影となりて玉を追う

晴なつ暎ふゆ

文字の大きさ
上 下
2 / 5

1.投げられた賽

しおりを挟む

 

 ざわざわとした博物館の中を、黒沢陽斗はゆっくりと歩いていた。
 日河流市の中で一番大きな博物館である。
 幼い頃から陽斗は此処が好きであった。よく父にせがんで連れてきてもらってきては、もう帰ろう、と我慢強い父を根負けさせるくらい長くこの場所に留まっていた。
 何故好きなのか、と問われても、なんとなく、としか答えられない。だが少しだけ明かりの絞られたこの空間が、陽斗には居心地が良かったのである。
 友人には、暗いところが好きなんて趣味悪い、と笑われたことがある。それ以来、よほどのことがない限りは、口に出すのことをやめた。

 この街の人たちは、極端に暗闇を嫌がる。

 どうしてなの、と父に聞いた時、この日河流歴史博物館に連れてきてくれたのだ。そのお陰で、博物館とこの街の人達が暗闇を嫌がる理由を知った。


『カミガミが在りました。
 光と影が在りました。
 ある日、恐ろしい影が暴れました。
 クニは壊れ、消えてしまうカミもありました。
 困ったカミガミは考えます。
 あるカミが言いました。
 
 ――どうしたらもっと平和に暮らせるだろう?

 あるカミが言いました。

 ――闇のない場所で暮らしたらいいのではないか?

 あるカミが言いました。

 ――そうだ、闇を無くそう。

 そうして、カミガミは影から離れることになりました。
 カミガミは、影と光を繋ぐ扉を渡りました。
 光へ辿り着くと、その扉を永久に閉じました。
 影に残ったカミは、影族となりました。
 光に行ったカミは、光族となりました。
 影族と光族の間には、開かずの門がありました。
 光族は光のもとで、影に近づくことなく生きました。
 それが、私達の先祖となりました。』

 幼い頃は、先祖が闇を怖がっていたことしか理解できなかった。だが高等教育大学校に行くようになった今では、文脈も理解しているつもりだ。
 影族と光族は対立し、敗を期した、或いは、逃げ果せた光族が、今自分たちが住むこの世界に辿り着いた。
 とまあ、そんなところだろう。大学校で専攻している歴史学でも、そんな程度の説明だった。貴重な文献は残っていない。現存するのは、この博物館で流れているような口頭伝承のみだという。
 それをゼミの教授の旧川から聞いた時、陽斗は思った。
 それって僕の卒業研究、詰んだってこと?
 遠い目をしていた陽斗に、旧川は快活に笑って、研究は足が重要だぞ青年! などと、なんの励ましにもならない言葉を掛けてきたのだが。その無駄に綺麗な顔を殴ってやろうかと思った。もちろん殴ってはない。

 研究は足が重要だ、という言葉通り、今日も今日とて博物館に足を運んでいるわけであった。
 陽斗は、ある一枚の絵の前で立ち止まる。
 ここはとりわけ人が少ない。陽斗の父以外でここで立ち止まっている人を見たのは、一度きりだ。
 その絵は、黒を基調とした禍々しい色合いで描かれている。
 様々な色が混ざっている上を黒で塗りつぶした中で、鮮烈な白光の筋が中央に一本、縦に走っている。子どもの落描きのようにも見えるし、芸術家が描いた一枚にも見えるそれ。
 題名は『トビラがトじる』であった。作者は不明。
 口頭伝承のその一部分を描いたとされている。
 陽斗だって別にこの絵が好きなわけではない。ただ、見ているとその黒の中に何か見えそうな気がして、ついつい眺めてしまうのだ。それにもう一つ、理由があった。
 父はこの絵が好きだった。
 この絵を眺めていた父の横顔をよく覚えている。やけに真剣な目でこの絵を見ていた。眼鏡の奥の瞳に、何が映っていたのかは知らない。聞いておけば良かった、と後悔している。

 陽斗が十二歳になる年に、両親は蒸発してしまったのだ。

 本当に何の前触れもなく、突然だった。
 日光で肌が焦げてしまいそうなほど暑い、蝉が泣き喚く夏の日に、忽然と姿を消してしまったのだ。
 警察に調べてもらっても、何も分からなかった。
 両親が使っていたものは財布から携帯まですべて残っていたのに、二人だけが居なくなってしまったのだ。
 不幸中の幸いといえば良いのか、陽斗には姉の晴香が居た。
 大丈夫、あんたは私が守るから。
 そう言って笑った姉に抱き締められて、わんわん泣いたのをよく覚えている。姉とは十歳離れていて、すでに働いてもいた。姉がそんなしっかり者だったお陰で、陽斗は何不自由なく生きてこられたのだ。
 しかし、その姉も――。

「ハル」
 ハッとして振り返る。
 視線の先に居たのは、パーカーのフードを深く被り、左頬に大きな絆創膏を貼った芹沢エイジの姿があった。焦げ茶の長めの前髪を適当に指先で撫でながら、エイジは紫紺の瞳を三日月に歪め、八重歯を見せて笑う
「お前、この絵好きだねぇ。そんなに熱心に見つめちゃって」
 揶揄うような口調でそう言ってエイジは、陽斗の隣に並んだ。
「別に好きってわけじゃないって。前にも言っただろ?」
「どーだかねぇ」
 このエイジこそ、陽斗の父以外でこの絵を熱心に見つめていた人物だ。
 彼と初めて会ったのは、今から約二年前のことであった。
 いつも通り此処を訪れた陽斗は、エイジが今とほぼ変わらない格好で、絵の前で立ち止まっているのを見つけた。口を引き結んでこの絵の前に立っていたエイジの横顔に、父が重なってしまった。

ーーその絵、好きなんですか?

 思わず陽斗がそう声を掛けてしまったことから、二人の関係は友人にまで発展することになったのである。
 時々こうして博物館の中で会ったり、街中のカフェでつるむこともある。こっちの呼び出しには反応しないくせに、すぐに呼びつけてくるものだから、困ったところもあるのだが、そんな自由人なエイジを、陽斗は嫌いになれなかった。
「そういうエイジこそ、この絵好きなんだろ?」
「別にぃ? 禍々しい絵だな~って時々見たくなるだけ。ハルほどじゃない」
「僕だって、ただぼんやりしてただけだって」
「あーんなに熱心に見てたのにぃ~?」
「ホントに考え事してただけだってば」
「そーお?」
 くすくすと笑う彼から目を離して、もう一度絵を見る。
 子どもが見たら怖がりそうなこの絵を、陽斗自身どうして熱心に眺めてしまうのか、解らない。確かに、黒の中に何かが見えそうなことも理由の一つだ。だが、根本はそこではない気がしてやまない。
 どうして此処に来るたびに、この絵の前で足を止めてしまうのだろう。
「ところでさ、ハル」
 ポンと肩を叩かれて、振り返る。
 ニコニコと笑うエイジにあんまり良い予感がしなくて、わずかに引きかけた足。それを逃すまいと言わんばかりに、もう片方の肩にもエイジの手が乗った。
「付き合ってほしいところ、あんだけど」

しおりを挟む

処理中です...