白砂の夜に踊る

晴なつちくわ

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第一部

8.お誘い

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 いつものように呼び捨てしそうになって、咳払い一つで誤魔化す。
 簡易的な拝礼と共に、口を開いた。

「ご機嫌麗しゅうございます、ミュトラ王子」

 顔を上げれば、不満そうなミュトラと目が合った。思わずほころんでしまった頬を隠さずに、問いかける。

「こんなところにお一人で、いかがなさったのです? 何かあったのですか?」
「お前が此処にいると踊り子たちから聞いた」

 不満げなミュトラには悪いが、ここは後宮の近くで離宮とは離れた場所だ。一番初めにくだけた態度を取るのは二人きりの時のみ、と断りを入れている。
 ミュトラに舐めた口を聞いているのが広まれば、『ミュトラ王子の番候補』なんて馬鹿げた噂の信憑性を上げてしまう。それがもしもウィリア王妃の耳に入ったらと思うと、ゾッとする。
 目で適当な合図を送れば、分かったのか分からないのか、とりあえず表情をいつも通りに変えている。そのまま作り笑顔を顔に張り付けて、言葉を続ける。

「私からお伺いしますのに。何か急ぎの御用事でも?」
「ああ、少し付き合ってほしい」
「私でよろしければ喜んで」

 恭しい挨拶もほどほどに、すぐさま踵を返したミュトラについていく。
 ヴェルナの後ろ髪を引くような後宮から聞こえてくる楽しそうな黄色い声も、そのうちに聞こえなくなった。


 幾度も訪れたミュトラの私室の入口にある垂れ幕をくぐったところで、耐えきれず大きく長く溜息を吐いた。前から少し笑ったような声が聞こえてくる。振り返ったミュトラはやはり表情を崩していて、顔を顰める。

「なに笑ってんだコラ」
「いや、お前がいつも通りで安心した」

 また何か怒らせてしまったのかと思った、とミュトラは続けた。
 首を捻る。初めこそ『こいつ無理』と思いはしたが、最近のミュトラには別に苛つくことはないし、嫌悪感も感じない。直感で無理だと思った相手とは根本的に解り合えないことが多いのだが、ミュトラに対してはその勘が外れた。嬉しい誤算である。
 正直に言えば、あそこにミュトラが来てくれて助かった。
 あのまま自分たちが寝泊まりしている部屋に帰っても、王妃から言われたことを考えてしまうのは目に見えていたから。ミュトラと話せた方が気晴らしになる。

「それで? 用ってなんだ?」
「一緒に街に行かないか」

 思わぬ提案に目を瞬く。興味はあるが、まさか誘われるとは思わなかった。

「お前、第三王子だろ? 勝手に出かけていいのか?」
「どうせ俺だとは気付かない。国の式典に出るのは父と兄のヴィシラと、王妃殿下だからな」

 いや、聞きたかったのはそこではない。
 ウルの皇族は護衛を連れて行くのが決まりだった。お忍びで市井に出向くことも確かにあったが、ばれたら当然のようにこっぴどく怒られた。不用意に民に気を遣わせるな、という母の言い分は確かに正しくて、それ以来は出たことはなかったのだけれど。

「何か手続きとかは必要ないのか?」
「ない。俺がすることに父や王妃殿下は興味をお持ちにはならない。これまでも何度か街に降りたことがあるから大丈夫だろう」

 それはそれでどうなんだ、と思いはするが、ラナキアの規則は当然ミュトラの方が詳しいわけで。これ以上口を出すのも可笑しい気がして、そうか、という言葉にとどめる。彼が言うならいいのだろう。

「一度戻って座長に確認してきてもいいか?」
「座長からの許可なら貰っているから、戻る必要はない」
「……段取り良いな、お前」

 素直に褒めれば、うん、と満更でもない言葉が返ってくる。変に謙遜しないこういう所がかわいいよな、と思いつつ、頭を過ったのはフィニのことだ。まあジアノに言ったなら大丈夫か。勝手に納得して、はたと気付く。

「俺、この格好で行くってことか?」

 後宮で踊り子としての役目を果たしていたから、着替えなんてものはもちろん手持ちがない。でも流石に、踊り子の衣装は適切ではないだろう。歩くだけでしゃらしゃらと音がするし、上半身の露出が多く、下半身は丈が長くて動くと広がるせいで散策には向かない。単純に邪魔だ。
 不満を垂れたら、小さく笑ったミュトラは首を横に振った。

「着替えもこちらで用意させた。俺の我儘だからな」
「ほんとに準備が良いな、お前」

 手渡されたのはラナキアの庶民がよく身に着けている一枚で着られる服と、藍色の肩掛けだった。どこで着替えれば、と思ったヴェルナに答えをくれたのは、ミュトラだ。

「あそこで着替えると良い。お前が今着ている物は、ウルウィ一座の部屋に届けさせておく」
「……準備が良すぎてもはや怖くなってきたよ、俺は」
「? 何故だ」
「分かんないならいいよ。あそこね。着替えてくるから覗くなよ」

 指を差されたところに向かいながら言ってやる。少しでも照れてくれたら可愛げがあるのに、ミュトラは静かな笑みを浮かべたまま言った。

「お前が嫌がることはしないから、安心していい」

 返ってきた完璧な答えに、白目をむきそうだった。どおりで性別もバース性も問わず、引っ張りだこなわけだ。一度だけでも抱かれてみたい、と噂される理由も、一夜の誘いを断られない理由も、こういうところが一端を担うのだろうなと思う。
 お前が嫌がることはしない、と断言できてしまうことの凄さと言ったら。まあそれが有言不実行であれば、ただのクソ野郎なのだが。
 僅かに熱を帯びた首筋を無視して、とにかく今は着替えることに集中したのだった。


 ミュトラと共に出向いた街は、予想以上に活気にあふれていた。上から照り付ける陽の光をものともせずに、商人たちの大きな声が飛び交っている。市場にはたくさんの果物、新鮮な魚や野菜、装飾品が並んでいる。
 どれを買おうか吟味している市井の人を横目に、二人で並んで歩く。

「予想以上に賑わってるな」
「ああ。雨期に入る前のこの時期は特に賑わうんだ」
「まあ雨期になると品物の流通が滞るからな」
「やはりお前は物をよく知っている」

 ラナキアの雨期は最長で二十日だ。その間だけしか手に入らない魚や野菜もあるが、装飾品などは湿気の所為で商品が不良になる事もあるため、市場に並ばなくなるのが定石だ。
 しかしそれは、市井で長く生活している者なら誰でも分かることだ。紛れて生活するには、そうして生活している者たちを知るのが一番だから。そういう市井の常識を知らざるを得なかったと言って良い。
 本心を隠して、まあな、と小さく笑う。

「ヴェルナ、この景色を見て何を思う?」
「えぇ? 踊り子の俺に聞くのかよ」
「率直な感想でいい」
「そうだなぁ」

 目を走らせた街には、暗い顔をしている者は一人もいない。市場から離れた路地にいるのは、楽しそうに遊ぶ子どもたち。近くで座っている老人が、子どもたちを眩しそうに見つめている。路地で蹲っている若者はいない。誰も彼もが、今を懸命に生きている。

「民が笑顔で活気に溢れてるのは国が豊かな証拠だ。この国の民は先の不安を感じずに、暮らせるんだな、と思ったのが率直な感想だな」

 色んな国を渡ってきたから分かる。王宮は豊かでも王都に住む市井の人に活気がない国もある。ラナキアは、そういう国とは違い、民にまで豊かさが循環しているのだろう。地方には足を運んでいないから、全ての民に行き届いているかは分からないが。
 なかなか返ってこない反応に、ミュトラを見遣る。彼は笑んでいた。やけに楽しそうだ。もしや、と思って問いかける。

「それを聞きたくて俺をわざわざ連れてきたのか?」
「いや、お前とこの街を歩いてみたかったんだ」
「? なんで」
「今までこの景色を見ても俺が抱くのは、不満ばかりだった」

 言葉の意図が分からなくて、首を傾げる。ミュトラはヴェルナを一瞥してから、市場の人々に目を向けた。

「彼らが、俺には眩しかった。彼らにはやりたいことが決まっていて、それを阻まれることもない。笑顔が輝いているせいで、誰も彼もが幸せそうに見えた。それを見ている俺だけ不幸な気がしていた」

 楽しそうな民の声が響く中でも、ミュトラの声はよく耳に通った。

「でも、お前に言われて気付いた。俺はないものばかりに目を向けていた。その思考に囚われて、自分で努力もしていなかったと」
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