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第5章 櫻と紅玉
第46話 過去
しおりを挟む四華の儀が終了したのは空が茜色に染まり始める頃だった。多少の事故はあったが宮妓ひとりの粗相で儀式を止めることなどなく、つつがなく終わったと言えた。
儀式が終わるまで拘束されていた暁明は、ようやく掖庭宮の一室を訪れた。池に落ちた曄琳が身を休めるためにあてがわれた場所は、内侍省にほど近い殿舎だった。こじんまりとした房室を衝立越しに覗くと、牀榻の上、被子が小さく盛り上がってるのが見えた。
「曄琳は――」
「今は眠っています。疲れたのでしょう」
暁明より一足先にここを訪れていたらしい雪宜は先の正装から着替え、普段の装いに戻っていた。
曄琳を抱えて退出したこの宦官はその後、儀式には戻ってこなかった。それまでどこにいたか――言わずもがな、この房だろう。暁明は焦れるような気分を押し込め、努めて冷静に口を開く。
「彼女に怪我は?」
「ありませんよ。どうやら凌氏様を妨害するために、胡氏様が凌氏様を突き落とすことを女官に強要されていたとか。見ていられず、助けようとしたら落下したと言っています」
暁明は額を押さえる。
あの娘は、他人の心配より自分の心配をするべきだというのに。
「あと胡氏様より密告が。今回の件、皇太后様のご指示だそうで」
「ああ……そうでしょうね」
胡家はそこまで大きな家ではなく、上からの圧力があれば同調せざるをえない。四華の儀は管弦の腕を競う場なのだから、上手い子女に当たりをつけて取り込んでしまえばいい。皇太后が目をつけて、胡家と裏で繋がりがあることは読んでいた。淳良もある程度理解した上で朱と親しくしていた。
しかし、曄琳が事件を防いだことがきっかけで朱が自ら申告したのであれば不幸中の幸い、お手柄であったと言える。彼女はこれで皇太后と手を切るという姿勢を見せた。淳良としては内心朱を側に置きたいと思っているだろうことを考えると、良い報せだ。
曄琳は淳良のこととなると随分と感情的になる。暁明は亭での光景を想起する。あの孤独な少女なりに異母弟へ想いがあるのだろうと思う。
ぼんやりと考えを巡らせながら、雪宜が扉の方を振り返るのを見る。
「曄琳さんが衣類を変えるまでに時間が掛かったので、感冒を引かないかだけが心配ですね」
あのときの狼狽が嘘のように、雪宜は穏やかに微笑んでいる。
――楚蘭さま。
そう残して駆けていった彼は、まるで別人のようだった。あまりに必死で、全てを投げ打つような、そんな雪宜に圧倒されたのは事実で。
暁明はほとんど確信をもって口を開く。
「曄琳にはどこまで話しました?」
雪宜は僅かに目を見開くと、眉を下げた。
「ほぼ全て。私の知りうることはお話しましたよ」
「そうですか」
「驚いてはいましたが、落ち着いていました。そんなにご心配なさらないでください」
暁明は視線をそらす。雪宜はそんな暁明をじっと見つめる。
「私の二の舞いにならないでくださいね」
「…………は」
「私とあなたは、当時と状況は違えど立場は同じ。後悔なさらない選択をしてください」
どこか吹っ切れたような顔で微笑む雪宜とは対照的に、暁明は苦虫を噛み潰したような顔をしたのだった。
◇◇◇
――あなたが楚蘭さまの娘だということは、出会った時になんとなく気づいていました。
曄琳は身を横たえたまま被子に潜りこみ、丸くなって足を抱える。こうすれば、さすがにこの耳も外の話し声を完全には拾わない。
聞いてはいけない会話をしているのだと気づいてから潜り込んで――馴染みのある二人の声が、遠くなった。
曄琳は重い息を吐き出し、目を閉じる。寝られるわけがない。雪宜から聞いた話が頭を巡る。
――恋文の送り主は私です。しかし、誓って私とあの方はそのような仲ではなかった。
雪宜の瞳は哀切に濡れていた。
――私が十八のときです。当時私は殿中省の小間使いで、後宮にも出入りする機会がありました。そこであなたの御母上、櫻花妃……楚蘭さまにお会いしました。
雪宜は遠い目をして語る。
春の盛りだった、櫻の木の下で主上――先帝とお話されている姿を見て、本当に驚いた。こんなに綺麗な方がいるのかと。お恥ずかしい話、このような不出来の身ながら……私はあの方に恋をした。一目惚れというやつです。
主上のご訪問があると、私も櫻花妃と必然と顔を合わす機会が増えていき、あの方にも顔を覚えていただいていたようで、笑顔を向けてくださることもあった。
お優しい方だった。宮女も宦官も分け隔てなく接してくださって、気取らない笑顔が温かい人で。あの方が笑うと花が咲くようで、妃の名に違わない花のような人でした。
私が若さ故に妃に書簡を差し上げたのは、初めてお逢いしてから数カ月後のことでした。名は書かずとも筆跡で察せられたようで、困った顔をしながら『私は主上を愛してるの。気持ちだけ受け取っておきます』と私に告げてこられました。
何かを望んでいたわけではなかった。幼稚な自己満足です。それがまさか火種になるとは思わなかった。
櫻花妃は文を処分されようとした。しかし、それを目聡い女官が見つけ……持ち去った。
後は、曄琳さんが立てた憶測通りです。あなたをご出産された櫻花妃は、朧淑妃の女官らの騒ぎ立てように怯え、後宮を出る決意をした。
櫻花妃は朧妃に相談された。どうにか外に出たい、と。朧妃は了承し、門の開閉と外への介添を行った。
しかし櫻花妃が姿を消した後、朧妃は手のひらを返したかのように事前に手に入れていた文を使い、先帝に迫り、櫻花妃の捜索から手を引かせました――。
「私は櫻花妃が出ていくその日、門から見送った人間のひとりです。まさかそのときは、己の文が淑妃に利用されるだなんて思いもしなかった。私の愚かな行為が、彼女の主上を想う気持ちに瑕をつけることになるなんて――」
雪宜の声が途切れる。
曄琳は考えの纏まらない頭で点と点を繋いでいく。
「掖庭令は、朧妃の企みに気づかなかったのですか?」
「お恥ずかしながら……当時かの妃らは、本当に仲が良く見えたのです。まさか朧妃が、櫻花妃の名誉を更に傷つける真似をするとは思いませんでした」
曄琳は呻く。これで全体像が掴めた。深い水底に沈んでいた過去がうかびあがり、憶測が事実に変わり――曄琳の今に繋がる。
そして事態は曄琳が思っていた以上に、昏く淀んでいた。
雪宜は苦悩のまま、顔を覆う。
「私は朧妃に訴えました。それは私の文で、若気の至り、櫻花妃とは誓って何もなかったと。櫻花妃と真に交流のあった朧妃なら、わかるはずだと。しかし朧妃は聞く耳を持たず……ただ一言。『淫売の肩を持つのか』と仰った」
そのときの雪宜の気持ちは、想像して余りある。
「ここにあの方の味方となる方は、もうひとりとしていない。唯一と思っていた朧妃ですら、はなからあの方の味方ではなかったのですから。私は職を辞することも考えましたが、罪滅ぼしの意味を込めて掖庭宮で働くことを願い出ました」
雪宜は揺れる瞳を曄琳に向ける。
「ようやく思い出として語れるようになった今になって――あなたが現れた。驚きました。ふと微笑むときの面差しが……本当にあの方に似ておられたから」
曄琳は言葉が出なかった。やはり自分は楚蘭に似る部分があったのだ。繋がるところがあったのだ――と。
「眼帯のこともあり、これはもしやと思っていましたが、今日のお召し物は、本当に……本当に当時の妃そのものでした。曄琳さんはあの方の娘なのだと、確信しました」
――本当に……妃だと思いました。
あのときの雪宜の様子を思い出す。彼は、曄琳を通して楚蘭を見ていたのか。
曄琳は込み上げてくるものがあった。亡くなっても、母は自分の中で確かに息づいているのだ。
「母は、どんな人でした?」
静かに問うたその答えに、曄琳は泣くまいと唇を噛んで俯いた。
「櫻の花のように儚くも、優しい女性でした。そして、主上と……あなたを、こころから愛しておられた。ご自慢の御母上ですよ、誇ってください」
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