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第4章 絡まる糸
第39話 繋がる欠片
しおりを挟む日暮れ時、いつもの太鼓の音が聞こえる。門限を知らせ、宮門を閉める合図の音。この音を聞けば大体いつも雑居舎に下がるのだが、今日は違う。曄琳は教坊の一室で、四十代に届いたばかりの細身の女性と向かいあって座っていた。
「今日は本当にありがとうございます」
「いえいえ、まさか昔のお話を聞きたいとおっしゃる方がいらっしゃるなんて。娘から連絡があったときは驚きました」
沅君と名乗った玉温の母親は、柔和そうな目元を更に細める。
「聞きたいのは、櫻花妃のことだとか。なぜ今になってあの方のお話を?」
「私の……叔母が、女官時代に櫻花妃にお世話になったと言っていまして」
心苦しいがそれらしい嘘をつく。
「叔母は、櫻花妃が後宮を去るより前に女官を辞してしまい、後宮から消えた妃のことを今でも案じています。櫻花妃の真実を知れればと、こうしてお願した次第です」
「そうでしたか。それはそれは」
沅君は周囲を気にするように見渡すと、声を落とす。
「私も全てを知っているわけではないのですが、よろしいですか?」
「お願いします」
彼女の話を纏めると、こうだ。
櫻花妃が姿を消した後、彼女の持ち物から昭皇帝ではない男から贈られた恋文が出てきたという。櫻花妃は当時大層皇帝の寵愛が厚く、先帝はこれを聞いてひどく悲しんだ。
当初、先帝は櫻花妃とその娘を捜索していたが、彼女に不貞の疑いがかかってからは意気消沈し、捜索から手を引いたらしい。
(私と母様が後宮からの追手に見つからなかったのは、そういう理由か)
曄琳は唸る。道理で一度も追手らしき官人に見つからなかったわけだ。そもそも、かなり早い段階で手を引かれていたのだ。楚蘭も知らなかったためずっと王城を避け続け、故に宮中の事情を知り得なかった。
沅君は当時を思い出したのか、表情が暗くなる。
「こんな言い方をしては咎められると思うのですが、櫻花妃様は不貞を働くような方ではないと思うのです。昭皇帝とも仲睦まじく、妃がご懐妊された際もお二人で本当にお喜びになっていましたもの」
「そう、ですか……」
沅君の楚蘭への印象は、曄琳の持つ母親の印象と同じだ。ならば恋文も楚蘭を貶めるための虚言、という可能性もある。
「その櫻花妃様に贈られていた恋文とやらは、誰が見つけたのですか?」
「確か……当時の淑妃様の女官だったかと」
「淑妃様?」
「ええ、朧淑妃様……今の皇太后様ですよ」
ドクンと心臓が跳ねた。
散らばっていた欠片が、繋がっていくような。
「朧妃様と櫻花妃様は当時仲がよろしかったんですよ。日々交流も盛んにされていました。櫻花妃様のご出産の際も、淑妃様の女官数名が介助に入られたくらいです」
「出産……」
「櫻花妃様が姿を消されてから、櫻礼宮の処理も淑妃様が指示を出されておりました。おそらくその際に恋文を見つけられたのかと」
曄琳は知らず息を詰めていた。
楚蘭は言っていた。お産を取り上げた女官が――片目が紅いだなんて、何か呪いを受けて生まれてきたに違いない。憐れな皇家の呪い子。きっと殺されてしまう――と言ったのだと。
それに怯えた楚蘭は後宮の外に出ることを決めた。
(朧妃の女官があえて母様を怯えさせるようなことを言った可能性は? そして怯えた母様が、それを朧妃に相談したら?)
十分にありえる。
そして、朧妃は櫻花妃の脱走の手伝いをする。彼女を外に出した後であらぬ醜聞を立てる。目的は――。
(先帝の関心を櫻花妃から引き剥がすこと。可能性として、なくはない)
「櫻花妃様がいなくなられてからは、朧淑妃様が先帝に寄り添われていましたから、あの方の助言もあったやもしれません。いずれにせよ、櫻花妃様の話をするのは当時の後宮の禁忌となりまして、以後女官の口端にも上らなくなり、今に至ります」
沅君は複雑そうな顔で曄琳を覗き込む。
「私が知っているのは、これくらいです。お役に立てましたでしょうか?」
「はい、とても。あと最後に一つだけよろしいですか?」
曄琳は怪しまれないよう、できる限り明るい調子で続ける。
「恋文の送り主が誰であったか、噂にはなっていなかったのですか?」
「色々憶測はありましたよ。櫻花妃様はお美しい方でしたし、人目を引きましたから。立場上妃嬪とお会いする機会の多い殿中省あたりの官人に噂は立っていましたが……どれも噂止まりでしたねぇ」
恋文自体でっち上げという可能性もなくはないが、先帝を納得させるだけの実物はあったのだろう。ここから先を調べるなら、もっと込み入った調べ方が必要になる。
鉛を飲み込んだような気分であった。
土壺に嵌っている自覚はある。
曄琳は教坊を後にする沅君の後ろ姿を見送りながら、頭をかく。
最初は興味だった。己の生い立ちと楚蘭のいわれなき罪に一体どういう関係があるのか、知りたいと思っただけだった。食い違う噂に、真実と異なる話――気づけば、知ってはいけないところまで来てしまっている。
可能ならば、楚蘭の濡れ衣を晴らしたい――が、ひとりでなし得るのは不可能に近い。
(何も知らなかったことにしてここから逃げるのも手だけど……)
逃げれるものなら逃げたいが、状況がそれを許さない。と同時に、ひとりで抱えるには秘密が大きくなりすぎたと痛感する。これでは本当に潰れてしまう。
「……どうしたらいいんだろう」
曄琳の呟きは闇に溶けていった。
◇◇◇
「あんた大丈夫? 顔色悪いけど」
茗が顔の前でひらひらと手を振っていることにようやく気づく。曄琳は止まっていた食事の手を再開させる。
「大丈夫です。ぼーっとしてました」
数日経っても、曄琳の頭の中は楚蘭と皇太后の話で渦巻いていた。夜の寝付きが悪く、そのせいで顔色も悪いのだろう。曄琳は平気だと笑って見せるが、茗は抱えていた食器の乗った盆を卓へ置いて、深刻そうに曄琳の額を触る。
「熱はないわよね、具合悪いなら休みな?」
「ありがとうございます。今晩は早めに休みます」
茗はちらちらと曄琳の顔を見ながら箸を取る。今日の朝餉は蒸飯だ。淡白な味が今の曄琳の舌には合っている。
「この後あたし、皇城に衣装取りに行くんだけど……あんたは教坊で休んでる? 今日非番でしょ」
「皇城……?」
「そ。四華の儀であたしらが着る衣装よ。小曄も出ることになると思うから、一緒に取ってくるわ」
四華の儀は掖庭宮で執り行われるが、宮妓も燕楽で呼ばれている。儀式後の宴席だ。
曄琳は皇城と再び繰り返す。数少ない宮城の外に出られる機会。うまく行けば外に出られるかもしれない。
脱走の機会なんて、前までなら喜んで飛びついていただろうに。今はまるで足枷が嵌められているかのように足が重い。返事をするまでに、たっぷり三秒はかかった。
「……私も行きます」
「無理しないでよ……?」
茗は不安そうに眉を寄せると、曄琳の頭を珍しく撫でてきた。
「なんか悩みとかあんなら言いな。たいした返しはできないけど、話聞くくらいならいくらでもするからさ」
「ありがとうございます、茗姐様」
茗は頼りになる先輩だ。信頼しているし、仮に話したとしても口外しないだろうという確信もある。
でも、いざ話せるかと言われたら――なぜだか躊躇われた。
(……皇城か)
ふと、二度しか訪れたことのない官舎が頭に浮かぶ。普段は宮城の外へ自らの意思で行くことは不可能だが、今回なら可能だ。
睡眠不足に積み重なる悩みとで鈍化した曄琳の頭は、その瞬間、深く考えることを放棄した……のだと思う。
そうでなければわざわざ自らの足で殿中省へ行こうだなんて、思うはずがない。
そう、思うわけがないのだ。
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