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第2章 公爵夫人の魔力相談室
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その夜。真夜中の歌劇場は、昼間の華やかさが嘘のように静寂と暗闇に包まれていた。ひんやりとした空気、幾千もの観客の熱狂を吸い込んだ、分厚いベルベットの椅子の匂い。そして舞台の上から漂う、微かな埃っぽさ。
「支配人は、イザドラが数十年前に亡くなったという舞台地下……『奈落』には、絶対に近づくなと言っていたな」
「ええ。つまり、そこが一番怪しいということですね」
私たちは軋む階段を降りて、奈落の下へと足を踏み入れた。そこは様々な舞台装置が眠る、巨大な機械室のようだった。
迷路のような空間を調査していると、それは始まった。
カタン。背後で小道具の木箱が、ひとりでに倒れた。
私たちの頭上で古いシャンデリアが、きらきらと光の欠片を散らしながら、ゆっくりと揺れる。
ポロン、ポロンとピアノの音がする。物悲しいと言うよりは、ただのデタラメだ。小さな子どもが鍵盤をいたずらで叩くような、メロディと言えない音の連続が響いている。
足元を風が吹き抜ける。さわさわと足に何かが触れた、気がした。
「……悪意は感じられんな。むしろ、我々をどこかへ誘導しているかのようだ」
セオドアの言う通りだった。これらの現象は、私たちを怖がらせるというよりは、まるで「こっちだよ」と手招きしているように感じられた。
その無邪気な魔力の流れを、私は「調律」の力で確かに感じ取っていた。
(これは、人間の怨念のような、禍々しいものではないわ。もっと……純粋で、子供のようで……そして、胸が締め付けられるほどに、寂しい……)
魔力の波長は、「ねえ、気づいて。私に気づいて」と、切実に呼びかけているかのようにも感じられる。
その時だった。
私たちの目の前の床が、音もなくせり上がった。舞台へ役者を送り出すための、昇降装置《セリ》だ。明らかに「ここへ乗れ」という意思が表れている。
「面白い。乗ってやろうじゃないか」
「私たちは、探検に来たんじゃありませんよ!」
私のツッコミも虚しく、セオドアは好奇心に満ちた目でさっさとその床に乗ってしまう。
そこから奇妙な劇場の冒険が始まった。
『ファントム』は私たちを試すかのように、次々と劇場の古い魔術的ギミックを作動させていく。
突然、足元の舞台がぐるりと回転を始めたり。目の前の壁が音もなく反転して、隠し通路が現れたり。そのたびにセオドアは「素晴らしい! この時代の魔力伝達効率は、現代のそれとは比較にならんほど、独創的で美しい!」と、学者モード全開で目を輝かせている。回転する床に足を取られて転びそうになっても、おかまいなしだ。
私はといえば、いつ床が抜けるか天井が落ちてくるかと、気が気ではなかった。
やがて私たちは『ファントム』に導かれるように、劇場の最上階、舞台のはるか高所に架けられた、鉄骨の細い通路――キャットウォークへとたどり着いた。下を見れば、巨大な舞台がまるでミニチュアのように見渡せる。
その通路の先。
月明かりが差し込む天窓の下で、それは姿を現した。
ゆらり、空間が陽炎のように揺らめく。その中心に、一つの小さな影が形を結んだ。
それは私たちが想像していたような、恐ろしい亡霊の姿ではなかった。
月光にその輪郭をぼんやりと光らせる、一匹の小さな半透明の――黒猫だった。
「…………猫?」
私の呆気にとられた声が、静かな空間に響く。
猫は首につけられた銀の鈴を、ちりんと鳴らす。大きな金色の瞳でじっとこちらを見つめて、こう鳴いた。
「にゃあ」
まるで「やっと見つけた」とでも言うように。
次の瞬間。猫はするりと身を翻し、目もくらむような高さのキャットウォークの向こう側へと、軽やかに走り去ってしまった。
後に残されたのは呆然とする私と、これからあの細い通路を渡らねばならないという事実に顔を青くしている、天才魔道学者な夫の姿だけだった。
「支配人は、イザドラが数十年前に亡くなったという舞台地下……『奈落』には、絶対に近づくなと言っていたな」
「ええ。つまり、そこが一番怪しいということですね」
私たちは軋む階段を降りて、奈落の下へと足を踏み入れた。そこは様々な舞台装置が眠る、巨大な機械室のようだった。
迷路のような空間を調査していると、それは始まった。
カタン。背後で小道具の木箱が、ひとりでに倒れた。
私たちの頭上で古いシャンデリアが、きらきらと光の欠片を散らしながら、ゆっくりと揺れる。
ポロン、ポロンとピアノの音がする。物悲しいと言うよりは、ただのデタラメだ。小さな子どもが鍵盤をいたずらで叩くような、メロディと言えない音の連続が響いている。
足元を風が吹き抜ける。さわさわと足に何かが触れた、気がした。
「……悪意は感じられんな。むしろ、我々をどこかへ誘導しているかのようだ」
セオドアの言う通りだった。これらの現象は、私たちを怖がらせるというよりは、まるで「こっちだよ」と手招きしているように感じられた。
その無邪気な魔力の流れを、私は「調律」の力で確かに感じ取っていた。
(これは、人間の怨念のような、禍々しいものではないわ。もっと……純粋で、子供のようで……そして、胸が締め付けられるほどに、寂しい……)
魔力の波長は、「ねえ、気づいて。私に気づいて」と、切実に呼びかけているかのようにも感じられる。
その時だった。
私たちの目の前の床が、音もなくせり上がった。舞台へ役者を送り出すための、昇降装置《セリ》だ。明らかに「ここへ乗れ」という意思が表れている。
「面白い。乗ってやろうじゃないか」
「私たちは、探検に来たんじゃありませんよ!」
私のツッコミも虚しく、セオドアは好奇心に満ちた目でさっさとその床に乗ってしまう。
そこから奇妙な劇場の冒険が始まった。
『ファントム』は私たちを試すかのように、次々と劇場の古い魔術的ギミックを作動させていく。
突然、足元の舞台がぐるりと回転を始めたり。目の前の壁が音もなく反転して、隠し通路が現れたり。そのたびにセオドアは「素晴らしい! この時代の魔力伝達効率は、現代のそれとは比較にならんほど、独創的で美しい!」と、学者モード全開で目を輝かせている。回転する床に足を取られて転びそうになっても、おかまいなしだ。
私はといえば、いつ床が抜けるか天井が落ちてくるかと、気が気ではなかった。
やがて私たちは『ファントム』に導かれるように、劇場の最上階、舞台のはるか高所に架けられた、鉄骨の細い通路――キャットウォークへとたどり着いた。下を見れば、巨大な舞台がまるでミニチュアのように見渡せる。
その通路の先。
月明かりが差し込む天窓の下で、それは姿を現した。
ゆらり、空間が陽炎のように揺らめく。その中心に、一つの小さな影が形を結んだ。
それは私たちが想像していたような、恐ろしい亡霊の姿ではなかった。
月光にその輪郭をぼんやりと光らせる、一匹の小さな半透明の――黒猫だった。
「…………猫?」
私の呆気にとられた声が、静かな空間に響く。
猫は首につけられた銀の鈴を、ちりんと鳴らす。大きな金色の瞳でじっとこちらを見つめて、こう鳴いた。
「にゃあ」
まるで「やっと見つけた」とでも言うように。
次の瞬間。猫はするりと身を翻し、目もくらむような高さのキャットウォークの向こう側へと、軽やかに走り去ってしまった。
後に残されたのは呆然とする私と、これからあの細い通路を渡らねばならないという事実に顔を青くしている、天才魔道学者な夫の姿だけだった。
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