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第3章 華の競い合い
第26話 胡氏
しおりを挟む雪宜に皇帝陛下視察を提案した翌々日。今日も今日とてお手上げだと曄琳達三人がすごすごと碧鈴のもとから撤退していると、突然高い鈴の音が後宮中に響いた。
「おっ、何?」
茗が音の出所を探そうと首を伸ばすが、曄琳にはすぐ場所が分かった。通明門の方だ。
慌ただしい足音、女官らの声。聞き耳を立てて内容を拾うと、理由はすぐにわかった。
「あらお渡りねぇ。主上がいらっしゃったようだわ」
音を聞かずとも燦雲は状況を理解しているようで、のほほんと言い切る。横で曄琳も同意して頷いた。
「通明門を通って主上が橋を渡られたみたいです。どうやら蔡掖庭令にお願いしたことが通ったらしいですね」
すると、静かだった後宮が一気に騒がしくなる。
あちらこちらから支度だ着替えだと声が上がり、髪を撫でつけた姫君達が一斉に房室の外から顔を覗かせる。十前後の年の姫が多いせいか、皆興奮して口数も多くなり、きゃあきゃあと忙しない声が飛び交う。
その中を、年嵩の女官らが手を叩いて声を張る。
「さあさ皆様! 主上は手習いのご様子を見に来られただけですよ! 騒ぎ立てぬようと仰っておいでです! 房室にお戻りを!」
まるで子を預かる私塾の老師だ。
曄琳は少女達の勢いに押されて走廊の端に追いやられた。
「いらっしゃったわ」
誰かの囁き声に振り返ると、遠い院子に明星と雪宜、そして数名の護衛を従えた淳良の姿が見えた。
いつもながら愛らしい顔の淳良が、神妙な顔をして明星の袖を引く。
――いまは何人の妃嬪がいるのだ?
――二十九名です。うち、新たに迎えたのは二十名かと。
――余は見てまわるだけでよいのか?
――気になる方には直接声を掛けていただいてもよろしいですよ。
囁き声で会話する二人を盗み聞く限り、こんなところだろうか。
人見知り発動中の皇帝陛下は、やや不安そうな表情を浮かべている。
(私達も碧鈴様のところに戻らなきゃ)
房室に慌てて駆け込むと、気色ばんだ碧鈴が荒い手つきで二胡を取り出すところだった。ここにきて初めて彼女が楽器に触る姿を見た。
「お渡りがあるなら、もっとちゃんとした格好をしたかったわ。もう……!」
弦に髪が絡まり、苛々した様子で二胡を振っている。
「碧鈴様、そのように手荒に扱っては楽器が泣きますわ」
燦雲が手伝おうと手を伸ばすも、振り払われてしまう。
「触らないで!!」
「あらあらぁ」
壁際の侍女達がやんわりと笑顔を作っている。
彼女は敵を作る天才かもしれないと、曄琳は半ば感心してしまう。
外の走廊の床が軋む音がする。距離的に碧鈴のいる房室まであと数十歩といったところか。
(ここは二胡を弾いて気を引くってのが定石なんだろうけど、碧鈴様はいかに)
あちこちの房室で弦の音がしている。調弦が甘く、弦の押さえも拙いので、響きは弱い。が、十分に聴ける演奏も混じっている。各々が必死に演奏している姿が目に浮かび、自然と頬が緩む。
そんな中、碧鈴の真横の房室から突き抜けるような軽やかな二胡の音色が響いた。
(おお、恋歌だ。大胆な選曲)
碧鈴の房室は一番端の壁際ということもあり隣接するのは左隣の房室となるが、そこから耳に心地よい音が流れてくる。
(隣はずっと静かで人の気配もなかったから、無人だと思ってたんだけど)
曄琳が驚いていると、碧鈴も同じく驚いた顔をしていた。「横は誰なの?」と壁際の女官に声を上げる。
「胡氏朱様でいらっしゃいます。昨日入内されたばかりの方ですよ」
遅れての入内となった姫がいたのか。
曄琳は衝立の奥に耳を澄ます。
海が凪ぐような音がする。指が弦の上を踊るように動いているのがわかる。弓に迷いはなく、手首の返しも揺蕩うように切れ間がわからない。木が、皮が、楽器全体が歌っているように、全て彼女に共鳴している。
朱の演奏が始まると、自然と他の房室の演奏の手が止んでいった。皆が耳をそばだてて朱の演奏に注意を向けている。――ひとりを除いて。
「なによ、あれ……」
強く握られた碧鈴の弓が乾いた音を立てる。
悔しそうに碧鈴が呟くのと、走廊を渡っていた淳良の足が碧鈴の房室手前で止まったのは同時だった。
「……すこし入ってもいいか?」
躊躇いがちに、しかし尊大な物言いはそのままに、皇帝陛下が姫に声を掛ける。それに「もちろんです」と控えめに答えた朱が房に迎え入れる。
(あーあ。完全敗北ってやつね。自業自得だけど)
視界の端の碧鈴は、全てを射殺しそうなほど苛烈な目をして朱の方を睨んでいた。
淳良視察作戦は、思わぬ方向だが一定の効果があったようだ。
◇◇◇
淳良が朱と集花堂へ移動したのを機に、房室に籠もっていた姫達が一斉に外へ出た。当然碧鈴も負けじと参戦し、女達はこぞって堂の周りに群れをなしている。年嵩の私塾老師ばりの女官達が、押すな整列しろと騒いでいるのがなんとも滑稽な光景であった。
「その後はどうです」
騒ぎの中、暁明がするりと横に寄ってくる。曄琳は無言で首を振る。雪宜からある程度事情を聞いているであろう暁明は、沈痛な面持ちで口を結んだ。
「あの子、多分妃に向いてないんだと思います。素直すぎるといいますか、感情的すぎるといいますか」
「そうは言っても入内してきたのですから。勤めは果たさねばなりません」
にべもない。
曄琳はぐしゃりと髪をかき回す。後宮に入るにあたって髪を整え化粧もしてきたのだが、鬱陶しくて早く崩してしまいたいと思ってしまう自分は、甚だ宮仕えが性に合わない。野を駆け山に生きる方が、まだ性格に合っていると思う。耳の良さも野生動物並であるのだから。
野生児曄琳は、暁明の隣にいるはずの小さな人影を探す。
「そういえば、主上を置いてきていますが平気なんですか?」
「蔡掖庭令がついていますから、しばらくは大丈夫でしょう」
見ると、淳良は雪宜の影にいた。
裏を返せば、ある程度時間が経ったら迎えに行かねばならぬということだ。
「場所を移しましょう。あまり人に聞かせる話でもない」
明星姿の暁明の後ろについて、曄琳も堂から離れる。
茗と燦雲は碧鈴の二胡を持たされ、堂の壁際に追いやられていた。堂の中央奥、淳良を囲むように大勢の姫が傅いている。その中に碧鈴の姿もあった。最前列を死守しているあたり、負けん気の強さは人並み外れているのだと思う。当の淳良は、姫の圧に押されて顔色がすこぶる悪く、横の雪宜に何やら耳打ちしていた。
(主上も大変ですね……頑張ってください……)
曄琳は異母弟の四夫人選抜がうまくいくよう、手助けすることしかできないのだ。彼が納得のいく形になればと思わずにはいられなかった。
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