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第5章 櫻と紅玉
第45話 面影
しおりを挟む――入れ替わるときに合図しますから。
音の出どころは、朱とそのお付きの女官だ。碧鈴と少し距離を置いたところで、壁際に寄って待機している。出番は房の並び順だと聞いている。ならば、朱は碧鈴の一つ前の奏者になる。
――できる限り近くに寄るんですよ。うまく落ちてください。
うまく落ちるとは一体。
曄琳はできる限り女官の陰に入って海氏が次の奏者と入れ替わるのを見守る。海氏は池の上の張出舞台で一礼、そして次の奏者とすれ違うようにして壇上から降りていく。床の木板が歩みに合わせて軋む。
落ちる。つまり、落下。
この舞台から落ちるということは、下は――池。
(入れ替わる――碧鈴様と入れ替わるとき? 碧鈴様の近くで落ちる……)
はっとして曄琳は朱を凝視した。朱は女官の隣で俯いていた。次が出番だというのに随分覇気がない。呼吸は浅く乱れ、震えていた。
碧鈴に悪意で仕掛けようとしていることはわかった――朱ではなく女官の方が、だ。朱の呼吸音や雰囲気からして、乗り気でないことは確かだ。
女官が誰の指示で動いているかはわからないが、この大舞台で仕掛けるくらいだ、指示をしている人物は肝の据わった大物だろう。
どうするべきか――悩む時間はなかった。朱が舞台に上がろうとしている。この演奏が終われば、次は碧鈴の番だ。
曄琳は意を決して壁から離れて碧鈴のもとへ移動する。周囲の視線は朱に集中している。今なら注目を浴びずに行って帰ってこれる。
「遅いわ! もう間に合わないと思ったじゃない」
碧鈴は血の気の失せた顔でこちらを睨む。
「申し訳ありません、準備に手間取りました」
曄琳は弓を手渡し、碧鈴の耳元に口を寄せる。
「舞台に上がる際には中の方を歩いてください」
「なぜ?」
「池に落ちないためですよ」
「あたしがそんな間抜けに見えるの?」
強気の口調は変わらずだが、碧鈴の手はいつもより冷えていた。朱の演奏が終わると同時に戻ろうと頃合いを伺う。
朱の演奏は見事だった。しかし、音の中にどこか陰りがあり――初めて音を聞いたときほどの感動はない。
曄琳は演奏を終えた朱の様子を確認し――哀れに思った。彼女は目に涙を浮かべていた。腹の前で握られた拳は小さく震え、呼吸は酷く早い。心理状態が音にも出ていたのだろう。どうしてもやらなくては――そんな声が聞こえてくるようだった。
(こうなれば、一か八か)
俯きがちに舞台へと向かう。碧鈴を中へ、曄琳が池側を歩くようにして際から離れて歩く。これなら、朱が池に落ちたとしても碧鈴が突き落としたようには見えないはずだ。
曄琳の視界の端で淳良が食い入るように朱を見つめていた。
異母弟が最初に心を許した、大人の政権争いの中に巻き込まれた哀れな姫、朱。
曄琳はすうっと心が決まるの感じた。
こんな騒ぎを起こして、幸せになるのは誰?
淳良でも、朱でもない。自分の手を汚さず御簾の奥で高みの見物をする――卑怯な誰かだけだ。
震える足で、すれ違いざまに朱が舞台の縁に寄ってきた。曄琳はその幼い顔が恐怖に耐えるように歪められているのを見て、耐えきれず身体が先に動いた。
碧鈴の前へ出て、傾ぎ始めた朱の身体を支え舞台の中へ押し戻し――重心を崩した己の身体を支えるために踏ん張ろうとして、右足が空を切ったのを感じた。
(これは落ちるなぁ)
ぼんやりとそう思うとの、水面に身体が叩きつけられるのは同時だった。
観客から悲鳴が上がるのを水中で聞いた。必死に水面から顔を出そうとするも、水を吸った絹は想像を絶する重さで、沈もうとする身体をなんとか浮かせようと藻掻くも、顔が水面から出ない。
息が続かない。むせた瞬間に水を飲んだ。膜を張ったように音が遠くなる。もう――駄目、意識が。
暗転しかけた視界が、突如引き上げられた。水面から顔が出た感触がした。身体に回る腕と、人の体温。
何度も咽ながら、曄琳はようやく息をした。
「――もう大丈夫ですよ」
耳馴染みのいい低音。自身を抱える腕に縋り、曄琳は先程見たばかりの官服を握る。――わざわざ池に飛び込んでくれたのか。
曄琳を抱える男――雪宜は、自身の顔に張り付いた髪も気にせず、水面を切って河岸へ泳いでいく。
「ごめんなさっ……ごほ、ごほっ……」
「もう大丈夫ですから。ゆっくり息を吸って」
雪宜はいつも通りの穏やかな顔で微笑む。
「よく沈まずに堪えましたね。底まで落ちていたら、引き上げられなかった」
労るように肩を撫でられる。曄琳は息を整えながら、途切れ途切れに礼を言う。
「ありが、とう……ございます……」
「礼には及びませんよ。それと――」
雪宜が耳元に口を寄せて、一言。
「目の色が知れてしまいますから、どうぞ俯いて」
安堵から一転、世界が止まったような気がした。
曄琳は咄嗟に左目に触れる。いつもあるはずの感触がない。先程の水没で無くしたのか。
いや、それより――。
「なんで、知って――」
「説明は後で。水から出ますよ。私の服に顔を寄せて……そう、いい子ですね」
曄琳は早鐘を打つ心臓を押え、身を小さくして雪宜に抱えられていく。相当に、混乱していた。
◇◇◇
舞台へ上がろうとする碧鈴の後ろに見慣れた女の姿があることを認め、暁明は舌打ちしそうになるのを堪えた。
――あれほど来るなと言っておいたのに。
横の淳良が「曄琳か」と呟くのが聞こえた。その横顔はいつになく気を許しているように見えて。そういえば、この歳の離れた二人は異母姉弟なのだと思い出す。
奇妙な縁だと思う。淳良という存在がいなければ、暁明は曄琳とあの日、後宮で出会えていない。淡々としていそうで、しかしふとした瞬間に庇護欲をかき立てられるような、縋るような表情を覗かせるあの少女と相見えることはなかったのだ――そう思うと、妙に胸が騒ぐ。
視線の先の女は、華奢な身体に赤の衣装を身に纏って俯きがちに歩いており、平素の彼女からは想像できないほどに淑やかで――そして違和感なく映った。
彼女は間違いなく皇家の人間だ。容易に手を伸ばせない、秘せる花。引き寄せれば簡単に腕の中に閉じ込めることができるのに、真に手に入れることは到底叶わない。
その事実は、騒ぐ胸に重石をのせるように息苦しい。
――と、目を引く赤が傾いだ。
ずるりと池に引き込まれるように落ちていき、水飛沫が上がる。
落ちたのか、落とされたのか。
悲鳴が上がる中、暁明は控えていた高台の横から駆け出そうと一歩を踏み出す。
しかし、それより早く。同じく横で控えていた宦官が先に駆け出した。
「――楚蘭さま」
すれ違いざまに聞こえたその一言に、暁明の足は止まった。躊躇いなく池に飛び込んでいった雪宜に、暁明は呆然と立ち尽くす。
――そういうことか。
思わず漏れた言葉は、曄琳へ繋がる真実を掴んでいた。
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