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第4章 絡まる糸
第38話 雪宜の助言
しおりを挟む(朱様と女官が、こんな掖庭宮の外れで立ち話? 少しおかしい)
探りかけて――はたと気づく。これは他人の私的な秘密を暴くような行為になるのではないか。
暁明と衝突して、否が応でも知ってしまった。
この耳は、他人の踏み込んではいけない部分に勝手に踏み込んでしまう。使い方を間違うと、自分も相手も傷つけることになる、と。
やっぱり聞かなかったことにして立ち去ろうと、耳を塞ぎかけて――主上、という単語に思わず足が止まった。
――主上との関係は悪くないと聞くわ。
――はい。
女官が声を落として、朱の身体のどこかを撫でる……衣擦れの音。
――あなたはそのままで。四華の儀で四夫人に選ばれるよう、うまくやりなさい。
――……わかりました。
――気取られないよう、慎重に。
――頑張ります。
――主上の気を引くために、皇太后様は二胡の名手と謳われるあなたをここに入れたのだから。頑張りなさいね。選ばれてからのことは気にしないで、私達が――。
ああ。曄琳は嘆息する。どうしてこうも、嫌なことは重なるのだろう。
ゆっくりとその場を離れる。
こんな話、聞かなかったことにしたい。淳良が楽しそうに朱に話しかけていたときのことを思い出す。
主上の気を引くために――ということは、朱が淳良を釣るための餌なのだとしたら、朱と親しくなった後、淳良をどうするつもりなのだろう。
曄琳は知らず内侍省の郭の門まで戻ってきてしまっていた。木陰に移動して、沸騰しそうな頭を冷やそうと幹に凭れる。
そもそも、皇太后が淳良にとって善なのか悪なのか、曄琳には判別がつかない。暁明の話からでしか彼女のことを聞いていないからだ。
彼は皇太后を悪のように言う。しかし、それは果たして――正しいのだろうか。淳良にとって暁明は、果たして“善”なのだろうか。
「あー駄目だ……」
ずるずると座り込む。
そこを疑い始めると、もう何を信じたらいいのかわからなくなる。それこそ、暁明に協力している己の意味もわからなくなってくる。
どうしたらいいんだろう。
一介の駒に過ぎない自分が考えることじゃないんだと思う。でもそれぞれの人間に少しずつ触れて人となりを知ってしまった以上、考えるなという方が無理がある。
(私に間諜は向かない)
思い知らされると同時に、見えない何かに押しつぶされそうだった。
「おやおや、どうしました? 暑さにあてられました?」
聞き馴染みのある穏やかな声が、曄琳の方へ近づいてくる。のそりと顔を上げると、雪宜が伴を引き連れて内侍省へ戻ってくるところだった。
「こんなところまで来ていただいているということは、私に何か用事でもありました?」
「……ええ、まあ」
曄琳の浮かない顔に気づいたのか、雪宜は伴に先に戻るよう指示をする。
「中へどうぞ。倒れちゃいますよ?」
雪宜が手を差し伸べてくれるので、有り難く掴まった。ひんやりとした手だった。
「なるほどなるほど。そうでしたか」
雪宜が冷茶を差し出してきたので、曄琳は長榻に腰掛けてそれを受け取る。お茶汲みなど下っ端の仕事だ。やると雪宜と進言しても、手伝いすら拒否され、座っていなさいと言われた。そんなに自分は酷い顔色だったのだろうか。
開け放たれた窓からはぬるい風が吹き込んでおり、北の奥まった場所のお陰か幾分か暑さはましだった。
曄琳は冷たい茶杯を持って室内を見渡す。雪宜の室は、質素で物が少なかった。仕事をするための卓一つ、長榻二つ、書架二つ、以上。他はがらんとしている。
「あの胡氏様がねぇ。色々なところに思惑や網が張られているものですねぇ」
雪宜には大して衝撃はなかったようだ。さすが掖庭宮を纏める宦官なだけはある。
雪宜はへらりと笑うと曄琳の向かいに腰掛けた。
「宋少監には私から報告しておきますね」
「はい、お願いします」
曄琳は茶に口をつける。苦みのないさっぱりとした味が舌に馴染む。
「朝廷のあれこれは、若い娘さんには堪えるでしょう」
「若いって……掖庭令も十分にお若いでしょうに」
「ふふ、三十五もあなたから見たら若いうちに入りますか。ま、人生の半分以上をここで過ごしていると、年寄り臭くもなりますよ」
雪宜はあっけらかんとしている。そんな彼を見ていると、悩んでいたことがちっぽけに思えてくるから不思議だ。曄琳はため息をつく。
「最近、何を信じていいのかわからなくなります」
「あはは、人の裏表に触れすぎちゃいましたか」
鷹揚に頷く雪宜に、曄琳は自分がまだ青いことを突きつけられている気がして、居心地悪くなる。
「そういうときは自分の信じられる人を頼りにすべきです。この人ならと思える人がいれば、自分を見失わずに済む」
曄琳は唸る。
「いない場合は?」
「いないってことはないでしょう。あなたの周りにはたくさんの人がいますよ」
そうなのだろう……が、真の意味で曄琳を知る人物は、誰一人としていない。皆が知るのは、宮妓の曄琳。別の姿があるかもしれないなんて誰も考えていないだろう。この胸の内にあるわだかまりは、一体どうしたらいいのか。
ふと馬車の音が耳の中で蘇る。
――あなたの秘密を教えてはもらえませんか。
ああなんで、今思い出すのか。曄琳はかき消すように頭を振った。
「はあ……何もかも放り出して逃げてしまいたい……」
「ほう、外へ出たいのですか?」
「可能なら」
「口利き程度はして差し上げられますが、いざ出るとなると大変ですよ」
「宋少監も悲しみます」などと付け加えられるものだから、曄琳は盛大に顔を顰めた。
「何のつもりですか」
「そんな顔しないでください。相棒じゃあないですか」
「どこが――」
曄琳は絶句する。相棒。なんでそう見えるのか。
「宋少監も随分あなたを頼りにしていますよ」
「うまく利用されてるだけだと思います」
「そんな風に言わないであげてください。彼も慎重派なんですよ」
曄琳は唇を擦る。慎重派ってなんだっけ。強硬手段として女装なんぞに手を出す男が慎重派なものか。
雪宜は「それと」と続ける。
「私の後輩なんです。優しくしてあげてください」
「後輩?」
「随分昔ですが、私も殿中省に勤めていたことがあるんですよ」
それは初耳だ。しかし十年以上仕官しているなら、部署を異動することは十分に有り得るか。
「なかなか面倒な部署です。あちこちから板挟みにあって。若くして登り詰めると、古株からのやっかみも多いですし、彼の苦労も相当なものでしょう」
雪宜がその柔らかな目をにこりと細める。
「いらぬ面倒は早々に片付けるべきです。喧嘩をしたなら、きちんと仲直りをした方がいいですよ」
……何か見抜かれている。もしかしたら暁明の方も何かしら態度に出ているところがあったのかもしれない。曄琳は気まずくなり、立ち上がる。
「もう行きます。お茶、ありがとうございました」
「いえいえ、帰りも気をつけてくださいね。……あ、やっぱりちょっと待ってください」
雪宜は棚を漁りに行くと、何かを手にして戻ってきた。
「こちら、よければどうぞ」
「……糖果?」
「甘いものがお好きでしたら」
ころりと透明な飴菓子が手のひらに乗せられる。花の形を模した、男性が食べるには可愛らしすぎる……というのは偏見か。何にせよ、普段の雪宜からは思いつかない愛らしい菓子だ。
「ありがとうございます。甘いものは大好きです。可愛いですね?」
「ふふ、何故かこれだけはいつも室に置いているんですよ」
雪宜はふんわりと笑うと、扉に手をかけた。
「さ、遅くなる前に。私はあなたの味方ですよ。いつでも頼ってください」
「はい。お邪魔しました」
曄琳は来たときよりも足取り軽く、内侍省を後にした。口の中で糖果が甘く溶ける。食べたのは、幼少期以来――楚蘭に出店で買ってもらった以来だ。
(そういえば、母様も飴が好きだったな)
明日、玉温の母親から聞く話が、どんな話でもちゃんと受け止めよう。曄琳はそう思った。
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