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第5章 櫻と紅玉
第48話 対峙
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「ねえ、あの子大丈夫なのよね……?」
茗が呆然と呟く。間もなく掖庭宮に押しかけた羽林軍により曄琳は連行された。任意同行という名目であったらしいが、こちらの言い分を受け付けぬ強硬であった。
近衛を動かしてまで強制的に連れ去るとは。淳良の耳に入れば烈火の如く怒るだろう。反皇太后派の波紋を呼ぶことは想像に難くない。それを見越してでも――皇太后は曄琳を連れて行くという行動を起こしたのだ。思惑が掴めない。そして、皇帝の私兵ですら容易く動かしてみせる女に――暁明は図らずも畏れを抱く。
暁明は努めて冷静に曄琳の姐だという宮妓を見下ろす。
「私は急ぎ主上に報告に参ります」
「ちょっと、」
「茗さんは一度教坊へ――」
「……っ、あたしは! あの子が大丈夫かって聞いてんの!!」
襟首を掴まれた。力任せの行為に、暁明はたたらを踏む。目の前の茗の大きな目が、揺れて、歪む。
「答えなさいよ! あんたがあの子の一番の理解者なんでしょ!?」
返事に詰まる。
「悔しい……あの子があんたみたいなはっきり応えられない男に盗られたなんて!」
理不尽な八つ当たりだ。しかしそうでもしないと不安な気持ちは理解できた。
「あの子と初めて会ったときから、あたしだってあの子が訳アリなのは気づいてたわよ。眼帯取りたがらないし、たまに不安そうな顔するし!」
「茗さん」
「でも、あたしじゃどうにもなんなかった! あたしだってずっとずっと、ずーっと心配してたのに!」
茗の目からボロボロと涙がこぼれる。
「ただの師弟関係だけど、でも……あの子はあたしの妹分なのよぉ…………小曄……どうしたらいいの……」
ずるずると床に座り込む茗に、暁明は何も言えなかった。
皇太后が出てきた今、彼女に対抗しうるのは主上ただひとり。彼がどのような判断を下すのか、曄琳のことをどう受け止めるのか。幼いとはいえ、彼の発言力は暁明の比ではない。幼子の冗談よと笑われるようなことも、実現しうるのが彼の立場だ。
――対して、己はなんと無力なことか。
暁明は両の腕を見下ろす。一瞬でも熱を共有した相手は、もういない。皇太后は彼女に一体どのような話を持ちかけるのだろう。
暁明様、と拙く呼んでくれた声が耳に残る。
そして、後悔しないようにと助言した先達を思い出す。
そう、あの人と己は同じだ。
相手の未来を祈り、宮中から送り出すことを選んだ――結果、あの人は消えた面影に囚われてしまった。それは恐らく、己も同じ。死ぬその時まで、かの姿を思い出すに違いない。
――後悔しないように。
次があるならば、次を勝ち得られるならば――今度は――。
◇◇◇
空気が重い。
たった独り、曄琳は目の前、未だ無人の高台を見上げる。
見張りだろうか、庁堂の外に二名、走廊に帯剣した兵三名の気配がある。この庁堂に窓は一切なく――よって逃げ出すのは不可。腹を括って対峙するしかなさそうだ。奥の間から徐々に近づいてくる衣擦れに、震える身体を叱咤する。
(負けるな、頑張れ私)
ようやく高台に一人の女が姿を現す。重い絹が床を滑り、歩みに合わせて歩揺が綺羅びやかな音を立てる中、曄琳は深々と叩頭礼でもって国母を拝する。
「――やめてちょうだい、あなたの立場でその礼は必要ないでしょう」
椅子に腰を下ろす気配がする。足音は一人分。この場は完全に人払いをしたようで、扉を隔てた奥の間に数名の気配を感じる。
「沈長公主、面を上げて」
やはり、全て知られていた。
曄琳はゆっくりと顔を上げる。突然の拉致であったため左目を隠す隙もなく、紅目はそのままに目の前の女と向き合う。
(――これが、朧皇太后)
四十に届かないくらいの歳であると聞いている。思っていたよりもずっと――怖くない。黒黒とした豊かな髪に、眦の上がった目元、薄紅の引かれた唇。女性にしてはやや低めの声は深く、覇気は感じるが何か圧倒されるようなものはない。男子と呼べるほど小さな淳良と出会ったときの方が、よっぽど畏怖の念を抱いた。
「今日は話をしたくて呼んだの。お立ちなさいな」
何か特別なものを感じる人じゃない。あまりにも普通の女性すぎて――逆に不気味であった。
この人が、全ての元凶。
これまで行ってきたことと今の印象の乖離が大きすぎて、曄琳は戸惑うしかなかった。
「無理に連れ出してごめんなさいね。こうでもしないと、彼らがあなたを隠してしまうと思ったから」
暁明、雪宜、淳良――彼らというのに誰が含まれているのか。曄琳は己の存在が対立の火種になりかけていることを悟り、唇を噛んだ。しっかりしなければ。ここで怖気づいたら皆の努力が無駄になる。
曄琳は覚悟を決めて壇上の女を見上げる。
「あなた様は、隠さねばならない理由があることをご存知だということですか」
朧は曄琳の啖呵に瞠目し――そして口端を上げた。
「ふふ、思ったより胆力のあるお嬢さんだこと。……ええ、そうね。知っているわ」
これでまどろっこしい探り合いは終わりだ。朧はゆったりと肘置きに身を預ける。
「もう十七年も前になるのね、懐かしいわ」
「母を……なぜ追い出したのですか」
「追い出したというのは語弊があるわ。最終的に決めたのはあの人なのだから」
「でも、あなた様が仕掛けたことでしょう」
朧の目が僅かに細められ、面白いというように笑う。
「全部知ってるの。それでよくこの場で冷静でいられるわね。恐ろしくはないの?」
「恐ろしいです……でも何も出来ずにこの場を去ることの方が、よっぽど恐ろしい」
朧はいよいよ笑い声を上げた。
「素敵。見た目に反して骨があるところもあの人そっくりね」
この場がどう転ぶのか、発言をひとつ間違えたら道が変わりそうで。曄琳は手汗で湿る手のひらを握り合わせる。
「楚蘭はね、宮中を出ていなければ、いずれ国母となる女性だったわ」
朧が謳うように呟く。視線は、曄琳を見据えたまま。曄琳は眉を寄せる。
「母は私が初産で、皇子を産んではいなかったはずです。国母には――」
「いいえ。遠くない未来に、きっと産んでいた」
はっきりと否定される。
「あの人は特別だった。主上の寵愛も深く、格別に愛されていた。私は間違いなく、あの人が次代の皇帝を産むと思ったわ」
「そんな……それは全てあなた様の盲言です」
「ふふ、なら少し下世話な話をしましょうか」
朧はそのほっそりとした指を、自身の下腹に滑らす。
「あなたを身籠るまでに、主上があの人のもとに何回お通いになられたと思う?」
「な、なにを……」
「一回よ」
朧は人差し指で、とんとんと腹を叩く。
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