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今日も俺の理性は試されている③ーミツバチたちに蒸し殺されて、腰が死ぬ夜ー
しおりを挟む異世界の風呂事情は、実にシビアだ。
蛇口をひねればお湯が出るのが当たり前だった前世の俺にとって、この世界の環境に慣れるのには、それなりに時間がかかった。
ここで“風呂”と言えば、石張りの狭い土間に、小さな排水口と木製のタライがひとつ。そこに井戸や川から汲んできた水を注ぎ、身体を拭くか、夏場に軽く水浴びするくらいが関の山。
もし火魔法が使えたなら、湯を沸かすくらい朝飯前だったんだろうけど――俺にはそんな才能はなかった。
冷たい水で身体を洗いながら、ふと弟のことを思い出す。
俺と違って優秀だったリセルは、きっと今頃、魔法学院でその才覚を存分に発揮しているんだろう。
「……リセル、元気でやってるかな」
声に出してみると、蒸気のない浴場にぽつんと響いて、少しだけ胸が締めつけられた。
「ユーマ、背中拭いてあげるー!」
元気な声が飛んできたのは、風呂場の外。クーだった。
……そして当然ながら、このボロ家の風呂場に鍵なんて小洒落たものはついていない。
「ちょ、待っ――」
言い終えるより早く、ギイ……と戸が開いた。
「無防備な姿のご主人様に甘えるなど、許される行為ではありませんよ」
スッと現れたアヴィが、クーの襟首を静かに引っ張って後退させる。
その後ろから、呆れたようなジト目でガウルも続く。
「また入ろうとしてたのか。……浴室には閂が必要だな」
「あれ、オレ悪いことした?」
首をかしげるクー。アヴィとガウルが一瞬言葉を詰まらせるが、すぐに真顔に戻った。
「……以後、水浴び中のご主人様への接触は禁止にします」
「えー、オレ、ユーマの背中拭きたかっただけなのに」
「ダメです」
アヴィのいつもの即答が響き、続けざまに浴室の戸が静かに閉じられた。
わずかに軋む蝶番の音のあと、質素な風呂場に再び静けさが戻る。
……正直、助かった。
いや、別に背中くらい拭かれてもどうということはない。問題はその後なのだ。
クーはほぼ確実に「オレも水浴びする」と言い出す。
そうなれば、あの子は遠慮という概念を知らず、ぴったりと寄り添いながら無邪気な笑顔で寄ってくる。
俺の理性が保てるかどうかは、運と覚悟次第。
——でも今回は、ギリギリで守られた。
ありがとう、アヴィ。今日の君は世界を救った。
その夜も、いつものように川の字で眠りについた。……はずだった。
「お、重い……ぐるぢい……」
寝苦しさで目が覚めると、視界いっぱいに見慣れた黒髪とクマ耳。
クーが、完全に俺の上に重なって寝ていた。
両腕を脇に押さえつけられ、腹と胸には程よく成長したウルスス男子の全体重がどっしりとのしかかっている。俺、布団ポジション。
「クー……せめて横に寝てくれ……!」
俺の上に完全に乗っかったまま、クーは幸せそうな顔でスヤスヤと寝息を立てている。
軽く揺さぶってもピクリとも動かない。まるでここが指定の寝床かのように、どっしり安定していた。
仕方なく、俺はそっと寝返りを打って、クーを横に転がそうとした――が。
「……え?」
左にはガウル。
いつの間にか俺の腕に頭を預けて寝ている。しかも、地味に重い。
右にあったはずのスペースには、ちゃっかりアヴィが収まっていた。
まるで最初からそこが定位置だったかのように、静かに、満足げに眠っている。
……あれ? 俺これ……逃げ場なくない?
これはもう、ミツバチたちに群がられて蒸し殺されるスズメバチの気分。
小さいからってナメてたら死ぬ。ショタ、怖い。体温、熱い。理性、溶ける。
でもクーは可愛いし、ガウルもアヴィも、妙に穏やかな顔で眠っている。
いやいや!癒されてる場合じゃない!!
俺が寝られない!!!本気で!!腰も!!ヤバい!!!
――そして、夜が明けた。
一睡もできず、クマのような顔で起き上がった俺を見て、3人が揃って口を開く。
「ユーマ、ヘンなカオー!」
「ご主人様、顔色がよろしくないですね」
「ユーマ、目の下すごいぞ」
「おまえらのせいだよおおおおおおおお!!!!」
俺の叫びが朝の静寂を突き破る。
けれど本人たちは、どこ吹く風だ。
「ねえユーマ、おなかすいたー」
クーが遠慮ゼロで俺の腰にしがみついてくる。お前、寝てる間ずっと俺の上にいたの忘れたんか。
「今日はもう無理。二度寝させて……」
俺はベッドにバタンと倒れ込んだ。
いや、もはやベッドというより地獄の巣箱。それでも構わない、とにかく横にならせてくれ。
「オレもユーマと二度寝するー」
クーが当然のように背中に飛び乗ってきたかと思うと、スーピーと寝息を立てはじめる。
「……クー……重い……」
耐える俺の声も虚しく、上にのしかかるちびの体重はじわじわと俺の肺を圧迫していく。
「クーさん! ご主人様の上で寝るのは禁止です!」
駆け寄ってきたアヴィが、クーを引き剥がそうと腕を伸ばす。
「やだ! オレ、ユーマと寝るのー!」
「ダメです! 今朝の当番は、僕とクーさんなんですから!」
「でも、ユーマと寝るっ……!」
「寝たいじゃないです!起きてください!朝ごはんの支度、忘れましたか!?」
俺の首にしがみついたクーが、まるでプロレス技のように俺を締め上げる。
「く、クー……! く、首、首がァ……死ぬッ……!!」
「ガウルさんも! 見てないで手伝ってください!」
ベッドの端で、ガウルが真顔のまま肩を震わせていた。笑ってる。やめて。
なんで俺の窒息しかけてる姿で笑えるの。
死ぬ。物理的に。
そんなこんなで、俺の“二度寝”は今日も遠い夢となったのだった。
***
クーは――見た目に反して、実はものすごく強い。
強いというより、恐ろしく「できる」奴だ。
飲み込みは早いし、弓の腕は驚くほど正確。普段はふにゃっとした末っ子ポジなのに、ひとたび仕事に入ると、まるで別人みたいに目つきが変わる。
俺たちは今、崖の上から眼下のベヒーモスを見下ろしていた。
風が鳴り、獣の咆哮が遠くで響く。
それでも俺の手は、地面の土を迷いなく撫でていく。
「――ここが“要”だ」
木の棒で、崖の土を盤に見立てて作戦図を描いていく。
この地形なら、ベヒーモスは南から抜けたがるはず。となると、要所を“星”のように押さえておく必要がある。
「囲碁では“布石”って言うんだ。序盤でどう打つかで、後の展開が全て変わる。ここでクーの狙撃、こっちでアヴィの陽動。ガウルはここで動きを止めて……俺が囮になる」
「ユーマ、あそこの岩陰、使える」
いつの間にか、クーが俺の隣にしゃがんでいた。
さっきまで頬をぷにぷにさせてた顔が、今はすっかりハンターの目になっている。
「……了解。クー、そこからなら視界も射線も良好だ。初弾は君に任せるよ」
コクリと小さく頷くクーに、俺も頷き返した。
いつも甘えてくる子が、こんな顔をするなんて、ギャップありすぎだろ。
でも今はそれどころじゃない。
勝たなきゃ意味がない。守れなきゃ――俺がここにいる意味も、ないんだから。
巨大な咆哮が、空気を震わせた。
崖の下、地鳴りを立てながら暴れるベヒーモス。その足元では、ガウルとアヴィが絶妙な連携で翻弄し、俺は上から注意を引く囮役を担っていた。
「クー、準備いいか!? 合図で撃ってくれ!」
「……うん。見えてる」
岩陰に潜むクーの声は、さっきまで甘えてた子と同じとは思えないほど静かで落ち着いていた。
俺はベヒーモスに向かって石を放り、わざと声を張る。
「こっちだよ、ノロマ野郎!!」
それに反応して、巨体がわずかにこちらに向いた瞬間――
ヒュンッ!
風を切る鋭い音とともに、クーの矢がうなりを上げて飛んだ。
一瞬のうちに、ベヒーモスの片目に命中。
その巨体がよろけたのを合図に、ガウルとアヴィが一気に畳みかける。
よし、計画通り――そう思った、その時だった。
「ユーマ、上だっ!」
ガウルの声に反応して、俺が顔を上げた瞬間、視界に影が走った。
空から、三体の飛行モンスター――プテラリオが滑空してきていた。
「まずい……ッ!!」
間に合わない。
あいつらは俺を狙ってる。その鉤爪が俺を捕らえようとした、その刹那――
ヒュンッ!
風を裂く音が、下から聞こえた。
次の瞬間、目の前のプテラリオが空中でひしゃげるようにしてバランスを崩し、崖の下へと落ちていく。
ヒュッ、ヒュン!
連続で放たれた矢が、まるで生きているかのように二体目、三体目の急所を正確に貫いた。
撃ち落とされた三体は、悲鳴を上げる間もなく森の影に消えていった。
「っ……!」
俺は思わず崖下を見下ろす。
そこには中段の足場の岩の上、不安定な場所に立つクーの姿があった。
彼は弓を引き絞ったまま、じっと空を見上げている。
まったくの無表情――でも、矢を添えた指先が微かに震えていた。
「クー……助かったよ、ありがとう」
「ユーマ、怪我ない?」
「ああ、なんともない……!」
「よかった」
ホッとしたように微笑むその顔は、いつものクーだった。
でもさっきの精密射撃は、どう考えても甘えっ子のそれじゃない。
(やばい……惚れる……)
いや、ダメだ俺は保護者――いやでも、あれはちょっと反則っていうか――
俺が内心で保護者像を見失っているうちに、ガウルとアヴィがベヒーモスの止めを刺し、巨体が崩れ落ちた。
「……さすがクーさんですね」
アヴィが肩を揺らしながら笑い、ガウルは短く言う。
「今回は、お前が主役だったな」
クーは照れたように笑って、俺の方をちらっと見た。
「えへへ……ユーマ、見てた?」
「見てた見てた見てた! すごい! めっちゃかっこよかった! 今の完全に狙ってたんだよね!? えっ、なんであんな正確に……ていうか俺、心臓止まるかと思った……!」
興奮して言葉が止まらない俺に、クーは小さな手でピースしてきた。
ちょっと血と泥がついてたけど、そんなのどうでもよかった。
ベヒーモス討伐、完了。
作戦通りの見事な勝利――でも今日のMVPは、間違いなくクーだった。
戦いが終わり、空には静けさが戻っていた。
倒れたベヒーモスの巨体から、持ち帰れる素材だけを剥ぎ取り――俺たちは、乾いた大地を踏みしめながら帰路につく。
ゴツゴツとした岩を避けつつ、ぼんやりと空を見上げていたそのとき。
隣にいたはずのクーが、ぴょん、と軽やかに跳ね寄ってきた。
「ユーマ! おんぶ!」
「は!? 今このタイミングで!?」
言い終える間もなく、クーは勢いよく俺の背中に飛びついてきた。
ぐらりと体勢を崩しかけ、俺は思わずよろける。
「お、おい、クー!? 重っ……! 腰が死ぬ!!」
「でもオレ、今日いっぱいがんばった」
「がんばったけどもぉぉぉ!」
後ろでアヴィが目を細めて静かに言う。
「クーさん、だめです。抱っこもおんぶも、今日すでに回数オーバーしてますよ」
「えっ、いつの間にそんなルールが!?」
「僕が今、作りました」
「さすがに自重しろ。お前は俺より重い」と、ガウルもボソリ。
「…………」
「ねぇ、ちょっと!? クー、これ寝てない!?」
返事の代わりに返ってきたのは、ふにゃっとした寝息だった。
俺の背中で、クーはすでに夢の中。
「……おとうさん」
ぽつりと、寝言のような声がこぼれる。
俺は何も言えなくなって、ただそのまま背中の重みを受け止めた。
獣化した父・オロと暮らしていたころ、きっとクーはこうやって――父の背中で守られていたんだ。
アヴィとガウルは何か言いたげに俺を見たが、結局、言葉にはしなかった。
代わりに、アヴィがクーの矢筒を、ガウルが俺の荷物を無言で引き取ってくれる。
言わなくても、伝わることもあるらしい。
――戦闘よりも、こっちの体力のほうが削られるとは思わなかった。
でもまあ、筋肉痛になっても、例え腰が死んでも――俺には、温湿布代わりのヒールがある。
「軟膏以外の使い道もあったんだな……」
そう思ったとき、俺はたぶん人生で初めて、心の底からヒールという魔法に感謝した。
……リセルへ。
元気にしてるか?
そっちはちゃんと風呂、毎日入れてるか? 温かい飯、食えてるか?
こっちはまあ、いろいろあるけど――頼もしい仲間たちに支えられながら、なんとかやってます。
たまに同居人が風呂に侵入してきたり、寝てるときに上に乗っかってきて、腕が痺れたり、腰が死にかけたりしてるけど……兄さんは、どうにか生きてます。たぶん元気です。
あ、でもヒールあるからセーフ。
魔法って、こういう時のためにあるんだなって、初めて心から思ったよ。
じゃあまたな。
兄さんより。
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