短編小説「家族の花」

有原野分

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家族の花

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 初夏。
 ――の、ある日。
 私は随分と疲れていた。
 仕事、家族、お金、夢、人生……、つまりは生きるということに。
 太陽が嫌になる朝。眩しくて目が開けられない、開けたくない朝。私は歯を食いしばって自分に鞭を打つ。家族のため、自分のため、生きるため。しかし、いくら頑張ってもなにも残らない。仏教でもそう言っている。諸行無常。不変なものなんてなにもない。都会に住んでいたら余計に感じる。増えるビル、消えるお店、変わる住人、歪む稜線、遠くなる海、低くなる空――。
 それでも私は頑張ってきたつもりだ。両親が亡くなってからは特に。今まで何回も、何十回も、何百回も耐えてきた。
 いったいなんのために?
 そんないつもの出勤途中。私は慌ただしい大阪駅構内で突然足を止めてしまった。後ろを歩いていた人の舌打ちが聞こえたが、私の視線は正面の壁に貼ってあるポスターから離れなかった。そこには大きな文字でこう書かれていた。

 ――終わりのないノスタルジア、山陰。

 鳥取か島根のいかにも田舎らしい田園風景と端麗な顔立ちの少女が遠い視線で立っているだけの写真。それなのにどうしてこんなにも胸がざわつくのだろうか。私が島根県出身だからという理由だけではないように思う。自分でも分からないがなにか引き込まれるようなそんな感覚に襲われた。
 まるで走馬灯。
 私は島根県に家を放置していた。その家は両親が最後まで住んでいた終の棲家で、今は空き家となっている。本来は私が引き取って処分しなければいけないのだが、私は忙しさにかまけて見て見ぬふりをしていた。
 もう何年になるだろうか。どうして今まで忘れていたのか。いや、きっと思い出さないようにしていたのだ。だって私は現に今の今までだって家族のことを忘れたことはなかったのだから。ふいに私は決意する。
 ――帰ろう。久しぶりに。

       ☆

 一人で車を運転していると、不思議と独身時代の頃を思い出してしまう。鼻歌なんかを口ずさみ、ときには道を歩いている若い女の子に視線を送ったり。もしここにタバコがあれば吸っていたかもしれない。もちろん、妻には内緒で。
 この話をしたとき、彼女はもっと驚くかと思っていた。
「うん、いいと思うよ」
 そういえばいつからだろうか。私が彼女に自分のわがままを言わなくなったのは。私は彼女が妻になって、子どもが生まれて、もう夢なんて追わずにきちんとしなければ、と勝手に思い込んでいた気がする。
 きちんとした人生? そんなもの存在しないのに。
 出会った当時、私はフリーターで彼女はシングルマザーだった。彼女はいったいなにがどうしてこんな甲斐性のない男を選んだのだろうか。
 私がうつ病で苦しんでいたとき、彼女は健気に看病をしてくれた。私を支えてくれた。夢を応援してくれた。しかし、私はそれに応えることができなかった。
 小説家を諦めたのは、いつだっただろうか。
 フリーターで生きていくということ。それはいくら家族の支援と理解力があっても、並外れた神経の太さが必要だった。私には無理だった。
 と、いうことにしているが本当は違う。
 私には兄がいた。その兄が自殺したときかもしれない。
 が、それも本当ではない気がする。
 本当はそれからしばらくして、両親が亡くなったから私は夢を捨てたんだと思う。

       ☆

 大阪から車で約六時間。長時間の運転はぼんやりする。
 昼間なのになぜか信号機の点滅が幻想的に感じられ、私は何度も後ろからクラクションを鳴らされた。
「光りではなく、灯り……」
 そんな意味のないようなことを呟く。寝不足のテンションは思わぬ夢を見させることがある。すると私の頭にある花が鮮明に浮かび上がった。
 それはハスの花だった。満開に咲いたピンク色のあの花だ。なぜかどうでもいいうんちくまでも覚えている。
 ハスは泥水の中できれいな花を咲かせる。むしろ泥水でないと花は咲かない。仏教では極楽浄土の象徴で、花は午前中しか咲かず、開いたり閉じたりを繰り返す。花の寿命は約四日。つぼみのときは植物には珍しく温度調節をし、なんと人間の体温と同じぐらいあるそうだ。
 ――なぜ、こんなに詳しく覚えているのだろう。
 両親はハスの花が好きだった。
 だからだと思う。
 兄の葬式のとき。
 お墓にハスの花を供えたのを覚えている。
 縁起のいい花がちょうど咲いた。よかった。きっと喜んでもらえる、と両親が涙を流しながらお供えをしていた。
 そのとき私はまだ三十歳だった。
 両親は七十前後だっただろうか。当時の私は小説家を目指すと言って、ろくに働いていなかった。両親と彼女におんぶと抱っこ。世間を舐めていた。……今思えば必死だったのだ。なにかを成し遂げることが生きることだと思っていた。人生に対して、幸せにならなければと、力を入れ過ぎていたのだ。
 そんなときに兄は亡くなった。
「大丈夫。大丈夫だから。きっと大丈夫だから」
 抱きしめられる度に感じる人肌が妙に気持ち悪かったのを覚えている。脈を打つ人間。その体温がどこか異常なことのように感じられ、私は自分はおろか、他の人が生きていることがまるで信じられなくなっていた。
 無機質な世界。
「大丈夫だから。私を信じて――」
 人間のあまりの弱さと呆気なさに、私はどうしても神を信じることができなかった。
 急な尿意。
 車をパーキングに回した。駐車して降りようとしたとき、目の前の車が走り去っていった。
 もう二度と手の届かない場所へ。
 そういえば、私の小説を一番おもしろがって読んでくれていたのは、他の誰でもない兄と両親だった気がする。
 そんなことすら、もう遠い記憶になっているなんて。

       ☆

 もうすでに島根には入っている。あとは一時間ほど走らせれば目的地に着くだろう。
 ちょうど昼過ぎ。
 懐かしい風景が目の前に広がる。そのせいだろうか、私の脳裏に両親の顔が浮かび上がってくる。
 亡くなる前の父と母。
 三人で三瓶山に行ったり、電話で他愛のない会話をしたり、帰省したときにケンカしたり、そして仲良く旅行したり。
 懐かしかった。
 涙が出るほど。
 できるものならもっと一緒にいたかった。
 父は数年前に亡くなった。後を追うように母も翌年亡くなった。私がようやく仕事に就いて足掻いているときだった。
 父と母は仲がよかった。とくに兄が亡くなってから、二人の絆はむしろ強くなったのかもしれない。
 私は兄が亡くなってからひどいうつ病になり、以前にもまして堕落していった。そのときのことを思うと、いまでも胸が痛くなる。両親にきつい言葉を浴びせたこともあった。生きていても意味なんてない。ただ死ぬだけじゃないか、と。
 そういえばあのときは苦しかったな。
 と、今では笑って思い返せる。
 懐かしい風景を車で走っていると、あのポスターのコピーもまんざらではない気がしてきた。――終わりのないノスタルジア。
 私は車を道路わきに止めて電話を掛けた。
 彼女の声がどうしても聞きたくなったから。

       ☆

 家には市役所に寄ってから帰ることにした。
 晩年、両親はハスの花を育てていた。バケツに泥水を入れて。私はそれが咲いたところを見たことがなかった。私は当時帰省しても酒ばかり飲んでいた。目を覚ますとすでに昼過ぎで、ハスの花はいつも閉じた後だった。
「一度でいいから見てごらん。本当にきれいだから」
 両親が生きているうちに見ておくべきだった。
 今さら反省してももう遅い。
 市役所での用事が終わり、私はようやく実家に到着した。
 変わらない。
 なにも変わらない。
 庭は草でぼうぼうだが、確かに自分が生まれて育った家だった。
 その変わらなさが逆に心を穿つように、私はしばらく中に入ることができなかった。
 しばらくして遠くから電車の音が聞こえ、押されるように玄関に入った私は、小さな声でただいまとつぶやいた。
 台所から母が顔を出す気がした。応接室から父がお帰りと言ってくれる気がした。だからかもしれない。玄関から家の中にどうしても上がれなかった。
 一度外に出て、庭に回る。
「あっ」
 思わず声が漏れた。
 庭の隅にバケツが置いてあり、そこにハスがあったのだ。しかもつぼみまでついている。
 そんなバカなことがあるはずない。両親がなくなって何年も私はここに帰っていないのだ。
 ――まさか、な。
 私は隣の人が世話を焼いていたのかと勝手に思い込み、この件は深く考えないようにした。別にどちらでもよかったから。
 ハスのつぼみに近寄ってみる。試しにそっと両手で握ってみると、確かにほんのりとあたたかかった。それはいつの日だったか、両親が愛情を持って手を握ってくれたときのあたたかさだった。
 親が子の手を握るとき。恋人が手を握るとき。夫婦が手を握るとき。看病で手を握るとき。子が親の手を握るとき。最後に見送るそのとき。
 幻でもなんでもない、確かにあった家族との触れ合い、人との絆、次の世代へ繋いでいく命。
 私は迷った。本当は今夜のうちに帰る予定だった。しかし、まだやり残していることがある気がした。
 私はそこでようやく家の中に入ると、仏壇に向かって手を合わせた。

       ☆

 夕方の海。快晴。
 私はなにを迷っているのだろうか。明日は仕事だ。帰らなくては。
 昔、いつもここから海を眺めていた。
 夕日がきれいに海に消えていく光景は意外と滅多に拝めない。どんなに晴れていても、水平線の上には大抵雲が浮かんでいるから。ところが、今日は雲が見当たらない。
 このタイミングでここにいること自体そうだが、ハスがまだ生きていたこともしかり、私は今回の帰省をなにか目に見えないものに呼ばれたような気がしていた。
 それを人は神と呼ぶのかもしれない。
 目の前が光りに包まれてきた。夕日が沈んでいく。黄金色の道が海上に浮かび上がり、真っ赤に揺らめく太陽へと伸びていく。水面がキラキラと反射して、それなのに目を閉じることができなかった。空は燃えている。鳥が飛んでいる。波の音、風の感触、潮の匂い。
 はじめて彼女の子どもを連れてここに来たときだった。都会育ちの子どもはこの夕焼けを見て言った。
「お日様って熱いから海に入っていくの?」
 そのときの父の笑顔は今でも忘れない。
「ああ、そうだね。きっとそうだよ」
 幻想的な光景だった。
 テトラポッドが光りに包まれて黒く見える。その形はまるで葉っぱのようだ。となると、その上にある夕日は花だろうか。
 私は決めた。
 今夜は泊まろう。
 久しぶりに家族みんなで横になろう。

       ☆

 翌朝、私は急いで庭に回った。そこにはハスの花が一論咲いていた。やはりそうだった。そのために私は帰って来たんだ。気がついたら私は拝んでいた。そこに仏さまを見たからではなく、私はそこに家族を見たからだ。花に顔を近づける。ほのかに甘い香り。そして私は再度拝んでから家に戻った。
 本当はこの家を売ろうと思っていた。家族の思い出は重たいものだと決めつけていた。それなのに、私は海と夕日とハスの花にすっかりとやられてしまったようだ。
 まだ、大丈夫。
 私は午前中のんびりと懐かしの我が家でくつろいで、午後になってから車に乗り込んだ。
 家族が待っている。それは祖父母であり、親であり、子供であり、孫であり、いつかの私だ。
 庭に咲いていたハスの花はもう枯れて地面に落ちていた。
 都会も田舎も変わっていくが、海も夕日もハスの花も変わりはしない。
 それは家族も同じことだ。
 私は決意した。
 家に帰ったら、妻と子どもたちを思いっきり抱きしめよう。
 そしてもう一度、小説を書いてみよう。
 きっとまたいつか、誰かが喜んでくれるかもしれない。

       ☆

 両親はきっと自分たちが死んだあと、残された私のことを心配していたように思う。それほどまでに私は親不孝だったから。
 いま、私は大人になって、親になった。
 改めて思う。
 親の偉大さ、大きさ、優しさ、逞しさ。
 ありがとう。
 もうぼくは大丈夫。
 苦しかったときもあったし、将来に悲観してやけくそになったときもあった。
 けど、いまは本当に心から感謝しています。
 この命、大切に使います。
 またいつか会えたら、子供の頃のように力いっぱい抱きしめてください。そしてたくさん話を聞いてから、お前は頑張った、よく頑張ったよ、と誉めてください。
 お父さん、お母さん、そして兄、妻、娘たち、出会ってくれたすべての人たちに心からの愛を込めて――。
 バックミラーになにか人影が写った気がするが、私は振り向かなかった。
 初夏。
 ――私は早く家族に会いたかった。
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