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夏、プールにて
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はじめて彼女の死期が近いということが分かったのは彼女が懐かしそうに昔の話をしてから数日後のことだった。
「そういえば昔はよくお父さんと一緒にプールに行っていたの。今でこそ髪の毛は薄くなって話をあまり聞いてくれない頑固ジィになったけど、昔は本当にかっこよくて水泳もスキーも歌も絵もなんでも上手でわたしの憧れだったんだから。そう、プール。わたしはそこでお父さんに抱っこをしてもらって、高い高いからの水の上に投げてもらう遊ぶが楽しくていつもお父さんに抱っこをせがんでいたわ。お父さんはその度に腰をトントンと叩きながら困ったような顔をして、でも最終的にはよっしゃとつぶやいてからまたわたしを高く投げ飛ばしてくれたの」
彼女は畳の上で昼寝している小学四年生の娘に透明な眼差しを向けていた。どこかで打ち水をしているのか水の跳ねる音が心地よく、窓から流れ込む少しだけひんやりとした風は子供の頃を思い出させる。もうすぐ夏だった。
セミの鳴き声よりもうるさい雨が降った日は散歩に行けなかった。それでもお互いに網戸の前でその音を聞いているとまるで水の中のように自由な気がして、ぼくたちは拙い言葉を投げたり受け取ったりした。それは退屈なようでいて、とても忙しい日々だった。
死ぬことなんてありえない、とぼくは実際にそのときまで信じられないでいたんだと思う。だからお互いにいつものようにただ笑っていた。彼女はえくぼに皴を浮かべて、目じりをただ細く、か細く、弱々しく。ぼくはどうだったのだろう。多分、いつものように泣いているような顔で笑っていたのかもしれない。彼女はそのことをいつもからかってくる。おかげでぼくたちの写真はいつも笑顔と泣き顔が混在していた。今だって淡い光のように、ガラスのように薄い空間が広がっている。猫がすり寄って来る。そろそろ晩ご飯の支度をしないと部活終わりの娘が帰ってくる。カレーでもいいかな? と彼女にきくと彼女は涼しそうに静かにうなずいた。時間は栓を抜いたお風呂のお湯のようにただ流れていった。
障子を開けると畳の匂いが広がって少しだけ疲れていた心の奥底をさわさわとくすぐる。布団を敷いて、娘、彼女、ぼくの順番で三人一緒に川の字で眠っているといつのまにか足元に猫が丸まっていた。その光景を何度か写真に撮ろうとスマホを構えるも海外製の安価なスマホのせいかどうしてもぼやけた写真しか撮れない。それでも彼女はそれすらも思い出になるからと二人のline上にアルバムを作った。夜は静かだった。明け方は太陽がまぶしかった。人生は長いようで短いし、短いようで案外長い。ぼくの親はまだ死んでいない。この猫よりもぼくはきっと長生きはすると思うけど、娘よりは先に死ぬはずだ。予定通りにいけばだけど。
検査入院からそのまま退院することはなかった、というブログが案外多いことにぼくは驚かされながら、病院に向かう彼女の隣でなにを考えればいいのかを悩んでいた。現実的なことを考慮した発言をすればいいのか、やはり気休めでもいいから夢のある言葉が適しているのか。そのどれもがぼくの涙腺を緩めてしまう。泣く訳にはいかないのに泣いてしまうのは人間の本能なのだろうか。ぼくはつい嘘くさい涙を流してしまった。彼女はそれを見て嘘のような顔で笑っていた。
冷凍庫を開けるとぼくの好きなサクレのレモン味のアイスが箱で入っていた。ぼくはそのアイスを仕事終わりによく食べていた。それがどこに売っているのか今も知らなかった。見るとあと一本しか残っていなかった。最後の一本を食べられる日なんて果たして来るのだろうか。ぼくは冷凍庫を閉じて明日のお弁当を作る。明日も生きるつもり満々で。
残される人と残していく人はいったいどっちが辛いのだろうか。娘はいったい今なにを考えているのだろうか。どうしてぼくではなく彼女だったのだろうか。冷凍庫に入れっぱなしのカレーを取り出して、電子レンジに放り込む。チン、と鳴るその音の向こう側の世界にもう彼女はいなかった。ぼくはただカレーを掻き込む。食べないと生きていけないから。
シャワーを浴びる。彼女のシャンプーを使ってみる。髪の毛が驚くほどつやつやになる。お風呂に浸かる。上がると娘にいい匂いがすると言われた。ぼくはただうなずいた。その日は一緒のタイミングで布団に入った。娘はすぐに寝た。ぼくは中々眠れなかったけど、そこまで悪い気分ではなかった。猫は今夜も向こうの部屋で眠っている。
実際に今まで家の中に、それは当たり前のように永遠に続くかのように思われていた一人の人間がいなくなるということは、あまりにもリアリティがなかった。
焼けるような日差しの中干す洗濯物の数が少ないことに人はいったいいつ慣れるのだろうか。猫が足元にすり寄ってきてバタンと倒れるように転がる。頭を撫でると鼻をひくひくとさせてか弱く鳴いた。腕がジリジリと焼けていく。太陽が少し鬱陶しく雲に隠れて欲しいと願いながらも、きっと冬になれば太陽をありがたる自分が容易に想像できた。しかし、この現実は想像できなかった。
ぼくはきっと、だから、ものすごく幸せだったんと思う。
床を掃除してからトイレを掃除して、ついでにお風呂も掃除する。滝のように汗が流れる。そのままシャワーを浴びる。ただそれだけだった。ただそれだけ。
娘ははじめこそ泣いていたものの今では誰よりも生きている。ぼくはまだ中々立ち直れなかったが、それでも彼女が最後に残した言葉がぼくを遠くから引っ張り上げるように未来に連れて行ってくれる気がするから、ぼくは今日も明日も明後日もきっと大丈夫だと思っている。
自由に生きようと思う。娘と一緒に。
夏。ぼくは娘と一緒にプールに行く日をずっと待っている。
「そういえば昔はよくお父さんと一緒にプールに行っていたの。今でこそ髪の毛は薄くなって話をあまり聞いてくれない頑固ジィになったけど、昔は本当にかっこよくて水泳もスキーも歌も絵もなんでも上手でわたしの憧れだったんだから。そう、プール。わたしはそこでお父さんに抱っこをしてもらって、高い高いからの水の上に投げてもらう遊ぶが楽しくていつもお父さんに抱っこをせがんでいたわ。お父さんはその度に腰をトントンと叩きながら困ったような顔をして、でも最終的にはよっしゃとつぶやいてからまたわたしを高く投げ飛ばしてくれたの」
彼女は畳の上で昼寝している小学四年生の娘に透明な眼差しを向けていた。どこかで打ち水をしているのか水の跳ねる音が心地よく、窓から流れ込む少しだけひんやりとした風は子供の頃を思い出させる。もうすぐ夏だった。
セミの鳴き声よりもうるさい雨が降った日は散歩に行けなかった。それでもお互いに網戸の前でその音を聞いているとまるで水の中のように自由な気がして、ぼくたちは拙い言葉を投げたり受け取ったりした。それは退屈なようでいて、とても忙しい日々だった。
死ぬことなんてありえない、とぼくは実際にそのときまで信じられないでいたんだと思う。だからお互いにいつものようにただ笑っていた。彼女はえくぼに皴を浮かべて、目じりをただ細く、か細く、弱々しく。ぼくはどうだったのだろう。多分、いつものように泣いているような顔で笑っていたのかもしれない。彼女はそのことをいつもからかってくる。おかげでぼくたちの写真はいつも笑顔と泣き顔が混在していた。今だって淡い光のように、ガラスのように薄い空間が広がっている。猫がすり寄って来る。そろそろ晩ご飯の支度をしないと部活終わりの娘が帰ってくる。カレーでもいいかな? と彼女にきくと彼女は涼しそうに静かにうなずいた。時間は栓を抜いたお風呂のお湯のようにただ流れていった。
障子を開けると畳の匂いが広がって少しだけ疲れていた心の奥底をさわさわとくすぐる。布団を敷いて、娘、彼女、ぼくの順番で三人一緒に川の字で眠っているといつのまにか足元に猫が丸まっていた。その光景を何度か写真に撮ろうとスマホを構えるも海外製の安価なスマホのせいかどうしてもぼやけた写真しか撮れない。それでも彼女はそれすらも思い出になるからと二人のline上にアルバムを作った。夜は静かだった。明け方は太陽がまぶしかった。人生は長いようで短いし、短いようで案外長い。ぼくの親はまだ死んでいない。この猫よりもぼくはきっと長生きはすると思うけど、娘よりは先に死ぬはずだ。予定通りにいけばだけど。
検査入院からそのまま退院することはなかった、というブログが案外多いことにぼくは驚かされながら、病院に向かう彼女の隣でなにを考えればいいのかを悩んでいた。現実的なことを考慮した発言をすればいいのか、やはり気休めでもいいから夢のある言葉が適しているのか。そのどれもがぼくの涙腺を緩めてしまう。泣く訳にはいかないのに泣いてしまうのは人間の本能なのだろうか。ぼくはつい嘘くさい涙を流してしまった。彼女はそれを見て嘘のような顔で笑っていた。
冷凍庫を開けるとぼくの好きなサクレのレモン味のアイスが箱で入っていた。ぼくはそのアイスを仕事終わりによく食べていた。それがどこに売っているのか今も知らなかった。見るとあと一本しか残っていなかった。最後の一本を食べられる日なんて果たして来るのだろうか。ぼくは冷凍庫を閉じて明日のお弁当を作る。明日も生きるつもり満々で。
残される人と残していく人はいったいどっちが辛いのだろうか。娘はいったい今なにを考えているのだろうか。どうしてぼくではなく彼女だったのだろうか。冷凍庫に入れっぱなしのカレーを取り出して、電子レンジに放り込む。チン、と鳴るその音の向こう側の世界にもう彼女はいなかった。ぼくはただカレーを掻き込む。食べないと生きていけないから。
シャワーを浴びる。彼女のシャンプーを使ってみる。髪の毛が驚くほどつやつやになる。お風呂に浸かる。上がると娘にいい匂いがすると言われた。ぼくはただうなずいた。その日は一緒のタイミングで布団に入った。娘はすぐに寝た。ぼくは中々眠れなかったけど、そこまで悪い気分ではなかった。猫は今夜も向こうの部屋で眠っている。
実際に今まで家の中に、それは当たり前のように永遠に続くかのように思われていた一人の人間がいなくなるということは、あまりにもリアリティがなかった。
焼けるような日差しの中干す洗濯物の数が少ないことに人はいったいいつ慣れるのだろうか。猫が足元にすり寄ってきてバタンと倒れるように転がる。頭を撫でると鼻をひくひくとさせてか弱く鳴いた。腕がジリジリと焼けていく。太陽が少し鬱陶しく雲に隠れて欲しいと願いながらも、きっと冬になれば太陽をありがたる自分が容易に想像できた。しかし、この現実は想像できなかった。
ぼくはきっと、だから、ものすごく幸せだったんと思う。
床を掃除してからトイレを掃除して、ついでにお風呂も掃除する。滝のように汗が流れる。そのままシャワーを浴びる。ただそれだけだった。ただそれだけ。
娘ははじめこそ泣いていたものの今では誰よりも生きている。ぼくはまだ中々立ち直れなかったが、それでも彼女が最後に残した言葉がぼくを遠くから引っ張り上げるように未来に連れて行ってくれる気がするから、ぼくは今日も明日も明後日もきっと大丈夫だと思っている。
自由に生きようと思う。娘と一緒に。
夏。ぼくは娘と一緒にプールに行く日をずっと待っている。
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