうして学生たちは、型にはまったように企業に就職しなければならないのだろうか』
 『どうして周囲の学生たちは、そのことに疑問を持たないのだろうか』
 うまく話せなかった面接からの帰り道、街頭でビラを受け取った。
 「あなたの人生は、救われるようにできている」
 チラシには、そのような文句が書かれていた。たまたま受け取った宗教の勧誘チラシだったが、運命を感じた芳子は、その新興宗教団体にすぐに入信した。
 そこの信者たちは、芳子と同じように、社会の仕組みに疑問を持っている者が多かった。もともと1つのものごとにコツコツと取り組むことが得意だった芳子は、団体の広報課で働くことに生きがいを見出した。
 団体が謳っていたとおり、芳子は自分に「救い」が訪れたように感じられた。
 『自分と同じように、社会の在り方に不満や疑問を持っている人を救いたい』
 『社会の中で自分の価値を見いだせなかった人に、自分と同じように、生きがいを見つけられることを伝えたい』
 芳子は使命を持って、宣教活動に取り組んだ。
 そして、入信して1年3カ月。芳子にとって、もう1つの「救い」が訪れる。
 梅雨が明けた、蒸し暑い夕方にことだった。あるベッドタウンの駅前の交差点で、いつものように勧誘のビラを配布していた。すると、1人の男が、芳子の手を荒々しく払いのけた。
 「邪魔だ! うるせえんだよ!」
 そして、男は芳子の足元に山積みにされたチラシを蹴り上げた。
 チラシは四方八方に飛び散った。
 勧誘のビラを配っていると、邪険に扱われることは多々あった。しかし、こんなにも敵意をむき出しにされることはめずらしかった。
 「ああぁ……」
 男はあまりの蒸し暑さに、いらだっていたのかもしれない。
 その日、その男にとって、気に食わないできごとが立て続けに起こったのかもしれない。
 あるいは、遺伝なのか環境のせいなのか、以前からこういう荒い気性の人間なのかもしれない。
 しかし、そんな男にも救いはあるのだ。
 「あなたの人生は、救われるようにできている」
 芳子は男への救済を祈った。
 地面に散らばったチラシを拾い集めていると、何人かの通行人が手伝ってくれた。
 『やはり、どんなことにも救いはあるのだ』
 「あ……ありがとうございます。ありがとうございます」
 手伝ってくれた女性たちに頭をさげて、チラシを受け取った。手伝ってくれたのは、なぜか女性が多かった。
 しかし、その中で唯一、男性の手がチラシを拾って差し出してくれていた。
 その手を見た瞬間、高校時代の記憶がフラッシュバックした。
 廊下に散らばった化学の教材や筆記用具。
 それを拾ってくれた男子生徒。
 顔を上げると、さらに既視感が芳子を襲った。5年前と同じ顔がそこにあったのだ。
 「あ……ありがとうございます」
 すぐに名前を思い出すことはできた。
 「今岡孝一」
 高校時代に比べて、ぜい肉が首まわりについたかもしれない。
 しかし、孝一の魅力はまったく変わっていない。
 あのときと同じように、視線は自然に孝一の背中に吸い寄せられていく。
 「こ……孝一くん」
 高校時代には、孝一のことを知ってからも、彼に声をかけることができなかった。孝一は勉強もスポーツもできて、女子生徒たちから人気があった。彼に近づくことすらできなかった。
 しかし、今は違う。
 「人生は、救われるようにできている」のだ。
 入信してから人生がうまく回り始めたという自信が、芳子を突き動かした。交差点で西空を見上げている孝一に近づいていく。
 その横に並んだ。芳子の身長は、彼の肩ほどまでしかなかった。
 『運命』
 西日に照らされた孝一の美しい横顔を見て、芳子はそう確信した。
 『彼も私の存在に気付いてくれるはず』
 芳子がそう感じたとおり、孝一はこちらに振り返ってくれた。
 確かに今、2人の目と目が合っている。しかし、どう声をかけていいのかわからなかった。芳子はさきほどの感謝をもう一度伝えることにした。
 「……さきほどは……ほんとうに……ありがとうございました……」
 孝一はもごもごと何かを口走っただけで、交差点を渡っていってしまった。
 『あの時と同じだ』
 高校の廊下を歩き去っていく孝一の背中を思い出した。
 『でも、あの頃とは違う』
 芳子は大きく目を見開いた。
 あの頃の自分とは違うのだ。
 『それに、こんな奇跡があるだろうか。きっと2人は結ばれる運命だったのだ』
 神様が用意してくださった「救い」に感謝した。
 芳子の全身は、悦びに震えた。
 『もし、孝一と結ばれないならば、こんな世界などどうなってもいい』
 芳子は交差点を渡り、孝一の背中を追って歩いた。
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