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第1話 転生

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   畠中アキは、自分の生気のない顔を化粧台の鏡で見ながらため息をついた。


   4月で29歳になり、無職、うつ病、彼氏なし、ブラック企業への復帰の見通しはなかった。

 
   会社からは、遠回しに辞表を催促されている。生活資金は映画鑑賞くらいの趣味しかないアキなので、貯金はあり半年は何とか職探しのために、働かなくてすむが、うつ病が治るどころか、悪化していた。



  ある日、仕事に行くために朝目が覚めたが、体が動かず、だるく、見えない無気力のシールドにでも囲まれているようで、朝の支度は前日にしてあるが、歯磨きも化粧も、今まで当たり前の事がまともに出来なかった。


   何かの病気かと思ったアキは、
慌てて会社に有給の連絡をして近くの内科に行った。どこも悪くなく、紹介されたのが心療内科だった。


   午後に紹介状を持ち、敷居の高い心療内科に仕事のために行ったら診断されたのが「うつ病」だった。


   まさに対岸の火事だと思っていた事が、アキに起きアキはすでに燃え尽きていた。


   担当医からは当分の投薬治療と休職を言われた。まさかブラック企業に勤めていて、今日1日有給休暇をとるだけでも嫌味を言われたとも言えず、夕日の中、途方にくれながら帰った。


   担当医からもらった診断書と休職願いを出すと、あっさり受理されたが会社を辞める事まで進められ、それが3日に1回の電話連絡となり、食欲もなく10キロ体重が落ちたある日、アキは退職した。


   半年では、やはりどうにもならず、ひどいだるさと今までブラック企業だろうが、バリバリ働いていた自分とは、かけは離れた自分に絶望すらした。


  退職してから、半年後、うつ病は人によって治る時間も違うと担当医に言われたが、妹家族が住む実家にも帰りにくく、アキは、人生を自ら終える事を誰にも言わずに、決めた。


   4月の最期の通院日、何とか午前中に起きて化粧をして、毎日、2、3時間しか眠れないぼんやりした頭で、ふらつきながら立ち上がった時にだった。


  前のめりに倒れてしまい、顔面からガラスに当たり、ガラスが砕け、視界がぼやけ、そのままアキはその場に倒れた。


   ドクドクと頭の中がやたら早く脈を打ち、感覚が麻痺していく、仰向けに倒れたのか、やっと見えた伸びた右腕の指の先まで頭から流れたのか、血が流れていた。


   ああ、私は死ぬのか。


 アキの意識がある最期のアキの言葉だった。


   視界が遠のき、意識がちぎれ、真っ白になった。


  我ながら、寂しい人生だった。
友人達は、仕事や家族に恵まれ、不満はあるもののそれなりに充実した毎日を送っている。


   私はなんだ
 ブラック企業でバリバリ仕事をした末に、うつ病を発症して無職、最後の彼氏とは3年前に別れ、その彼氏は1年前に出来ちゃった結婚で、子供まで産まれた。


   私の人生は、一体なんだったのだろうか?

   私の子供の頃の夢って何だっけ?

   アキの瞳から、温かい最期の涙がこぼれて、アキの人生は終わった。



   「お母さん!お母さん!起きてよ!朝ごはんは?」

    遠くから、小さな女の子の声がする。天使か?天使のわりには、言う事が現実すぎる天国だな。


   ドンッとアキの上に突然重い物が乗ってきて、アキは思わず目を覚ました。

 
   目の前には、血まみれのガラスでも床でもなく、柔らかい掛け布団が見え、その上から4才くらいの女の子が、アキをじっとのぞきこんでいた。

  「えっ?」

  思わずアキが声を出した。重くだるい体がやたら軽い。思考もクリアだ。


   アキに乗ったまま、女の子が不満そうに右を向いた。

   「お父さん!お母さん、起きないよお」
    お母さん?アキは、パニックになりながら身動きがとれない状態で、顔だけ動かし右を見た。


   そこはアキが借りているアパートの台所ではなく、日当たりのよい大きなリビングだった。


    アキに背中を向けたまま、朝日の中で男性がパソコンを打っている。


   「お母さん、疲れてるんだ、もう少し眠らせてあげなさい」
  言葉は厳しいが、口調は優しい。不満そうに女の子は、アキから男性の元へ行く。


   女の子がいなくなった事で、見えなくなっていたものが見え、アキは驚愕した。


   頭を打ち、ガラスが粉々になったはずの鏡台が朝日に照らされて、傷一つなくキラキラ光っていた。


   私は、一度死んで転生したらしい。


それも、まったく違う人生に。


  アキが、唯一考えられた事は、それだけだった。


   


   
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