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4.不名誉な噂話
しおりを挟むゆったりとしたクラシックの合間に聞こえる、少しのざわめきと、陶器同士が擦れる音。時折ベルが鳴るその空間が、クロードは好きだ。
ホテルのラウンジというのは、どうしてこんなにも気分が上がるのだろう。
やっぱりこういうところじゃなくちゃな。
ふふん、と漏れた笑いを空気に混ぜて、琥珀色の紅茶の水面を眺める。
ふわふわと漂う湯気。いれたての紅茶の香りを楽しみながら、依頼人を待つ時間は、こんなにも優雅で贅沢な時間だ。
この時ばかりは裏社会で奔走する苦労を忘れられる。
今回もなかなかに面倒だった。欲が薄くて口の堅い人間ほど手ごわいものはない。機械のほうがまだ扱いやすいというものだ。念入りに下準備をして、家に潜り込んで、ウイルスをターゲットのパソコンに入れるまでが大変だった。入れてしまってからは楽々に情報収集も出来て、最後にターゲットのパソコンを狂わせてしまえば、もうやることはなかったのだけれど。
そっとカップを手に取って、口をつけた時だ。
「やあ。早いな、クロードさん」
琥珀色から視線を上げれば、白髪交じりの柔和な笑みを浮かべた男が立っていた。
彼はスーツに目がないという通り、今日もオーダーメイドらしきスーツを着ている。バーガンディのような目立つ色を着られるのも彼ならではかもしれない。標的だったら一発で見つかってしまいそうだが、口は禍の元だ。ぐっと飲み込んでから、笑みを浮かべる。
「アドルフォさん、暫くぶりです」
「ああ。それで、早速だが、」
口を動かしながら目の前のソファに腰を掛けたアドルフォへ、ポケットに忍ばせていたUSBの入った封筒を差し出す。彼がほしいものはそこにすべて入っている。金混りの茶が、僅かに笑んだ。
「さすがはクロードさん。仕事が早くて助かる」
「それなりに苦労はしましたけどね」
「君ほどの男でもか?」
「それはそうですよ。足で稼ぐ分時間はかかりますし」
「ははっ、謙遜にしか聞こえないな」
朗らかな口調で笑いを零したドルフォは、早速それを胸の裏ポケットへとしまい込む。しかしいつまで経っても席から立ち上がろうとせず、寧ろ前のめりにこちらを見つめてくるのだ。今までは依頼のものを手渡したらすぐに席を立っていたのに。僅かに抱いた違和感。やはり席を立とうとせずに、こちらをずっと見つめてくる。
笑みを張り付けたまま、ゆっくりと口を開く。
「アドルフォさんも、何か飲んでいかれますか?」
「あぁ、それもいいが。それよりも」
伸びてきた指先が、カップを掴みかけていたクロードの手へ触れる。するりと指の背を撫でられて、全身が粟立った。
「君についての噂を聞いたんだ」
確実な意思をもって動く指先には見向きもせずに、目の前の金混りの茶を見つめ返して、笑ってやった。
「へえ? 一体どんな噂ですか?」
笑みを深くしたアドルフォが、顔を寄せてささやく。
「君、体を使うこともあるそうだね?」
笑みを消さないまま、目の前の男に笑ってやる。
あえて『体を使う』と言ってくるということは、セックスのことを言っているのだろう。間違ってはいないし真実だが、なぜこの男がそんなことを言ってくるのかが分からない。笑みを張り付けたまま、ええ、と肯定する。
「その方が都合が良いこともあるので。それが何か?」
「それは、お願いしたら私もヤらせてくれるのか?」
「……さあ? どうでしょう。気分が乗ればそういうこともあるかもしれないですね?」
他人事なのは、少なくとも今日はその提案は却下だ、という意思表示だった。
誰が好き好んで尻の穴を貸そうというのだ。クロード自身、気持ちが良いことが好きな節はあっても、誰彼構わず股を開いて媚びるなんてことはしない。それがたとえ大口の依頼人だとしてもだ。
しかし、目の前の男は諦め切れないのか、腰を浮かせると、今度はクロードの隣に席を移してきた。それだけでなく不躾な手で腰を撫でてくる。嫌悪で引き攣りかけた頬を止めたことを、自分でほめてやりたいくらいだ。
「じゃあどうすれば君の気分が乗るのかな」
「ははっ、少なくとも今日は無理ですね」
その手からするりと抜け出して、立ち上がる。
それすら面白がっているらしい。
舌なめずりをしてくるアドルフォに、とびきりの笑顔で応えてやる。
「ボクにも選ぶ権利はあります。礼節を学んでから、出直してください。嗚呼、それから報酬は忘れずに指定の口座にお願いしますね」
くるりと踵を返したクロードの背に、声がかかる。
「クロードくん。私は諦めの悪い男なんだ」
ハッ、と鼻で笑って肩越しに言ってやった。
「なおさら願い下げですね」
そのまま振り返らずにラウンジを後にする。
いつまでも背中に突き刺さる気持ち悪い視線が、鬱陶しくて仕方がなかった。このままではとても家に帰れそうにない。とにかくあのクソ野郎に触られた指先を洗うことにしよう。ラウンジを出てすぐにトイレに直行した。
トイレといっても流石一流ホテルといえばいいのか、大理石風の壁で作られたトイレは清潔そのものだ。いくら水を流しっぱなしにしても文句も言われない。強めに出した水で何度も手を洗って、泡で出るハンドソープも山ほど使ってやる。
あのクソ男が! 二度と依頼なんて受けてやるかよ! クソッたれ!
本当に気分が悪い。せっかくラウンジで高揚していた気持ちも、今では刺々しさばかりが胸を突いている。
好きで体を使っているわけじゃない。あくまで手段だ。その方法が一番効率がいいと判断したらそうするだけ。情報が勝手にわいてくると思っている馬鹿どもには解らない苦労だ。それなのに、頼めばヤらせてくれる、と勘違いされるのは心外だった。
ああいう輩は大抵、自分が気持ちよくなることばかりを考えて、こっちをモノのように扱う。物珍しさと好奇心と己の性欲を満たすだけの、失礼極まりない野獣のような人間は最初から拒否するに決まっている。
こちらを気遣う心を持ち合わせて、技術も高くて、天国を見せてくれるような人ならばいざ知らず。
ハァ、と溜息を隠さずに流れ続ける水に落とす。
「ずいぶん荒れてるね、クロード」
突如耳を割いた声に、バッと顔を上げる。
鏡に映っていたのは、銀糸の髪の男。面白そうに頬を持ち上げて、腕を組んで壁に寄りかかっていた。ジロリと鏡越しに睨んでやる。
「なんでお前がここにいる、ダンテ」
「僕の管轄のホテルに、僕がいておかしいことでもある?」
いやそれは知っているが、クロードが言いたいのはどうしてこういうタイミングで目の前に現れるのかということだ。
まさか、とある可能性が頭に浮かぶ。
「……俺に関する傍迷惑な噂を流したの、もしかしてお前か?」
「傍迷惑な噂? 何それ」
すっとぼけるつもりか。更に眼光を鋭くしたのに、気にも留めないらしいダンテはゆっくりとこちらに歩み寄って、すぐ後ろに立った。
「とぼけるな。俺が体を使うこともある、っていう噂だよ」
「はぁ? 心外だな。そんな噂、僕が流すわけない」
するりと伸びてきた腕に、両肩をやさしく抱きこまれた。ダンテに気のある人間だったら、こんなことされた瞬間にイチコロだろう。だがこんなことで落ちるクロードではなかった。むしろ反抗心がむくむくと大きくなる。
「ほかに誰がいるんだよ」
「さあ。 アンタのこと抱いたことある人間じゃないの?」
「全く信用できないな」
「信用してもらう必要はないけど。これだけは言っとくよ」
ふっと耳に弱く息を吹きかけられる。
ぞくっとしたものが背中を駆け上がったのを意地でも出さないように、鏡の向こう側のダンテを睨み続けた。照明を反射するきれいな銀が、憎たらしくて仕方なかった。
「僕は、アンタを抱いた全ての人間を、可能なら一人残らず殺してやりたいんだよ」
冷えた声だった。臓腑を直接氷塊で撫でられるような感覚が全身に走る。
「でも流石にそれをすると角が立つし、いろいろ面倒だからやらないだけ。それなのに、それ以上敵を増やすような真似すると思う?」
この男は機会があるのなら本気でやるのだろう、と思わせる声だった。
紅混りの灰色がほの暗い光を帯びて揺れている。気を抜けば、ごくりと喉が鳴ってしまいそうだった。
ハッ、と笑うことで誤魔化す。
「それほどお前が俺にご執心だとは知らなかったよ」
「嗚呼、もしかして伝わってなかった? じゃあ、今から思い知らせてあげようか」
言い終わるか否か。
体を強く引かれて、足が縺れる。そんなことをされるなんて思いもしなかった。何の準備もしていなかった体は、ダンテの思うままに個室に吸い込まれて、無情にもその扉は口を閉じてしまった。
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