35 / 86
第1章 ニンフのお店
35:リディアの訴え
しおりを挟むネルヴァの屋敷に到着したのは、昼になる手前の時間だった。
フルウィウスの家も十分に立派だったが、ここは何と言うか、格式が高い。
門を彩る彫刻はよく磨かれて、穏やかな眼差しで私たちを見下ろしている。
庭木もよく手入れされており、きれいな形に刈り込まれていた。
フルウィウスが名前を告げると、門番が中に通してくれた。
玄関から正面のホールを進む。
奥に中庭の光を透かす位置にネルヴァの執務室があった。
他の客と入れ替わるようにして入る。
「おや、フルウィウス。それにリディアとティトスも。きみたちがここまで来るとは珍しいな」
大きな執務机にゆったりと座り、ネルヴァが言った。
「ちょうどクリエンテスたちの陳情が終わったところでね。今は父が不在だから、俺が代理を務めている」
「お疲れ様でございます。今日はリディアが火急の用があると言い張るので、連れてまいりました」
と、フルウィウス。ネルヴァが頷いたので私は一歩前に出た。
「エラトのお店のニンフたちが、貴族の宴に出るよう無理強いされているんです」
「ほう」
ネルヴァは首を傾げただけだ。私は言い募った。
「踊り子として呼び出されれば、春を売れと言われるに決まっています。エラトの店はニンフたちにそんなことはさせません。だからどうか、ネルヴァ様のお力で貴族に断りを入れていただけませんか」
「踊り子を生業とする以上、そういった事態は当たり前なのでは?」
平然と言われた言葉に私は唖然とした。
「当たり前じゃありません! エラトたちはまだ十四歳と十五歳で、成人すらしていないんです。結婚前の若い娘がそんな目に遭うなんて、あんまりです。私はそんなつもりでエラトたちをニンフにしたんじゃありません!」
私の必死の言葉に、彼はそれでも表情を変えなかった。
「結婚前の娘が処女を失うのは、貴族であれば大事になる。結婚は家と家の契約であり、契約の遂行のためには子を成す必要がある。そして生まれる子が夫の血を引く証となるのが、妻の純潔なのだから。だが平民であれば、そこまで気にする必要はないだろう。受け継ぐ家も血も関係ないからな。そもそも踊り子や給仕はそういった仕事でもある。貴族と閨を共にすれば、縁ができる。その縁を生かすのを考えるべきだろう。何の問題が?」
私は絶句する。
……そうか。これがユピテルの『常識』なんだ。
ユピテルは家父長制で女性の立場がかなり弱い。妻や娘は家長の所有物であると公言する人までいる。
女手一つで私を育ててくれたお母さんや、夫婦で協力してお店を営んでいるエラトの両親を見て忘れてしまっていた。
フルウィウスとティトスをちらりと見た。
ティトスはともかく、フルウィウスは明らかに不快感を示している。私が間違ったことを言っていると思っている。
けれどもここで引き下がるわけにはいかない。
「男性のネルヴァ様には分からないかもしれませんが」
歯を食いしばって続けた。
「意に沿わないそういった行為は、女性にとって苦痛なのです」
正直に言うと私は前世でも男性経験がない。
けれどニュースやいろいろな話で、望まない行為を強いられた話はそれなりに聞いた。どれもが気の毒で心が痛くなる話ばかりだった。
「踊り子やウェイトレスを仕事にする人たちが、お金やその他の目的のために自分の意思でやるのであれば、私は口出しするつもりはありません。でも嫌がっている人に無理強いするのは違います。
ネルヴァ様は言いましたよね。できるだけ多くの人が幸せに暮らせるよう、改革を行うと」
まっすぐに彼を見ると、どこか戸惑ったような視線とぶつかった。
「その『多くの人』に女性は含まれないのですか。社会で暮らしているのは女性だって同じなのに。女性だからというだけで切り捨てるのですか」
「…………」
ネルヴァは答えなかった。
しばらくの沈黙を挟んで、彼は逆に質問してきた。
「踊り子や給仕が春を売るのは、ごく当たり前のことだ。あの店ではそういったことをしないと言っても、今のような事態になれば断るのは難しい。それは最初から分かっていたはずなのに、きみはあの商売を始めたのか?」
「それは」
ぎゅっと拳を握る。
「私の考えが甘かった。私はただ、エラトの店を明るくて楽しい店にしたかった。男性だけではなく、女性や子どもでも楽しめる店にしたかっただけなのです」
甘かった。本当にそれ以外にない。
この古代世界は前世と常識が大きく違う。その点を忘れて、対策が甘いままに進んでしまった。
罪悪感が胸を噛んだ。
と。
「では俺は、きみの尻拭いをすることになるな」
「……え」
思わずネルヴァの顔を見ると、苦笑したような困ったような表情をしていた。
「貸し一つだ。この前の石鹸の件もあるし、まあ良しとしよう。その貴族には俺から釘を刺しておく」
「いいのですか。でも急に、どうして?」
「そうだな――」
彼は立ち上がって中庭の方を見た。
「リディアの言葉に不意を突かれたからだよ。確かに俺はこの社会を動かす男性ばかりに目を向けて、女性はおざなりにしていた。体力の問題で兵士は男しかなれないが、子を産み育てるのは女だ。軽視していいものではない。
それに衣服の仕事に関しては、女性が多く関わるだろう。他ならぬ女性であるきみに向かって、切り捨てるとはとても言えないさ。
俺にだって母がいれば妹もいる。そう思えば、答えは出た」
「ありがとうございます……!」
私が頭を深く下げると、彼は振り返って苦笑した。
「いや、いい。何のための改革か、改めて思い出せたよ。たとえ女性でも、平民であっても意思はあるとね。ただ……」
「ただ?」
ぎくりとして続きの言葉を待った。
「きみの店の踊り子たちを、俺の家の宴に呼びたい。もちろん無体はしない。フェリクス家と繋がりがあるのをアピールして、他の貴族や騎士階級を牽制しておく。それが一番手っ取り早いだろうからな」
「――はいっ!」
何も怖いことがなく歌と踊りを披露できるのなら、願ってもいないチャンスだ。
いつものお客と違う階層の人々に見てもらえて、エラトたちの経験にもなるだろう。
「実を言えば、貴族階級に届く程度にはきみの店は評判でね。その店を囲い込み、フェリクス家だけが踊り子を呼べるとなれば、我が家にもメリットがある。先ほどは尻拭いと言ったが、なかなかどうして旨味のある話だよ」
「ええぇ……」
ネルヴァの意地の悪い笑みに、私は呆れてしまった。
この人は本当に転んでもタダでは起きない。一つのことをやる際に同時にいくつもの利益を取っていくところなど、商人顔負けだ。
「それでいてリディアに恩を売って、ますますの働きが期待できる。さあ、この件は俺が責任持って処理をしよう。なので、きみはもっと頑張ってくれ」
「はぁ……」
もう苦笑いするしかない。
フルウィウスとティトスを振り仰げば、彼らもぽかんとしていた。私の言い分はユピテルの常識からすれば間違っていたのに、丸く収まった上にメリットがあるとまで言われて、理解が追いつかないのかもしれない。
「えっと……エラトさんたち、貴族の家に行かないで済むの?」
ティトスが戸惑いながら言えば、ネルヴァが頷いた。
「そうだ。だからティトスとリディアは、今後もあの店をもり立てて行くように」
「はい、もちろんです!」
「いい返事だ」
ネルヴァが微笑む。
それで空気がぐっと和らいで、私も笑うことができた。
本当に、良かった。
46
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
《完結》当て馬悪役令息のツッコミ属性が強すぎて、物語の仕事を全くしないんですが?!
犬丸大福
ファンタジー
ユーディリア・エアトルは母親からの折檻を受け、そのまま意識を失った。
そして夢をみた。
日本で暮らし、平々凡々な日々の中、友人が命を捧げるんじゃないかと思うほどハマっている漫画の推しの顔。
その顔を見て目が覚めた。
なんと自分はこのまま行けば破滅まっしぐらな友人の最推し、当て馬悪役令息であるエミリオ・エアトルの双子の妹ユーディリア・エアトルである事に気がついたのだった。
数ある作品の中から、読んでいただきありがとうございます。
幼少期、最初はツラい状況が続きます。
作者都合のゆるふわご都合設定です。
日曜日以外、1日1話更新目指してます。
エール、お気に入り登録、いいね、コメント、しおり、とても励みになります。
お楽しみ頂けたら幸いです。
***************
2024年6月25日 お気に入り登録100人達成 ありがとうございます!
100人になるまで見捨てずに居て下さった99人の皆様にも感謝を!!
2024年9月9日 お気に入り登録200人達成 感謝感謝でございます!
200人になるまで見捨てずに居て下さった皆様にもこれからも見守っていただける物語を!!
2025年1月6日 お気に入り登録300人達成 感涙に咽び泣いております!
ここまで見捨てずに読んで下さった皆様、頑張って書ききる所存でございます!これからもどうぞよろしくお願いいたします!
2025年3月17日 お気に入り登録400人達成 驚愕し若干焦っております!
こんなにも多くの方に呼んでいただけるとか、本当に感謝感謝でございます。こんなにも長くなった物語でも、ここまで見捨てずに居てくださる皆様、ありがとうございます!!
2025年6月10日 お気に入り登録500人達成 ひょえぇぇ?!
なんですと?!完結してからも登録してくださる方が?!ありがとうございます、ありがとうございます!!
こんなに多くの方にお読み頂けて幸せでございます。
どうしよう、欲が出て来た?
…ショートショートとか書いてみようかな?
2025年7月8日 お気に入り登録600人達成?! うそぉん?!
欲が…欲が…ック!……うん。減った…皆様ごめんなさい、欲は出しちゃいけないらしい…
2025年9月21日 お気に入り登録700人達成?!
どうしよう、どうしよう、何をどう感謝してお返ししたら良いのだろう…
【完結】乙女ゲーム開始前に消える病弱モブ令嬢に転生しました
佐倉穂波
恋愛
転生したルイシャは、自分が若くして死んでしまう乙女ゲームのモブ令嬢で事を知る。
確かに、まともに起き上がることすら困難なこの体は、いつ死んでもおかしくない状態だった。
(そんな……死にたくないっ!)
乙女ゲームの記憶が正しければ、あと数年で死んでしまうルイシャは、「生きる」ために努力することにした。
2023.9.3 投稿分の改稿終了。
2023.9.4 表紙を作ってみました。
2023.9.15 完結。
2023.9.23 後日談を投稿しました。
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
異世界ママ、今日も元気に無双中!
チャチャ
ファンタジー
> 地球で5人の子どもを育てていた明るく元気な主婦・春子。
ある日、建設現場の事故で命を落としたと思ったら――なんと剣と魔法の異世界に転生!?
目が覚めたら村の片隅、魔法も戦闘知識もゼロ……でも家事スキルは超一流!
「洗濯魔法? お掃除召喚? いえいえ、ただの生活の知恵です!」
おせっかい上等! お節介で世界を変える異世界ママ、今日も笑顔で大奮闘!
魔法も剣もぶっ飛ばせ♪ ほんわかテンポの“無双系ほんわかファンタジー”開幕!
相続した畑で拾ったエルフがいつの間にか嫁になっていた件 ~魔法で快適!田舎で農業スローライフ~
ちくでん
ファンタジー
山科啓介28歳。祖父の畑を相続した彼は、脱サラして農業者になるためにとある田舎町にやってきた。
休耕地を畑に戻そうとして草刈りをしていたところで発見したのは、倒れた美少女エルフ。
啓介はそのエルフを家に連れ帰ったのだった。
異世界からこちらの世界に迷い込んだエルフの魔法使いと初心者農業者の主人公は、畑をおこして田舎に馴染んでいく。
これは生活を共にする二人が、やがて好き合うことになり、付き合ったり結婚したり作物を育てたり、日々を生活していくお話です。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる