26 / 59
第2章 公爵夫人の魔力相談室
26:静寂の森
しおりを挟む
賢者の塔での日常は、様々な事件を呼び込みながらも、基本的に穏やかで満ち足りたものだった。
「中庭の古木が、今日はとても機嫌が良いようです」
書斎の窓から見える景色は、かつては寂しく荒れた庭だった。それが今では緑が芽吹き、目にも優しい風景となっている。
枯れかけた枯木が息を吹き返して、生命の歌を歌っているように思えた。
向かいの椅子で難解な文献を読んでいたセオドアが、顔を上げて微笑んだ。
「それは君の『調律』の力が、より高次の共感性を獲得しつつある証拠だろうな。植物の微弱な魔力波長さえも、感情として読み取れるようになってきたということだ」
「まあ、大げさですね。ただ、なんとなくそう感じるだけですよ」
「その『なんとなく』こそが、君の才能の核心だよ、愛しのアリアーナ」
セオドアが手を伸ばして私の指に触れる。彼の素直な称賛の言葉と愛情あふれる仕草に、頬が赤くなるのを感じる。
出会ったばかりの頃の彼は、まるで人形のように感情を失くした人だった。魔力を暴走させる呪いに蝕まれていたために、自分にも他人にも壁を作り、誰にも心を許さなかった。孤独だったのだ。
それが今ではこれだ。美しい外見はそのままだけど、浮かべる表情はもう別人。
この塔に来たばかりの私が知れば「嘘でしょ!」と叫ぶことうけあいだ。まったくこの天才は、一度心の扉を開けてしまえば、どこまでも真っ直ぐな愛情を注いでくる。本当に敵わない。
そんな柔らかな午後の日差しが私たちの間に落ちていた、その時のこと。
老執事のセバスチャンが、少し困惑したような面持ちで来客を告げた。
「旦那様、奥様。王家の森林管理官を名乗る方が、ぜひお二人にお会いしたいと……」
応接室に通されたのは、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ実直そうな初老の男性だった。丈夫そうな革の服には、土と深い森の匂いが染み付いている。彼は私たちのような貴族を前にしてひどく緊張している様子だったが、その瞳には切実な憂いが宿っていた。
「公爵様、奥様。突然のご訪問、まことに申し訳ございやせん。わたくしは王家直轄の森、『静寂の森』を管理しております、ギデオンと申します」
「静寂の森……」
その名を聞いた瞬間、セオドア様の持つティーカップが、一瞬だけ動きを止めた。ほんの少しの動きだったけれど、私は見逃さなかった。
彼の表情は変わらない。だがその青灰色の瞳の奥にごくわずか、遠い過去を懐かしむような、痛ましいような光がよぎった。
森林官ギデオンの依頼は、これまでのどんな相談とも違っていた。
「森が……森が、少しずつ弱っているようなのです。原因が、まったくわからず……。木々は枯れ、動物たちは姿を消し、泉は濁ってしまいました。ただ枯れているのではありやせん。まるで、森全体が……生きることを諦めてしもうたような、そんな恐ろしい静けさなんでさぁ」
その言葉は、科学的な分析ではない。長年森と共に生きてきた者だけが感じ取れる、魂の感覚と呼べるようなもの。
「……わかった。すぐに調査に向かおう」
セオドアは即座に答えた。その声は静かだったが、いつもの知的な好奇心とは違う色彩が滲んでいる。
(静寂の森。セオドアが大切にしていた場所なのね)
私はそう直感した。
王都から馬車で半日。私たちは森林官のギデオンに案内されて、「静寂の森」の入り口に立っていた。
「昔は、そりゃあ見事な森でしてな。木漏れ日がきらきらと輝いて、鳥たちの声が絶えることのない、生命力に満ちた場所だったんでさぁ」
馬車の中で聞いたギデオンの言葉が、目の前の光景とのあまりの落差に虚しく響いた。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
生命感のない、重く澱んだ空気。腐葉土の豊かな匂いではなく、乾ききった土埃の匂い。そして、耳が痛くなるほどの静寂。鳥の声も虫の音も、風に葉がそよぐ音さえしない。
わずかに聞こえる音といえば、足元でパリパリと虚しく砕ける落ち葉の音だけ。
「……ひどい」
私は思わず呟いた。ただ樹木が枯れているとか、そういうレベルの問題じゃない。森が森を形作るのに必要な、あらゆる命が枯渇している。森全体がまるで巨大な墓所のようだった。
「中庭の古木が、今日はとても機嫌が良いようです」
書斎の窓から見える景色は、かつては寂しく荒れた庭だった。それが今では緑が芽吹き、目にも優しい風景となっている。
枯れかけた枯木が息を吹き返して、生命の歌を歌っているように思えた。
向かいの椅子で難解な文献を読んでいたセオドアが、顔を上げて微笑んだ。
「それは君の『調律』の力が、より高次の共感性を獲得しつつある証拠だろうな。植物の微弱な魔力波長さえも、感情として読み取れるようになってきたということだ」
「まあ、大げさですね。ただ、なんとなくそう感じるだけですよ」
「その『なんとなく』こそが、君の才能の核心だよ、愛しのアリアーナ」
セオドアが手を伸ばして私の指に触れる。彼の素直な称賛の言葉と愛情あふれる仕草に、頬が赤くなるのを感じる。
出会ったばかりの頃の彼は、まるで人形のように感情を失くした人だった。魔力を暴走させる呪いに蝕まれていたために、自分にも他人にも壁を作り、誰にも心を許さなかった。孤独だったのだ。
それが今ではこれだ。美しい外見はそのままだけど、浮かべる表情はもう別人。
この塔に来たばかりの私が知れば「嘘でしょ!」と叫ぶことうけあいだ。まったくこの天才は、一度心の扉を開けてしまえば、どこまでも真っ直ぐな愛情を注いでくる。本当に敵わない。
そんな柔らかな午後の日差しが私たちの間に落ちていた、その時のこと。
老執事のセバスチャンが、少し困惑したような面持ちで来客を告げた。
「旦那様、奥様。王家の森林管理官を名乗る方が、ぜひお二人にお会いしたいと……」
応接室に通されたのは、日に焼けた顔に深い皺を刻んだ実直そうな初老の男性だった。丈夫そうな革の服には、土と深い森の匂いが染み付いている。彼は私たちのような貴族を前にしてひどく緊張している様子だったが、その瞳には切実な憂いが宿っていた。
「公爵様、奥様。突然のご訪問、まことに申し訳ございやせん。わたくしは王家直轄の森、『静寂の森』を管理しております、ギデオンと申します」
「静寂の森……」
その名を聞いた瞬間、セオドア様の持つティーカップが、一瞬だけ動きを止めた。ほんの少しの動きだったけれど、私は見逃さなかった。
彼の表情は変わらない。だがその青灰色の瞳の奥にごくわずか、遠い過去を懐かしむような、痛ましいような光がよぎった。
森林官ギデオンの依頼は、これまでのどんな相談とも違っていた。
「森が……森が、少しずつ弱っているようなのです。原因が、まったくわからず……。木々は枯れ、動物たちは姿を消し、泉は濁ってしまいました。ただ枯れているのではありやせん。まるで、森全体が……生きることを諦めてしもうたような、そんな恐ろしい静けさなんでさぁ」
その言葉は、科学的な分析ではない。長年森と共に生きてきた者だけが感じ取れる、魂の感覚と呼べるようなもの。
「……わかった。すぐに調査に向かおう」
セオドアは即座に答えた。その声は静かだったが、いつもの知的な好奇心とは違う色彩が滲んでいる。
(静寂の森。セオドアが大切にしていた場所なのね)
私はそう直感した。
王都から馬車で半日。私たちは森林官のギデオンに案内されて、「静寂の森」の入り口に立っていた。
「昔は、そりゃあ見事な森でしてな。木漏れ日がきらきらと輝いて、鳥たちの声が絶えることのない、生命力に満ちた場所だったんでさぁ」
馬車の中で聞いたギデオンの言葉が、目の前の光景とのあまりの落差に虚しく響いた。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
生命感のない、重く澱んだ空気。腐葉土の豊かな匂いではなく、乾ききった土埃の匂い。そして、耳が痛くなるほどの静寂。鳥の声も虫の音も、風に葉がそよぐ音さえしない。
わずかに聞こえる音といえば、足元でパリパリと虚しく砕ける落ち葉の音だけ。
「……ひどい」
私は思わず呟いた。ただ樹木が枯れているとか、そういうレベルの問題じゃない。森が森を形作るのに必要な、あらゆる命が枯渇している。森全体がまるで巨大な墓所のようだった。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】悪の尋問令嬢、″捨てられ王子″の妻になる。
Y(ワイ)
ファンタジー
尋問を生業にする侯爵家に婿入りしたのは、恋愛戦略に敗れた腹黒王子。
白い結婚から始まる、腹黒VS腹黒の執着恋愛コメディ(シリアス有り)です。
ベテラン精霊王、虐げられ皇子の子育てに励みます
はんね
ファンタジー
大陸で最も広大な領土と栄華を誇るアストラニア帝国。
その歴史は、初代皇帝ニコラスと精霊王バーティミアスが“疫病王ヴォラク”を討ち倒したことから始まった。ニコラスとバーティミアスは深い友情を結び、その魂を受け継ぐ皇子たちを永遠に見守り、守護する盟約を交わした。
バーティミアスは幾代もの皇帝を支え、帝国は長き繁栄を享受してきた。しかし、150年の眠りから目覚めた彼の前に現れた“次の皇帝候補”は、生まれたばかりの赤ん坊。しかもよりにもよって、十三番目の“虐げられ皇子”だった!
皮肉屋で老獪なベテラン精霊王と、世話焼きで過保護な月の精霊による、皇帝育成(?)奮闘記が、いま始まる——!
人物紹介
◼︎バーティミアス
疫病王ヴォラクを倒し初代皇帝ニコラスと建国初期からアストラニア帝国に使える精霊。牡鹿の角をもつ。初代皇帝ニコラスの魂を受け継ぐ皇子を守護する契約をしている。
◼︎ユミル
月の精霊。苦労人。バーティミアスとの勝負に負け、1000年間従属する契約を結びこき使われている。普段は使用人の姿に化けている。
◼︎アルテミス
アストラニア帝国の第13皇子。北方の辺境男爵家の娘と皇帝の息子。離宮に幽閉されている。
◼︎ウィリアム・グレイ
第3皇子直属の白鷲騎士団で問題をおこし左遷されてきた騎士。堅物で真面目な性格。代々騎士を輩出するグレイ家の次男。
◼︎アリス
平民出身の侍女。控えめで心優しいが、アルテミスのためなら大胆な行動に出る一面も持つ。
婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―
鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。
泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。
まだ八歳。
それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。
並ぶのは、かわいい雑貨。
そして、かわいい魔法の雑貨。
お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、
冷めないティーカップ、
時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。
静かに広がる評判の裏で、
かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。
ざまぁは控えめ、日常はやさしく。
かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。
---
この文面は
✔ アルファポリス向け文字数
✔ 女子読者に刺さるワード配置
✔ ネタバレしすぎない
✔ ほのぼの感キープ
を全部満たしています。
次は
👉 タグ案
👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字)
どちらにしますか?
【長編版】孤独な少女が異世界転生した結果
下菊みこと
恋愛
身体は大人、頭脳は子供になっちゃった元悪役令嬢のお話の長編版です。
一話は短編そのまんまです。二話目から新しいお話が始まります。
純粋無垢な主人公テレーズが、年上の旦那様ボーモンと無自覚にイチャイチャしたり様々な問題を解決して活躍したりするお話です。
小説家になろう様でも投稿しています。
結婚相手は、初恋相手~一途な恋の手ほどき~
馬村 はくあ
ライト文芸
「久しぶりだね、ちとせちゃん」
入社した会社の社長に
息子と結婚するように言われて
「ま、なぶくん……」
指示された家で出迎えてくれたのは
ずっとずっと好きだった初恋相手だった。
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
ちょっぴり照れ屋な新人保険師
鈴野 ちとせ -Chitose Suzuno-
×
俺様なイケメン副社長
遊佐 学 -Manabu Yusa-
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
「これからよろくね、ちとせ」
ずっと人生を諦めてたちとせにとって
これは好きな人と幸せになれる
大大大チャンス到来!
「結婚したい人ができたら、いつでも離婚してあげるから」
この先には幸せな未来しかないと思っていたのに。
「感謝してるよ、ちとせのおかげで俺の将来も安泰だ」
自分の立場しか考えてなくて
いつだってそこに愛はないんだと
覚悟して臨んだ結婚生活
「お前の頭にあいつがいるのが、ムカつく」
「あいつと仲良くするのはやめろ」
「違わねぇんだよ。俺のことだけ見てろよ」
好きじゃないって言うくせに
いつだって、強引で、惑わせてくる。
「かわいい、ちとせ」
溺れる日はすぐそこかもしれない
◌⑅◌┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈◌⑅◌
俺様なイケメン副社長と
そんな彼がずっとすきなウブな女の子
愛が本物になる日は……
香死妃(かしひ)は香りに埋もれて謎を解く
液体猫(299)
キャラ文芸
第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞受賞しました(^_^)/
香を操り、死者の想いを知る一族がいる。そう囁かれたのは、ずっと昔の話だった。今ではその一族の生き残りすら見ず、誰もが彼ら、彼女たちの存在を忘れてしまっていた。
ある日のこと、一人の侍女が急死した。原因は不明で、解決されないまま月日が流れていき……
その事件を解決するために一人の青年が動き出す。その過程で出会った少女──香 麗然《コウ レイラン》──は、忘れ去られた一族の者だったと知った。
香 麗然《コウ レイラン》が後宮に現れた瞬間、事態は動いていく。
彼女は香りに秘められた事件を解決。ついでに、ぶっきらぼうな青年兵、幼い妃など。数多の人々を無自覚に誑かしていった。
テンパると田舎娘丸出しになる香 麗然《コウ レイラン》と謎だらけの青年兵がダッグを組み、数々の事件に挑んでいく。
後宮の闇、そして人々の想いを描く、後宮恋愛ミステリーです。
シリアス成分が少し多めとなっています。
冷徹宰相様の嫁探し
菱沼あゆ
ファンタジー
あまり裕福でない公爵家の次女、マレーヌは、ある日突然、第一王子エヴァンの正妃となるよう、申し渡される。
その知らせを持って来たのは、若き宰相アルベルトだったが。
マレーヌは思う。
いやいやいやっ。
私が好きなのは、王子様じゃなくてあなたの方なんですけど~っ!?
実家が無害そう、という理由で王子の妃に選ばれたマレーヌと、冷徹宰相の恋物語。
(「小説家になろう」でも公開しています)
炎華繚乱 ~偽妃は後宮に咲く~
悠井すみれ
キャラ文芸
昊耀国は、天より賜った《力》を持つ者たちが統べる国。後宮である天遊林では名家から選りすぐった姫たちが競い合い、皇子に選ばれるのを待っている。
強い《遠見》の力を持つ朱華は、とある家の姫の身代わりとして天遊林に入る。そしてめでたく第四皇子・炎俊の妃に選ばれるが、皇子は彼女が偽物だと見抜いていた。しかし炎俊は咎めることなく、自身の秘密を打ち明けてきた。「皇子」を名乗って帝位を狙う「彼」は、実は「女」なのだと。
お互いに秘密を握り合う仮初の「夫婦」は、次第に信頼を深めながら陰謀渦巻く後宮を生き抜いていく。
表紙は同人誌表紙メーカーで作成しました。
第6回キャラ文芸大賞応募作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる