カンテノ

よんそん

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第4章 ナターシャ

4-6 日々

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 先生の家での暮らしは風のようにさらさらと過ぎて行った。先生から貰っていた薬の効き目は抜群で、朝起きる度に傷口が小さくなっており、身体の痛みはみるみる薄れていった。
  骨折やひびは完治こそまだだが、痛みが引いただけでもとても嬉しかった。少し歩く程度なら杖が無くても歩けるようになった時もすごく嬉しくて、先生に何度も感謝した。

  3日目にはだいぶ動けるようになり、先生の家事を手伝い出した。午前中は洗濯物をし、畑仕事も手伝う。自分の手で畑を手入れしたり、作物を取るというのはとても根気がいるが、やりがいのある作業だった。
  ご飯の支度等も少しずつ教わりながら手伝い始める。元々料理は基礎知識程度にしか知らなかったが、姉が一人暮らしをしている時に、よくご飯を作ってあげたりもしたので、すぐに飲み込めた。
  電気やガスを使わず火だけで本当に料理ができてしまうんだと驚きながら手伝い、それを実感しながら毎日食事をした。
 
  そして、先生の家に住んでから6日目。遂に、僕は先生とトドと一緒に山に行く事になった。午前中に日課の家事を済ませ、身支度を整え、山菜をいれるためのバックパックを背負う。

「いくら薬の効き目がいいと言っても、ここまで早くは治らないよ普通はね。やっぱり、若さだねー。杖は念の為にも持って行きなさい。痛みが引いたと言ってもまだまだ完治には遠い筈だからね」

「はい! 気をつけます」

  僕はつい興奮しながら返事をしてしまった。ここに来る時にも使った登山用のステッキを持つ。
  隣に立っているモンジも嬉しそうにハァハァと息をしている。今日はモンジも一緒に行く。ずっと留守番する僕の相手をしていてくれたから、モンジも久しぶりに山に行けて嬉しいのだろう。

「今日はあっちの方にするか? 最近行ってなかったし」

「うんうん、そうしようかね」

  ドドと先生は行く先を決め、僕は2人のあとをついて行く。下り道になった斜面を歩いて行き、道中で先生が食べられるキノコとそうでない物を教えてくれる。
  モンジは匂いでそういう物を嗅ぎ分ける事ができるらしく、困った時はモンジに聞けばいいとの事。
  と、そのモンジが走り出して一声鳴いた。

「なんじゃろ? 何か見つけたのかな?」

  と、先生も小走りにモンジへと追い付く。ドドと僕も後を追う。走る事はできないが、早歩きぐらいならできる。

「おー! 松茸じゃないかえ! でかしたぞーモンジ」

  地面を少し掘った先生が嬉しそうにモンジの頭を撫でている。松茸は食べた事がないので僕も楽しみだ。

「モンジは松茸の匂いもわかるんですね。すごいなー」

  僕は感心していた。先生はその松茸を引き抜き、バックパックに入れた。

「あぁ、モンジはひょっとしたら俺よりも偉いかもな!」

  ドドはそう言って笑っている。モンジもどこか嬉しそうだった。なんだか少し宝探しみたいで楽しい。
  それからも道中いろんな山菜やキノコを見つける。引き抜く前には、食べられる物かどうか、先生やドド、時にはモンジにも聞いてみたりした。モンジはOKの時は尻尾を振り、NGの時は俯いて首を振って教えてくれた。

「どうだろうかねー? 魚おるかなー?」

  目の前に川が見えた所で、先生は声を上げた。さほど大きくはないが、水がとても透き通って綺麗な川だ。

「いるよきっと。俺が捕まえてくっから」

  ドドはワイルドだ。川の岩場に乗り、上からじっくり川の中を見ている。すると、獲物を見つけたのか、低い姿勢でぴたっと止まった。次の瞬間、彼は頭から勢いよく川へと突っ込んで行った。

「ははは! 鮭だぜー!」

  ずぶ濡れになって川から上半身を出し、両手で鮭をしっかり掴んでこちらに見せてきた。

「おぉー。すごいすごい。今夜はご馳走だねー」

  そう言って先生は笑いながら近づいて行く。僕も後に続こうとしたその時、背後に気配を感じた。熊だ。大きい熊が僕のすぐ後ろにいた。峡峰で見た熊よりもさらに大きい。
  その熊は興奮しているようで、2本足で立ち上がり、低く吠えた後、振り返ろうとしていた僕に襲いかかろうとしていた。あまりに突然の事で頭が回らなかった。

  しかし、その時視界の隅で影が動いた。次の瞬間、爆発が起きたような衝撃音が鳴り響く。先生だった。先生が跳躍しながら熊の胴体を拳で殴った音だった。そして、その一撃であの大きな熊の身体は崩れ落ちた。

「やっぱりこの時期は熊が凶暴になってるんだよねー。危なかったね」

  先生は何事もなかったように呑気にそう言っている。

「な、やべぇだろ?」

  呆気に取られていた僕の傍らに、いつの間にか鮭を小脇に抱えたドドが立っていた。僕は、言葉が出ずに無言で頷くしかなかった。とても医者をやっていた人の動きに見えない。

  と、その時、モンジが吠えていた。見ると、そのモンジに向かって鹿が突進していた。立て続けの事態だが、今度こそはと僕は迷わず行動する。左手に持っていた登山用ステッキを投げる。それをグラインドで動かし、鹿を叩く。
  驚いた鹿はつまずいたのか、その場で体勢を崩した。その間に、ドドが素早く近寄り、鮭を抱えながらも鹿の腹を蹴り上げた。鹿は直ぐに動かなくなった。
  モンジは怖かったのか、僕に抱きついてきた。

「よかった。無事だったね」

  僕はモンジの頭を撫でる。ステッキはグラインドの力で僕の手元へと戻ってくる。

「たまげたなー! 今のは超能力かい? とても投げただけには見えなかったぞい?」

  そう言って先生が近寄ってきた。

「あ、はい。超能力みたいなものですね。この力でずっと戦ってきました。僕の方こそ、先生の技には驚きましたよ。ドドが弟子入りしたのも納得できます」

  そう言って3人で笑い合っていた。熊は気絶していたが、大きい上に調理も難しいらしいため、その場に残し、鹿の方を持ち帰る事にした。

  まだまだ山菜を取ったり、狩りをしないのかと聞いたが、1日でたくさん取る事は他の生き物のためにも良くないという信条を先生は持っていた。そのため、今日はここで帰宅する事になった。

「想くんがいてくれたからね。いつもよりたくさん収穫があったし、早く終わる事が出来た。下処理してからじっくり料理しようかね」

  家に着くと先生はそう言ってくれた。下処理のやり方も少しずつ教わっていたので、先生と一緒に鹿の肉を捌き、その肉を水で洗う。塩を揉みこみ、更に酒をかけてまた揉む。そのサイクルをもう一度やってから水でよく洗う。

  ドドはその間、松茸を調理していたようだ。山に登る前に買った調味料も使っている。その後に鹿肉と鮭も焼いていた。

「さ、出来たよ。今晩も頂こうか」

  下処理からじっくり時間をかけたので、2時間くらい掛かっただろうか。囲炉裏に鍋と、米が入った釜が運ばれる。さらに、ドドが作ってくれた松茸のソテー、鹿肉を一口サイズに切ったステーキも並べられた。

「それでは、いただきます」

  僕はそう言って手を合わし、山の恵みに感謝する。先生が装ってくれた鍋の中にも松茸、鹿肉、キノコと山菜が入っており、しかも今日は白味噌で味付けしてあるので、またいつもと違った美味しさだった。
  ドドが焼いてくれた鹿肉はほんのりお酒の味も効いていて、本格的な高級料理店の味に等しかった。鮭の方はオリーブオイルで味付けされており、新鮮な鮭は身が引き締まっている。正に和洋折衷の夕飯であった。

「なんだかすごいご馳走だね。鹿肉って、確か『もみじ』って言うんでしたっけ?」

  僕は色んな味の食を楽しみながらそう言った。

「うん、そうだよー。猪が牡丹だね。鹿は花札の絵柄から由来されてるけど、猪肉はその見た目が牡丹の花のようだからと言われているねー」

  なるほど。初めて食べた鹿肉は、とても柔らかく少し癖があって美味しい。米にもよく合う。

「ここに来てから初めて食べるものばかりです。本当に美味しいし、自分の世界が拡がるみたいです」

  そう言うと、先生は顔に皺を寄せて笑っていた。先生は本当にいつでも僕の言葉を真っ直ぐ受け止めてくれる。
  指名手配されてからというもの、汚い人間ばかりを見てきてしまった。そして、大切な人を失った。そんな時に、雪枝垂先生に会って、落ち続けていた僕の心がぴたりと止まった気がする。僕は先生に救われた。

  食後はいつも通り、先生、ドド、僕の順番で入浴する。今日は試しにあの五右衛門風呂につま先を入れようとしてみたが、あまりの熱湯に僕はその場で飛び上がりかけた。
  湯浴みを済ませると、先生は僕の骨折した腕と脚を優しくマッサージしてくれ、軽く動かすリハビリをしてくれた。
  まだまだ痛むが1日でも早く治すためにも必要な事であり、それを思って協力してくれている先生にはここでも感謝の気持ちでいっぱいだ。


  そして、就寝時にクアルトへと僕は来た。姉はいつものタンクトップ、ショートパンツの部屋着モード。現実世界では少しずつ涼しくなっているが、ここでは1年中過ごしやすい室温に保たれているようだ。
  シクスは相変わらずジレとワイシャツ、スラックスのバーテンダースタイル。彼はこれ以外の服装になる事がないから、たまにはもっと違う物を着てほしいものだ。

「想、なかなか身体の回復が早いですね。あと1週間もすれば完全復活できるんじゃないでしょうか?」

  シクスがチャイティーを渡しながら言った。僕はこのチャイティーもすっかり好きになってしまった。

「そんなに早く治っちゃうかなぁ? でも、先生のおかげだと思う。薬の効き目もいいし」

  あの薬は本当に市販の物とは比べものにならない。山の恵みから産まれた漢方だ。

「先生強かったよねー! 医者であり、格闘術も極めてるなんてずるいよ。ドドくんがあそこまで強くなったのも頷ける」

  姉は今宵もワインを飲んでいる。

「姉さんだって、成績優秀でスポーツ万能だったじゃないか。ずるいよー」

「あーそうだったわ。あたしも万能人間だったわ。先生みたいに山で暮らそうかな?」

  この世の者でもないのに拘わらず、真剣に考えているようだったので、僕は思わず呆れた。

「1回、遊びに行っちゃおうかなぁ? ドドくんに挨拶するついでに。先生とも話してみたいし、何より手合わせしてみたい」

  姉は静かに言ったが、目が闘争心に満ち溢れている。

「何言ってるんですか煉美? いつ何が起こるかわからないんですから、私達は非常時に備えて待機しておくべきです」

  シクスは冷静な意見を言った。

「ええー。シクスだって行きたくない? あのワンちゃんと遊びたくないの?」

  モンジの事を言ってるのだろう。と、その時シクスの身体がびくっと震えた。

「いえ、私は、その、いいです。モンジさんも私のような不気味な輩が現れたら、怖がってしまうでしょう」

  何やら様子がおかしい。

「まさか、シクス、犬が苦手なの?」

  僕がそう聞くと、シクスは再びびくっと身体を震わせた。ここまでわかりやすい彼は初めてだ。

「だーっはっはっはっ! マジで言ってんの? ずっと一緒にいたけど全然知らなかったわ! すまんな! えー? あの時、峽峰でカッコつけながらあんな大きい狼倒したあんたが犬苦手だって?」

  姉はそう言ってまた笑い出した。ひどい。謝っておきながら、全く謝ってる口振りじゃない。いつもは無表情なあのシクスが、歯を食いしばりながらぶるぶる震えている。

「いけませんか!? 誰にだって苦手な物はあるでしょう! 煉美、あなただって料理が苦手なはずです!」

  言い返された姉さんは、そこで気まずそうな顔になりながら誤魔化すように笑っている。そうさ、誰にだって苦手な物はある。僕だって熱湯が苦手だ。そんなもんなんだよ。
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