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3章 太古の森で

兄と"弟"

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「……分からん、何故あそこで怒るんだ……」
「あに様、それはあんまりです」
「う……俺が悪いのか、」

 セトは呻くように喋る己の声で目を覚ました。

(……?)

 訳が分からない。
 何故自らの話し声に起こされるのか。

(我ながら酷い寝言だ)

 それにしては相槌を打つシャルカの声もする。
 目を開けられぬまま考えようとするものの、寝起きの頭は泥でも詰めたかのように重く、もったりとして働かない。
 一瞬、牢で目覚めた時のことを思い出し身を強張らせたが、うつ伏せた頬には柔らかなものが当たっていた。温かい。ほんのりと甘い匂いがする。ぬくもりも香りも心地よく、気を緩めたセトは再び眠りに落ちかけた。
 と、

「それじゃあビルマ様があんまりにもお可哀想ですよ」
「……待て、何の話をしてるんだっ」

溜め息混じりの言葉に動転し、セトはがばっと顔を上げた。

「…………」
「…………」

 ぱちくりと瞬きの音が聞こえそうなほどの至近距離で、紫の瞳と目が合った。

「あれ、お目覚めですかあに様」
「待て。俺が今覚めたならお前は誰と喋っていた?」
「あに様ですね」
「待て待て、待ってくれ」

 動揺しきりの兄に対し、弟は平然としたものだった。
 そも何故こんなに顔が近いのか。
 セトは恐る恐る我が身を見下ろした。
 膝。
 見下ろした目の前にあったのは膝である。
 亜麻リネンの寝着から可愛らしい薄紅色の膝小僧がのぞいている。セト自身のものであるはずもない。どうやらシャルカの膝に頭を預けていたらしい。
 それだけでも兄としては冷や汗ものなのに、細い腰にしっかりと回していた己が腕を見、

「――――ッッ!?」

セトは声にならない叫び声をあげ寝台の端まで飛び退った。

「な、な、な……っ!?」

 慌てふためく兄を見、シャルカは少しばかり眉根を寄せクスクス笑う。

「ほらあに様、そんな格好じゃ風邪ひいちゃいます。せめてお布団かぶってください」

 言われてセトは再度自身を見下ろす。上半身には何も着付けていない。けれどこれは島にいた時からの悪癖なので今更どうでも良かった。
 干上がった喉をごくりと唾で湿らせ、こわごわと尋ねてみる。

「……喋ってたのか?」
「はい」
「俺と?」
「はい」
「俺は今目が覚めたんだぞ」
「覚めたと言うより醒めたんでしょうね」
「は……?」

 すみません今ひとつよく分かりません、もう少し詳細に説明して貰えませんでしょうか。そんな疑問と脂汗とを浮かべるセトに、シャルカはうんと伸びをしてから答えた。

「さっき、あに様がうなされてたので起こそうとしたんですよ」
「うなされてた?」
「夕べお酒を過ごされたようなので、そのせいかなと思ったんですけど、」
「けど?」
「うわ言でビルマ様のお名前を呼ばれていまして、」
「はぁっ!?」

 その時点でセトは耳を塞ぎたくなったが、シャルカの話はまだ続く。

「ここにこうして座って、『ビルマ様がどうしました~? 胸につかえてるものがあるなら吐き出しちゃったらいいですよ~』って、話を促してみたらですね、」
「促した? お前それ絶対ワザと、」
「あ、いえ、背中をさすってたらですね」
「おい」
「甘えたっ子みたくぼくの膝に頭を乗せてきて、夜警の夜の出来事を話し、」
「――――ッッ!?」

 己が醜態聞くに堪えず、とうとうセトは顔を覆った。


 クラライシュ郷で迎える五度目の朝である。
 兄弟には滞在中の宿りとして、ドット家の斜向かいにある空き家をあてがわれていた。
 まだ子供が小さい若夫婦向けだというこの家は、周囲の家に比べこじんまりとしているものの、二階建てで陽当たりも良く風呂までついていて、ふたりで過ごすには充分過ぎるほどだ。
 日中ふたりはほぼ家に篭り過ごしていた。傷が完治するまではと、ローに厳命されてしまったためだ。
 けれど夜になればローや若者達が酒や料理持参でやってきて、原野の話や御遣いを討伐した時のことを聞きたがった。お陰で連夜酒盛りである。
 訪ねてくるのは露払いを生業としている者が多く、狩りの術や得物の違いについてなど、空が白むまで熱心に語り明かした。

 有意義な談義もさることながら、彼らには夜毎通ってくる理由がもうひとつある。
 シャルカだ。
 彼らにとって、幸運を呼ぶ白い獣と同列であるシャルカに会うことは、とても縁起が良いことらしい。
 それにシャルカは、議論を交し合う兄達の間を、酒の小樽を手にちょこちょことよく動いた。原野とは違い、古森には女性や子供が酌をしに回る習慣がないため、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるシャルカが可愛くて仕方がないようだった。

 その見た目と健気さで、今やすっかり人気者であるシャルカの膝を占領していた兄は、今。

 寝台の上、嵩張る身体をなるたけ縮めてこうべ垂れ、お説教を受けている真っ最中だった。
 連日の深酒の末、寝惚けて正体失ったことを責められるのならまだ良かった。
 けれど弟が怒っているのは、求婚してきたビルマに対する対応の悪さときたものだから、兄はもう瀕死さながらだ。

「まったく……ビルマ様が怒るのも無理ないですよ。あに様はあに様で気を遣われたのかもしれませんけどね、」

 おまけにシャルカには聞かせるつもりのなかったことだ。洗いざらい知られた――というより膝枕強請って甘えた上、促されたとはいえ自らぶちまけた訳なのだが――挙句、女性の扱いがなっていないと、一回りも歳下の弟に説教される始末である。
 情けないやら口惜しいやら、セトは少し顔をあげ、恨みがましく弟を睨む。

「何が違うって言うんだ。それに、人が寝惚けてるのが分かっていて話を振るなんざ卑怯だぞ」
「膝枕、」
「くっ!」

 鋭利な一刀よりも胸抉る単語が、セトの言をばっさりと切り捨てる。最強の切り札を手にした弟は最早無敵。瞳にどこか楽しげな光を湛えつつ、けれど表情はあくまで真面目に、歯噛みする兄を見つめる。

「バングルの件は、前にもお話したので今は置いておくとして。真剣に想いを打ち明けてくださったビルマ様に本心を明かさなかったのは、ちょっと誠意が足りない対応だったんじゃないかなって、ぼくは思いますよ」

 とはいえ。とはいえである。
 セトにも兄として、年上としての面子が欠片ばかりは残っている。開き直って胡坐を組み、弟に物申す。

「随分知ったようなこと言うじゃないか、色恋沙汰の『い』の字も知らない子供のくせに」
「あれ、」

 紫の双眸がつと細まり、灰色の瞳を射抜く。

「まるであに様は知ってるかのような口ぶりですね。ビルマ様やルッカさんじゃないにせよ、どなたかを想われたことがあるんですか?」
「馬鹿にするな。それくらい……」

 威勢良く応じかけ、セトは宙を仰いだ。次いで右斜め下を見、左下を見、また天井を見てから、困りきった顔でシャルカに視線を戻す。
 お察しである。
 シャルカは小さく吐息を零し、ぽつり呟く。

「『い』の字はぼくにも分かりませんけども……あに様、どうもぼくの忘れてるような気がするんですよね……」
「何だって?」
「いいえ、何でも」

 シャルカは額にかかる髪を払い、セトの問いた気な視線を断ち切った。

「それでも、その時のビルマ様のお気持ちを想像することくらいはできます。ビルマ様はあに様の本音が聞きたかったんですよ。遠回しな気遣いじゃなく、真心が欲しかったんです」

 その言葉で、セトの脳裏にビルマの声が蘇る。

『わたしは……わたしはお前のまことの心にすら触れられないのか!』

 族長のひとり娘として常に気高くあったビルマの、痛々しいまでに傷ついた顔。こちらを責めるようでいて、己にこそ失望しているような眼差し。
 セトはそれを振り払い、目の前の弟に意識を戻す。

「言えるわけないだろう、本当にただの友人だとしか思ってないなんて。仮に好いてたとして言えるか? どの道求婚に応じる気がないのに。あの問いに沈黙以外の何で答えろと、」

 ふて腐れて膝に頬杖を突くセトの横顔は、静かに語りかけるシャルカとそう歳が変わらないように見える。むしろふたりの立場はすっかり逆転していた。

「それでも、」

 それでも、とシャルカは繰り返す。

「良いんですよ。それがあに様の素直な気持ちなら」
「火に油注ぐようなもんじゃないか」

 金糸の髪が左右に揺れた。朝日を反射して、白い頬にちらちらと光が踊る。光彩の粒子を纏わせた双眸は、かすかな翳りを帯びていた。

「もしも好きだと言ってもらえたなら、想いが通じていた喜びだけを胸に、前を向くことができます。そうではなかったと知れたなら、想いに区切りがつけられます。
 分からないままでは、前も後ろも向けません。もし自分が族長の娘じゃなかったら、もしぼくシャルカがいなければ……そんなどうしようもない想いに囚われて、動けなくなってしまいます」
「……だから、お前のことは関係ないって」

 そっぽを向いたままのセトに、

「そのお立場のために、あに様を諦めなければならなかったビルマ様です。……そんなビルマ様が唯一得られるものがあるとしたら、あに様の真心以外ないじゃないじゃありませんか」

哀しげな色の声音が告げると、セトは目だけを動かし弟を見た。シャルカはうっすらと苦笑する。

「ビルマ様には、もう伝えられないかもしれませんが……あに様は若いし、強いし、格好良いです……朴念仁ですけど。だから、もしまたあに様を想う方が現れたら……その時は、きちんとお返事してくださいね」
「…………」
「ぼくのことは本当に気にしなくて大丈夫ですから。じゃないといつまでもお嫁さんもらえませんよ? いざとなったらぼくはローさんの義弟にしてもらいますから! はいっ、大丈夫!」

 いつかノンナにして見せたように、拳をぎゅっと握って声を張るシャルカ。
 セトはその様子をじっと横目で見ていたが、やがて大きく息を吐くと、ごろりと仰向けに寝そべった。その頭を再びシャルカの膝に預けて。

「えっ、ちょっ、あの……!」

 さっきは膝枕の一言に過剰反応していた兄がどういう風の吹き回しかと、弟は慌てふためいた。けれどすっかり開き直った兄は、金色の髪に手を伸べて、一筋指に巻きつけて言う。

「そんなもん要るか。女はよく分からない」
「そんな身も蓋もない、」
「付き合って気疲れするくらいなら、恥を捨ててお前の膝を借りている方がずっと良い」
「あに様……っ痛」

 シャルカは耳まで真っ赤になったかと思うと、すぐさま胸を押さえ小さく唸った。セトはすぐに起き上がり、伏せた顔を覗き込む。

「どうした、」
「いえ、何でも」
「隠すな、ちゃんと言え」

 咄嗟にごまかそうとしたシャルカだったが、兄の叱るような眼差しに気圧され、おずおずと口を開く。

「その、大したことはないんですけど……少し前から、たまに胸が痛む時があるんです」
「胸が?」

 セトの脳裏に、胸に不治の病を得た族長トウマの姿が過ぎる。青ざめた兄の顔からそうと察したシャルカは、慌てて首を振った。

「違います、そういうんじゃなくて……臓腑とかではなくて、こう、表面的な痛みというか……多分、ちょっとぶつけたりしたんだと思います」

 それでも何かをごまかすように笑うシャルカに、セトの眉が吊りあがっていく。

「こんなに痛むほどぶつけて覚えてないはずないだろう。何故早く言わなかった、見せてみろ」

 シャルカは目を丸くして寝着の前を掻き合わせる。

「嫌ですっ、恥ずかしいじゃないですか!」
「今更だろう、風呂には一緒に入るのに」
「い、今更って……! 繊細さデリカシーが足りないんですよあに様はっ」

 嫌がる弟と暴こうとする兄とで取っ組み合いになる。けれどシャルカに敵おうはずもない。布団の上に転がされながらも、言葉でささやかな抵抗を重ねる。

「そういう意味で見られるのは恥ずかしいって言ってるんです!」
「良いから見せろって」
「痕もまだ残ってるし、絶対嫌ですっ!」

 言ってしまってからハッとなって口を噤むも、時既に遅し。

「……痕だと?」

 切れ上がった灰色の眼に剣呑な光が宿る。

「何の痕だ? まさか、」
「ぶ、ぶつけた痕です」
「心当たりないんじゃなかったのか」
「うっ……と、ともかく嫌なものは嫌ですっ。見たらあに様嫌いになりますからっ!」
「構うか、お前の身体の方が大事だ」

 武骨な指が寝着の止め具にかかった時だ。
 二段飛ばしに元気良く階段を上がる足音がしたかと思うと、ノックもなしに勢い良く戸が開かれた。

「ぃよーっす、起きてっか? 朝飯、今朝はうちで食、わ、な……」

 飛び込んできたローは、戸に手をかけたまま硬直した。
 彼の目に映ったのは、半裸の男に組み敷かれた華奢な美少年の図である。そしてその美少年は涙ながらに叫ぶ。

「ローさんっ、助けてください! あに様が無理矢理……!」
「おまっ、誤解を招くような言い方す、」

 ぎょっとなった兄が全て言い終わる前に、その脇腹にロー渾身の飛び蹴りが炸裂した。

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