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第5章 櫻と紅玉
第50話 惜別
しおりを挟む軽い足音が早足でこちらへ向かってくる。曄琳が扉の方を振り返ると、遅れて朧も視線を向ける。
「朧皇太后!!」
淳良が息を切らして庁堂に飛び込んできた。遅れて幾名の兵と官人が入室してくる。淳良を引き留めようとしたが、押し切られたのだろう。その中に暁明の姿もあった。
「余に断りなく兵を動かすとはどういうつもりか!」
淳良が声を荒げる。曄琳の姿を認めると、更に語気を強める。
「これはどういうつもりだ」
「主上、これは申し訳ございません。火急の用でしたので無理を通してしまいました。主上には後々ご報告差し上げようかと」
「近衛はそのように軽く扱えるものではないはず」
「ええ、おっしゃる通り。今後は控えますわ」
手応えのない朧の答えに、淳良の表情は険しいままだ。
「理由を説明をしてもらわないと納得できない」
「そうですわね」
朧はポンと手を合わせるとにこやかに立ち上がり、高台から階を降りてくる。曄琳が思わず後退りすると、逃げるなと言わんばかりに腕を掴まれた。
「主上にもご紹介いたしましょう。こちら、沈長公主でございます」
「なっ……」
「訳あって今まで身分を隠していましたが、本日より皇家に名を連ねることになります。主上のご姉弟ですよ」
淳良の信じられないものを見るような目に、曄琳はたまらず顔を伏せる。
今回の騒動で、暁明あたりから曄琳の身の上について聞かされていると思うが、淳良の反応から、彼もまた曄琳をうまく外に逃がそうと考えていてくれていたのだと気づく。
自分で選んだ道だ。後悔はないが、皆の思いを裏切る形になってしまったことだけが、申し訳なく思う。
「初めて姉弟としての対面ですもの、積もる話もあるでしょう。私は一度お暇いたしますね」
朧がトンと背中を押してきたので、数歩よろけて淳良の前へ立つ。
「沈長公主、あなたの住まいは私が手配するわ。素敵な宮を用意するから、楽しみにしていてくださいまし」
「…………ありがとうございます」
彼女が用意した住まいなら、女官や侍従も全て皇太后の息がかかった者に決まっている。監視を宣言されているも同義だった。
来たときと同じく優雅に裾を翻すと、朧は奥の間へと下がっていった。慌てて後を追う侍従らまでもいなくなると、庁堂には曄琳と淳良、暁明の三者のみとなった。
「曄琳……」
淳良が呆然と呟く。曄琳はようやく目の前の異母弟の顔を見ることができた。彼の丸い目は驚きと動揺で揺れていた。
「なんで」
「母の名誉回復と引き換えにあの方と取引をした結果、長公主として戻ることになりました」
「曄琳はそれでいいのか?」
「……構いません。全部が全部いいように利用されるつもりはありませんから」
微笑んでみせると、淳良が悔しそうに項垂れた。
「すまない。余が不甲斐ないばかりに皇太后の動きを押さえられなかった」
「主上のせいではありません。私が選んだんです」
曄琳は淳良の前に膝をつく。
「これからは私も主上のお側におります。どうぞ、お力になれることがあれば仰ってください」
「……ありがとう」
どこか泣きそうな淳良に曄琳が腕を広げると、彼の細い腕がしがみつくように曄琳の首に回る。そっと背中に手を回すと、耳元で鼻をすする音がした。掠れた声が彼の心情を吐露していて、己の決意にささくれを作る。
「曄琳姐姐」
「……はい」
「おかえりなさい……っ」
返事の代わりに背中を撫でると、一層しがみつく力が強くなった。
淳良の複雑な心境は理解できる。
嬉しさと――無力感。
脱走計画の果てに、母親の名誉と引き換えに皇太后に捕まる。笑えない展開だが、これが曄琳の選んだ道なのだ。
ふと顔を上げると、離れたところからこちらを見守る暁明と目が合う。彼もまた、複雑な表情をしていた。
(あの人とはもう、こんな風に温もりを分かち合うことはできないんだろうな)
立場が変わってしまった。
皇家へ入るということは、そういうことだ。
全て理解して、曄琳は受け入れた。これからは暁明が大切に想う主を曄琳も守ることができるのだから、悪いことばかりではない。
しかし頭でわかっていても、己に言い聞かせても――――さみしい、と。
どこかでそう思う自分の心に、曄琳はそっと蓋をした。
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