紅玉楽師は後宮の音を聞く 〜生き残りたい私の脱走計画〜

高里まつり

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第2章 望まない繋がり

第18話 次の頼み事

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 曄琳イェリンは以前も来た殿中省の一室に押し込められた。脱走者として、そのまま暁明に刑部ひょうぶに引き渡されてしまうかと冷や冷やしていただけに、ひとまず安堵する。

 こちらに背を向ける暁明があけすけに鍵を下ろす。曄琳の脱走防止だろう。窓は嵌殺はめごろし、外に出るにはこの扉しかない。

 曄琳はちらりと彼の広い背中を見つめる。 
 連れてくる間も、今も、この男は終始無言だった。平素から口数の多い男ではないが、彼がここまで黙り込む姿を見たことがなかった。
 ひりついた雰囲気に耐えきれず、曄琳の方が先に口を開く。

「あの、先程はありがとうございました」

 曄琳の呼びかけに振り返った暁明は、絵巻物の天女のような美しい笑みを浮かべていた。
 有り体にいえば、作り笑いである。

「礼には及びません。私が手を貸さずとも、あなたはひとりで逃げられそうでしたし、余計なお世話だったかもしれませんね」

(うわぁ、どうしよう。これは、怒っている)

 曄琳も愛想笑いを浮かべた。
 ソン少監は怒ったらすごく怖いです――と姚人ヤオレンの言葉が頭をよぎった。

 暁明が手近な榻に腰を掛けた。曄琳はその脇で居心地悪く立つ。暁明も席をすすめてこないので、そのまま立ち続けるしかない。

香包においぶくろが仕事をしたようで安心しました」

 暁明はおもむろに口を開く。胸元から薫る桂花の匂いで香包の存在を思い出した。あの騒動の中でもこれは落とさずに済んだらしい。

「……どういうことでしょう」
「あなたが今日、宮中から脱走するのではないかと踏んで、あの香包と紙を渡したんですよ。人攫いは完全に計算外でしたがね」

 曄琳は暁明からの手紙の内容を思い出す。
 ――うま正刻せいこく、青延門にて待つ。
 しかし、暁明は九つの鐘ちょうどに曄琳がいた青芭門の方へ姿を現した。
 つまり、暁明は端から青延門へは行く気がなかったということだ。

(ああ、完全に行動を読まれていたってわけね)

 曄琳が青延門か青芭門のどちらかから出ると踏んだ暁明は、手紙に青延門と指定した。そうすれば曄琳は青芭門を選ばざるをえなくなり、暁明は青芭門に行けば自ずと曄琳の脱走を阻めるというわけだ。
 巧妙に行動を誘導されていた。
 曄琳は嘆息する。 
 全て読まれていたというのはなんだか癪である。少しでも綻びがないかと足掻いてみる。

「な、なぜ私が今日脱走するとわかったんですか」
「こういった内と外が開かれる催しでは、毎回一定数の出奔者が出るんですよ。宦官、宮女、官奴婢……もちろん、官人や女官にもいます。天長節が直近での一番大きな催しですので、可能性があるならそこかと」

 暁明はうっそりと笑みを浮かべる。
 
「報酬を銭で要求するなど、迂闊なことはしない方がいい。どこに使い道があるのかと、疑われるもとですよ」

 続きがあるのならば、私が目をつけたように、と後に続くのだろう。

 宮中では物品の方が銭より価値がある。金を持てど女には使い途がないのだから、当然である。
 曄琳としては嵩張る物よりも銭の方が持ち出しやすいと踏んだのだが、それが裏目に出た。こんな厄介な男を引っ掛けるつもりはなかったのに。
 曄琳は最後にもう一つと食い下がる。
 
「私が東の門から出入りすると予想した理由は」
「簡単なことです。今日の宴は外朝。そこから外に出るのなら、門の配置からして南門は皇城を突っ切る必要があるので遠すぎます。北門は宮城側にあるので論外」

 暁明の長い指がトントンと卓を移動していく。
 
「ならば西か東ですが……西は掖庭宮や教坊の近くになりますから、馴染みのある場所へは戻らないだろうと踏みました。ですので、必然と東門になる。東門に下女の通用口があるのは、青延門か青芭門の二つです」

 涼しげな顔で一分の間違いもなく曄琳の心理をついてきた。
 完敗だ。
 曄琳は取り繕う気も失せ、嘆息した。

「そこまで手間を掛けて私の脱走を阻む理由がわからないのですが?」
「おや、わかりませんか? あなたに価値があると思ったからですよ」
「あなたの耳に価値、の間違いですよね」

 価値なぞ、人に向けるには無礼な表現だとは思わないのか。
 曄琳はじとりと男を見下ろす。曄琳が小柄なのか、暁明が長身なのか。立ったままの曄琳と着座している暁明、視線の位置はさほど変わらない。

「今度は何をさせられるのでしょう」
「話が早くて助かります。……頬の傷は大丈夫ですか?」

 穏やかに微笑む暁明からは、先程までの険は見られない。もしこれで曄琳がごねれば、刑部へ突き出すぞと脅しがかけられるのだと思う。または――。

櫻花インファ妃のことを持ち出されるか)

 紅い目を見られた。
 彼がこの目から楚蘭を連想するかわからない。少なくとも、片目だけ紅という女はそうそういない。
 
 どこまで知って、どこまで追及してくるのか。
 
 不用意につついて藪蛇になっては本末転倒。今は彼の出方を見るしかない。
 曄琳の喉元を掴んでいるのは暁明に他ならない。生かすも殺すも彼の差配ひとつで決まる。

(私はまだまだ死にたくない)

 人生まだまだ長い。狭い宮中に押し込められた挙げ句、母の思いとは違う罰で処刑されるなんてまっぴら御免だ。
 暁明の切れ長の目が曄琳を捉える。

「あなたには、また後宮で働いてもらいます。今度は四夫人のもとで」
「四夫………………は?」

 聞き捨てならない単語があった。

 これでしばらく宮中から出られないことは確定した。



 ◇◇◇



 片目が紅い。
 滅多にはいないだろうがこの広い世界のこと、西方では蒼い瞳や黄金の瞳の人間もいると聞く。紅い瞳がひとりいたところで何らおかしくはない――この程度の話で終わればよかったのだが。
 
 暁明の思考は海原に浮かぶ小舟のように、浮上と降下を繰り返す。

 片目だけ、というのが引っかかる。
 そして彼女の立場と中身が合わぬさが、その奇異な容貌を際立たせる。

 左目が紅、年は十代後半、女――逃亡した妃の娘は、確か片目が紅い奇異な見た目であったとか。当時は忌み子と囁かれたと聞く。
 暁明は頭によぎった考えを振り払う。

 天長節も無事終わり、一夜の宴が幕を閉じて空が白み始めた時分、暁明は未だ官服のまま自室で椅子に身体を預けていた。その細い指が卓を思案するように滑る。
  
 疑念はひとつ浮かべば、またひとつと増える。
 桜の木の下から掘り起こした木筒は、未だ開けられないまま棚の奥にしまい込んでいた。掘り起こしに立ち会った彼女は知らないだろう。
 それがということに。
 
 これが偶然なのか。
 曄琳がいたことで見つかったアン妃の遺書には、しっかりと櫻花インファ妃の名が書かれていた。遺書の最後の一行には『櫻花妃とその娘・皇女様へ手紙を遺してある。桜の木の下を探してほしい』と書かれていた。
 暁明はあの場で静かに驚嘆していた。櫻花妃と安妃にそれほどの繋がりがあったとは知らなかったのだ。

 暁明が科挙を通り朝廷に仕官したのは、十七のとき。既に櫻花妃の一件から十二年が経ち、当時を知る女官の大半が退官していた。
 逃亡当初は後宮が上へ下への大騒ぎであったらしいが、さすがに十年以上経てば噂話程度に落ち着いてしまう。好色者の穿った噂も加わり、何が真実かわからぬまま年月が彼女のことを風化させていくばかりであった。

 そんな中での今回の安妃の遺書である。 
 安妃は女官から貴妃にまで登り詰め、見事たったひとりの皇子を産んだ女傑であった。かの女性の年齢からして、もしかすれば女官時代に櫻花妃と関わりがあったのやもしれない。

 暁明は小さく息を吐き出す。
 道理で遺書を隠したわけだ。大罪人として扱われている櫻花妃への手紙など、主上の御母たる安貴妃が堂々と残せるはずがないのだから。
 
 そして大罪人であるはずの櫻花妃と並ぶ――皇女という文字。
 
 暁明を今強烈に悩ましているのはそれであった。

 櫻花妃は不貞を犯し、どこぞの男との間に成した子を産んで逃亡した妃であったはずだ。宮中ではまことしやかにそう囁かれている。 
 それを今になって亡き安妃が皇女と綴っている。
 
 もしや、櫻花妃が連れて逃亡した赤子は本来は公主となる娘であったのではないか。

 暁明は頭をぐしゃりとかき回す。
 そうであるならば、その娘は片目が紅い、歳はまさに――曄琳くらいの娘であるはず。

 なくはない話である。
 そう考えると、彼女がやたらと宮廷の外へ逃げようとする理由もわかる。
 しかし――まだ証拠が足りない。彼女の耳の利用価値を鑑みても、泳がせておく方が都合がいい。
 
 暁明は目の前の卓に置かれた楽器の残骸に目を落とす。遺書として機能したことで琵琶としての役目を終えた楽器の部品達だ。
 件の琵琶の遺書は、未だ暁明の手元にあった。

「姚人」

 扉の外へ呼び掛けると、跳ねるような元気な声が返ってきた。

「はい! なんでしょうか!」
「朝一番で主上の下へ行く。支度を」
「了解ですっ!」

 幼子のように駆けていく姚人に、暁明は苦笑する。不寝番で一晩中外に控えていたにも関わらず、あの元気はどこから来るのか。

 主上もあれぐらい屈託なく駆け回っていればいいのに、と思わずにいられない。

 御年五歳の皇帝陛下は、人見知りという点を除けばとても大人びている。どこまで真実を伝えればと悩んでいたが、この遺書も包み隠さず見せるべきだろう。
 内容は大半が我が子の今後を憂う内容であったのだから。
 櫻花妃のことはこちらから説明するしかない。

 知って幼い皇帝がどう動くか、暁明には想像がつかなかった。
 
 暁明は琵琶を布で包むと、重い腰を上げた。
 頭の片隅には、片目の宮妓が居座っていた。

 
  
 




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