影となりて玉を追う

晴なつ暎ふゆ

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2.闇より出でし

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 夜空に大きな三日月が浮かんでいる時分である。
 ごう、と風が吹いて、ガサガサと音を立てる草木。
 枯れ木も青葉も、夜になると顔が変わる。何か潜んでいるのではないかと思わせるそれらを、なるべく避けながら、陽斗とエイジは街外れにある森の獣道を歩いていた。
 一般の住人だったら絶対に近寄らない場所だ。鬱蒼としたそこには獣一匹居ないと聞いているのに、今にも何かが飛び出してきそうだった。
 いちいち音にビクついている陽斗とは違い、前を進むエイジの歩調は迷いがない。どうにかエイジに離されないようにするだけで精一杯だ。
 虫の音も獣の鳴き声もしない。
 それが背中に迫り上がってくる不気味さを、助長させる。
「なあ、エイジ。こんなところに一体何があるんだよ」
 わずかに震えた声に気づかないふりをして投げ掛ける。じっとりと肌に纏わり付く何かを振り払うように、腕を手でこすった。
「さっきも言っただろ? バケモノが出るって噂なんだよ」
「だったら絶対市局に言ったほうが良いって」
「アイツら話聞くだけで何もしないから、言ったところで無駄だって」
「だからって僕達が行かなくても……!」

 どうして意地でも断らなかったんだ、あの時の僕!

 心の中で叫んでも、当然エイジには届くはずもない。
 こんなところもエイジの悪癖である。ヒーローに憧れてる、なんて最初の頃に笑っていたエイジは、こういう”バケモノ”とか”此世ならざるもの”の類の噂に、本当に目がない。
 どこへでも行こうとするし、その度に陽斗は付き合わされる。
 全くこっちの身にもなってほしい。
 対して陽斗は、こういう類の話に免疫がない。怖いものは怖いし、見えないものは余計に怖い。あとは、急に脅かされるのも駄目だった。見えるものや知っているものだったら何でも来いと言えるほどに大丈夫なのに。家に出た虫の退治は決まって陽斗だったくらいだ。でも本当に、見えないものが背中にいる、とか、そういう話だけは縁を永遠に切りたいほどに駄目なのである。
「なあ、エイジ~! 今回も絶対デマだって~! 帰ろうよ~!」
「デマかどうかなんて行ってみないとわかんないだろ?」
「僕、もう帰りたい」
 ぽろりと溢した声に、やっとエイジが振り返る。心配しているのかと思いきや、ニンマリと意地の悪い笑みを浮かべているエイジが、こっちまで寄ってくる。
「ほんっと、ハルは怖がりだよなぁ」
「だから嫌だって何回も言ってるのに」
「悪いって思ってるって。俺、全然友だちいないからさぁ。誘えるのお前くらいしかいないんだよ」
「もっと他のスイーツとか焼肉食べ放題とかだったら付き合うけど、こういうのはもう勘弁して」
「大丈夫大丈夫! 何かあったら、俺がなんとかするって!」
「何かあったらじゃ遅いんですけど!?」
 悲鳴じみた声を出しても、エイジはアハハッ、と笑うだけだ。くるりと体の向きを変えて、更に奥へ進もうとしている。
「もう帰ろうよ」
「大丈夫だって。行こうぜ」
「僕はもう帰りたい」
「帰ってもいいけど、帰り道、一人で大丈夫?」
 帰り道。一人。
 頭で反芻してから、背筋が冷える。三日月は、街灯の一切ない夜道には暗すぎる。そんな中を一人で歩くのは、無理だ。今まではエイジが前に居てくれたから良かった。でも一人になったら、足がすくんで歩けない。
 草葉の陰から何かが出てきたら? 
 正体不明の何かに襲われたら?
 冗談じゃない。無理だ。そんな事するくらいならまだエイジのあとについていったほうがマシだ。
「……、だいじょばない」
「ぶはっ! だよな。ほら、行こうぜ」
 そう言って手を差し出してくれるエイジの優しさに、じんと目頭が熱くなった。

 のと、同時であった。
 咆哮。

 とてもこの世のものとは思えない、大地を揺るがす、耳障りで心臓を震撼させる慟哭が、辺りに響き渡った。手を掴む直前だった陽斗の手は、宙ぶらりんのまま固まって、エイジすら動きを止めていた。
「ッ、俺ちょっと見てくる!」
「エイジ!」
 陽斗の制止の声も聞かず、獣道から逸れたエイジは一目散に走っていく。あっという間に背中は闇に溶けて、陽斗だけがその場に取り残された。
 こういうときは絶対に二手に別れないほうが良いのは、よく読む本の中では鉄則だ。多くの場合、取り残された方、もしくはどこかに行ってしまった方の、命はない。
 だからこそ止めようとしたのに。
 ごう、と風が唸る。陽斗はただその場から動けないまま、小さくエイジの名前を呼んだ。
 どうしよう。早くエイジを追いかけないと。
 その心に反して、陽斗の足は動かない。このっ、と自分の太ももを殴っても、うんともすんとも言わない。

 がさり。草をかき分ける音があった。

 もしかしてエイジが戻ってきたのかもしれない。
 そう思って、顔を上げる。

 そこには。
 大きな大きな、黒い塊があった。

「グォおォ、ヴヴヴ!」

 目を疑った。
 口らしき場所には何本もの鋭い牙。
 その口から滴る粘度のある液体。
 目の場所は解らない。
 ヒトでないことは容易に分かる、木よりも大きな巨体。

 今まで生きてきた中で、見たこともないイキモノだった。
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