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【第四話:忘郷−紫陽花の幽都− 中編】
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しばらく森を抜けると、ふいに空気の匂いが変わった。
それは土と葉の匂いに混じる、かすかに甘く澄んだ香り。視界の先、もやの向こうに、ほんのりと色づく淡紫の花々が揺れているのが見えた。
濃い霧が辺り一面を覆っている。だがそれは不気味なものではなく、まるで夢の中に迷い込んだような、柔らかく幻想的な白。木々の間から差し込む光も、すべてが白く霞み、どこか現実離れした静寂を漂わせていた。
その霧の中に、紫陽花が群生していた。青、紫、白、淡紅――。色とりどりの花弁が咲き誇る様は、まるで地面そのものが花畑になったかのようだった。
「……ここが」
白鷹が立ち止まり、そっと呟く。
「僕の生まれた、銀妖の里です」
その声に導かれるように、一行は足を止める。遠く、霧の向こうに、木の枝と同化するようにして建ついくつかの屋根が、ぼんやりと浮かんでいた。
あたりには人の気配がない。だが、どこかで見られているような、自然と共にある者たちの静かな眼差しが、森の奥に感じられた。
朱雀が、霧の向こうに揺れる紫陽花を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……気色悪ぃくらい綺麗だな。まるで最初から、何もかも無かったみてぇに……」
その声には、美しさに対する感嘆ではなく、吐き捨てるような苛立ちが混じっていた。
花々の彩りも、幻想的な霧も――彼にとっては、かつて自分を拒んだこの里の、冷たい偽りにしか見えなかった。
――その時だった。
ぴんと張り詰めた空気を裂くように、風を切る音が走る。
ひと筋の矢が、霧の中から飛び出し、まっすぐ夕陽の足元へと突き刺さった。
湿った土をえぐるように、鋭く、深く。
誰の目にも明らかな、敵意。
「……っ!」
すかさず朱雀が動いた。目を見開いたまま、夕陽の前に躍り出る。同時に銀郎も、静かに身を滑らせて立ちはだかり、二人揃って刀を抜く。
夕陽を守るように、左右からその身体を囲む構え――臨戦態勢。
霧の向こうに気配がある。潜む者たちの気配。目には見えないが、確かに殺気を帯びた視線がこちらを狙っていた。
「……やめてください!」
白鷹が声を張り上げた。ふらつきながらも前へ出て、霧に向かって叫ぶ。
「攻撃をやめてください! この方たちは敵じゃない、僕たちを――この里を救ってくれるかもしれない人たちなんです!」
その声はかすかに震えていた。だが、真っ直ぐだった。
この里の者に届くように、何より、信じたいと願う自身の想いが込められていた。
白鷹の必死の訴えに応えるように、霧がゆっくりと割れる。
その向こうから現れたのは、重々しい気配をまとった男と、弓を構えたままこちらを警戒する戦士たちだった。
先頭に立つ男は、白髪混じりの長髪を後ろに束ね、鋭い眼光と皺深い顔に圧を宿す。年老いてなお、その背筋は真っすぐで威厳に満ちていた。
その場に立つだけで、空気が張り詰めるような存在感――まぎれもなく、この里の“長”と呼ばれる者だろう。
「……白鷹。おまえ、掟を破ったな」
低く唸るような声が、霧の中に響いた。静かに、だが確かな怒気を孕んでいる。
「に、人間を連れてきただって……?」 「それに、あの赤い髪の銀妖……まさか……」
ざわり、と空気がざわつく。戦士のひとりが、朱雀を睨みつけながら叫んだ。
「禍の子だ……! 禍の子が戻ってきたぞッ!!」
その声を皮切りに、周囲が一気に騒然とする。
「やはり奇病は、禍の子の仕業だったんだ……!」
「早く殺せ……!」
弓を構える手に力が入り、誰かが剣の柄に手を添えた。
朱雀が険しい顔つきでにらみ返すのを、夕陽が手を軽く上げて制する。
長が、冷たく白鷹を見据える。
「白鷹よ。人間のみならず、禍の子まで連れてくるとは……。一体、どういうつもりだ」
その言葉には、失望と怒りとがないまぜになっていた。
あたりの空気が凍りつくような緊迫の中で、白鷹は膝をつくように頭を下げた。
「はい。掟を破ったこと、重々承知しております。その非は、すべて僕にあります。あとでどんなお叱りも、罰も、すべて受けます……」
顔を上げた白鷹の瞳には、まっすぐな光が宿っていた。
「ですが――この方は、人間でありながら、僕たち銀妖を助けようとしてくれている。
夕陽殿のお話に、どうか耳を傾けてください。お願いします……!」
その訴えに、場の空気が揺らいだ。
弓を構えていた戦士たちも、一部がちらと長を伺うような視線を投げる。
「話がしたい。二人とも、刀を納めてくれるかい?」
銀郎は一拍置いたのち、静かに刀を鞘へ戻す。朱雀も渋々といった様子で構えを解いた。
夕陽は二人を後ろへ下がらせると、一歩、前へと進み出た。背後には銀郎と朱雀が、まるでその存在を守るように並び立っている。霧に包まれた紫陽花の群生の中、静けさを裂くように、夕陽の声が響いた。
「私は、祓い屋を生業としている、四條夕陽と申します。白鷹くんから話は聞かせていただきました。この里では、今、多くの者が病に伏していると――」
「それがどうした」
長が鋭く切り返す。
「貴様には何の関係もないことだろう。……何が狙いだ」
「いいえ、私はただ、知りたいのです」
夕陽は一歩、さらに踏み出し、まっすぐに長を見据える。
「“禍の子”が本当に厄災を呼ぶ存在なのか。……その真偽を」
「ふん、そこの赤毛が生きている。それがなによりの証明ではないのか」
その言葉に、朱雀がピクリと肩を震わせる。
「……本当に、そうでしょうか?」
「……なに?」
長の眉がわずかに動く。
「私は、かつて絶望の淵にいました。大切なものを失くし、生きる意味さえ見えなくなっていた。そんなとき――まだ臍の緒もついたままの彼が、家の裏の竹藪に捨てられていたのです。彼を拾い、育てることが、私にとっての唯一の希望となった」
静かに語る夕陽の声は、決して大きくはなかった。しかしその熱は、確かにその場にいた者すべてに伝わるものだった。
「彼は、私に救われた、と──思っているかもしれません。でも……真に救われていたのは、私の方だったのです。彼が、……朱雀がいてくれたから、私は今もこうして立っていられる」
「夕陽様……」
その言葉に、朱雀はぐっと顔を伏せた。こらえようとした感情が瞼の奥で溢れ、唇がわずかに震える。
「…………」
重苦しい沈黙が続くなか、長と見られる男の鋭い視線が、銀郎へと向けられた。
「……お前は、この里の者ではないな。なぜお前は、銀妖でありながら、その男に与する?」
問われた銀郎は、一拍の間を置き、静かに一歩前へ出た。その瞳は、曇りなくまっすぐに長を見返している。
「この御方に、命を救われた。ただそれだけの事だ」
淡々と告げながら、銀郎は腰の刀に手をかける。鞘がわずかに鳴る音が、張り詰めた空気をさらに強張らせた。
「この御方に、傷ひとつでもつけてみろ。首が飛ぶぞ」
その声音は低く、鋭く、冷えた刃のような威圧感を帯びていた。周囲の戦士たちが思わず手を強く弓にかけ直す。
「――銀郎。よしなさい」
その場の緊張をほどくように、夕陽が銀郎の肩へそっと手を置いた。
「剣は振るうものではなく、納めるためにある。それを、おまえが一番よく知っているだろう?」
その柔らかな声音に、銀郎は静かに息を吐き、しばし目を伏せる。そして、音を立てぬように刀を鞘へと戻した。
「……はい」
夕陽が継いで口を開く。
「病の原因が、もし呪いによるものなら……私にできることがあるかもしれません。救いたいのです。白鷹くんと、その母君を。そしてこの里で、今もなお苦しんでいる方々も――」
長の目が、わずかに揺れる。
「……勝手にしろ。ただし、もてなしなどせん。少しでも妙な真似をすれば――どうなるか、分かっているな」
「ええ、もちろん」
夕陽の返答に、長はなおも鋭く言い放つ。
「それと――用が済んだら、さっさと出ていけ」
吐き捨てるような声を残し、長は里の者たちを従えて背を向けた。その背中からは、最後まで警戒を解こうとしない冷たい気配が漂っていた。
***
薄暗い里の長屋、その奥の一室。腐葉の香りと、湿った空気が漂う中、白鷹はすまなそうに目を伏せて言った。
「……父が、申し訳ありませんでした」
静かに告げられたその言葉に、朱雀の瞳が細められる。白鷹の言う“父”とは、先ほど敵意をむき出しにした、あの里の長――。
「……やっぱり、そうか」
朱雀の低い声に、白鷹は頷く。
「はい、しかし兄さんと血縁は無いようです。恐らく僕らは異父兄弟ではないかと……」
そして、布団に横たわる母のそばまで歩み寄り、朱雀を見やった。
「……こちらです。母さんは、病のせいでもう目が見えません。でも……きっと、兄さんのことなら分かるかと……」
静かに部屋へと促される。朱雀は、一歩、また一歩と母の寝所へと近づいていった。寝台の上、包帯に包まれた細い身体が、病に蝕まれた日々の長さを物語っている。目元も布で覆われ、起きているのか、寝ているのかも分からない。だが、朱雀が近づいた瞬間、ぴくりと鼻先が動いた。
「……あの人と、同じ匂いがする」
かすれた声が、唇からこぼれた。
朱雀の肩が、びくりと震える。
母は、目が見えなくても、朱雀が誰なのか――ちゃんと、わかっていた。
朱雀が母の枕元に膝をつくと、かすかに震える手が伸ばされた。細くて、骨ばったその手が、朱雀の腕に触れる。
次の瞬間――その手が、ぎゅっと朱雀の腕を引き寄せた。
「……ああ、ああ……私の坊や……!」
母の声が、嗚咽にかすれて震える。
「こんなに……こんなに大きくなって……、よく会いにきてくれたね……その顔を母さんによく見せておくれ……」
目が見えぬはずの母が、両手をそっと朱雀の顔へと添える。朱雀は抵抗せず、そのままじっとしていた。
母の手のひらが、そっと額から頬へ、鼻筋、唇、顎をなぞるように輪郭をたどっていく。
それは、彼女なりの「見る」行為だった。
そして、ふと手が止まり、指先がそっと朱雀の頬を撫でる。
「……ああ……あの人と、おんなじだ……」
ぽろり、ぽろりと、巻かれた布の隙間から涙がこぼれ落ちる。
朱雀は、声も出せずに、ただその胸に顔を埋めた。
その様子を見届けて、夕陽は静かに口を開く。
「……しばらく、二人に」
そう言ってそっと退室すると、銀郎と白鷹も無言でそれに従った。
表へ出ると、すでに夜の気配が静かに銀妖の里を包みはじめていた。紫陽花の群生は灯籠の淡い燈火に照らされ、どこか幻想的に橙色に染まっている。濃い霧はさらに深さを増し、足元から立ち上るそれが、まるでこの地が夢と現の狭間であるかのような錯覚を誘った。
白鷹が足を止め、振り返って夕陽たちに目を向けた。
「夕陽殿、一度お休みになられては? 朝から歩き詰めで、さぞお疲れでしょう」
その言葉に、夕陽はわずかに笑みを浮かべて首を振る。
「いや、私は平気だ。ただ、少し気になることがあってね。辺りを散策しても構わないだろうか?」
「もちろんです。おそらく父が、夕陽殿には手出し無用と、里の者にお触れを出しているはずです。危険はないかと」
白鷹が言葉を選ぶように続けたところで、銀郎が一歩前に出る。
「念のため、夕陽様に害が及ばぬよう、私もお供いたします」
「ありがとうございます。……お休みの際は、この長屋の奥に空き部屋があります。どうぞご自由にお使いください。他に何かございましたら、僕は母の部屋におりますので、遠慮なくお声がけを」
そう言って一礼した白鷹の横顔には、どこか年齢以上の静かな覚悟と気遣いが滲んでいた。
白鷹と別れたあと、夕陽と銀郎は声を潜めるようにして歩き出す。足音は土に吸い込まれ、二人は静かに、里の奥へと踏み入っていった。
灯りは一切なく、わずかに差す光は、薄くにじむような朧月だけ。枝葉の隙間からこぼれる月光が、歪んだ影を足元に落とす。
銀郎の耳がぴくりと揺れた。獣のごとく敏感に、周囲の気配を探るその仕草に、夕陽も自然と息をひそめる。
――ここは何かがおかしい。
空気が重い。湿っていて、生温かい吐息のように、首筋をなぞっていく。
「このあたりから、妙な瘴気を感じますね。……油断しないでください」
銀郎の声はひそやかに響いたが、その声音には凛とした鋭さが宿っていた。
それに応じるように、夕陽は静かに頷き、懐から数枚の御札を取り出して片手に構える。
「……ああ。この病の源は、自然の摂理ではないな。何かが、ここに留まり、渦を巻いている。――強い怨念だ」
草を踏む音さえ、夜の闇に吸い込まれていくかのような静寂の中。
二人は言葉を交わすことなく歩を進め、やがて里の外れへと辿り着く。そこには、月の光さえ届かぬ一角に、ひときわ異様な色を放つ――深碧に染まった紫陽花が、咲き乱れていた。
続く
それは土と葉の匂いに混じる、かすかに甘く澄んだ香り。視界の先、もやの向こうに、ほんのりと色づく淡紫の花々が揺れているのが見えた。
濃い霧が辺り一面を覆っている。だがそれは不気味なものではなく、まるで夢の中に迷い込んだような、柔らかく幻想的な白。木々の間から差し込む光も、すべてが白く霞み、どこか現実離れした静寂を漂わせていた。
その霧の中に、紫陽花が群生していた。青、紫、白、淡紅――。色とりどりの花弁が咲き誇る様は、まるで地面そのものが花畑になったかのようだった。
「……ここが」
白鷹が立ち止まり、そっと呟く。
「僕の生まれた、銀妖の里です」
その声に導かれるように、一行は足を止める。遠く、霧の向こうに、木の枝と同化するようにして建ついくつかの屋根が、ぼんやりと浮かんでいた。
あたりには人の気配がない。だが、どこかで見られているような、自然と共にある者たちの静かな眼差しが、森の奥に感じられた。
朱雀が、霧の向こうに揺れる紫陽花を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……気色悪ぃくらい綺麗だな。まるで最初から、何もかも無かったみてぇに……」
その声には、美しさに対する感嘆ではなく、吐き捨てるような苛立ちが混じっていた。
花々の彩りも、幻想的な霧も――彼にとっては、かつて自分を拒んだこの里の、冷たい偽りにしか見えなかった。
――その時だった。
ぴんと張り詰めた空気を裂くように、風を切る音が走る。
ひと筋の矢が、霧の中から飛び出し、まっすぐ夕陽の足元へと突き刺さった。
湿った土をえぐるように、鋭く、深く。
誰の目にも明らかな、敵意。
「……っ!」
すかさず朱雀が動いた。目を見開いたまま、夕陽の前に躍り出る。同時に銀郎も、静かに身を滑らせて立ちはだかり、二人揃って刀を抜く。
夕陽を守るように、左右からその身体を囲む構え――臨戦態勢。
霧の向こうに気配がある。潜む者たちの気配。目には見えないが、確かに殺気を帯びた視線がこちらを狙っていた。
「……やめてください!」
白鷹が声を張り上げた。ふらつきながらも前へ出て、霧に向かって叫ぶ。
「攻撃をやめてください! この方たちは敵じゃない、僕たちを――この里を救ってくれるかもしれない人たちなんです!」
その声はかすかに震えていた。だが、真っ直ぐだった。
この里の者に届くように、何より、信じたいと願う自身の想いが込められていた。
白鷹の必死の訴えに応えるように、霧がゆっくりと割れる。
その向こうから現れたのは、重々しい気配をまとった男と、弓を構えたままこちらを警戒する戦士たちだった。
先頭に立つ男は、白髪混じりの長髪を後ろに束ね、鋭い眼光と皺深い顔に圧を宿す。年老いてなお、その背筋は真っすぐで威厳に満ちていた。
その場に立つだけで、空気が張り詰めるような存在感――まぎれもなく、この里の“長”と呼ばれる者だろう。
「……白鷹。おまえ、掟を破ったな」
低く唸るような声が、霧の中に響いた。静かに、だが確かな怒気を孕んでいる。
「に、人間を連れてきただって……?」 「それに、あの赤い髪の銀妖……まさか……」
ざわり、と空気がざわつく。戦士のひとりが、朱雀を睨みつけながら叫んだ。
「禍の子だ……! 禍の子が戻ってきたぞッ!!」
その声を皮切りに、周囲が一気に騒然とする。
「やはり奇病は、禍の子の仕業だったんだ……!」
「早く殺せ……!」
弓を構える手に力が入り、誰かが剣の柄に手を添えた。
朱雀が険しい顔つきでにらみ返すのを、夕陽が手を軽く上げて制する。
長が、冷たく白鷹を見据える。
「白鷹よ。人間のみならず、禍の子まで連れてくるとは……。一体、どういうつもりだ」
その言葉には、失望と怒りとがないまぜになっていた。
あたりの空気が凍りつくような緊迫の中で、白鷹は膝をつくように頭を下げた。
「はい。掟を破ったこと、重々承知しております。その非は、すべて僕にあります。あとでどんなお叱りも、罰も、すべて受けます……」
顔を上げた白鷹の瞳には、まっすぐな光が宿っていた。
「ですが――この方は、人間でありながら、僕たち銀妖を助けようとしてくれている。
夕陽殿のお話に、どうか耳を傾けてください。お願いします……!」
その訴えに、場の空気が揺らいだ。
弓を構えていた戦士たちも、一部がちらと長を伺うような視線を投げる。
「話がしたい。二人とも、刀を納めてくれるかい?」
銀郎は一拍置いたのち、静かに刀を鞘へ戻す。朱雀も渋々といった様子で構えを解いた。
夕陽は二人を後ろへ下がらせると、一歩、前へと進み出た。背後には銀郎と朱雀が、まるでその存在を守るように並び立っている。霧に包まれた紫陽花の群生の中、静けさを裂くように、夕陽の声が響いた。
「私は、祓い屋を生業としている、四條夕陽と申します。白鷹くんから話は聞かせていただきました。この里では、今、多くの者が病に伏していると――」
「それがどうした」
長が鋭く切り返す。
「貴様には何の関係もないことだろう。……何が狙いだ」
「いいえ、私はただ、知りたいのです」
夕陽は一歩、さらに踏み出し、まっすぐに長を見据える。
「“禍の子”が本当に厄災を呼ぶ存在なのか。……その真偽を」
「ふん、そこの赤毛が生きている。それがなによりの証明ではないのか」
その言葉に、朱雀がピクリと肩を震わせる。
「……本当に、そうでしょうか?」
「……なに?」
長の眉がわずかに動く。
「私は、かつて絶望の淵にいました。大切なものを失くし、生きる意味さえ見えなくなっていた。そんなとき――まだ臍の緒もついたままの彼が、家の裏の竹藪に捨てられていたのです。彼を拾い、育てることが、私にとっての唯一の希望となった」
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「彼は、私に救われた、と──思っているかもしれません。でも……真に救われていたのは、私の方だったのです。彼が、……朱雀がいてくれたから、私は今もこうして立っていられる」
「夕陽様……」
その言葉に、朱雀はぐっと顔を伏せた。こらえようとした感情が瞼の奥で溢れ、唇がわずかに震える。
「…………」
重苦しい沈黙が続くなか、長と見られる男の鋭い視線が、銀郎へと向けられた。
「……お前は、この里の者ではないな。なぜお前は、銀妖でありながら、その男に与する?」
問われた銀郎は、一拍の間を置き、静かに一歩前へ出た。その瞳は、曇りなくまっすぐに長を見返している。
「この御方に、命を救われた。ただそれだけの事だ」
淡々と告げながら、銀郎は腰の刀に手をかける。鞘がわずかに鳴る音が、張り詰めた空気をさらに強張らせた。
「この御方に、傷ひとつでもつけてみろ。首が飛ぶぞ」
その声音は低く、鋭く、冷えた刃のような威圧感を帯びていた。周囲の戦士たちが思わず手を強く弓にかけ直す。
「――銀郎。よしなさい」
その場の緊張をほどくように、夕陽が銀郎の肩へそっと手を置いた。
「剣は振るうものではなく、納めるためにある。それを、おまえが一番よく知っているだろう?」
その柔らかな声音に、銀郎は静かに息を吐き、しばし目を伏せる。そして、音を立てぬように刀を鞘へと戻した。
「……はい」
夕陽が継いで口を開く。
「病の原因が、もし呪いによるものなら……私にできることがあるかもしれません。救いたいのです。白鷹くんと、その母君を。そしてこの里で、今もなお苦しんでいる方々も――」
長の目が、わずかに揺れる。
「……勝手にしろ。ただし、もてなしなどせん。少しでも妙な真似をすれば――どうなるか、分かっているな」
「ええ、もちろん」
夕陽の返答に、長はなおも鋭く言い放つ。
「それと――用が済んだら、さっさと出ていけ」
吐き捨てるような声を残し、長は里の者たちを従えて背を向けた。その背中からは、最後まで警戒を解こうとしない冷たい気配が漂っていた。
***
薄暗い里の長屋、その奥の一室。腐葉の香りと、湿った空気が漂う中、白鷹はすまなそうに目を伏せて言った。
「……父が、申し訳ありませんでした」
静かに告げられたその言葉に、朱雀の瞳が細められる。白鷹の言う“父”とは、先ほど敵意をむき出しにした、あの里の長――。
「……やっぱり、そうか」
朱雀の低い声に、白鷹は頷く。
「はい、しかし兄さんと血縁は無いようです。恐らく僕らは異父兄弟ではないかと……」
そして、布団に横たわる母のそばまで歩み寄り、朱雀を見やった。
「……こちらです。母さんは、病のせいでもう目が見えません。でも……きっと、兄さんのことなら分かるかと……」
静かに部屋へと促される。朱雀は、一歩、また一歩と母の寝所へと近づいていった。寝台の上、包帯に包まれた細い身体が、病に蝕まれた日々の長さを物語っている。目元も布で覆われ、起きているのか、寝ているのかも分からない。だが、朱雀が近づいた瞬間、ぴくりと鼻先が動いた。
「……あの人と、同じ匂いがする」
かすれた声が、唇からこぼれた。
朱雀の肩が、びくりと震える。
母は、目が見えなくても、朱雀が誰なのか――ちゃんと、わかっていた。
朱雀が母の枕元に膝をつくと、かすかに震える手が伸ばされた。細くて、骨ばったその手が、朱雀の腕に触れる。
次の瞬間――その手が、ぎゅっと朱雀の腕を引き寄せた。
「……ああ、ああ……私の坊や……!」
母の声が、嗚咽にかすれて震える。
「こんなに……こんなに大きくなって……、よく会いにきてくれたね……その顔を母さんによく見せておくれ……」
目が見えぬはずの母が、両手をそっと朱雀の顔へと添える。朱雀は抵抗せず、そのままじっとしていた。
母の手のひらが、そっと額から頬へ、鼻筋、唇、顎をなぞるように輪郭をたどっていく。
それは、彼女なりの「見る」行為だった。
そして、ふと手が止まり、指先がそっと朱雀の頬を撫でる。
「……ああ……あの人と、おんなじだ……」
ぽろり、ぽろりと、巻かれた布の隙間から涙がこぼれ落ちる。
朱雀は、声も出せずに、ただその胸に顔を埋めた。
その様子を見届けて、夕陽は静かに口を開く。
「……しばらく、二人に」
そう言ってそっと退室すると、銀郎と白鷹も無言でそれに従った。
表へ出ると、すでに夜の気配が静かに銀妖の里を包みはじめていた。紫陽花の群生は灯籠の淡い燈火に照らされ、どこか幻想的に橙色に染まっている。濃い霧はさらに深さを増し、足元から立ち上るそれが、まるでこの地が夢と現の狭間であるかのような錯覚を誘った。
白鷹が足を止め、振り返って夕陽たちに目を向けた。
「夕陽殿、一度お休みになられては? 朝から歩き詰めで、さぞお疲れでしょう」
その言葉に、夕陽はわずかに笑みを浮かべて首を振る。
「いや、私は平気だ。ただ、少し気になることがあってね。辺りを散策しても構わないだろうか?」
「もちろんです。おそらく父が、夕陽殿には手出し無用と、里の者にお触れを出しているはずです。危険はないかと」
白鷹が言葉を選ぶように続けたところで、銀郎が一歩前に出る。
「念のため、夕陽様に害が及ばぬよう、私もお供いたします」
「ありがとうございます。……お休みの際は、この長屋の奥に空き部屋があります。どうぞご自由にお使いください。他に何かございましたら、僕は母の部屋におりますので、遠慮なくお声がけを」
そう言って一礼した白鷹の横顔には、どこか年齢以上の静かな覚悟と気遣いが滲んでいた。
白鷹と別れたあと、夕陽と銀郎は声を潜めるようにして歩き出す。足音は土に吸い込まれ、二人は静かに、里の奥へと踏み入っていった。
灯りは一切なく、わずかに差す光は、薄くにじむような朧月だけ。枝葉の隙間からこぼれる月光が、歪んだ影を足元に落とす。
銀郎の耳がぴくりと揺れた。獣のごとく敏感に、周囲の気配を探るその仕草に、夕陽も自然と息をひそめる。
――ここは何かがおかしい。
空気が重い。湿っていて、生温かい吐息のように、首筋をなぞっていく。
「このあたりから、妙な瘴気を感じますね。……油断しないでください」
銀郎の声はひそやかに響いたが、その声音には凛とした鋭さが宿っていた。
それに応じるように、夕陽は静かに頷き、懐から数枚の御札を取り出して片手に構える。
「……ああ。この病の源は、自然の摂理ではないな。何かが、ここに留まり、渦を巻いている。――強い怨念だ」
草を踏む音さえ、夜の闇に吸い込まれていくかのような静寂の中。
二人は言葉を交わすことなく歩を進め、やがて里の外れへと辿り着く。そこには、月の光さえ届かぬ一角に、ひときわ異様な色を放つ――深碧に染まった紫陽花が、咲き乱れていた。
続く
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※ 不定期更新です。
異世界転移して美形になったら危険な男とハジメテしちゃいました
ノルジャン
BL
俺はおっさん神に異世界に転移させてもらった。異世界で「イケメンでモテて勝ち組の人生」が送りたい!という願いを叶えてもらったはずなのだけれど……。これってちゃんと叶えて貰えてるのか?美形になったけど男にしかモテないし、勝ち組人生って結局どんなん?めちゃくちゃ危険な香りのする男にバーでナンパされて、ついていっちゃってころっと惚れちゃう俺の話。危険な男×美形(元平凡)※ムーンライトノベルズにも掲載
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