紅玉楽師は後宮の音を聞く 〜生き残りたい私の脱走計画〜

高里まつり

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第5章 櫻と紅玉

第47話 ただひとり





 房室へやに入室してくる控えめな足音に、曄琳イェリンは疲労から微睡みかけていた意識を浮上させる。被子ふとんを被っているので顔は見えないだろうし、寝たふりを決め込もうか――などと考えたが、ひとりで抱えるなという言葉を思い出し――勇気を出して顔を覗かせた。
 牀榻しんだいの横でこちらを気遣わしそうに見下ろす暁明シャオメイと視線が絡まる。

「やはり起きていましたか」
「少監……」
「……目が腫れていますね。冷やすものを持ってきましょう」

 外で控えている宮女に指示をするため、暁明はしばし退出する。今の曄琳は眼帯を紛失してしまっている。左目を見られるわけにはいかないため、必然と房室ではずっと独りきりだ。
 広い房室に残されて心細かったのは事実で、彼を見たときに安堵したのも事実。しかし、早く戻ってきてほしい――などと考えている自分がいることに気づいてしまって――慌てて頬を叩いた。これはそういうんじゃない、断じて違う。
 認めてしまえば、何かが崩れてしまう気がした。

 再び足音が近づいてきて、曄琳は気まずさを残しながら居住まいを正す。

「水桶は卓に置いておきますね」

 暁明は濡れた布巾てぬぐいを差し出してくる。受け取るとひんやりと指先を冷やす。目に当てると、熱を持った瞼の熱がとれるを感じた。

「ありがとうございます」
「大丈夫ですか?」

 目のことを聞いてるのではないことはわかってる。大丈夫だと頷きかけて――首を横に振った。虚勢を張らなくていいのは気が楽だ。暁明は枕横の椅子に腰掛ける。

「やけに素直ですね?」
「正直でいろと言ったのは少監ですけど」
「覚えていてくださって嬉しいですよ」

 顔にかかっていた髪を払われる。 
 普段と変わらないやりとりのはずなのだが、暁明の表情は沈んでいた。その理由が何となく察せられて、曄琳は口を噤んだ。
 しばし沈黙が降りる。外は恐ろしいほどに静かで、木の葉の揺れる音一つしない。



「――負担になるかと思ったのですが」

 ぽつりと切り出された。
 ようやく暁明が落としていた視線を上げる。

「時間もあまりないので、すぐに話をと思いまして」
「刑部で言っていた?」
「はい。お見せしたいものがあります」

 暁明が傍らに置いていた小さな包を解く。現れた物に、曄琳は声を漏らす。

「それって――」
「覚えていましたか。あなたと礼宮で見つけたものです」

 あの日、暁明と櫻の木の下を掘って見つけた、アン妃の隠し物だ。――樱花樹下 我想起你。桜の木の下で、あなたを想う。木筒の文字が目に飛び込んでくる。

(櫻……)

 曄琳がはっとして暁明を見つめると、彼も頷く。

「これは安妃が櫻花インファ妃とあなたに宛てた手紙です」
「母様と、私に……?」
「安妃の遺書にはそのように書かれていました」

 曄琳は震える手で木筒を受け取る。改めてじっくり見ると、ささくれだってざらついたそれは、ありありと風化の跡が刻まれており、長く地中にあったことが察せられて。何が書かれているのか、恐ろしくもあった。

 蓋を取り、中を覗くと紙片がひとつ入っていた。湿気で黄ばみ、萎びている。曄琳は手に取りめつすがめつ確認して――ゆっくりと開いた。 
 そこには整った女性らしい手蹟でびっしりと書き詰められ、その苦悩と懺悔を綴っていた。

 内容は端的であった。 
 安妃は当時ロン妃付きの女官であり、そして恋文を回収したのは安妃であったということ。朧妃に指示されるまま行ってしまったことを楚蘭チュランに詫びる内容だった。
 
 ――朧妃さまが、とある文を櫻花妃さまの室で落としてしまったと言うので、私は言われるままに文を持ってきてしまった。あれほど良くしてくださったあなた様を貶めたのは、私。本当に後悔しています。

 そして、最後に。

――私は朧妃さまに殺されます。この後悔と懺悔も、全て冥府の闇へと連れていきます。私の死と引き換えに、どうかあなた方お二人がどこかで幸せに暮らしていますよう、天帝へ祈りを捧げます。

「――少監、申し訳ありません」

 曄琳は震える指で手紙を畳み、木筒に戻す。

「なぜ謝るんですか?」
「こんなことに巻き込んでしまって……」
「あなたは悪くない。私が自らの意思で決めたことですから」

 暁明は険しい顔で髪をかきあげる。

「安妃の死については、もともと朧皇太后が噛んでいると思っていました。あの方の死はあまりにも急で、不自然すぎた」

 曄琳は被子の端を握る。

「皇太后さまの目的は……」
「主上の摂政となることでしょう。晩年の先帝は病に臥せっておりましたから、皇子が若くして即位する可能性は皆が考えていた」

 ため息が重い。暁明の瞳も同じく重く鈍い光を湛えている。

「安貴妃さまがご健在ならば、安貴妃さまが皇太后となっていました。しかし彼女が亡き者となれば……貴妃に次ぐ位の朧淑妃に白羽の矢が立つのは当然の結果。誰も反対はしない」

 淳良も、安妃も、そして櫻花妃も。誰も彼もが朧妃に絡め取られて、朝廷という魔窟に囚われている。

「朧皇太后を罰することは――」
「今は相当厳しいかと。かの方の力は絶大。現在の朝廷を制しているのは彼女の派閥です。今皇太后を廃すると、朝廷は瓦解すると言っていい」
「……」
「しかし今でなくとも、主上のご成長と時期を見て糾弾することはできる。そのためにも、この安妃の手記は切り札にしなければ」

 暁明がそっと木筒に触れる。

「曄琳、これを私に預けてもらえませんか」

 曄琳はじっと暁明の顔を見つめる。真摯な目だった。それでも聞かずにはいられない。
 
「……私が持っていてはいけませんか?」
「あなたが持つには危険すぎる。それに――」

 暁明が逡巡するように言葉を切る。
 その続きに何が来るか、曄琳は理解していた。

「あなたは王城を出なければいけない。その際にこれを持っていくのは良くない」

 わかっていた。
 彼が急くように今日話をしようと言ってきた理由は、曄琳を外に出そうとしてくれているからだと。全ては曄琳を逃がそうとするためなのだと。

「事情は伏せた上で、今ミンさんにあなたの荷を纏めるよう頼んでいます。あなたは今日、日没とともに王城を出てください」

 日没――曄琳は思わず窓の外を見た。空はほとんど藍色に染まっている。もう時間など少しも残っていなかった。

ツァイ掖庭令とも意見が一致しました。あなたは皇太后に姿を見られている。気取られる前に、なるべく早くここから出るべきです」
「……でも、私」
「大丈夫です」

 曄琳の手に暁明の手が重なる。

「大丈夫ですよ、きっとうまくいきます」

 ――そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃない。
 言いかけて、口を噤む。彼が何かを堪えるような顔をしていたから。これが無意味な我儘だという自覚はあった。
 
「――曄琳」

 頬に添えられた手が温かい。白魚のような手からは想像できないくらい胼胝たこの多い――無骨な手のひらだ。どれほど彼が苦労してきたのか、今の曄琳なら理解できる。

「あなたに会えてよかった」

 ゆっくりと引き寄せられる。まるで腕の中に閉じ込めるような抱擁とは裏腹に、言葉は曄琳を突き放していく。

「なんのしがらみもない所であなたは幸せになった方がいい。陰湿な宮中は、よく聞こえるあなたの耳には辛いでしょう」
「……ふふ、では少監との雇用関係も解消ですね」
「ええ、大いに役立ってくれました。感謝します」

 今、どれほど気遣われているかわかる。いや、この場に限らず、今までも。だから涙は出ない。代わりに感謝の気持ちを伝えたい。

「……暁明様。私は――」

 言いかけて、見上げた先の藍色に吸い込まれる。彼の瞳は今の空と同じ色だった。きっとこの色を一生忘れない――忘れられないと思う。

「曄琳」
  
 星でも散りばめられていそうな瞳の奥、魅入るその奥に。確かな熱を感じた。 
 ――と、地面を揺らし近づいてくる足音に、曄琳の瞼が震える。
 
「少監、誰かこちらに――」
 
「あっごめっ、お取り込み中だった!?」

 静寂を切り裂くような扉の開閉音。間近にあった暁明の顔がぎしりと止まる。
 
 暁明の肩越しに確認すると、扉を押し開けるようにして茗が立っていた。息をきらし、肩には曄琳の荷らしき麻袋を下げている。

「今はそれどころじゃなくて! ねえ、よくわかんないけどなんかまずそうよ!」
「どういう――」
「教坊に偉そうな奴らが押しかけて、小曄シャオイェを探してる!」

 暁明と顔を見合わせる。「遅かったか」と暁明が呟く声が痛いくらいに突き刺さった。

 

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