極上の君

晴なつ暎ふゆ

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3.部屋に満ちる笑い声

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 浮足立ってしまう両足を何とか地面につけてスマートに歩きながら、クロードは笑みを深くする。
 数日前まで雲に覆われていた空も、胸の内を反映するように、青く澄み渡っていた。
 大仕事を終えて、報酬を受け取った時の爽快感は、格別だ。
 大通りを足早に歩いているビジネスマンたちの間をすり抜けて、花屋の横を通り過ぎてから、路地へと足を踏み入れる。レンガ造りの建物たちの間を縫うように張り巡らされた路地は、クロードにとっては庭も同然だ。ここに移り住んできた時はこの路にも悩まされたものだが、慣れてしまえばこの迷路も己の身を守る防御壁である。
 そんな外敵から所在を隠すにはもってこいの場所に、クロードは居を構えている。
 家というほど立派ではなくても、居心地の良さは感じているからそれでいい。
 右へ左へと足を向けながらたどり着いた一つの建物の前で、足を止めた。その建物の扉は、錆びついている上に建付けが悪く半分外れていて、今にも壊れそうだ。
 が、そんなことはお構いなしに、するりとその扉の隙間に体を入れ込む。埃臭い廊下を少し歩いて、目の前に現れた階段を軽い足取りで上った先。
 古びた建物には似合わない、年季の入った木製の扉があった。
 その扉の前に立って、ポケットから取り出した端末を弄る。錠のマークのアプリを起動して解錠ボタンを押せば、複数の機械音と共に、鍵が開いた音が鳴る。ドアノブを捻って、扉の間に体を滑り込ませてすぐに閉める。

「やっーとお帰りか、クロード」

 そんなクロードを、呑気な低めの声が出迎えてくれた。
 陽の光で満たされた、木目調のだだっ広い部屋。その中心にある三人掛けのソファで寝転がっているのは、パーマをかけた長髪を後ろで縛った髭面に眼鏡をかけた男だ。ふっと漏れた笑いを隠さずに落とす。

「まだそこから動いてないのか? エイヴ」

 ソファの近くには書類が山積みで、膝の上にはノートパソコンがおいてある。本格的な仕事の時は、自分の部屋にこもって一週間出てこないなんてこともザラにある彼は、クロードが留守にしていた間、ここで作業をしていたらしい。出ていった時と違うのは、何個も置かれたマグカップと増えた書類だ。

「お~、この可愛い子ちゃんが放してくれなくてね」

 ちゅっとパソコンの端にキスをしているエイヴに肩を竦めた。
 エイヴはルームメイト兼仕事仲間だ。この稼業に足を踏み入れた時から、ずっと一緒に暮らしていて、良い相談相手でもあった。心が傾きかけたこともなくはないが、女好きの彼にその心を晒したことはない。きっとこれからも。

「そんなに苦戦してんのか? 今回の案件」
「いや、個人的な興味でやってるだけだ。一度覗いてしまった深淵から逃れることは難しい」

 ゆっくりと体を起こしながら、まるで詩を詠むように胸を張ったエイヴに、ばかか、と笑ってキッチンへと向かった。

「それよりもクロード、四日も帰らないなんて心配したぞ」

 背中を追いかけてくる言葉に、あー、と濁った声が出た。
 まさか依頼主とベッドの上でよろしくしていた、なんて言えるわけもない。
 情報集めの手段として体を使うことがあることをエイヴは知っているが、まさか報酬の一端にしているとは考えていないだろう。適当に誤魔化すか、と思いつつコーヒーを入れ切った時だ。

「……、また体使ったのか」

 明らかに険が乗る声に、振り返る。
 ジト目に捉われて目が泳いだ。確信した声色、ということは、何かしらの証拠を掴んだのだろう。あはは、と乾いた笑みで返事をする。

「お前なぁ……、もっと体大切にしろって言っただろ?」
「いやこれにはさ、深い理由があってだね」

 わざとらしい語尾をもちろん見逃してくれるエイヴではない。大きな大きな溜息が部屋に満ちていく。

「理由もクソもあるかよ。しかも相当手酷くやられたんじゃないのか?」

 エイヴの指が彼自身の首筋をトントン、と叩く。何のことかわからなかったのは一瞬。
 まさかアイツ、痕残しやがったのか!?
 マグカップを持っていない方の手で素早く首筋を隠す。別にもう見られているのだから隠す意味もないのだが、なんとなくバツが悪かった。

「噛み痕だろ、それ。鬱血して痛々しいぞ」

 顔を顰めるエイヴの声を聞き流しながら、記憶を遡る。
 まったく身に覚えがない。
 もしかしてイッってる最中にやりやがったのかあのバカは。それとも俺が寝ている間か!?
 考えても考えても記憶にないし、鏡を見たときは気付かなかった。絶妙に見えない位置につけられたと考えていいだろう。

「……アイツに今度会ったら一発殴っとくわ」
「おーおー、そうしとけ。でも殺される前に絶対逃げろよ」

 深くは聞かないでくれるエイヴに心の中で感謝しつつ、頭に浮かんできたダンテの顔をぐちゃぐちゃに丸めてやる。
 お互いに痕はつけない。
 それが二人の間の暗黙の了解だったはずだ。面倒ごとに巻き込まれたくない、と言ったクロードに、それは僕のセリフ、と笑い混じりにほざいたのはダンテの方だったというのに。書面で一筆書かせてやるべきだった。

「でもまぁ」

 ムカつく顔を存分に頭の中で殴っていたら、ふいにエイヴが言った。

「そいつとは早めに縁切った方がいいかもな」

 ぱちりと目を瞬く。エイヴがそんなことを言うなんて。ひっくり返るくらい珍しい。
 基本的にクロードもエイヴも、お互いに干渉しない。案件で助けてほしいことがあればどちらも遠慮なく言うものの、依頼主についてあれこれ言うことは、今まで一度もなかったのに。
 にんまりと勝手に口角が釣り上がる。ニヒヒと笑いながらエイヴの後ろに回って、ソファの背もたれにもたれかかった。

「お前がそんなこと言うの珍しいじゃん。そんなに心配か~?」

 このこの、と肩を指先でつついて揶揄ってやる。
 くるりと振り返ったエイヴと目が合って、またぽかんと口を開けてしまった。色素の薄い茶色が、いつもは茶化すような笑みを浮かべる口角が、真剣みを帯びているなんて思いもしなかったから。

「心配に決まってるだろ。お前は大事な奴なんだから」

 しっかりとした温度を持つ言葉が、耳を通って脳まで届いた。
 じわりと胸の奥に帯びたぬくもりに、自然と笑みが零れる。やっぱりコイツのこと、好きだなぁ。なんて、もちろん口から出すわけはないけれど。

「ははっ、大丈夫だよ。心配してくれてありがとな。それにこれはまあ、そこらへんの野良犬に噛まれたくらいのやつだしな!」

 ハァア、と大きな溜息が聞こえて、お前の大丈夫は大丈夫に聞こえねぇんだよ、と不満な声が飛んでくる。これ以上は無駄だと思ったのか、エイヴはまたパソコンへと向き直ってしまった。
 肩越しに僅かに見える口先が形取るのは、不機嫌だ。
 その事実にまたクロードの笑みは、やわらかく深くなる。
 ありがたい事だ。誰が裏切るか分からないのが裏社会であり、その社会に属する人間は多くが、己の身の可愛さに相手を慮ることをしない。
 そんな場所で生きるクロードにとって、気遣ってくれる存在は貴重だ。

「なぁ、エイヴ。今日の夕食は俺が奢るよ」

 肩を叩きながらそう言ったら、幽霊でも見たような顔をして振り返ったエイヴに、今度こそ声を出して笑った。


 ***


 空間を裂くような大きな舌打ち。
 聞き慣れない人が聞いたのなら、小さな発砲音と聞き間違えそうなほど鋭い音だった。ペンを走らせていた手帳から顔を上げれば、上座に座した銀髪の男が人でも殺しそうな顔をして虚空を睨みつけている。
 ハァ、と溜め息を隠さずに吐いて、ペンを止めた。

「ボス、何か問題でも?」

 問い掛けたものの、大抵彼が怒りを露わにする事といえば、選択肢は絞られる。どこぞの不埒な輩が領域を侵したか、はたまた彼のお気に入りに手を出されたか。
 一通り目を通した報告書を思い返すと、選択肢はさらに後者に絞られた。
 虚空を睨み付けていた感情に乏しい灰色の瞳が、こちらをゆっくりと射抜く。嗚呼、やはりお気に入りに手を出されたらしい。
 感情が欠落している、と言われがちな我がボスーーダンテは、案外わかりやすい。執着といえばいいのか、彼が彼のモノだと一度決めたモノには、かなりの独占欲を発揮する。ちょっかいを出された瞬間に、手を出した者へ死の烙印が押されるくらいには。
 じっと見つめていたら、ハァ、とダンテから溜息が返ってきた。

「お前、楽しんでるだろ」
「おや、顔に出てましたか」
「出過ぎなんだよ。ニヤニヤしてるのが目に出てる」
「それはそれは、私としたことが。すみません。ボスが怒りを出している姿がどうにも新鮮で」

 さっきは分かりやすいと言ったが、基本的にダンテは感情の起伏が少ない。
 彼の一挙手一投足は、夜明け前の街の凪を思わせる。
 誰かに死の鉄槌を下す時も、イイ女達に囲まれた時も、強敵に追い詰められた時も。
 まるで人間ではなく、制裁を下す神のような気すらしてしまうのだ。
 だから彼が人間らしく感情を外に出している姿は、見ていて何といえばいいか、安心する。彼が遠すぎる存在では無いのだと教えてくれるから。

「面白がりすぎだぞ、ジオス。それ以上笑うなら脚の骨を折る」
「ではすぐに笑いを止めます」
「そうしろ。脚が惜しければな」

 不機嫌そうに言ったダンテは、考える事はやめたのか、高価な革張りの椅子に背を預けてまぶたを閉じた。
 よくよく観察してみれば、彼の片耳にはイヤホンがある。何やら盗聴でもしているのかもしれない。我がボスがながら悪趣味である。まあ止めることはしないが。

「コーヒーでも飲みますか?」
「ああ、頼む」
「御意に。……あと一つ気になるのは分かりますが、あまり熱心に追いかけませんよう」

 開いた瞼の灰色から、ギロリと威嚇の視線が飛んでくる。肩を竦めながら、くるりと革靴の爪先を出入り口へと向けたのだった。
 


 執務室に残されたダンテは、深く深く息を吐き出した。
 もう一度舌打ちをその部屋に響かせれば、幾分か怒りは飛ばせたのに、ついさっき耳に流れ込んできた聞きたくもない会話を思い出して、さらに苛立ちは募った。

「お前は大事な奴なんだから、ねぇ」

 イラつかせた言葉を、ポツリと口に出してみる。ハッ、と嘲笑が漏れた。
 大事な奴。
 なんて滑稽な言葉だろうか。
 一周回って腹の底から湧き上がってきたのは、笑い。それ隠す事なく、ダンテは一人その不気味さすら感じさせる笑い声を暫くの間、執務室に響かせていた。

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