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プロローグ+第一章

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 上に立つには力がいる。この国では特にそれがいる。
 如何に今まで恐れられてきたか、それはその一つの目安となる。
 満月の夜に恐怖を振り撒いた獣、魂喰らう悪鬼、夜な夜な血を啜っていた黒衣の狩人。
 どれもこれも恐ろしい化け物達だが、それらを統べていた夜の王とて、この国では一番上まで登り詰めることはできず、今は馬車に揺られながら、一枚の絵を愛おしそうに見つめていた。
 その絵は風景画だった。大きな石積みの家と木々が描かれている。しかし、普通のものではなさそうだった。絵の中で木々が揺れていた。
 その絵は現実の風景を写し取った絵で、早い話遠見道具のようなものだった。
 男はそこに住んでいる者が、この国に来ることを待ち望んでいた。
 いずれ必ずその時はくると、胸に宿るものが男にそう告げていた。
 男は、その者がなるべく強い力を宿していて欲しいと思っていた。
 弱い力を我が物としても返り咲くことが出来ないからだ。
 王に。
 見ていた絵が忽然と消え、仮面舞踏会にでも被っていくような華美な仮面の奥で、男は笑った。
「やっとかい、待ちくたびれたよ」

 男はそう言うと絵の消えた板を放り捨て、隣に置いてあった二枚の絵の内の片方を手に取る。
 今度のは、広大な空と、下に小さく城壁に囲われた城塞都市が写し出されていた。
 その空に、光輝く点が降り落ちて、まるで流れ星だったかのようにすぐ消えた。
 それを目にした男が目を見開いていた。
 本来であれば、光輝く点は消えることなく落ちていき、もう一枚の絵の方に映り込むはずのものだったからだ。
 何故だ! 何故消えたと、男は動揺を露わにしていたが、すぐに状況を理解し、念の為に映り込むはずだった神殿の絵を確認して、怒りに任せてそれを叩き割っていた。
 遠見道具は正常に作動していた。故障という線が消えたならもう用はなく、あとは仕出かしてくれた犯人捜しをするだけだ。
「止まれ」
 男が命じた瞬間、馬車は急停止。立て掛けてあった身の丈以上ある大剣がその反動で倒れてきて、男は溜息を吐きながらそれを受け止める。
 扉が独りでに開き、男はそのまま外に持ち出して、馬の姿をした二人の従僕に鈍色に光るそれを向けた。
「君らはもう少し丁寧に止まることは出来ないのかな?」

 二人の従僕は、断たれたような首から顔を覗かせることなく無言。
 ただ跪くばかりで、相手するのが馬鹿らしくなり、男は剣を引き戻して天に翳した。
「我が首は彼の地に置いてきた。我は亡霊、首無しの騎士」
 途中で剣を胸の前に立て、そう唱え終えた次の瞬間、男の身体から赤黒い炎が噴出し、瞬く間にその姿が炎の中に掻き消えた。
 まるで灯るロウソクでも吹き消すような、ふっ、という息が吐かれ、炎が消し飛ぶ。
 中から現れたのは、首無しの騎士となった男。
 鎧の中には仄暗い闇が漂い、そこに顔のようなものが浮いていた。
「ほんと、やってくれるよ。何も感じないし、何処に連れ去ったんだか……」
 その顔から声を発し、愚痴るようにそう零した男は、気だるそうに腕を下ろす。
 虱潰しに探す他なく、面倒なことこの上ない状況だった。
「まぁいいさ。要はかくれんぼだろう? 昔よくやったよ。みんな見つけてやった。誰一人私からは逃げ果せず、この私に全てを差し出してきた」
 昔を思い出しながら、男はくくっと笑い、その身を鎧ごと薄れさせていく。
「今回もそうなる。人の物に手を出したらどうなるか、教えてあげないとね」
 そして、そう楽しそうに呟いて、彼は亡霊のように消えていった。

【 第一章 死神を待つ女 】

 埃を被った書棚の本は全て読み尽くした。
 女は暇で仕方なかったが、今はただ死神が訪ねてくるのをじっと待つ他なかった。
 来てくれないとここから出られない。この部屋の扉は堅く閉じられ、窓にも格子が嵌っていた。
 こんな所に閉じ込めた張本人は、今外で呑気に話をしている。
「ええっ! あの悪魔の子、まだ生きてやがったんですか?」
「ああ、まだな。しぶとい娘だ――いや失礼、しぶとい悪魔の子だよ」
「しぶといなんてもんじゃないでしょう。何年も飲まず食わずで生きてるなんて、もういっそのことやっちまったらどうです。あいつが生まれてからどこの国も戦争おっぱじめるし、一昨年は凶作、今年は病が逸って……、碌なことがない」
「気持ちは分かるがね。やりたいのなら、シモンくん。君がやりたまえ。私は嫌だ」
「お――俺だって嫌ですよ。ここを通りがかったうちの女房が、悪魔の子と目を合わせて三日寝込んだんですよ。それに、退治してくれようとした神父様だって、あの悪魔に……。呪われるのはごめんだ」
「ああ、私とて呪われたくはない。手を下せばただでは済まないだろう。つまり、我々の力ではどうすることも出来んという訳だ。すまんがそろそろいいかね? 妻と子が待っているのでな」

「あー、いつもの所へ。引き留めてすいません。領主様お気を付けて」
 領主は馬要らずの馬車に乗り、墓地に向かう。
 彼のことを、家族以外で唯一親切にしてくれたここで働いていた老爺が、慈悲深い方だと評していたが、だったらこんな所に閉じ込め続けたりしないだろう。
 両親のもとから、幼い子を無理矢理引き離したりすることもだ。
 いつになれば、この退屈で虚無な日々に終わりがくるのか。
 考えていたって無駄で、女は思考を閉ざし、いつものように物言わぬ人形となった。
 ――――突如、けたたましく響き渡った銃声で、閉ざしていた思考が戻る。
 次いで、悲鳴や怒号が聞こえてきて、二つの足音が近付いてきた。
「随分立派な家じゃないか。これやったら俺のお袋は喜ぶぜ?」
「レオ。お前のお袋は腰が悪いんだろ。こんな辺鄙な所まで来られないだろ。それともお前がおぶって来るのか?」
「おいおいオリヴァー、冗談言うなっての。俺のお袋が何キロあると思ってんだ……。ここだけの話、俺二人分はある」
「ハッ、そうかよ。国へ帰ったらお前のお袋にしっかり伝えといてやるよ」
 そこで少し、間があった。
「生きて帰れたらな」

「ああ、生きて祖国の土を踏めたらだ。手土産沢山持って帰るか」
「丁度良いところに立派な家が建ってるしな。俺らはかなり運が良い」
 その二人組はすぐに中へ押し入り、お眼鏡に適わなかった女を黙って撃ち殺す。
 そして、中をひっくり返し、片割れが木の板で打ちつけられた部屋の前に立った。
「おい! オリヴァー! こっち来てみろって」
 呼ばれた方も来て、扉を軽く小突いていた。
「なんだこの部屋……?」
「いいから覗いてみろって」
 扉の下部に、猫の通り穴のような小さな穴が空いていた。
「へいへい。開かずの扉の先には何が待っているのやら……」
「きっと裸の女神が待ってるぜ?」
「……だといいな」
 寝そべって中を覗くと、皿の上に乗ったパンと、水の入ったコップが見えた。
「何だこりゃ……?」
「おい、何が見えたんだよ」
「パンに水。あとは…………!」
 人によく似た化け物と目が合い、彼は瞬時に顔を離し、相棒に青い顔を向ける。

「なんだよ。財宝でも見えたか?」
 しっ、と彼は人差し指を唇にあて、見たものを小声で話し始めた。
 その会話、中にいる女の耳には全て届いていた。
 人よりもずっと大きく膨らんだ耳は、遠くで落ちた針の音すら拾う。
 人と違うのはそこだけではなく、白目のない両目は真っ黒で、鼻は毛に覆われ、口は蛇のように裂けていた。
 額には短い角まであって、傍目から見ると確かに彼女は悪魔そのもの。
 時たま窓に映り込むその顔が、自分の顔だったことに気付いた時に、女は町の者達が自分を気味悪がる理由を理解した。
 どうしてこんな顔に生んだ、いや創ったと、その怒りの矛先は神に向く。
 母は恨みたくても恨めないのだ。こんな顔でも、愛してくれていたから。
 もう随分昔のことで、顔すらまともに思い出せないが、連れて行かれる間際、母が泣いていたことだけは覚えていた。
 それが今の彼女の心の拠り所で、心の崩壊を防ぐ最後の砦でもあった。
 薪をくべるような乾いた音が聞こえ、焦げ臭いにおいが漂ってくる。
 あの二人組が火をつけたようだ、悪魔祓いがどうのと言っていたか。
 焼き殺すつもりなのだろう。ついに、待ち望んだ瞬間がきて、女は浮足立つ。

 しばらく待っていると、扉を開けることなく赤い死神が中へ入ってきた。
 ぱちぱち音を鳴らし、広がりながら、床を伝って手を差し伸べられ、女はにこりと笑ってその手を取った。
 その瞬間、灼熱の抱擁を受け、死神の胸に顔を埋めていると眠くなり、意識を深い闇の底へと沈み込ませ、
 ――――デメーテ。デメーテ。
 母の呼ぶ声が聞こえ、その女、デメーテは薄く瞼を開いた。
「お母さん?」
「人違いだよ」
 確かに母の声ではなく、老婆の声だった。
 デメーテは軽く頭を振り、相手を見るが、暗くて何も見えなかった。
「ごめんなさい、私寝惚けてたのね……。そうよね、お母さんがこんな所にいるはずないもの」
 ふわふわと浮く感じが、死を実感させる。
 天界に昇ったのなら、こんなに暗くはないだろう。それで今いる場所がすぐに分かった。
「冥界ってこんなに暗い所だったのね……。目を開けてるのに、閉じてるみたい」
「何言ってんだい。ここは冥界なんかじゃないよ」

 それに、デメーテは少し驚いた。
「え――じゃあ、どこ? もしかして天界?」
 だったら嬉しいが、すぐに否定の言葉と共に恐ろしい言葉が返ってくる。
「違うよ。どう見たらそう見えるんだい。お前は今精霊の世界に閉じ込められてんのさ」
 やっと出られたと思った矢先、また閉じ込められたようで、彼女は戦慄し、微かに身体を震わせる。
「嫌かい? まぁ、お前のことはツレから聞いちゃいるよ。長い間閉じ込められてきたんだってね?」
 彼女はそれに答えなかった。
「どうしたもんかねぇ……」
 嫌、と彼女の口から零れた。
「分かってるよ。だがちょいと待ちな。今考えてんだ」
「っ――私を閉じ込めないで!」
 だから、と老婆は一拍置き、続けた。
「分かってるって言ってんだろう。でもね、お前を下の楽園に放り込む訳にはいかないんだよ。こっちにも事情ってのがあんのさ」
「私の顔がこんなだから? 私が悪魔の子だから?」

 デメーテは胸に手をあて、感情をぶつけるように捲し立てる。
「何言ってんだい。他の奴らにそう言われてきたのかい?」
 彼女は無言の返答をした。言いたくなかったのだ。
「まぁ、お前のその個性的な面は弊害ってなもんで、お前に宿ってるものが問題でね」
「――私に? 何が宿ってるっていうの。やっぱり、悪魔?」
 驚いた顔をする彼女に、老婆はこう言った。
「もっと大それたもんさ。あたしのツレは愛って呼んでるけど、そんな良いもんじゃなくて、不幸を招くもんさ。いずれお前はその不幸を目に映るもの全てにまき散らす狂った化け物に成り下がる。だからそうなる前に、あたしはお前ごと封印してやるつもりで来たんだけど……」
 老婆は一息にそう言うと、一拍置いた。
「どうにもね、こうやって直に顔合わせて話してみると、そんな気失せてきちまってね。なぁ、あたしはどうすりゃいいと思う?」
「どうって……、どうして私にそんなこと聞くの? 私はただ――――」
 困惑し、俯く彼女に老婆は言った。
「どのみちお前は、お前の望む生活なんて送れやしない。民衆に見つかれば袋叩き、いや、多分売りに出されて実験動物にされちまうのがオチだろうね。お前は不幸な目に遭うことを運命づけられてんのさ。生まれ落ちた瞬間から、いや、母親のお腹にいる時からね」

 デメーテは下唇噛んで押し黙る。
 そこで会話が一端途切れ、しばし、
「私はどこ行ったって悪魔の子……。誰にも受け入れられやしないのね」
 顔を上げた彼女は、気丈な笑みを浮かべてそう言った。
  その瞳には涙が滲んでおり、それを目にした老婆は、彼女をどうするか決める。
「一応聞いておこうかねぇ。あたしの手で眠りにつけば、もう辛い思いをしなくて済む。けどそれを決めるのはお前さ。どうしたいかはお前が決めな」
 そうね、と一拍置き、彼女は続けた。
「今は眠りにつきたい気分だわ。こんな醜い顔のまま、私は生き続けたくないもの……。だってそうでしょ? ただ死者になったっていうだけで、私はこの通りまだいる。だったら生きてるも同じよ! ねぇ、お婆さんもそう思うでしょ?」
 暮らす場所が変わるだけで、やろうと思えば蘇ることだって出来るのだ。
 冥界なら、王に嘆願しに行けばいい。首を横に振られたら、隣の王妃の情にでも訴えかけてやればいい。神話に出てくる吟遊詩人はそうしていた。
「私はずっと死にたかった! 何でだと思う? そうしたらあの部屋を出れて、冥府でなら、こんな醜い私でも受け入れて貰えそうな気がしてたの! でも、もう嫌! もう、疲れたわ……」

 胸中をぶちまけたデメーテは、堪えきれずに零れ出た涙を頭を振って落とし、老婆がいるであろう方を向いて、懇願するような目を向けた。
「だから、もう私を眠らせて。最後にお婆さんと話せて良かったわ。誰かと話すなんて本当に久しぶりで、楽しかった……」
 最後、微笑み掛けられた老婆は、闇の中でニヤリと笑った。
「言うと思ってたよ。何が楽しかっただ、お前はそれで満足なのかい、あたしは満足できないねぇっ! 意地でもお前を幸せにしてやりたくなった。さーて、どうしてくれようか……」
 その時だ。
 ヒィーヒッヒッヒ ヒィーヒッヒッヒッヒ
 闇に、魔女の笑い声のような甲高い声が響き渡る。
 デメーテは一瞬きょとんとし、くすくす笑って言った。
「お婆さん、魔女だったのね。精霊の世界なんて言うから、精霊さんかと思ってたけど……、ちょっと驚いちゃった。だって本に書いてあった通りに笑うんだもの」
 しかし、老婆はこう言う。

「そりゃあたしじゃないよ。魔女ってのは当たってるけどね」
 嘘、とデメーテは即座にそう返した。
「確かにお婆さんの声だったわ。私耳は良いのよ? 聞き間違えたりなんてしないわ」
「お前は端からあたしの声なんて耳にしちゃいないよ。でなけりゃあたしのことをお婆さんなんて呼ぶもんかい。いいかい、あたしはそんな見た目もしてなけりゃ、声だってババアみたいに枯れちゃいないのさ。お前がずっと聴いてんのは、ここに広がる闇の声で、あたしのじゃない。分かったら、今後はあたしのことをお姉さんと、そう呼びな。分かったね?」
 急に捲し立てられたデメーテは、目を丸くしながら言う。
「……お婆さん、お婆さんじゃなかったの?」
「聞こえてなかったのかねぇ、この小娘は。いいかい」
 待ってと、続けようとした言葉をデメーテが遮った。
「お婆さんはお婆さんじゃなくて、でもお婆さんはお婆さんだし……」
 長年頭を使ってなかったせいか、思考がうまく纏まらず、彼女は混乱する。
「だから、婆さん婆さん言うんじゃないよっ、まったくこの小娘は……。そういう歳ではあるけどね、言われると結構堪えるんだよ。分かったら、お姉さん、もしくはそうだねぇ、ドーラとそう呼びな」

「ドーラ? それがお婆さんの――ごめんなさい。そう呼ぶのは駄目なのよね」
 ふんふん、と顎を軽く指先で叩き、ドーラ、ドーラねと呟いた彼女は、満面の笑みを浮かべてこう言った。
「分かったわ! 今後はドーラおばさんってそう呼ぶわね!」
 ドーラは一瞬言葉を失う。天然であることが手に取るように分かり、少し頭が痛くなった。
「お前ね、おばさんなんて態々付け加える必要はないだろう。なんでつけた、言ってみな」
「え、そっちの方が分かりやすいと思って……」
「なーにが分かりやすいだこのすっとこどっこい! 大きなお世話だよったく、普通は分かるもんなんだけどね……」
 その愚痴に、デメーテは少し困った顔をしていた。
「そう言われても、私は普通を知らないから……。ドーラさんは私のこと知ってるんでしょ?」
 デメーテは長い間隔離されてきた子だ。天然だとかそんなの以前にそもそも普通を知らない。
 そのことに気付いたドーラは、ささくれ立った心を静め、謝罪した。
「そうだったね。今のはあたしが悪かった。お詫びに魔法でも掛けてやろうか?」

 冗談で言った言葉だが、デメーテは真に受けたように悩むような顔をしていた。
「うーん、でも痛いのよね?」
「どうしてそう思ったんだい。別に火で炙ったりなんてしやしないさ」
 逆に思い、デメーテはちょっと笑った。
「魔女は火で炙られる方なんじゃないの? 私が思ってたのはそういうんじゃなくて、歩く度に刃物で抉るような痛みを与える呪いのような魔法なんだけど、ドーラさんが使う魔法もそういうのなんでしょ? だって魔女だもの」
「魔女にも色々いてね、少なくともそういうのはあたしの趣味じゃないよ」
「そうなの? ドーラさんは海の魔女とは違うのね」
 間があり、デメーテはこう続けた。
「知らない? 人魚姫に出てくる海の魔女。海の魔女は、人魚姫の美しい声と引き換えに……ってごめんなさい。あれは魔法を使ったんじゃなくて飲み薬を渡したんだったわ。読んだのって随分昔で、何かとごっちゃになってたみたい」
 呪いのような魔法を使うのはどこの魔女だったか。少なくとも幼い兄妹を煮て食べようとしていた魔女でないのは確かだ。
「あぁー、人魚姫かい。それなら知ってるよ。あたしのツレが好きでね。ああ、ちょいと待ちな。今良い方法が出掛かっててね……」

 よく分からずデメーテが話し掛けようとすると、待ったをかけられ、暇になった彼女は闇の中を軽く散策していた。
 地面を蹴ると通過する。だというのにその上を歩けている。
 そのことが不思議で、ちょっと面白く感じていると、ドーラが手を打った。
「デメーテ。いいかい、よくお聞き。お前は今からお前に繋がるようなことを誰にも言うんじゃないよ。いいね?」
 デメーテはきょとんとした顔をし、少し首を傾けた。
「……いいけど。私に繋がるようなことって何?」
「素性、経歴、過去の経験も含めとこうか。そういうのだよ。できるかい?」
「できるけど……でもどうして?」
「お前さっき人魚姫の話をしてたろう。それに出てくる海の魔女は、人魚姫に何をしてやった? ん?」
「えーとね、ヒレを人間の足に変えて歩けるようにしてあげた……してあげたんだけど、引き換えに人魚姫の声を奪い取ったから、取引してあげた? ううん、そういうこと言いたいんじゃなくて、ほら、海の魔女ってそんな優しい感じの人じゃないというか……」
 自分でも何が言いたいのかよく分からなくなって、デメーテは苦笑した。
「デメーテ。お前の目の前にいるのは誰だい? 名前なんか言うんじゃないよ。あたしが何者か聞いてんのさ」

「……魔女? ドーラさんは海の魔女と同じ魔女ね。でもそれがどうかしたの?」
「どうもこうも、お前今さっき魔女がやったこと言ってたろう。ヒレを人間の足に変えたんだよ。お前も変えて貰いたいとこがあるんじゃないのかい? この魔女に」
 魔女ならそれを変えられる。そのことにデメーテがはたと気付くと同時、
「言ってみな。お前はこの魔女に何を望む?」
 闇にまた、あの魔女の甲高い笑い声が響き始める。
 デメーテは、心の奥底から声を絞り出して告げた。
「顔――――私の顔をっ! この醜い顔を綺麗に変えてっ! 魔女なら、ドーラさんなら出来るんでしょっ!」
 闇の中で、ドーラがニっと笑った。
「出来なかったら言いやしないよ。さ、目を閉じて、好きな顔を思い浮かべな。そうしたらあたしが瓜二つに変えてやる。お前が望む姿に変えてやるよ」
 それを聞いた瞬間、デメーテがまずやったのは目を閉じることだった。
 感謝の言葉など後で伝えればいい。今は顔を変えられるという感動を胸に、ひたすらに集中すべき時だ。
 彼女は頭の中を巡り、何年も前の記憶に思いを馳せ、自身の面とする顔を探した。

 しかし、どいつもこいつも輪郭をぼやけさせ、そればかりか色すらついていなかった。
 思い出から色が失われていた。風化されられていたのだ。
 あの長く続いた虚無な日々に。
 せっかく顔を変えられるというのに、これでは出来そうになく、彼女が焦燥感に駆られ、やきもきしていた時だ、一冊の本が頭に浮かんだ。
 その本は幼い頃に読み耽った絵本で、タイトルは、お転婆姫のタルト。
 同時、奥底で眠りについていた当時の記憶、想いが呼び覚まされるように鮮明に蘇り、少しの間、彼女は物思いに耽った。
 ――――『たるとひめは、りんごのたるとが、だいすき』
 最初は老爺に教わりながら、そんな風にたどたどしく読んでいた。
 そのうちすらすら読めるようになってきて、その頃になるとよく駆け回っていたものだ。
 物語の中を、頭に広がる空想の世界の中を、この子になりきって。
 ルビーの瞳に愛らしい口元、波打つ頭髪を風に靡かせ黄色いドレスをはためかせ、丸い靴で駆け回る。頭に乗っけた銀色のティアラは、お姫様の証。
 色の無い世界でたった一人その身に鮮やかな色を湛え、どこか誇らしげな顔をしているその子は絵本の主人公、タルト姫。
  女の子なら誰しもが一度は憧れを持つお姫様だ。今願えば、憧れの存在に変われるのではと思ったら、彼女はもう居ても立っても居られない気持ちになり、神に祈るように両手を組み、ドーラに懇願した。

「私その、どうしてもなりたい子がいて、顔以外も変えたくなって……お願い! 何とかできない?」
 何とかも何もと、ドーラは鼻で笑うようにそう言い、自信たっぷりにこう答えた。
「そんなのは朝飯前ってなもんさ。お前はあたしを誰だと思ってんだい」
 それを聞いた瞬間、デメーテは胸を撫で下ろしながら喜びに打ち震え、涙を流すように笑った。
「良かったぁ、できるのね……。私、お姫様になれるんだ……」
「しっかしお前も難しいことさせるね。普通の奴思い浮かべると思ってたら、そうくるかって、まぁ、いいけどね」
 ドーラは頭を掻く。絵本の子と瓜二つにしてはそれはもう人間ではなくなる。れっきとした人間になるよう手を加える必要があった。
「お姫様に憧れる気持ちは分からんでもないからね。あたしも昔は……、無駄話はやめとこうか。ちょいと待ってな。先に小細工する必要があってね。そのまま目を瞑って大人しく待ってるんだよ」
 言われた通り待っていると、ドーラが厳かな声を響かせ始めた。

「―闇の帳が下りる。輝きは消え、全て闇の中。誰にも見えない闇の中―」
 そのすぐあと、デメーテは頭から何かを被せられる感触を感じた。
 それはドーラが出現させた、闇に溶け込むような色合いのベールだった。
「今のは何? もう目を開けていい?」
「……開けたっていいけどね。お前は闇の声をずっと聞き続けてる。そろそろ、何か怖いもん見せられるかも知れないよ?」
 怖いものなど見たくはなかったが、好奇心には勝てず、デメーテはチラっと目を開け、すぐにぎゅっと固く閉じた。
 怖いものを見せられたのだ。それは醜い魔女の顔だった。
 顔中にびっしりとイボが浮き、鼻は細長く尖り、大きな両目がぎょろぎょろと動いていた。
「だから言ったじゃないか。あたしの言うことを聞かないからさ。魔女の忠告は聞いとくもんだよ。分かったね?」
 デメーテはこくこく頷く他なかった。
「さて、じゃあお待ちかねといこうかね」
 ドーラは軽く声の調子を整え、今度はハキハキと唱え始めた。
「―主の想いに応え、姿現せ想いの針よっ。そして、新たな姿を編めっ―」

 闇の中に光輝く針が姿を現し、ドーラが指先から伸ばす鮮やかな青色の糸を輪に通してするする引っ張っていき、宙で編物をし始める。
 針の動きは驚く程素早く正確で、ものの数分で女の子を編み上げ、姿を消す。
 それと同時に編まれた女の子にパっと多彩な色が入り、先程のベールと同じようにデメーテに覆い被さって、彼女の中に吸い込まれるように消えていった。
「もういいかな?」
 それは正に唐突、広がる闇から子供の声がした。
「おや、何だい今頃出てきて。怒ってないのかい」
「君は君の好きにしたらいいさ。僕も僕で好きにやるし。昔から僕らはそうだったろう?」
「そうだったね。長い間暗闇を見続けて、そんなこともう忘れちまってたよ。この子を狙ってたのはあたしらだけじゃないはずさ。一応外に落としときな」
「分かってるって。都に落とすと勘付かれるかもしれないしね」
 ドーラはそこでデメーテに目を戻し、軽くはにかんでこう言った。
「ようこそ楽園へ。こっちは楽しいところだよ。なんせ魔女狩りがいない。まぁ、お前には関係ないことだけど、せっかく生まれ変わったんだ、二度目の人生、思う存分楽しんでくるんだよ」
 魔女の甲高い笑い声が響き渡る。

 その直後、デメーテは膝の辺りを何者かにそよりとくすぐられ、「わひっ!」と声を上げて飛び上がり、思わず目を開け、ぎょっとした。
 茜色に染まる大草原が目の前に広がっていたのだ。
 果ては見えず、戦士が目を覚ます場所ヴァルハラのような景観を前に、彼女は着地と同時にそのまま硬直し、
「ここ、何処?」
 と呟いて、自らの声に驚いていた。
 もっと澄んだ声をしていたというのに、良く言えば愛嬌のある、悪く言うと濁った声に変わっていたのだ。
 茫然。そよぐ風が髪を持ち上げて前へと運び、それを目にした瞬間彼女は自分が変わったのだということを理解し、意を決して自らの両手を見た。
 随分小さくなっていた。服装もしっかり変わっていた。
 しかし、もっと喜ぶと思っていたのに、いざ変わってみると不思議な気分で、何気なく空を見上げ、危うくその上で見ているだけの神などに礼を言い掛け、彼女は小さく頭を振り、ドーラへの感謝の言葉を風に乗せて送った。

「ありがとう、ドーラさん……。素敵な魔女に出会えて私今幸せだわ」
 その瞬間だった。歓喜が押し寄せ、デメーテは思わず「いやっほう!」と飛び跳ね、駆け出した。
 走り慣れておらず、すぐに転んでしまったが、お構いなしにごろごろと草の上を転がって、パっと起き上がる。綺麗なドレスを汚してしまっていることに気付いたのだ。
 馬鹿なことをしてしまったと反省し、少し気分が沈んだが、何だか今はそれすらも笑えてきて、彼女はこう思った。ちょっとの汚れくらいどうでもいいと。
 一体私が誰になったと思ってる、そんな気分でもあり、
「タルト姫ーっ!」
 彼女はあらん限りの声で叫ぶ。爽快だった。今は頭がおかしくなるくらい気分が良い。
 彼女は自らを制御できるような精神状態ではなく、湯水のごとく湧き出る喜びに身を任せ、次の行動に移ろうとしたその時、
「うるっさいんですのよっ!」
 突然だった。隣から大声で一喝されたデメーテは飛び上がるように身をよじり、相手を見た。
「まったくもう、もう少し静かにお燥ぎなさいな。耳が張り裂けるかと思いましたわ……」
 紫色の花が喋っていた。花弁の真ん中に口がついている。

「その、さっきのはあなた?」
「他に誰がいますのよ。あなた冥界区の子ですわよね?  お付きの者とはぐれてしまいましたの?」
 訳が分からずデメーテは目をしばたたく。
「お、お付き? 冥界区? 私はその、気付いたらここにいて……」
 花に目はついていないが、仕草から、胡乱げな目で見られているような感じがした。
「あなた……、もしやこちらに来たばかりなのでして?」
 デメーテが頷くと、花はツンとそっぽを向き、吐き捨てるようにこう言った。 
「あらそうでしたの。異形でしたのね」
「い、異形って?」
「あなたのような人ならざる者のことですわよ!」
 デメーテはその言葉に計り知れない程のショックを受け、思わず下唇を噛んで押し黙った。
 変わったのは身体だけで、顔は変わっていなかったのだろうか。
 こんな所に顔を映せる物などなく、それを確かめるすべはない。
 魔法を掛けてくれた相手は魔女だ。人を誑かすことに長けた魔女。
 酷いと思うよりも先に、彼女は悔しく思った。
 そのことを知っていたのに、甘い言葉に乗せられ、まんまと騙されてしまったことをだ。
 ――顔のことで悩み続けていた私を騙して、あなたは楽しかった?

 その想いは雫を生み、暗い雲が立ち込め始めた顔の隙間から、ぽた、ぽたと滴り落ちて、花が罰の悪そうな顔をして、降り始めたその雨を見ていた。
「……その、悪かったですわね。泣くほどのことを言ったつもりはありませんけど、言い過ぎましたわ」
 デメーテはかぶりを振った。彼女は花を責めるつもりはなかった。
 悪いのはあの魔女で、騙された自分で、嫌な話、そういうのは言われ慣れてもいるのだ。
「ううん、気にしないで。こんな顔だもの。お花さんにもやっぱりそう見える? 私が――――」
 その瞬間、彼女は猛烈な寒気を感じ、その先を口には出せなかった。
 出そうとしていた言葉は、悪魔の子。
 すぐに悪寒が引いてくる。漠然と思うのは、今のは魔女からの警告。
「もう、呪いだけはしっかり掛けてるんだから」
 しかし、ここまで手酷くされていると一周回って妙に可笑しい。
「私は声を奪われた人魚姫――というよりは、そうね、言うことを禁じられた醜い顔のお姫様かしら?」
 そう言うと花が少しだけ笑った。
「その顔で醜いなどと言っては、下々の者に泣かれてしまいますわよ」

 デメーテはその言葉に馬車にでも跳ね飛ばされたような衝撃をうけ、「嘘……」と思わず頬を触っていた。
 次いで額を触り、耳、口ときて、小さな唇を指でなぞりながら思うのは、変わってる。
 さっきは目で確かめようとしたが、変わっているかどうかなど触ればすぐ分かったことだというのに、どうしてそのことに思い至らなかったのか。
 色んな感情が込み上げ、彼女は泣き笑いのような顔で自身の早とちりを反省していた。
 それでドーラに心の中で謝罪した時に、ふと疑問が湧く。目の前の花は何をもって人ではないと思った。
「ねぇ、お花さん。お花さんはどうして私のことを人じゃないって思ったの?」
「ここに堕ちてきましたのでしょう? それでですわ」
 彼女は一瞬言葉を失う。
「そ、そんなことで? でもその、私人なの。信じて貰えない?」
 花は優しい顔でそれにこう言った。
「信じてますわよ。あなたの気持ちは分かってますわ」
 少し引っ掛かるものを感じたが、安堵の気持ちが勝り、彼女はほっと一息つく。
「でも異形って呼ばれてる人達って人そっくりなのね?」

 そうでなければ説明がつかない。人と違う姿をしていたら、間違えたりしないだろう。
「ええ、多くの異形が人そっくりになれますわ。見たいのでしたら見せて差し上げてもいいですけど」
 その発言に彼女は驚いていた。
「え、待って。今の言い方だとお花さんがまるで異形みたいだけど……」
「異形ですわよ? ここでは人ならざる者をそう呼んでますのよ」
「へぇー、そうだったのね。じゃあちょっと見せて。魔法を使って人になるのよね? そうなんでしょ?」
 わくわくするような顔で見られ、花は溜息を吐いていた。
 その直後だ。花の周りに赤黒い帯が走り、その帯は包帯のように虚空にぐるぐると巻き付いていき、女性の姿を象った。
 次の瞬間、帯にパっと多彩な色が入り、本物の人に変わった。
 出るとこが出て、引っ込むところが引っ込む。煽情的な身体つきだが、服装はつば広の帽子に腰回りの高いワンピースと品があって、足に履くのは踵の高いヒールだ。
  それで持ち上げた高い背丈から、人になった花はデメーテを見下ろし、紅に彩られた唇をどこか艶っぽく開いた。

「こうなりますのよ。見分けがつきませんでしょう?」
 デメーテはこくこく頷く他なかった。
「もう戻ってよろしくて?」
「もうちょっと見ていたい気もするけど、いいわ、でもお花さんすっごい綺麗な人に変身するのね。驚いちゃった」
 その言葉に気を良くしたのか、何回かポーズを決めたあと、花女は自らの服を徐に掴んで引き剥がすような動作をした。
 次の瞬間、彼女は一枚の布のように薄くなってひらひらと宙を舞い始め、そのまま風に乗って溶けるように消えていく。
 その光景を目で追いながら、動揺していると、足元でふぅと息が吐かれた。
 見ると、根で地表に立つ花がいて、デメーテは安堵した。
「魔法を解くとあんな風になるのね。消えていったかと思ってちょっと焦ったわ」
「純真ですわねー、まるで子供、無垢な子供でしたのね」
 今の発言、デメーテは妙に引っ掛かって小首を傾げた。
「うん? まぁその子供なんだけど。お花さんには私が大人に見えてたの?」
 そんな気がしないでもなく、それがまた妙に可笑しくて、くすくす笑う彼女から花がすっと目を逸らしていた。
「まぁその――あなたどこの国の姫君でして? 若い身空でこんな所に堕ちて、やり残したことなどあるんではありませんの?」
 そして、少し焦ったようにそう捲し立て、花弁に葉を添え、ほほほと笑っていた。

「えーとね」と、間を置いたデメーテの返答はこうだった。
「私の生まれはシュクルリ王国! やり残したことは――そうね、ちょっと待って。今纏めるから」
 彼女は架空の王国名を上げ、ぼんやり浮かんでいたものに意識を向ける。
 外に出たかった。これは叶った。
 友達が欲しかった。これはまだ。
 恋をしてみたかった。子供の姿では、恋焦がれることは出来ても恋愛に発展することはなさそうで、
「二つあったけど、一つは無理そう」
 苦笑いのような顔でそう言うと、彼女は草原に目を移していた。
 ほんの少し前まで閉じ込められていたのが嘘のように、今は遮るものが何もない所にいる。
 ここは広く、何処までも自由が広がっていて、彼女は外にいるということを今になって実感する。
 見果てぬ景色を眺めていると、ふと旅をしたくなり、さてこれから何処に行こうという思考になる。
 北か南か、東か西か。前に進みたい今は、北だ。
 彼女は太陽を見れば割り出せると思い、空を探したが、どこにもなく、
「あれ? どこに隠れてるのかしら?」
 軽く首を傾げたあと、花にこう尋ねていた。

「ねぇ、お花さん。太陽がどの向きに沈んでいったか知らない?」
 花は呆れるような顔をした。
「ここは深い深い地の底ですわよ。どうしてそんな所にいるのか覚えてまして?」
 あ、そうだったと思い、彼女は太陽がない理由を理解した。
 ここは死後の世界であり、しかも堕ちた先だ。
「勿論覚えてるけど、でも、だとしたら困ったわ……」
 方角が割り出せない。夜まで待っても同じだろう。星は恐らく見えないだろうから。
 くすっと花が笑っていた。
「堕ちた自覚はありましたのね。ならちょっとこちらに両手を持ってきなさい。わたくしが司祭様に代わって歓迎の挨拶をして差し上げますわ」
 言われた通り持っていくと、上に乗られ、デメーテは花を持ち上げる。
 すると、オッホンと声の調子を整え、花は葉っぱを大きく広げた。
「ようこそっ、神に見放されし魂よっ! ここはナラク、死者と異形が暮らす国。太陽は昇らず日毎に色を変える空が天を覆い、悍ましき姿の魍魎達が地を跋扈する。我らが同胞よっ、君を歓迎しよう」

 小芝居するような、大仰な身振りでそう言われ、デメーテは思わず笑った。
「笑ってないで葉を取りなさいな。ああでも、引っこ抜くほど強く握ってはなりませんわよ」
 差し出されていた葉を手に取り、彼女は花と握手のようなことをする。
「わたくしはソフィー・ワド・ベクスター。皆からはソフィーと呼ばれてますわ」
 私はね、と一拍あけ、彼女はニコリと笑ってこう名乗った。
「タルト姫! タルト姫って呼んで!」
 しかし、花はゆるゆるとかぶりを振る。
「もうあなたは姫ではありませんのよ。死ねば皆同じ、身分の差はなくなり皆平等となる。それがこの国の定めた法で、もう一度返り咲きたいのなら力を蓄えることですわ。この国では力がなければ、他を圧倒するほどの力を持っていなければ、上に立つことは出来ませんのよ」
 神妙な面持ちで告げられた言葉だったが、元よりお姫様などではなく、ただ同じ姿をしているだけのこと。だったらそうねと思い、彼女はそれにこう言った。
「じゃあ、私はただのタルトね。タルト姫そっくりな、お転婆な普通の女の子」

「自分でお転婆なんて普通は言いませんのよ」
 くすくす笑われ、少し恥ずかしく思ったが、普通を知らないのだから致し方なしだ。
 しかし、これからは違う。普通の女の子になった。『タルト』になった。
 彼女が記憶の引き出しに、自身の証デメーテという名をしまい込んだ瞬間だった。
「い、言ったらいけない決まりはないでしょ! じゃあいいじゃない」
 何よと彼女は思ったが、すぐに切り替えてこう言った。
「ねぇ、お花のソフィー。私とこの広い草原を旅しない?」
 ソフィーが葉で真横を差す。
「こちらの方角に行くのでしたら、お付き合いして差し上げますけど」
 タルトは一度そちらを見て、それから彼女に言った。
「そっちって北?」
「それは分かりかねますけど、何をするにしてもまずあなたは神都リングルの神殿に赴き、ここのことを教えて貰ってからですわね。三、四日も歩けば着くと思いますわ」
 短い距離に感じられたが、軽く頷くタルトの顔には少しだけ影がおちていた。
「ふぅーん、神殿ね、神殿に行かないとここのことを教えて貰えないの。いいけど、私神って嫌いなのよ、上で見てるだけで何もしてくれないし」
 歩き出しながら思い起こされるのは、あの部屋から出してと何度も救いを求め、その度に裏切られたこと。

 タルトは無意識に手を摩っていた。
 手がぼろぼろになるまで、あの憎き扉を叩き続けた思い出が彼女にはあったのだ。
「我らが同胞よ、君を歓迎しよう」
 急にそう言われ、すっと差し出された葉を彼女は腑に落ちない顔で握り返す。
「またするの?」
「ここにいる者達は皆、あなたと同じだと言ってますのよ」
 それを聞き、彼女は思わず笑った。
「それもそうね。だってここは、神に見放されし魂達の楽園だものね!」
 嫌われ者など自分だけだと思っていたが、他にも沢山いたようだ。
 そして冥府には、そんな者達が集う明るい楽園があった。
 ここでなら、いや、今の姿ならどこでだって、受け入れて貰えそうな気がして自然と足が弾んだ。
 それからもちょくちょく話をしていたが、草原の至る所にソフィーの知り合いが咲いていて、二人はそちらの対応に追われることになる。
 ソフィーから聞けたのは、都に行きたかった理由だけ。

 何でも嵐に巻き上げられ、都からここまで飛ばされてきたとのこと。
 それを聞いた時、タルトは同情するとともに、歩いて帰ったらいいのにとちょっと思った。
 その考えが浅はかだったことに気付いたのは、足が棒になった頃だ。
 彼女はふらふら揺れるように歩き、色を変えない空を、一向に景色を変えない草原を、活力を失った目で見つめていた。
「こんなに大変だとは思ってなかったわ……」
 外を歩く。それだけでうきうきしてきて、旅をするなんて簡単なように思っていたが、甘く見ていた。
「ソフィー、ソフィー、その子だぁれ?」
 言ったのは前方に咲いていた赤い花だ。肩のソフィーが無言の圧を放って黙らせていた。
 彼女も疲弊しきった様子で、余裕はなさそうに見える。
 無言で話し掛けてきた花の横を通り過ぎ、もう倒れ込みたいと、そう思うのとほぼ同時、黒い煙が至る所から上がり始め、タルトは何事かと思い辺りを見回す。
「え――え? 何これ? 何が起きてるの?」
「火事と思いまして?」
 覗き込むソフィーの顔はニヤついていたが、よく分からずタルトは小首を傾げて返した。
「火事? 火事だとこうなるの?」

 不思議な間があった。
「まぁ……、似たようにはなりますわね。ですけどこれは違いましてよ。この黒い煙は夜の欠片達。大空まで昇っていって、ナラクに夜を浮かべますのよ」
 空を見上げるソフィーに続き、タルトも空に目を移し、こう思った。
 夜は日が沈んだ後に来るものだというのに、変と。
 ここは地上ではない。その考えが誤りであることに気付くのにそう大して時間は掛からず、その直後に大きな雲からわっと湧いて出てきた、黒い鳥の群れに意識が向く。
 大きい。カラスを何倍も、いや何十倍も大きくしたような異様な大きさの鳥達だ。
 そんなのがわんさか上空を飛び始めたものだから、うわ、とタルトは若干引いており、ソフィーはというと淡い笑みを浮かべてその光景を眺めていた。
「時告げ鳥達が出てきましたわね」
「時告げ鳥? あれ鶏だったの?」
 即座に否定の言葉が返ってくる。
「違いますわよ! どう見たらあれがコッココッコ鳴く鶏に見えますのよ!」
「え、だって時告げ鳥って……。時告げ鳥って鶏のことでしょ? 本にそう書いてあったもの」

「このお姫様は――、本に書いてあることが全てではないと知りませんのね。いいですこと、今から始まるのは朝ではなく夜、その夜をその身に纏うあれらはカラス、ナラクで巨人の力を得たオオガラス達ですわ」
「あ、やっぱりカラスだったの。そうよね、鶏は空を飛べないはずだし……」
 そう言いながら彼女は思う。もっと小さくて可愛かったのに、あれではまるで怪物だと。
 眺めていると、群れの中の一羽が降下を始めた。
「ねぇ、なんかこっちを見てない? 私の気のせいだといいんだけど……」
 タルトは嫌な予感がして、思わず後退った。
 ソフィーが顔を覗き込んできて、いや、彼女はもう少し上にあるキラキラ輝くものを見ていた。
「捨てたくはないでしょうけど。そのティアラ、早く外して放り投げた方がいいですわね」
「きゅ――急ね? どうして?」
「光り物を集める習性がカラスにはありますのよ。早い話、あなたは今狙われてますの。あの大きなカラスに」
  もうそれを聞いた瞬間、タルトは真っ青な顔でティアラを放り捨て、反対方向へ駆け出した。
「ねぇっ! 今度からそういうのはもうちょっと早く言ってよ! お願いだからっ!」
「今更逃げたところで一緒ですのに……」

「どうしてっ! 手短にお願いっ!」
「弾丸の速度」
 ソフィーが意味深なことを言った直後だ。
 突風が吹き荒れ、タルトは思わず目を瞑って腕を交差、巻き上がる砂埃から顔を守ると同時に足を止めてしまう。
 息がまともに出来なかった。身もつぶてに打たれ、痛みに顔を歪める。
 歯を食いしばってそれに耐えることしばし、風が止み、腕を下ろして目を開けると、目の前にどでかいカラスがいた。
「落としましたよ、お嬢さん」
 若い男の声。投げ捨てたティアラを翼の先端で器用につまんで差し出され、タルトはポカンと口を開けただらしない表情でそれを受け取る。
「まあ、紳士ですこと。ですけどあなた、持ってきかたがなってませんわね。おかげで傷だらけの土塗れですわよ」
 ソフィーが憤りをぶつけると、「え、傷? あー」と、オオガラスは冷や汗を浮かべるような顔をしてこう続けた。
「あのー、お怪我のほどはー……」
「それよりもその大きな翼で土を払ってくれませんこと」

「失礼しました」
 大きな翼が扇のように振られ、生じた突風で土塗れの衣服が綺麗にはなった。
 なるにはなったが、これまた強烈で、危うく二人は星空の彼方まで飛んでいくところだった。
 このカラス、柔らかな物腰に反して随分荒っぽい。
 二人はそのように同じことを思ったが、ソフィーはそのことに腹を立てており、凄い剣幕で捲し立て始める。
「だ・か・ら、荒っぽいんですのよっ! ちょっとあなたそこに直りなさいな。大体何ですのあなたは、急に飛んできて。先程あなたが手渡したものも、落としたものではなく投げ捨てたものであって、そもそもあなたが飛んで来さえしなければ――」
 そこまで怒ることではないと思い、タルトは言うのをやめるよう手を翳すと、「まぁまぁ」と言って彼女を宥める。
「あんまり言うと可哀想だって。ほら」
 タルトはオオガラスの彼をよく見るよう顎をしゃくる。
 意気消沈したような顔で、小さく身を折り畳んで座り込んでいた。
 その姿に先程まで感じていた威圧感のようなものはく、寧ろ弱々しく、タルトの目にはまるで小鳥のように愛らしく見えており、

「言わずにはいられませんわよ。あなたは怒ってませんの?」
「私? 私はちっとも怒ってないわ。だってあんなに可愛いんだもの」
 ほら、おいでと、呼んで抱きしめたいくらいではある。本当に来ると大変なことになりそうなので口には出せないが、こちらから行って撫でて慰めたくはある。
 動物というのはどうしてこう可愛いのか。昔からそう、人と違って目を合わせても逃げたりせず、愛嬌を振り撒いてくれていた。
「何言ってますのよ。可愛いからといって手心を加えてはなりませんのよ」
 呆れ顔で注意されたが、それは無理な注文というもので、タルトはオオガラスに言った。
「あの、これ拾ってきてくれてありがとう」
「いえ、分かってはいたんです。私に狙われていると思って、投げ捨てたものだということくらい――――しかし」
 オオガラスは何か言いたげであったが、すっと立ち上がって片翼を胸に当てると頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「……謝罪は受け取りましたわ。ですけど今回限り、次はありませんわよ」
「心得ております」
「その殊勝な態度だけは褒められる点ですわね。それで、ティアラが目的でないのなら、あなたは何の為にこちらに来ましたの?」

 あー、とオオガラスは一瞬他所を向き、それから言った。
「早とちり、ですかね。寝起きで頭が回っておらず、何で人間の子がこんな所にと。都に住む友人と呑む約束をしておりまして、迷子だったらついでに送って行ってあげるか、なーんて思ってすっ飛んできたんですけど」
 いやー、と続けようとした言葉をソフィーが遮った。
「人間の迷子で合ってますわ。丁度困り果てていたところですのよ」
「おや、本当に人間の迷子だったので? いや、よくよく考えてみるととそう思ったのですが……。そうですか、合っていましたか」
  オオガラスは背を向け、尾翼を下ろした。
「では、乗って行かれるといい。怪我をさせてしまったお詫びという程のものではありませんが、都まで丁重にお送り致しましょう」
 タルトはさっと身を反転させ、ソフィーに小声で話し掛ける。
「ねぇ、お花のソフィー。どうして私が迷子なんて嘘吐いたの? 駄目じゃない」
「あなたは疲れてませんの? わたくしはもうへとへとで……」
  疲弊を滲ませた息を吐いたソフィーが、蠱惑的に告げてくる。
「空を飛んで行けますのよ?」
 疲れ切った体と心に染み渡る甘露のように甘い言葉で、好奇心を揺さぶる刺激的な言葉でもあった。

「あなたは彼の親切を無下に致しますの?」
 止めの一撃が入り、タルトは黙って従った。
 そそくさと大きな背をよじ登ると、ティアラを再装着。
 ふかふかの羽毛に包まれながら、少しドキドキしていた。
 オオガラスがその大きな翼を広げたのだ。次の瞬間、
 バサっ バサっ
 視界が浮く。びゅうびゅう吹き付ける風が長い髪を引っ張って後ろへ運び、同時、どっと爽快感が押し寄せてきて、口から出たのは「いやっほう!」という歓声だ。
 オオガラスはそのままぐんぐん高度を上げていき、気付けば高い空の上。
 そこに浮かんだ大きな雲に今なら手が届きそうで、タルトは無意識に手を伸ばしており、
「何やってますのよ。ここから手を伸ばしたって届きませんわよ」
 言われて思うより先に引っ込める。
 届きそうと思える距離にあるだけで、四、五メートルは向こうに雲はあった。
「うん、でもほら、下からじゃ空に浮いてる雲になんて触れないし、今なら届きそうって、私触ってみたくて」

「触ってみたいそうですわよー」
「ええ、聞こえておりましたとも」
 そう言うとオオガラスは雲の下に入った。
 タルトは頭すれすれの距離にある雲に手を伸ばし、一部を引っこ抜く。
 しかしだ、ふわふわしていて弾力があり、「ふわぁ」と顔を綻ばせた瞬間だ。
 雲の欠片に顔が浮かび、ヒヒヒ、と不気味な声で笑い始める。
 ピシィ、と何かがひび割れる音が頭の中に響いて、タルトはすかさず雲の欠片を放り投げると、はぁ、と思わず溜息を吐いた。
 その時ひび割れたものが何なのか分かった。メルヘンな気持ちというやつだ。
 もっとニコニコと笑って欲しいものだった。昔見た雲のように。
「もう、どうしてあんな風に笑うの。お花のソフィーもそう思わない?」
「理由がありますのよ。ナラクの空気には瘴気が混じりぃ……瘴気がどういうものかは知ってまして?」
「えーとね。確か、体に悪い空気のことでしょ?」
「半分正解ですわ。人間には悪いものですけど、異形には力を与えるものですのよ」
「へぇー、瘴気ってそういうものなのね。そんなこと本には書いてなかったけど、本に書いてあることが全てじゃない、でしょ?」

 ソフィーが少し驚いた顔をしていた。
「そうですわ。無知なだけで、頭は悪くないようですわね」
 酷い言われようだが、無知なのは事実。
「悪かったわね……」
 としかタルトは言い返せなかった。
「おや? やはり異形でしたか」
 それに冷や汗をかいたのはソフィーだ。
 瘴気の話など、人間であるなら堕ちてすぐに神殿で聞かされる話だったのだ。
「あなたは何を言ってますの? この子はれっきとした人間。ですけど珍しい堕ち方をしたようで、神殿に堕ちなかったようですのよ。わたくしもそれを知った時驚きましたわー。ええ、それはもう本当に。物凄く衝撃的でしたわね」
 はは、とオオガラスが笑っていた。
「そんな話聞いたこともありませんよ?」
「珍しい堕ち方をしたと言いましたでしょう? 恐らくこの国始まって以来のこと、あなたは今その歴史の目撃者の証言を聞いていますのよ? どういう意味か分かりまして? 皆に誇るといいとわたくしは言ってますの」
 勢いに任せて無茶苦茶なことを言っているような気もしたが、今は誤魔化す他なく、彼女は「ほほほ」と笑って取り繕う。

「そうですか。まぁそういうことにしておきましょう。すぐに分かることです。ええ、すぐにね」
 勝ったとソフィーは思った。後でばれたところで、そんなのは後の祭りというもの。
 今ばれて面倒なことにさえならなければ、何ら問題はない。
「えーと、オオガラスさんは私のこと言ってたのよね? 私人間よ? 魔法で人になったりしてないわ」
 でも分かるのよね、とタルトは口から零す。
 ソフィーのあの姿を見た後では、神殿に堕ちたかどうかで判断する気持ち、よく分かった。
「他に人間だって証明できる手立てはないのかしら?」
「私の知り合いに精霊の目なるものを持ってる奴がいまして、そいつのいる所に降り立ちますので、そこで見て貰えばすぐ証明できますよ。疑う余地なく、百パーセント、どちらかはっきりさせられます」
「ほんと? 良かった。じゃあその人に見て貰って、私が人間だって証明して貰うことにするわね」
 自信を見せる彼女に、オオガラスは少し戸惑う。
 ソフィーもそうだったが、オッホンと咳払いをし、
「これならすぐ着きそうですし、都の決め事を少し話しておきますわね」
 三つの区画のことをタルトに話し始めた。

 中心部にある一番大きな区画、ナラク区には庶民が暮らし、東の端の冥界区と西の端の異形区には特権階級の者達が住む。
 ナラク区には誰でも入ってよく、招待でもされない限り冥界区と異形区はそこに住む者以外の立ち入りを禁じているとのことだった。
 その時にちらっと出たのが、特権階級の者達が何と呼ばれているか。
 タルトが最初に出した方が人間の貴族で、後に出した方が異形の貴族だ。
「ヒュプノスにタナトスって、どっちも神の名じゃない……」
「それくらい力ある者達ですのよ。言いましたでしょう? この国では力がなければ上に立てないと」
「……凄い人達なのね」
 そうとしか言えず、戦々恐々とする思いでタルトは聞き入っていた。
「おっと、そろそろのようですよ」
 オオガラスが見ているのは下、草原の住人達が、目のついた芽を上へ上へと伸ばしていた。
 すると彼は雲の下から出て、ぐんと高度を上げた。

 見上げる高い空には、黒い水玉模様が浮かび、その一つ一つが線を伸ばし合っていた。
 その光景を見て、「おぉ」とタルトは目を輝かせ、壮大なことが起こりそうな予感にわくわくを募らせる。
 少し待っていると、全ての線が繋がり合い、大空に巨大な魔法円が浮かぶ。
 光り輝くそれに吸い込まれるように散らばった雲が渦を巻き始め――、次の瞬間、辺りが真っ暗に変わった。
 夜の到来、天からは淡い光が降り注でいる。
 それは月明りのようで、星々の輝きのようで、空に浮かんだ二つの城が、それぞれ違う光を放ち、夜空に彩りを与えていた。
 とても神秘的な光景で、タルトは「ふわぁ」と顔を誇らばせ、他二人は非常に残念そうな顔で溜め息を吐いていた。
「兵の姿が見当たりませんわね」
「今宵も戦は無しですか。さっさとやれよって思いません?」
「思いますわね」
 ちょっと気になって、タルトは尋ねた。
「兵とか戦とか、二人してさっきから何の話?」

「空の上で月と星が戦いますのよ」
「月星戦争って言うんだけどー。こう、ずらーっと並んで、わーってみんなで戦うんだよー」
 どうしてオオガラスの彼は急にそんな話し方をするようになったのか。
 疑問ではあったが、タルトはあまり気にしないようにした。
「戦わないで仲良くすればいいのに」
「まぁその……血生臭い、じゃない! こう、お祭りみたいな感じで、違うな、野球観戦するみたいな感じで結構面白いんだけど、分からないかなー」
 オオガラスの彼はそう言うと苦笑していた。
「あ、そういえばオオガラスさんの名前は? お花のソフィーみたいにみんなから何て呼ばれてるの?」
「はぁ。ソフィー・ワド・ベクスターと、正確にお伝えなさいな。それに、お花なんて付けるのはあなただけでしてよ」
「もしかして、嫌だった?」
「嫌ではありませんけど、普通に呼ばれたくはありますわね」
 少し残念そうに、んーとタルトが唸っていた。
「じゃあ、今度から何も付けずにソフィーって呼ぶことにする。お花って付けた方が可愛いと思ったんだけど、実は前にもそういうこと言われてて、付ける必要はないだろうって」

「まあ、他の者にも余計なものを付けて呼んでましたのね」
 ドーラの名、口に出せそうにない。
「おばさんって付けて呼んで、ちょっと怒られて」
「言われて当然ですわ。なりませんのよ、大人の女性をそのように呼んでは」
「はーい。今後は気を付けまーす」
 ふ、ふふ、はは、とオオガラスが少し気持ち悪く笑っていた。
「何急に。そんなに面白い話だった?」
「いや、そうではなく。あー、まぁいいか。ちょっと寝惚けていたと言いますか、冥界区の子にちょっかい掛けてしまったかもなんて思って、気を揉んでいたと言いますか、この私としたことがっ、名を名乗るのを忘れていたとは度し難い失態!、一生の不覚っ!」
 オオガラスは、よく通る声で名乗った。
「私はマルターレのマルテ! その名を聞けばピーピー鳴く雛鳥も黙る、マルターレの空の覇者! マルターレのマルテにございます」
 言い終えると、彼は妙にすっきりした顔をしていた。これこれ、といった具合。
 自信と誇りを満ち満ちとさせた彼の名乗りを、ソフィーがこう評す。
「大仰な名乗り方ですわね。まるで決闘前の騎士。大した傑物でしたのね、そうはこれっぽっちも見えませんけど」

「何を仰います。今でこそふらふらしていますが、あ、聞いてくださいますか」
 オオガラスは自らの過去を語り始める。
 群れを率いてトンビ共を海に沈めていたとか、人間とつるむようになってからは結託して相手組織を潰していたとか、聞かされたのは暴力の世界で生きてきた漢の話で、ソフィーは眠そうに、タルトは少し困った顔で聞いていた。
「もう、悪い事ばっかりして、駄目じゃない」
「いやいや、それが漢の生き様というもので、んー、女の子には難しかったかなー」
 タルトは、ソフィーの昔話も聞きたくなって、話を振った。
「ソフィーの昔話も聞かせてよ」
「構いませんけど」
 語り始めたソフィーの昔話は華やかなもので、貴族の家に咲き、そこから望む地中海、そしてその街並みから始まり、舞踏会のことや、素敵な恋愛話まであって、最後の最後まで好みの話が聞けてタルトはご満悦、浸るような顔で両手を握り合わせていた。
 ソフィーがくすくす笑っている。
「そこまでの反応をされると、少しくすぐったく思いますわね」
「だって、胸躍るような話だったもの」

 そうは思わない男、マルテは一人白けていた。漢が胸躍るには、血が滾るような展開がいる。
「次はあなたが語る番でしてよ」
 お姫様ならという期待の眼差しに応えることなど無論できず、タルトの顔は途端に曇った。
「私は、言えないの。ほんと、何も無いのよ。何一つそういう思い出って無くて」
 彼女の纏う雰囲気から二人は察し、口籠るように口を閉ざし、しばし、元気づけるようにソフィーが言った。
「こちらで、良い思い出を沢山作るといいですわ」
「作れたらいいけど、今はなんかできる気がしなくて……」
「病は気から、思い出作りも気からですわよ。ほら、しゃきっとなさい!」
「うーん、頑張ってはみるけど……」
 自信はない。
「わたくしも手伝って差し上げますわよ。だからほら、しゃきっと! 元気を出す!」
 乗りかかった船だ、ソフィーは葉を丸めて力こぶを作ってみせる。
 それが可笑しくて、タルトは笑い、彼女の葉を優しく手に取った。
「お願い、私一人じゃ多分無理そうだから」

「頑張りますわよ、思い出作り」
 力強い視線を注がれ、しかし「おー!」と拳を突き上げたのはタルトだけで、
「もう、一緒にやってよ!」
 と彼女は不満を漏らしたが、すぐに笑い出し、彼女達はどちらからともなく視線を前に向けた。
 まるで地上の満月、夜を照らし、煌々と輝く立派な都が見えてくる。
 そこに、天を衝くほどの巨大な何かがそびえ立っていた。ようく目を凝らして見てみると、それは大きな黒城で、しかし、ここには本当に城が沢山ある。これで三つ目だ。
 マルテが高度を下げていく。
 もうすぐ着く。そう思うと胸が高鳴る。
 タルトは身を乗り出すようにして、先に広がる夜景を眺めていた。



  
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