朱と銀の誓約〜二人の銀獣を保護したら執愛されました〜

たもゆ

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【第四話:忘郷−紫陽花の幽都− 中編】

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 しばらく森を抜けると、ふいに空気の匂いが変わった。

 それは土と葉の匂いに混じる、かすかに甘く澄んだ香り。視界の先、もやの向こうに、ほんのりと色づく淡紫の花々が揺れているのが見えた。

 濃い霧が辺り一面を覆っている。だがそれは不気味なものではなく、まるで夢の中に迷い込んだような、柔らかく幻想的な白。木々の間から差し込む光も、すべてが白く霞み、どこか現実離れした静寂を漂わせていた。

 その霧の中に、紫陽花が群生していた。青、紫、白、淡紅――。色とりどりの花弁が咲き誇る様は、まるで地面そのものが花畑になったかのようだった。

「……ここが」

 白鷹が立ち止まり、そっと呟く。

「僕の生まれた、銀妖の里です」

 その声に導かれるように、一行は足を止める。遠く、霧の向こうに、木の枝と同化するようにして建ついくつかの屋根が、ぼんやりと浮かんでいた。

 あたりには人の気配がない。だが、どこかで見られているような、自然と共にある者たちの静かな眼差しが、森の奥に感じられた。

 朱雀が、霧の向こうに揺れる紫陽花を見つめながら、ぽつりと呟いた。

「……気色悪ぃくらい綺麗だな。まるで最初から、何もかも無かったみてぇに……」

 その声には、美しさに対する感嘆ではなく、吐き捨てるような苛立ちが混じっていた。
 花々の彩りも、幻想的な霧も――彼にとっては、かつて自分を拒んだこの里の、冷たい偽りにしか見えなかった。

 ――その時だった。

 ぴんと張り詰めた空気を裂くように、風を切る音が走る。

 ひと筋の矢が、霧の中から飛び出し、まっすぐ夕陽の足元へと突き刺さった。
 湿った土をえぐるように、鋭く、深く。

 誰の目にも明らかな、敵意。

「……っ!」

 すかさず朱雀が動いた。目を見開いたまま、夕陽の前に躍り出る。同時に銀郎も、静かに身を滑らせて立ちはだかり、二人揃って刀を抜く。
 夕陽を守るように、左右からその身体を囲む構え――臨戦態勢。

 霧の向こうに気配がある。潜む者たちの気配。目には見えないが、確かに殺気を帯びた視線がこちらを狙っていた。

「……やめてください!」

 白鷹が声を張り上げた。ふらつきながらも前へ出て、霧に向かって叫ぶ。

「攻撃をやめてください! この方たちは敵じゃない、僕たちを――この里を救ってくれるかもしれない人たちなんです!」

 その声はかすかに震えていた。だが、真っ直ぐだった。
 この里の者に届くように、何より、信じたいと願う自身の想いが込められていた。

 白鷹の必死の訴えに応えるように、霧がゆっくりと割れる。
 その向こうから現れたのは、重々しい気配をまとった男と、弓を構えたままこちらを警戒する戦士たちだった。

 先頭に立つ男は、白髪混じりの長髪を後ろに束ね、鋭い眼光と皺深い顔に圧を宿す。年老いてなお、その背筋は真っすぐで威厳に満ちていた。
 その場に立つだけで、空気が張り詰めるような存在感――まぎれもなく、この里の“長”と呼ばれる者だろう。

「……白鷹。おまえ、掟を破ったな」

 低く唸るような声が、霧の中に響いた。静かに、だが確かな怒気を孕んでいる。

「に、人間を連れてきただって……?」 「それに、あの赤い髪の銀妖……まさか……」

 ざわり、と空気がざわつく。戦士のひとりが、朱雀を睨みつけながら叫んだ。

「禍の子だ……! 禍の子が戻ってきたぞッ!!」
 その声を皮切りに、周囲が一気に騒然とする。
「やはり奇病は、禍の子の仕業だったんだ……!」
「早く殺せ……!」

 弓を構える手に力が入り、誰かが剣の柄に手を添えた。

 朱雀が険しい顔つきでにらみ返すのを、夕陽が手を軽く上げて制する。

 長が、冷たく白鷹を見据える。

「白鷹よ。人間のみならず、禍の子まで連れてくるとは……。一体、どういうつもりだ」

 その言葉には、失望と怒りとがないまぜになっていた。
 あたりの空気が凍りつくような緊迫の中で、白鷹は膝をつくように頭を下げた。

「はい。掟を破ったこと、重々承知しております。その非は、すべて僕にあります。あとでどんなお叱りも、罰も、すべて受けます……」

 顔を上げた白鷹の瞳には、まっすぐな光が宿っていた。

「ですが――この方は、人間でありながら、僕たち銀妖を助けようとしてくれている。
夕陽殿のお話に、どうか耳を傾けてください。お願いします……!」

 その訴えに、場の空気が揺らいだ。
 弓を構えていた戦士たちも、一部がちらと長を伺うような視線を投げる。

「話がしたい。二人とも、刀を納めてくれるかい?」

 銀郎は一拍置いたのち、静かに刀を鞘へ戻す。朱雀も渋々といった様子で構えを解いた。

 夕陽は二人を後ろへ下がらせると、一歩、前へと進み出た。背後には銀郎と朱雀が、まるでその存在を守るように並び立っている。霧に包まれた紫陽花の群生の中、静けさを裂くように、夕陽の声が響いた。

「私は、祓い屋を生業としている、四條夕陽と申します。白鷹くんから話は聞かせていただきました。この里では、今、多くの者が病に伏していると――」

「それがどうした」
 長が鋭く切り返す。
「貴様には何の関係もないことだろう。……何が狙いだ」

「いいえ、私はただ、知りたいのです」

 夕陽は一歩、さらに踏み出し、まっすぐに長を見据える。

「“禍の子”が本当に厄災を呼ぶ存在なのか。……その真偽を」

「ふん、そこの赤毛が生きている。それがなによりの証明ではないのか」

 その言葉に、朱雀がピクリと肩を震わせる。

「……本当に、そうでしょうか?」

「……なに?」

 長の眉がわずかに動く。

「私は、かつて絶望の淵にいました。大切なものを失くし、生きる意味さえ見えなくなっていた。そんなとき――まだ臍の緒もついたままの彼が、家の裏の竹藪に捨てられていたのです。彼を拾い、育てることが、私にとっての唯一の希望となった」

 静かに語る夕陽の声は、決して大きくはなかった。しかしその熱は、確かにその場にいた者すべてに伝わるものだった。

「彼は、私に救われた、と──思っているかもしれません。でも……真に救われていたのは、私の方だったのです。彼が、……朱雀がいてくれたから、私は今もこうして立っていられる」

「夕陽様……」

 その言葉に、朱雀はぐっと顔を伏せた。こらえようとした感情が瞼の奥で溢れ、唇がわずかに震える。

「…………」

 重苦しい沈黙が続くなか、長と見られる男の鋭い視線が、銀郎へと向けられた。

「……お前は、この里の者ではないな。なぜお前は、銀妖でありながら、その男に与する?」

 問われた銀郎は、一拍の間を置き、静かに一歩前へ出た。その瞳は、曇りなくまっすぐに長を見返している。

「この御方に、命を救われた。ただそれだけの事だ」

 淡々と告げながら、銀郎は腰の刀に手をかける。鞘がわずかに鳴る音が、張り詰めた空気をさらに強張らせた。

「この御方に、傷ひとつでもつけてみろ。首が飛ぶぞ」

 その声音は低く、鋭く、冷えた刃のような威圧感を帯びていた。周囲の戦士たちが思わず手を強く弓にかけ直す。

「――銀郎。よしなさい」

 その場の緊張をほどくように、夕陽が銀郎の肩へそっと手を置いた。

「剣は振るうものではなく、納めるためにある。それを、おまえが一番よく知っているだろう?」

 その柔らかな声音に、銀郎は静かに息を吐き、しばし目を伏せる。そして、音を立てぬように刀を鞘へと戻した。

「……はい」

 夕陽が継いで口を開く。
「病の原因が、もし呪いによるものなら……私にできることがあるかもしれません。救いたいのです。白鷹くんと、その母君を。そしてこの里で、今もなお苦しんでいる方々も――」

 長の目が、わずかに揺れる。

「……勝手にしろ。ただし、もてなしなどせん。少しでも妙な真似をすれば――どうなるか、分かっているな」

「ええ、もちろん」

 夕陽の返答に、長はなおも鋭く言い放つ。

「それと――用が済んだら、さっさと出ていけ」

 吐き捨てるような声を残し、長は里の者たちを従えて背を向けた。その背中からは、最後まで警戒を解こうとしない冷たい気配が漂っていた。




 ***

 薄暗い里の長屋、その奥の一室。腐葉の香りと、湿った空気が漂う中、白鷹はすまなそうに目を伏せて言った。

「……父が、申し訳ありませんでした」

 静かに告げられたその言葉に、朱雀の瞳が細められる。白鷹の言う“父”とは、先ほど敵意をむき出しにした、あの里の長――。

「……やっぱり、そうか」

 朱雀の低い声に、白鷹は頷く。

「はい、しかし兄さんと血縁は無いようです。恐らく僕らは異父兄弟ではないかと……」

 そして、布団に横たわる母のそばまで歩み寄り、朱雀を見やった。

「……こちらです。母さんは、病のせいでもう目が見えません。でも……きっと、兄さんのことなら分かるかと……」

 静かに部屋へと促される。朱雀は、一歩、また一歩と母の寝所へと近づいていった。寝台の上、包帯に包まれた細い身体が、病に蝕まれた日々の長さを物語っている。目元も布で覆われ、起きているのか、寝ているのかも分からない。だが、朱雀が近づいた瞬間、ぴくりと鼻先が動いた。

「……あの人と、同じ匂いがする」

 かすれた声が、唇からこぼれた。

 朱雀の肩が、びくりと震える。

 母は、目が見えなくても、朱雀が誰なのか――ちゃんと、わかっていた。

 朱雀が母の枕元に膝をつくと、かすかに震える手が伸ばされた。細くて、骨ばったその手が、朱雀の腕に触れる。

 次の瞬間――その手が、ぎゅっと朱雀の腕を引き寄せた。

「……ああ、ああ……私の坊や……!」

 母の声が、嗚咽にかすれて震える。

「こんなに……こんなに大きくなって……、よく会いにきてくれたね……その顔を母さんによく見せておくれ……」

 目が見えぬはずの母が、両手をそっと朱雀の顔へと添える。朱雀は抵抗せず、そのままじっとしていた。
 母の手のひらが、そっと額から頬へ、鼻筋、唇、顎をなぞるように輪郭をたどっていく。

 それは、彼女なりの「見る」行為だった。

 そして、ふと手が止まり、指先がそっと朱雀の頬を撫でる。

「……ああ……あの人と、おんなじだ……」

 ぽろり、ぽろりと、巻かれた布の隙間から涙がこぼれ落ちる。

 朱雀は、声も出せずに、ただその胸に顔を埋めた。

 その様子を見届けて、夕陽は静かに口を開く。

「……しばらく、二人に」

 そう言ってそっと退室すると、銀郎と白鷹も無言でそれに従った。



 表へ出ると、すでに夜の気配が静かに銀妖の里を包みはじめていた。紫陽花の群生は灯籠の淡い燈火に照らされ、どこか幻想的に橙色に染まっている。濃い霧はさらに深さを増し、足元から立ち上るそれが、まるでこの地が夢と現の狭間であるかのような錯覚を誘った。

 白鷹が足を止め、振り返って夕陽たちに目を向けた。

「夕陽殿、一度お休みになられては? 朝から歩き詰めで、さぞお疲れでしょう」

 その言葉に、夕陽はわずかに笑みを浮かべて首を振る。

「いや、私は平気だ。ただ、少し気になることがあってね。辺りを散策しても構わないだろうか?」

「もちろんです。おそらく父が、夕陽殿には手出し無用と、里の者にお触れを出しているはずです。危険はないかと」

 白鷹が言葉を選ぶように続けたところで、銀郎が一歩前に出る。

「念のため、夕陽様に害が及ばぬよう、私もお供いたします」

「ありがとうございます。……お休みの際は、この長屋の奥に空き部屋があります。どうぞご自由にお使いください。他に何かございましたら、僕は母の部屋におりますので、遠慮なくお声がけを」

 そう言って一礼した白鷹の横顔には、どこか年齢以上の静かな覚悟と気遣いが滲んでいた。



 白鷹と別れたあと、夕陽と銀郎は声を潜めるようにして歩き出す。足音は土に吸い込まれ、二人は静かに、里の奥へと踏み入っていった。

 灯りは一切なく、わずかに差す光は、薄くにじむような朧月だけ。枝葉の隙間からこぼれる月光が、歪んだ影を足元に落とす。

 銀郎の耳がぴくりと揺れた。獣のごとく敏感に、周囲の気配を探るその仕草に、夕陽も自然と息をひそめる。

 ――ここは何かがおかしい。
 空気が重い。湿っていて、生温かい吐息のように、首筋をなぞっていく。

「このあたりから、妙な瘴気を感じますね。……油断しないでください」

 銀郎の声はひそやかに響いたが、その声音には凛とした鋭さが宿っていた。
 それに応じるように、夕陽は静かに頷き、懐から数枚の御札を取り出して片手に構える。

「……ああ。この病の源は、自然の摂理ではないな。何かが、ここに留まり、渦を巻いている。――強い怨念だ」

 草を踏む音さえ、夜の闇に吸い込まれていくかのような静寂の中。
 二人は言葉を交わすことなく歩を進め、やがて里の外れへと辿り着く。そこには、月の光さえ届かぬ一角に、ひときわ異様な色を放つ――深碧しんぺきに染まった紫陽花が、咲き乱れていた。


続く
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