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しおりを挟む絵美さんはまだ非日常の中にいた。
が、それはささやかな非日常。
絵美さんは時折家の外で強い視線を感じるようになったのだ。
周囲に誰もいないような時に限ってその感覚を肌が捉える。
行き帰りの通学路。寂れた公園のベンチで物思いに耽っている時。お参りに行った墓地。
父のように気のせいと決めつけてしまえばそれまでの、漠然とした感覚。
しかし、それは絵美さんにとっては非常に意味のあるものだった。
見守られているのではないか?
家の中ではもう無理だけど・・・・・・。
そう思うのはその視線から何か暖かいものが伝わってくるから。
視線にはそれを放つ者の何らかの感情が乗る。
恋心であったり、憎悪であったり、親近感であったり、性欲であったり・・・。
絵美さんが感じる視線は包み込むような慈しみ。
それが誰のものか、当然のこと絵美さんが想像する相手は一人しかいない。
願望から来る思い込みかも知れない。
そんな風に理性的に分析する気持ちも心のどこかにある。
判断の付かない現象に絵美さんの心は波立つ。
いつどこでと決まってはいないが、視線は絵美さんの生活の一部になっていった。
日が経つにつれ、絵美さんは視線に篭るものに変化が生じてきているように感じ始めた。
豊かな感情が乗っていたのに、徐々に空虚に、スカスカになっていくようなそんな感触。
やがてそれは無感情にただ見詰めているだけのようなものになっていった。
何故かと考えた。
そして、母の成仏が近付いたのかと思い当たった。
その為に此の世での存在感が希薄になってきているのではないか。
だとしたら、寂しい。
でもそれが自然の流れであり、むしろ早くそうなるべき事だったのだろう。
視線を感じる事は少なくなってきた。
ある夕暮れ、買い物帰りの絵美さんは2車線道路の路側帯を歩いていた。
歩道と車道を分かつものは路面に引かれた白実線だけだ。
道沿いには田んぼが広がり段差がある。
歩いているのは絵美さん一人。通る車もまばら。
ひと気のない、土色の冬の田んぼを夕日が照らす。
その景色に物寂しさを覚えた。
不意に刺すような視線を感じた。
久し振りのそれは、受ける印象が今までとは何か違う。
何が違うんだろう。
道の向こうから一台の車が走って来た。
割りとスピードが出ている。
ふと母の匂いに気付く。
えっ、近い?
突然、絵美さんは車道へ向けて思い切り背中を押された。
絵美さんは宙に跳んだ。
膝から血が流れている。
スカートだったので、アスファルトの上で激しく足を擦りむいたのだ。
でも痛みはそれ程感じなかった。
精神的なショックが身体の痛みを上回っていたからだ。
散乱する買ってきた食材。
路上に倒れ伏したまま、絵美さんは直ぐ横を掠めていった車のリアバンパーを呆然と見詰めていた。
車は田んぼに突っ込んでいた。
その車は直前まで絵美さんが立っていた場所を突っ切って田んぼにダイブした。
つまり、突き飛ばされなければ絵美さんは撥ねられていた。
もちろん絵美さんの背中を押した人影など辺りにはない。
ガクガクと膝を震わせながら絵美さんは立ち上がった。
大きな怪我はないようだ。
運転していた人は?
絵美さんは落ちていた携帯を拾い上げ、警察に電話した。
助けられた。
助けられた・・・。
助けられたんだ。
私は母に命を救われた。
絵美さんはそう思った。
そう思いたかった。
しかし、心の片隅にもやもやしたものが蟠った。
記憶を反復する。
車は激しくクラクションを鳴らしながら急ハンドルを切り、車道の真ん中に投げ出された絵美さんの側を走り抜けていった。
頬に風を感じた。
紙一重のギリギリで接触を免れたのだ。
絵美さんが歩いていた路側帯を車が突き抜けたのは、前方にいきなり飛んできた絵美さんを避けようと急激に進路を変えたからだ。
絵美さんは混乱した。
本当に私は助けられたの?
本当にそう?
本当にそうなの?
何度も自問する。
原因と結果。
絵美さんが突き飛ばされなければ、車は普通に横を通り過ぎていっただけではないのか。
違う。
違う。
そんな訳がない。
溢れてくる涙が感謝の涙なのか、悲しみの涙なのか、絵美さん自身にももう分からなくなっていた。
幸い車の運転手にも特に怪我はなかった。
状況を絵美さんはうまく説明出来ず、事故の原因は躓いて転んだ彼女を車が避けた事によるものとされた。
そして、この事故を境に絵美さんは視線を感じる事がなくなった。
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