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第一部
30.私の運命
しおりを挟む穏やかな風が小さな庭の植物を揺らしている。
そんな中、ミュトラは一人、日陰になっている長椅子にだらしなく体を預けている。彼の膝の上には、中身が白紙の書状が開いた状態で置かれていた。
ヴェルナから渡されたそれは、何度見ても白紙だ。柑橘系の匂いがするだけで、陽にかざしても文字が現れたりはしなかった。
――私の心を認めました
ヴェルナはそう言った。なのに中身は白紙。
つまり無そのもの、という意味なのかもしれない。
白紙であることを知った時、何も考えられなかった。少しの期待もすべて打ち砕かれて、ヴェルナに会いに行くことすらできなかった。
一度でも会えば、ヴェルナにみっともなく縋ってしまう気がして。気持ちを教えてくれ、と女々しく問い詰めてしまう気がして。ヴェルナが決めたことを尊重したいと思う反面、このまま彼を閉じ込めてしまおうという己の恐ろしい欲望が牙を剥くのが恐ろしかった。
だから、ヴェルナが去ってしまうのを黙って見ていることしか出来なかった。
ヴェルナたちが王都を後にして、すでに五日ほど経とうとしている。
ラナキア国内は、あのあとも特に変わったことはない。しかし風の噂で、王妃が少し丸くなった、と聞いた。何でも国王との心の距離が縮まったとか何とか。
羨ましかった。己は想い人に完膚なきまでに振られてしまったのに、あれほどのことをした王妃は咎められることもないどころか、王との仲を改善させたなんて。どうして己だけに罰が下ったのか、といつかどうかも分からない神の胸倉を掴んで、聞いてやりたいくらいだ。
己の心だけが取り残されたまま、日々が過ぎていく。
こうしてヴェルナと初めて会った場所で、無為に過ごして、想い出をなぞる。ヴェルナが見たらきっと笑うだろう。ざまあみろ、と彼なら言うかもしれない。
「おや? こんなところにいるなんて珍しいね、ミュトラ」
そんなミュトラに声を掛けてきたのは、兄であるヴィシラだった。隣いいかい、と言いながら許可もしていないのに勝手に隣に座っている。小さく息を吐いて、だらけきっていた体を起こしながら座り直した。
「何か御用ですか、兄上」
「いや用は特にないな。お前がどうしているかと思って見に来ただけ」
こんな状態の自分を笑いに来たのか、とも思いはしたが、ヴィシラは揶揄う様子もなくただ隣に座って、庭を眺めているようだった。
「何も言わずにヴェルナを行かせてしまったんだね」
ヴィシラはふと言った。事実だから、そうですね、としか言いようがなかった。今更何が言えるというのだろう。絶縁を望まれるようなことをしてしまった自分に。
最後に会った時、ヴェルナには明らかな拒絶の色が態度に出ていた。であれば、ミュトラに出来るのは極力近付かないことだけだ。本当は話がしたかった。でもあの態度は話しても無駄だ、と言わんばかりだった。
「本当にあのまま行かせてよかったのかい? 私にあんなにヴェルナに手を出すなと言っていたのに」
「ヴェルナに拒絶された以上、その資格はないと判断しました」
「拒絶?」
心底分からないと言いたげなヴィシラに小さく笑って、己の膝の上に乗っている書状を指先で、とんとん、と叩いた。
「ヴェルナが私に礼の品として渡してきた白紙の書状です。これが拒絶以外の何に見えますか?」
わかるならば教えてほしかった。拒絶以外の意味が込められているとはとても思えない。その場で開かず、自室で、と言ったのも強い拒絶以外の何があるのだろう。少なくともミュトラにはそうとしか思えなかった。
「少し見ても?」
「ええ。どうぞ」
ヴィシラに渡せば、ふむ、と興味深そうに見ている。そこから目を離して風に揺られる植物を見た。きっとどれだけ見ても何も出てこないだろう。
そう思った時だった。
「――嗚呼、なるほど。だから彼は『賭けをしている』と言ったんだね」
感心したように言ったヴィシラへ、勢いよく顔を向ける。書状に目を落とす彼の表情は柔らかく、楽しそうな笑みを浮かべていた。視線に気付いたのか、ヴィシラの瞳がこちらを向く。
「これは白紙じゃないよ、ミュトラ。異国で使われる『あぶりだし』という手法だ。柑橘系の果物の汁や砂糖水を使って書くと、こうして文字が消える。消えた文字は、火であぶると浮かび上がるんだ。秘密事項を伝達したり、簡単に暴かれるのを防ぐやり方だ」
え、と間抜けな声を出したミュトラに、ヴィシラは書状を渡してくれる。
「ヴェルナはその手法を知っていて、あえてすぐに読み解けないようにしたんだね。本当に賢い人だ」
「……一体何故?」
時間稼ぎがしたかったという事だろうか。それとも他に目的があるのだろうか。今まで白紙だと思い混んでいたミュトラの混乱した頭では、答えを導き出せそうにない。そんなミュトラに、ヴィシラは笑って教えてくれた。
「それは、あぶりだしたら分かるんじゃないかな」
もしかしたらヴィシラは、書状に書かれた答えをすでに知っているのかもしれなかった。それほどに穏やかで、どこか確信めいた言葉だった。
ミュトラは勢いよく立ち上がって、頭を下げる。
「兄上、ありがとうございます」
そのまま返事も聞かずに、大股で歩き出す。
向かうは己の部屋だ。ヴェルナは言った。恥ずかしいから自分の部屋で開けてくれ、と。いや、そうではない。きっと他の誰にも見られたくなかった。ヴェルナの真心が綴られているであろう文面を、独り占めしたかった。そこに例えどれほど酷いことが書かれていても。自分だけのモノだから。
そんなミュトラの背中を、ヴィシラが眩しそうに眺めていたことなんて、知る由もない。
すぐさま自室に戻ったミュトラは、火をつけた蝋燭を適当な間隔で座卓の上に並べた。それから、火の上をくぐらせるように書状を揺らす。すると、数秒の内にヴィシラの言った通り文字が浮かび上がってきた。
それは確かに、ヴェルナの筆跡だった。
何度もこの部屋に来て、様々なことを教えてくれたヴェルナの字。数日しか経っていないはずなのに、ひどく懐かしく感じて、勝手に胸の奥が熱くなる。
白紙だと思っていた書状は、ゆっくりと、しかし、確実に全容を現していった。あらかた文字が浮かび上がったところで、炙ることを止めて、椅子に座り直す。
ドクドクと心臓が五月蠅い。一度落ち着かせるように息を吸って、吐き出してから、その書状に向き直った。
『これを読んでるってことは、仕掛けに気付いたんだな。おめでとう……、と言っていいのかは分からないが、とりあえず言わせてくれ。おめでとう。そして気付いてくれてありがとう。
言いたいことは、大まかに分けて三つだ。
まず一つ目。王妃を欺くためとはいえ、酷い態度をとったこと、謝らせてほしい。悪かった。お前が傷付くかもしれないと分かった上で実行した。許したくなければそれでも構わない。それでも、お前に危害が及ぶのを避けたかったんだ。……なんて、言い訳聞いても関係ないよな。今穏やかにお前が暮らせてるなら、それで良い。
二つ目。あの夜のこと、本当に助かった。ありがとう。あの胸糞悪い発情から目が覚めた時、俺を助けてくれたのがお前だって知って、心底嬉しかった。意識を失う前にお前が浮かんだんだ。どうせ純潔を失うなら、相手はお前が良いって思った。お前にとっては苦肉の策だったと思う。嫌な役をやらせてごめん。でも俺は、本当にお前で良かったって思ってるんだ。お前に身も心も救われた。本当に言葉では言い尽くせない。本当にありがとう。
三つ目。告白されて、返事がまだだったよな。だから、今する。
ミュトラが好きだよ。正直、どこが良いとかどこに惹かれたとか、具体的にあげるのは難しい。恋なんてしたことない俺が言えるのは、お前の隣は心地が良いってことくらいだ。最初に会った時は、クソ野郎だと思ったけど、蓋を開けてみればお前はただ真っ直ぐで、馬鹿正直なだけだった。真っ直ぐなお前の想いに触れる度に、柄にもなく心臓が震えたよ。同時にお前の眩しさを思い知ったんだ。
一生の伴侶になるなら、お前が良い。
お前は俺にそう思わせたたった一人のαだ。
だが、お前は王族で、俺はただの踊り子だ。
俺はこれから先も国に属するつもりはない。対してお前は、これからラナキアにとって、なくてはならない存在になるだろう。だからこそ、お前を俺の番として縛って良いとは思えなかった。こんな分かりにくい方法を取ったのもそれが理由だ。ごめんな。
もしもこれを読んでるお前に別の伴侶がすでにいるのなら、過去の思い出として忘れてくれ。あるいは、もしもこれを読んで俺のことを伴侶に値しない奴だと思ったら、恋心ごと俺に抱いたすべてを捨てろ。実際、お前が失望するようなことを俺自身している自覚があるからな。この書状もこのまま破り捨ててくれ。
これだけ忠告してなお、同じ気持ちを持ち続けてくれているなら、あるものをお前に受け取ってほしい。その『あるもの』の在り処を下に記しておく。
言いたいことは以上だ。
今まで本当にありがとう。お前のお陰で楽しい日々だった。これからもお前にたくさんの幸福が降り注ぐよう、世界の片隅で祈ってる。またいつかどこかで。 ヴェルナ』
ぽつ、と書状を雫が濡らした。それが自分の瞳から落ちた涙だと認識したのと同時に、胸を鷲掴みされるような苦しさと、安堵、胸を内側から掻きむしりたくなるような痺れが襲った。
拒絶されたのでも嫌われたのでもない。ただ、ヴェルナがミュトラを想ってくれていたが故の行動だった。大きな想いに抱き締められたような気がした。それが嬉しくないはずがない。
納得いかないところは確かにある。あるが、それもヴェルナの賢さ故だから愛おしく思えてしまった。失望なんてとんでもない。同じ気持ちを返してもらえる喜びと、ヴェルナの本心を知れた嬉しさが全身を駆け巡って、今すぐにでも彼に会って抱き締めたかった。
いや、待て。涙を適当に拭ってもう一度書状を見る。ヴェルナはあるものを受け取ってほしい、と言っていた。見返した書状には、何やら絵と言葉、数字が書かれていた。
『滞在中、俺が使っていた寝台のサイドフレームの裏に隠してある。1108』
すぐさま駆け出す。
廊下を急ぐミュトラに侍従たちは驚いた顔をしていた。そんなことに構っている暇もなく、ミュトラは来客用の離宮へと辿り着く。明日には別の団体が来る。今日しか探る時間はない。
「ミュトラ王子!? どうしてこのような所に!?」
客室に入ると、すでに侍女たちが場の最終調整をしているところだった。いきなりのミュトラの登場に、その場に居合わせた面々は慌てて頭を下げている。構う必要はないと手振りで指示しながら、一直線に目的の部屋に進んでいく。
「俺に構わず作業を続けてくれ。あの部屋を少し弄っても構わないか?」
「そ、それは構いませんが」
ありがとう、と言ってその部屋に入って扉を閉めた。
こんなに小さな部屋でヴェルナは過ごしていたのか。そう思うのもほどほどに、寝台のすぐそばで腰を折って、指示のあった通りに手で探る。サイドフレームにそって少しずつ手を動かしていけば、枕に近い方に何かの塊があるのが分かる。その形を指で辿ると、何やら箱のような物だった。粘着力のあるテープでつけられているらしい。丁寧にテープをはがせば、ことん、と箱が床に落ちた音がする。
そっと手でつかんで引っ張り出した。
「……これは」
異国で作られた木箱だった。
蓋が簡単に開かないようになのか、なにやら四つの数字を入れるらしい回転式の鍵がかかっている。
嗚呼、それであの数字か。
すぐさまその数字に合わせれば、かちり、と音がする。心臓の音が大きくなったのを自覚しながら、ゆっくりとその蓋を開いた。中に入っていたものを見た瞬間、大きく目を見開く。
絢爛な装飾が施された鍵。
その鍵には見覚えがあった。フィニが見せてきた、ヴェルナの首輪を外すための唯一無二の鍵。番に成り得る者だけが持つことを許される鍵。まさかこんなものがここに? 本物だろうか。それとも夢でも見ているのだろうか。困惑に支配される思考のまま、震える指先で鍵を取り出すと、はらりと小さな紙が落ちた。
一度箱に鍵を戻してから、四つ折りにされたそれを開いた。
――俺の運命をお前に捧げる
たったそれだけだった。それだけで、分かってしまった。
ヴェルナは、ミュトラ以外の誰とも番うつもりがないのだと。鍵が見つけなければ、ミュトラがあの仕掛けに気付かなければ、一生番のいないまま過ごすつもりだったのだと。そうでなければ『運命』なんて言葉を、ヴェルナが使うはずがない。
ふはっ、と笑いが漏れた。豪胆な人だとは分かっていたが、まさかここまでするとは。いや、だからこそヴェルナに惹かれたのだ。芯が強く気高い彼に、惹かれてやまない。今この瞬間も、きっとこれからもずっと。
想いが返ってこないかもしれないのに、どうして彼はこんなに強いのだろう。何がここまで彼を強くするのだろう。分からない。でも分からなくても良い。
今はただ、ヴェルナに会いたかった。
一日でも、一分でも、一秒でも早く、ヴェルナに会いたい。
その思いに突き動かされるように、ミュトラは立ち上がる。こんなことをしている場合ではない。一刻も早く行動に移らなければ。その薄水色の瞳には、強い意志を表すような鮮烈な光が宿っていた。
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