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3章 太古の森で

置いてきたもの、継いでいくもの

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 そうしてセトがひとり呑んでいると、ローが小樽と杯を持参でやって来た。

「よぅ、郷の若い連中とも上手く馴染めたみてぇだな」

 セトの横にどかりと腰を下ろすと、空けたばかりの彼の杯を再び酒で満たす。
 山羊の乳を醸したクラライシュ郷のバター酒は、コクのある甘みに乳酒独特の酸味がほどよく、つい杯が進んでしまう。セトもローの杯にそれを注ぐと、ふたりは杯を合わせ、初めて会った日のように一息で干した。
 どちらからともなく踊る人々に視線を投げ、何を言うでもなくぽつぽつと酒を酌み交わす。
 宴もたけなわ、最初は子供達が中心だった輪は、いつしか赤ら顔の大人達も混ざりだし、輪は二重三重と重なっていく。掻き鳴らされる弦の音が人々を輪へと誘い、手拍子の軽妙なリズムが胸と足とを弾ませる。

「……本当に豊かな郷だな、ここは」

 感慨深く呟かれた言葉に、ローは相槌の代わりに酌で応じた。

「俺にしてみれば、それぞれ職のありそうな男達が楽器を嗜んでいるのも驚きだ」
「原野の男は音楽が好きじゃねぇの?」
「いや、」

 趣味に割く余暇なんてないからな。そう答えると、ローが気遣わしげな目をしたので、セトはその口が開かれる前に言葉を継ぐ。

「でも趣味が全くないわけじゃない。実益を兼ねた趣味というか……得物の手入れや鍛錬が趣味と言えばいいのか、」
「それ趣味じゃなくて仕事の内だろ。どんだけ狩りや戦が好きなんだよ」
「趣味にでもして励まざるを得ないのさ、犬死にしたくなければな」

 不穏な単語にローは小さく息を飲んだが、セトにとっては故郷の茶飯事を述べたにすぎない。その反応を新鮮な気持ちで受け止め、立てた膝に頬杖をつく。

「水に不自由しないと、こんなにも豊かに暮らせるものなんだな。物だけじゃなく、時間も、人の心も……戦がないことも大きいのか。女性が郷を治める理由が、何となく分かった気がする」

 灰色の瞳には羨望めいた微熱と、達観とも諦念ともつかぬ静謐とが乱れて煙り、彼の言以上にその複雑な胸中を表していた。

 ――せめて、あの大嵐さえなかったら。

 嵐以前の豊かな原野のままであったなら、弓島の人々もシャルカをあそこまで虐げなかったのではないか。
 そんな詮無い思いがセトの胸を酸くさせる。
 この郷の人々がシャルカを易く受け入れてくれる理由は、白い獣を尊ぶ風習のためだけではあるまい。この豊かさこそが要因なのだろうと、彼には思えてならないのだ。

 哀しいかな、人の子は貧すれば鈍し、また貪す。
 日々生きることで手一杯の暮らしでは、いかに糧を得、いかに今日を明日へ繋げるかに必死で、己を顧みることも他をおもんみることも疎かになる。
 そればかりか、そんな汲々きゅうきゅうとした時間に長いこと喘いでいると、心は磨耗しささくれ立つ。磨り減った心を守るため、そこへ溜め込んだ鬱屈した感情の捌け口を求めてしまう。
 それがシャルカだったのだ。
 色のことばかりではない。婚姻に関して厳格な原野において、父親が分からぬということもまた異常と言えたし、実母に生家はなく、血縁の後ろ盾はないに等しい。そんなシャルカは鬱憤の捌け口としてうってつけの存在だった。
 そんな中でシャルカを受け入れてくれていた人達――族長トウマ、神官長セラフナ、そしてアダン――長達は勿論、副隊長を務めていたアダンも皆、島の内では裕福な部類に属していたことに、セトはこの時初めて気付いた。無論彼の家も例外ではない。
 生活の豊かさと心の豊かさは必ずしも比例しないが、貧しさが心のゆとりを奪うということは確かにある。
 だからこそ、詮無いと分かっていても思わずにはいられないのだ。
 あの嵐さえなければ。
 そこから続く連戦の日々さえなければ、こういった和やかな光景が故郷でも見られたのではないかと。

「……あの郷も、あるいは……」

 漏らした呟きにローは首を傾げたが、セトは軽く頭を振り、鳶色の双眸を見据えた。

「ノンナから雲糸郷の話は何か聞いたか?」

 ローは憮然とした顔で力なく首を横に振る。

「いンや、母さんやダーナ達が尋ねてみても何も言わねンだと。言いたくねぇ気持ちも分かるから、無理強いはできねぇし……でも郷の皆も、何があったか分からねぇままじゃ不安だろうしよ」

 求めるような視線に応じ、セトは首肯した。

「俺からで良ければ話す」
「そうしてくれるか、」
「ただ……」

 そこで言葉を切り、セトは無邪気に飛び回る子供達に目を向けた。セトの言わんとすることを敏感に察したローは、素早く母に目配せする。すると郷母である彼女は立ち上がって手を叩き、

「さぁさ、そろそろ子供は寝る時間ですよ。夜更かししている悪い子は、森から山羊足子ドリーツァが下りて来て、攫われてしまいますからね」

子らにお開きを言い渡す。すぐに不満気な顔をした子供達だったが、山羊足子なる名前を聞くと、蜘蛛の子を散らすように母親の許へ戻って行った。
 ローはシャルカが戻ってくる前にセトへ尋ねる。

「シャルカはどうする? 時間も時間だし、良けりゃ嫁に子らと一緒に家へ連れて行かせるけど、」

 セトは一瞬目を伏せたが、すぐにきっぱりとかぶりを振った。

「いや、実はシャルカにもまだ詳しく話せていないんだ。このままでいい」
「そうか」

 頷いたきり、ローはそれ以上追求せず、セトの杯に幾度目かの酒を注いだ。


 やがて子らを連れた母親達が退出し終えると、残った大人達は再び席に着き、広い室内にはほのかに張り詰めた静けさが訪れた。
 セトの隣に戻ってきたシャルカははしゃぎ疲れているようだったが、場の空気を察し、緊張した面持ちで兄の横顔を仰ぐ。
 落ち着いたのを見計らい、郷母はセトに話を促した。
 セトは傍らでじっと見上げてくるあどけない顔へ小さく頷きかけると、あとはもう振り向かず、座の大人達に向け語り始めた。ローと別れた後、己が雲糸郷で見聞きした全てを。

 牢でノンナが受けた仕打ちをほのめかす事柄は割愛したが、その他のことは順を追いつまびらか話していく。
 薬を盛られ、目を覚ました牢の中でノンナと出会ったこと。
 ノンナに聞かされた雲糸郷の異常な信仰と祭りの実態。贄として引き出された広場で、直に目にしたおぞましい儀式――争いを好かぬ古森の民の彼らは、それだけでももうよほどの衝撃を受けているようだった。中には口許を手で覆い、顔を伏せる者もいる。
 それでもセトは、終いまで話してしまわねばならなかった。
 雲糸郷が神の御遣いとして崇めていたものの正体、それを己が手で討伐したこと。それにより招くことになった雲糸郷終焉の様を。
 何故そのようになったのかという部分に関しては、あくまでセトの憶測の域を出ないが、そう外れてはいないだろう。
 そこまでは雲糸郷に対し憤っていた男達も、あまりに惨たらしい末路に、痛ましい顔つきで唇を噛む。襲われている子供を助けられなかったくだりでは、女達から啜り泣きさえ漏れた。
 それらの反応のひとつひとつが、セトの肩に重く伸し掛かる。島にいた時の彼ならば、随分お人好しな人々だと切り捨てたかもしれない。けれど彼らとふれあいその気質を理解した今では、その重みを受け止めるより他なかった。
 そして語り終えた今、傍らの弟が今どんな目で己を見ているのかと思うと、とてもそちらを見ることができずにいた。

「……どうします、

 沈黙を破ったのはローだった。
 母に郷長としての意見を求めるその顔には、今尚激しい怒りが見てとれる。大事な妹を攫われたのだ、郷人達とは違い同情する素振りは欠片もない。
 対して、郷母のおもては水面のように凪いでいた。先走る息子を制し、まずはセトへ向け深々と一礼する。

「おふたりのご事情はローから聞いています。故郷を離れられたばかりだというのに、勝手の分からぬ土地でどんなに大変だったことでしょう。ご自身と弟さんを守るだけでも手一杯でしたでしょうに……ノンナを助けてくださって、本当にありがとうございました」

 セトが目礼を返すと、彼女は隣に座す夫を見、かすかに頷き合ってから皆に告げる。

「クラライシュ郷として、雲糸郷に対し直接すべき事はないかと」
「何でだよ、そりゃあんまりじゃねぇか!」

 即座にいきり立ち、膝でにじり寄る息子を、郷母はふっくりとした目蓋の隙間から凛とした眼差しで射る。

「セトさんのお話と、道中聞き及んだ話を併せるに、かの郷はもう郷としての機能を失っているようです。この先存続できるように思えますか?」
「そ、そりゃあ……でも、生き残った連中は少ないながらもいるんだぜ? そン中にゃ、ノンナを攫ったヤツらだっているかも知れねぇじゃねぇか!」

 激昂するローを、今まで黙っていた父が窘める。

「お前、それはひとりの郷人としての意見かい? 兄としての個人的な意見かい? 少なくとも母さんは今、郷母として話しているんだよ」

 口を挟みつつも、あくまで妻を立てる姿勢を崩さない夫の姿に、セトは少なからず感心した。母としての感情を伏せ、郷の長として振舞う郷母の芯の強さにも。この郷は本当に女性主体の郷なのだと改めて実感する。
 ローはぐっと言葉を詰まらせたが、居住まいを正し、再び口を開く。

「ですがそれではあまりにも緩すぎやしませんか。無罪放免てことでしょうが」
「これではどうでしょう」

 郷母は居並ぶ郷人達へ向け提案する。
 雲糸郷の業深き行いを、他の郷へ広く周知することが、生き残った者達に対する罰になりはしないかと。

「雲糸郷が存続できないとなれば、生き残った人々は離散し、周囲の郷へ移住するより他ありません。けれどこの事実が広まれば、受け入れる郷はまずないでしょう。郷の暮らしに慣れた者に、草のしとねは辛いものです。当然謗りもされましょう。それが罰にはなりませんか」

 郷人達はざわざわとさざめき、隣の者と意見を交し合う。それに、と郷母は続けた。

「事情を知らず、行方知れずになった家族や友人を、今も探している方は大勢いるでしょうから……」

 大切な者をあてどなく探し求める日々は辛い。この話を聞き、賊の風体や消息を絶った場所から、心当たる者もいるかもしれない。生存の望みが絶たれるのは辛かろうが、知らぬままでは供養すらしてやれぬのだ。
 郷人達は同意を示すよう深く頷いた。反論は上がらない。雲糸郷としての方針はこれにて決したようだ。ローはまだ口をへの字に結んでいたが、それ以上は何も言わなかった。

 結論が出ると、郷人達はちらほらと腰を上げ始めた。動かず、固い表情で酒を呑み交わしている者もいる。
 そんな中、セトはいまだ傍らの弟を振り返ることができぬまま、その様子を密かに探っていた。
 シャルカは話しかけてくるでもなく、何かもくもくと手を動かしている。
 周囲の喧騒から切り離されたかのように、兄弟を沈黙が包む。
 セトは、己が水源の商人を手にかけたのを見、慄いていたシャルカを思い出す。
 知らなかったとはいえ、郷ひとつ壊滅させたとんでもない兄だと思われたろうか。その上、子供のひとりも助けてやれず、不甲斐ない兄だと思われたろうか。それとも、心根の優しいシャルカのことだ、女達のようにかの郷の者達を憐れみ哀しんでいるのかもしれない。
 唇から押し出すように息を吐き、杯に手を伸ばそうとした時だ。

「あに様、」

 シャルカが呼ばわった。
 普段と何ら変わらぬ声音。ぎこちなく振り向いたセトの口に、皮から剥き出した拳大の果実が押し込まれた。

っ……!」

 口いっぱいに溢れる酸味に堪らずセトが顔を歪めると、シャルカは「あれぇ?」と小首を傾げる。

「この果物、そんなに酸っぱかったですか? ぼくがいただいた実はとっても甘かったんですけど」

 口に押し込まれてしまった以上は飲み込む他なく、セトは思いきり顔をしかめながらも何とか咀嚼する。これのどこが旨いのかセトにはさっぱり分からない。それ以上に、目の前の弟が今何を考えているのかまるで分からなかった。

(話を聞いていなかったんじゃないだろうしな)

 探るように見ていると、美しく着飾ったシャルカは白い指に伝う果汁を舐めとり、

「あに様、本当にお疲れ様でした」

にこりと笑った。
 それだけだった。
 それ以上一言も発することなく、ただ微笑んでいる。
 その様子に、セトはハッとした。こうした態度には覚えがあった
 弓島の女達だ。
 弓島の女達が、戦のあとの慰労会で見せる態度だった。
 弓島の女は、夫や息子がどれほど素晴らしい武勲を挙げようと、周囲がその武勇を讃えようと、ただ微笑んで一言労うだけだった。島にいた時には、何て素気ないのだとセトは感じたものだった。
 けれど彼女達は、例え斬った相手が初陣の若者だろうと、命乞いをした相手であろうと、同じように労うのみで、この郷の女達のように同情することも目を潤ませることもなかったのだ。
 戦に心逸っていた時には気付けなかったが、こうして後味の悪い戦いのあとにあって、その対応の有り難さ、そうして見せた弓島の女達の強かさに初めて心づく。
 あったのだ。
 この郷の女達とは異なる、確かな強さが。疲弊した故郷にも、誇れるものがあったのだ。
 言いようもなく胸に迫り上がる感情が何なのか――喜びのようでもあるが、悔恨に似た苦味を持つそれの名は、セトには思い当たらなかったが――彼女達の強さを確かに継いでいるシャルカを引き寄せ、額をこつんと合わせた。

「……ありがとう、」

 ようやくそれだけ口にすると、シャルカは驚いたように目を見開いた。そして少し頬を上気させ、また元のようににこりと微笑んだのだった。


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