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第一部
12.一触即発
しおりを挟む細く長い雨が降り注いでいる。
闇色に染まった街に厚い雲が雨を落とすのを寝台から眺めていたミュトラは、静かに長い息を吐き出して瞼を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、二日前の夜のことだ。
あの疑似的な発情を起こした夜から、ヴェルナとは会っていない。彼も体調が落ち着くまでは会いに来ないと言っていたから当たり前なのだが、胸に一抹の淋しさが貼り付いている。
今まで不本意な発情を起こしたことが、ミュトラにはなかった。三か月に一度、発情期がくることはあっても、その時だけ薬を飲めば良かった。後宮にいるΩの発情期に誘発されることは一度たりともなかったし、周期がずれたこともなかった。
なのに、それは起こった。
当然と言えばそうかもしれない。
ミュトラにとって、ヴェルナはただの踊り子ではない。
自分の事を変えてくれた唯一の人であり、気の置けない友人だった。否、そう思い込むようにしていた、という方が正確だ。
一番初めに感じた下心をなかったことにして、気の置けない友人であろうとしていた。ヴェルナがΩとして矜持を持っていることを知っていた。『どんなαでも思い通りにはなってやらない。それがたとえ王族だったとしても』という彼の意思を嫌と言うほど感じていた。最悪の出会い方をしてしまったが故に『今度は失敗しないようにしなければ』と固く心に誓っていたから。
αもΩも関係なく腹を割って話せる友人であろう。
そう自分自身に言い聞かせていた。だからこそ。
――触ってみるか?
そう言われた時、見透かされたのかと思った。
腹の奥底に隠した欲望があることを、誰よりも隠したかった張本人に見抜かれたと思って、背筋が冷えた。軽蔑の色を宿した紫翡翠が向けられていることを覚悟した。しかし心配したような色は、その瞳にはなく。どちらかと言えば、筋力がないと思われたことが不本意のような不満の色だった。
ごくりと鳴った喉。
正直に言えば、触れてみたくて堪らなかった。彼の許可があるなら何も遠慮はいらないじゃないか、と誘惑が囁いた。碌なことにならないやめておけ、と道徳心が言ったのに、聞こえないふりをしてしまったのが、すべての元凶だ。
ヴェルナのことを知りたかった。
彼の輪郭を実際に触れて確かめてみたいと思っていたし、触れてみると止まらなかった。もっともっと、と指を滑らせてしまうのをやめられなかった。
Ωの体の構造を知りたい、なんて体のいい言い訳だ。結局のところ、ヴェルナのことが知りたかったのだ。たとえ彼がαであろうとβであろうと、ヴェルナという人のことを、ミュトラは知りたくてたまらなかった。彼を形成するすべてを、知りたいと思っていたから。
それが過ぎたのだろう。
いきなり腕を引かれて、温もりが消え去った。指先に残る僅かな温もり。それをなくさないように拳を握り締めた。
あまりにもしつこく触ったから、また彼を怒らせてしまったのかもしれない。すぐに謝るためにもミュトラは、顔を隠してしまっている白銀の髪をかき分けて、ヴェルナの顔を覗き込んだ。
「ヴェルナ、すまない。気を悪く、」
ヴェルナは予想とは正反対の顔をしていた。
普段は白くまろい頬を、目元まで赤く染めて。眉を下げて、恥ずかしさを誤魔化すように口元を歪ませていた。
その顔を見た時、咄嗟に想像してしまった。
ヴェルナを寝台に押し倒したらこんな顔をするのか、と。彼を暴いて、ともに快楽に耽ったら、こんな顔をしてくれるのかもしれない。
きっと邪なことを考えてしまった罰だ。
全身に一瞬にして熱が回った気がした。まずい。思った時には遅かった。ヴェルナが何かを言っているのは分かるのに、目の前の彼をただただ組み敷きたいという考えしか浮かばない。荒くなる呼吸の中で、今にも切れそうな理性を総動員して、その獰猛な考えを捻じ伏せることだけに徹した。
それなのに、あろうことかヴェルナは口付けてきた。なにを、と思うのに自分の体は正直で、咥内に潜り込んできた彼の舌を喜んで受け入れた。滑付く温もりを追いかけた。だが頭の片隅で、彼が自分の発情を止めてくれようとしているのも理解していた。だから離れていく温もりを追わないことだけ考えて、意地でも腕を上げなかった。されるがまま、喉に下っていく薬と甘く感じる唾液。
離れていく熱を名残惜しさを感じながら、体の中で暴れ回る欲望が収まるのを、じっと待った。
何たる失態だ。
ヴェルナに迷惑を掛けて、緊急抑制薬まで飲ませてもらって。己の不甲斐なさに打ちひしがれそうだった。その上ヴェルナに、俺が悪かった、とまで言わせて。
はぁ、とまた漏れた息を吐き出す。
医者の見立てでは、問題ない、とのことだった。念の為、発情期に服用する薬を三日間飲んでおくといい、という助言を素直に実行に移した。そのおかげか、あれ以降発情の兆候もない。
だから書状をヴェルナに送った。
謝罪と今日会いに来てくれないか、という伺いを立てた。返事がないのはいつものことで、もしも彼が是とするならいつもの時間に来てくれる。
それを、ミュトラは待っている。
もしも今日来ないのなら、明日自ら会いに行くのも良い。とにかく会って話がしたかった。
「失礼いたします」
不意に耳を通り過ぎた声。ヴェルナではない。すぐに立ち消えた期待に肩を落としながらも、ミュトラは寝台から抜け出した。
「ウルウィ一座のヴェルナに代って参りました、フィニでございます」
「入って良い」
自分でも分かるくらいの落胆の滲む返答にも臆することなく、その声の主は堂々とした態度で、垂れ幕をくぐって入ってきた。色素の薄い髪を後ろで三つ編みにした背の高い女だ。礼式を一通り熟してから、座卓の近くの長椅子に腰を掛けたミュトラの近くへと来て、もう一度拝礼をする。
「我が主であるヴェルナの命により、参上仕りました」
「……ヴェルナの命?」
もうお前には会いたくない、という彼の意思表示だろうか。そんな絶望に似た予想を覆したのは、フィニだった。
「正確に申し上げるのなら、私がヴェルナ様にお願いしたのです。私も一度ミュトラ王子にお会いしたいと」
眉が中央に寄った。何の面識もないフィニが何故自分に会いたいのか分からない。不満が顔に出てしまったミュトラに、フィニは拝礼を解き、表情を変えることなくこちらを見下ろしてきた。髪と同じ薄い金の瞳が、冷ややかにミュトラを射貫く。
「何故だか分からない、と言いたげですね」
「当たり前だろう。貴殿とは面識がない」
「ええ、面識がないのは間違いありません」
「では何故だ」
彼女の意図が分かりかねて、鋭く問い詰めた。しかしフィニは全く動揺する様子はない。それどころか、見下ろしてくる瞳の冷ややかさが増した気がした。
「ミュトラ王子に上奏したき儀がございます」
「なんだ」
「これ以上、ヴェルナ様に付き纏うのは止めていただきたい」
強い声だった。じっと見つめ返してもその眼光はひるまない。彼女にそんなことを言われる筋合いはない。しかしヴェルナに仕えている、という彼女の言葉を無視することは出来なかった。
「……理由を聞こう」
静かに告げれば、フィニの瞳がすっと細くなった。
先ほどから彼女から感じるのは、怒りだ。十中八九、ヴェルナに関することだろう。その怒りがミュトラの行動によるものならば、改めるべきところは改める必要がある。
ヴェルナと時を共にして分かったことは、彼は肝心なことを胸の奥に秘める所があり、弱みを極力見せない所があることだ。
地頭が良く視野も広いヴェルナは、よく思考を回す。その上で必要な事不必要な事を、無意識か意識的かは分からないが、瞬時に判断し相手に伝える。楽観的な所はあるが、冷静に状況分析が出来て、且つ行動は現実的だ。
伝える必要がない、と彼が判断すれば、それはミュトラに伝えられることはない。聞きたいと強請れば教えてくれるかもしれない。しかし殆どの場合、彼の胸に秘められて終わる。
ヴェルナからしてみれば、ミュトラは最近出会ったばかりの『クソ王子』だろう。対してフィニは、ヴェルナと共に旅をしている一座の一員だ。我が主、と言う所からも彼女の方がヴェルナに詳しいのは推察できる。
そんな彼女にヴェルナが何かを話しているなら、聞くべきだと判断した。
「……聞き入れて下さるのですか?」
「聞き入れる約束は出来ない。が、貴殿がそう進言するだけの理由はあると判断した。だから理由を聞かせてくれ」
フィニは、なるほど、と頷いた。何かをぼそりと呟いたようだったが、そこまでは耳に届かない。聞き返そうかと思ったところで、彼女は口を開いた。
「ヴェルナ様に、ミュトラ王子、貴方様は釣り合わない。だからです」
「――一体どういう意味だ」
地を這うような低い声が出た。尤もらしい理由があるのかと思えば、釣り合わない、と来た。一体何がヴェルナと釣り合わないのか。そもそもそんなことを言われる筋合いはない筈だ。ミュトラがフィニのことを知らないのと同じように、フィニもミュトラのことは知らないはず。ヴェルナの付き人が、噂に踊らされる阿呆には到底思えない。
釣り合わないと言われるだけの理由があるのか。
そう吠えてやりたかった。
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