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第5話「もう、大丈夫」

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 訓練された兵士の長剣を、それも果物ナイフで受け止めた……兵士たちは驚愕のまなざしでエイルを見やる。ユニは顔を青くした。
 ――『悪食』が、覚醒したんだ。それも、こんなタイミングで……!
 感情の欠け落ちたエイルの瞳が、敵――もとい、”獲物”を一瞥する。彼は果物ナイフを逆手に持ち替えると、再び地を蹴った。

 呆然としていた兵士がユニに膝裏を蹴られてよろめくと、エイルがその兵士の首を正確に刈る。骨さえもきれいに切り裂かれたその首からあふれ出した鮮血が、身をかがめたエイルの髪を滴った。すぐそばの兵士たちの表情が恐怖に歪むより先に、エイルのナイフが兵士の腹を抉り、手首を絶つ。ちゃちな果物ナイフが、革とはいえ鎧さえも貫いて深々と突き刺さった。
 エイルは手首より先を失い狂乱に喚く兵士を押し倒すと、その眼球に指を差し入れる。兵士の壮絶な悲鳴が、聖堂内に響き渡った。味方であるはずのユニすら、顔を真っ白にして息をのんだ。エイルは泣き叫んで身悶える兵士に跨ったまま、抉り取ったばかりの眼球を恍惚として眺める。そして……さも幸せそうに、それを口に押し込んだ。
 ユニとエイルを追ってきていた兵士の一人が、その様子を見て嘔吐した。雑音に振り返ったエイルの目が、その兵士を捉える。

「いけない……もうやめろ、エイル!」

 ユニがあわててエイル――『悪食』を咎める。
 このままだと、エイルはこの場にいるすべての兵士を殺すだろう。逃げるにはその方が好都合かもしれない。だが、意識を取り戻したエイルがどんな顔をするだろうか? また、ユニ自身が殺されないという確証はないのだ。

 しかし、エイルにユニの声は届かなかったらしい。その場に崩れ落ちて吐いていた兵士に向け、彼はゆっくりと歩みを進める。周りの兵士たちは剣を構えるどころか、その気迫に押されて一歩、また一歩と退いていく。そうでなくとも、エイルがためらいなく――いや、嬉々として人を食らう様を見ているのだ。失禁しないだけほめられてもいいはずだ。
 エイルは、へたり込んだまま冷や汗を流していたかの兵士の首を掴むと、うつむいていた顔を無理やりにあげさせる。そして彼は、兵士の鼻に思い切り噛みついた。骨が折れる音、血しぶきと共に、再び壮絶な悲鳴が上がる。ユニもとうとう見ていられなくなり、顔を背けた。

 どうにか身動きをとれるようになった数人の兵士たちが、半ば這うようにして、必死でエイルの視界から逃げ去っていく。鼻を食いちぎられた兵士は仲間に助けを求めることもできず、正気の色のかけらも感じさせないエイルの瞳に怯えて身を震わせた。
 エイルの爪が、兵士の首に深く食い込んでいく。その口から洩れる呼気がひゅうひゅうと鳴るのは、喉を絞められているせいか、それとも恐怖からか――兵士がもはや息絶えんと意識を失くした時、鈍い打撃音と共に、エイルの身体から力が抜ける。ユニは崩れ落ちるエイルの背後にて振り下ろしたダガーのポメルを収めると、苦々しい表情で、倒れ伏したエイルと兵士を見下ろした。
 ――エイルが抉り取った眼球を口に入れたときの、あの悦楽に歪んだ顔……一緒に行くと、自分だけは彼の味方だと言ったはずなのに、『悪食』はエイル自身ではないと分かっているのに、気を失ったまま横たわるエイルに歩み寄ることができない。肩を叩いて起こしてやる――それだけのことが、どうしてもできそうにないんだ。

「うぅ……ん……」

 ユニの葛藤も知らずに、エイルが小さくうなる。意識を取り戻しかけているようだ。ユニは無意識のうちにダガーを強く握りなおすと、エイルから一歩距離をとる。
 それから数秒の間もなく、薄く開かれたエイルの目が、彼を見つめていたユニの目と交わった。

「……ユ、ニ?」

 ――ユニの身体は警戒にこわばり、構えた右手にはダガーが握られている。そして、睨む先は……俺?
 エイルの視界に、赤いものが映る。人間の手だ。だが、手首より先しかない――

「あ……」

 エイルは血の気を失ったまま、震える手で身体を起こした。そして、自分のすぐそばに転がる鼻のない兵士を見るや、自分の口元に手をやる。ぬめる口元を拭った彼の手のひらは、真っ赤に染まっていた。
 ――この身体が、また……!

「うぁ、あ……あああ――!」

 エイルの口から、壮絶な悲鳴が迸る。
 彼は自分の口へと無理に手を差し入れると、その場に蹲り、思い切り吐き戻した。一度ではない。苦しげな悲鳴を塞ぐように何度も自分の喉を苛み、胃の中に入った人のかけらを吐き出そうと身体を震わせる。ついには胃液しか出なくなっても、エイルは手を止めようとしない。喉を突くたびに全身を貫く不快感が彼の意識を霞ませた。生理的な苦痛と恐怖からこぼれた涙が、次々と床に滴っていく。嘔吐物に混じる人の肉らしきものが、エイルをさらに追い詰めた。
 ――苦しい。怖い。気持ち悪い……ッ!
 
「うう……は、はあっ……ッ」

 口元を伝う唾液と嘔吐物の残滓を拭うほどの気力も残っていないエイルは、未だ近寄ってこようとしないユニを力なく見上げた。そして、ユニの目に宿る恐れに気が付くと、絶望に口元を歪ませた。
 
「ユニ……」

 呼びかけても、答えは返ってこない。エイルは深くうなだれた。
 ――食人鬼を前に、友達だという思いはもはや残っていないのだろう。これまでに出会った全ての人々と同じように、俺が”大罪の器”だと、本当の意味で認識したのかもしれない。『悪食』に飲まれた俺の姿を見たのなら、当然の反応だ。今までだって、そうやって受け入れてきたというのに、ユニが相手だとなぜだか……妙に、胸が苦しい。

「やっぱり、期待なんてしなければ良かった……」

 ――しちゃ、いけなかったんだ。
 ユニの優しい笑顔を知らなかったら……彼の冷たい視線にこうも絶望することなんて、なかったはずなのに。
 
「エイル」

 ユニの呼びかけに、エイルが顔を上げる。ユニはダガーを床に放ると、這いつくばったままのエイルのもとに歩み寄った。互いに手が届くであろうその距離まで。彼は怯えて身を竦めるエイルの傍に膝をつくと、血にまみれた灰色の髪を撫ぜた。

「ごめん、エイル」

 ユニは目を見開くエイルの肩に手を回すと、優しく彼を抱き寄せ、互いの額を当てる。
 ――オレは、『悪食』に囚われたエイルが人を食らう姿を恐れた。けど、それ以上に『悪食』の存在を恐れていたのは、エイルの方なんだ。きっと、正気を失い人を貪ってしまうたびに、こうして自らを責め苛んできたんだろう。

「ずっと、苦しかったんだろ。怖かったんだろ……ごめんな、”エイル”を疑って」

 ――あの行為は、エイルの本意じゃない。だからこそエイルは、泣き叫び、自分の身体を侵してまで、『悪食』の凶行を受け入れることを拒んだんだ。
 エイルの方は、しばらくユニの態度が理解できずに固まっていたが、彼の瞳に恐れや軽蔑の色がないことに気が付くと、目を見開いた。

「あのさ、エイル。オレは、『悪食』を決して赦さないよ。当たり前だろ。エイルの身体で好き勝手してやがるんだから。……だけどさ、」

 ――エイルはエイルだろ。
 額を通して伝わってくるユニの熱が、エイルの心に深く沁みていく。”大罪の器”として選ばれて以来、誰かの目をこんなに奥まで覗いたのはエイルにとってはじめてだった。疑いの色のないユニの深遠に触れたエイルは、たまらず両手で顔を覆った。
 ――こんなにも信じてくれる人がいる。信じられる人がいる。人を食らう俺の姿を見てもなお、俺を、”エイル”という人間として信じてくれる人が……!
 重ねた指の隙間を伝う、温かい涙……それは、”大罪の器”ではなく、”エイル”としてのものだった。

 『悪食』の罪は、自らの罪――エイルのその認識を、ユニは真っ向から否定したのだ。エイルの持つ行き場のない怒りも、誰のものかさえ分からない罪悪感も、与えられる苦痛に甘んじるという慰めの手立ても、全て一緒くたにして。
 エイルの重心を支えていた認識が、ことごとく崩れていく。彼の胸の奥が、赦される痛みに耐えようと軋みを上げた。
 ――『悪食』と”俺”は、違う。
 拒もうとすればするほど胸が痛むのは、エイル自身の心のせいか、それとも『悪食』の足掻きのせいか……分からなかったが、彼は胸元を押さえて再びくずおれた。奥歯を噛みしめるエイルの耳元で、ユニがこうささやく。

「自分って存在を信じろ。自分の中にある『悪食』を、”エイル”として制御するんだ」

 ――そうすればきっと、もう自分を失うことなんてないはずだから。
 ユニのその言葉に根拠などなかったが、エイルはユニの意図を理解したようだった。彼は右手でユニの身体に縋ると、左手を胸に当てて、自分に向けて何度も繰り返す。
 ――俺はエイル。エイル・フィーク……『悪食』なんかじゃない、エイルという一人の人間だ。
 ユニに背をさすられながら、また、えずきそうになるのをこらえながら、深く刻みつけるように、繰り返す。

 そうしているうちに、少しずつエイルの顔に血の気が戻りはじめる。再び彼が顔を上げたとき……その瞳に宿った光は、確固たるものになっていた。
 ――『悪食』の罪を雪いで、”エイル”として生きるために、俺はここまで来たんだ。もはや、それに迷いはない。俺を信じてくれる人がいるのだから。そして……他でもない俺が、俺を信じているのだから。
 足取りはまだおぼつかない。それでもエイルは、確かに自分の足で立ち上がった。そして、ユニの手を優しく押し返すと、へらりと笑ってみせた。

「もう、大丈夫」

 ――俺は、俺を疑うことを、罰することを、見捨てることを……もう、二度としない。そうすることで『悪食』の犯した罪を赦すことを、何より俺が許さない。だから。

「行こう。”妖精女王の揺り籠”に」

 大聖堂の上空に浮かぶ、人間にはたどり着けないであろう小島。だがエイルは、確信していた。自分たちになら辿りつけると。理由は単純だった。エイルは穏やかに凪いだ心持で、ユニを見やる。
 ――ユニなら、”信じろ”と言うのだろう。信じる限り道は開けるのだと、そう言ってくれるはずだ。君がそうやって前を向いている限りは、俺も同じ場所を見据えていたい。
 ユニはエイルの瞳に宿る熱を感じ取ると、しっかりとうなずいた。

 ”揺り籠”にはまだ遠い。ユニはダガーを、エイルは果物ナイフを拾い上げると、伏した兵士と血だまりを踏み越えた。翼廊を縦断する大階段を上がれば、一般人には立ち入れない”聖域”の一端が待っていることだろう。また、兵士たちが待っているかもしれない。
 ユニは階段の先に待ち受けていた巨大な扉に手をかけると、力の限り押し開けた。分厚い扉は、重たげな音を立てながらも、それぞれに武器を構えた二人を迎え入れる。
 ――鍵がかかっていない?
 ユニは思わず首をひねった。
 さらに、扉の向こうには、兵士たちの姿さえなかった。あったのはこれまで通ってきた身廊よりもはるかに精緻な彫刻、内陣をまっすぐ行った先の荘厳な礼拝堂、そして……

「あれは一体……?」

 礼拝堂の前に据えられた小型の檻が、がたりと音を立てる。その中にいるのは、獣や魔物ではない。それはまさしく――人間だった。それも、まだ幼い少年だ。
 少年が暴れるたび、鎖が擦れ、鉄格子が軋む。その口からは絶えず低いうめき声と唾液がこぼれ、目には狂気が宿っていた。彼は、狭い檻には不釣り合いな長剣で格子を打っては、喉が張り裂けんばかりに叫びを上げる。
 ユニは自分より幼いであろう少年を見やると、わずかに後ずさった。

「囚人か……いや、それにしては様子も待遇も変だ。あいつがこの場所に閉じ込められていることに、何か理由が……」

 ユニがあごにてをやりかけたとき、エイルは少年の手の甲に刻まれた文様の存在に気が付いた。あれは……見覚えのあるそれの正体を掴もうと二、三歩檻へと近づいたエイルが、さっと顔を青くする。

「ユニ、この少年は――ッ!」
 
 エイルの言葉を、金属の擦れる音が遮った。見れば、檻の留め金が耐えかねたように外れている。その隙間から這い出してくる少年の、手の甲の文様――それが何なのか理解したユニの表情が変わる。
 ――この文様は、まさか……

「忌痕……”大罪の器”か!」

 少年はふらりと立ち上がると、長剣を握り……ユニとエイルを見やった。まるで、虫けらを見るような目つきで。彼の目的は、おそらくたった一つ――殺戮、それだけだ。
 名を与えられた八つの大罪のうち、殺すことそのものを目的としたクラスは一つしかない。
 知られている大罪の中では最強の力を持ち、最悪の虐殺行為を行うと言われるその罪の名は――『憤怒』。
 ――こんなところに、どうして憤怒の器が……!
 エイルは唇をかみ、ナイフを構える。だがその手は、間違いなく自分より強い敵を前に、激しく震えていた。
 少年はエイルに狙いを定めると、コンマ一秒迷うことなく床を蹴って――
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