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朝、マーシャが目覚めてから屋敷の様子がなんとなくおかしいことに気が付いた。
朝食は可能な限り家族で共に、という約束であるのに、食堂にはマーシャしかいなかった。
どうしたのかとメイドに問えば、両親は夜遅くまで仕事で起きていた為、と言われ、坊ちゃまはいつものことです、と返された。
「何かあったのかしら?」
「いいえ、お嬢様。お嬢様はいつも通り、お過ごし下さいませ」
明らかに何かがあったと言わんばかりの執事の言葉だったが、マーシャは深く問うことはしなかった。
マーシャの父は筆頭侯爵家の当主であり、常に忙しなく仕事をしている人だった。
家にいない日も多い。
祖父の代では法務大臣という以外には侯爵家の中でもそれほど力を持っておらず、目立たない存在であったのが、父の代で商売に成功し、さらに付呪具の取り扱いを始めて権勢を拡大した。
父の仕事に口出しするつもりはない。
執事が何もない、というのなら、聞くべきではないのだった。
だが様子がおかしいのは家だけではなかった。
学園に登校し、馬車を降りた瞬間から複数の視線を感じた。
そちらに目を向ければ顔を背けられ、ひそひそと話す声が聞こえる。
メイドと護衛も気づき、マーシャの前後を守るように歩いたが、不躾な視線とひそひそ話は教室に入っても続いた。
「ごきげんよう」
冷静を装って声をかければ、視線の合った子息や令嬢は挨拶をするが、遠巻きにされている実感があった。
一体何なのか。
筆頭侯爵家の令嬢ともなれば注目を浴びるのは常であり、ひそひそ話をされるのも慣れてはいたが、この状況はなんなのだろう。
メイドと護衛が心配そうな目線を寄越しながらも教室の端へと下がり、しばらくするとエリザベスが入ってくる。
「ごきげんよう、エリザベス様」
「ごきげんよう」
常と変わらぬ様子で挨拶を返してくれたことに安堵するが、話しかける前にミラが教室に入って来た。
「おはようございます、エリザベス様」
「ごきげんよう、ミラ様。聞いて下さる?実はわたくし、一昨日昇級試験を受けましたのよ!」
「まぁ…!そのご様子では上手くいかれたのですね…!?」
「ええ!本当に嬉しいわ!」
「おめでとうございます!」
「ありがとう、ミラ様!」
昇級試験、と聞いてマーシャは冒険者の話か、と見当がついた。
エリザベスも冒険者を始めたのだなと思い、話しかけることにする。
「まぁ、おめでとうございます、エリザベス様。冒険者を始められたんですの?」
マーシャに問われ、エリザベスはにこりと頷く。
「ありがとうございます。ええ、再開致しましたの」
「そうなのですか。ちなみにランクは?わたくしCランクですので、何かアドバイスを差し上げることができるかもしれなくてよ」
親切心で言ったのだが、エリザベスは笑顔のまま首を振った。
「お気持ちだけ、頂きますわ。幸運なことに、他にアドバイスを下さる方がいらっしゃいますの」
「…あら、そうですの。助けが必要なことがあれば、いつでも声をかけて下さいましね」
「ありがとうございます」
そしてまた、ミラの方へ向いて話し始めた。
ダンジョンの攻略をしているらしい内容が気にはなったが、サラが入って来てエリザベスが立ち上がった。
「サラ様、ごきげんよう!」
「エリザベス様、おはようございます。ミラ様、おはようございます」
「ごきげんよう、サラ様」
「サラ様、今日のランチ、皆でご一緒致しませんか?」
「嬉しいです。ぜひ!」
「良かった!ではサロンに話をしておきますわね!」
「ありがとうございます」
「とんでもございませんわ!一昨日のお話をさせて頂きたいの!ミラ様も興味津々ですのよ」
「ええ、とても気になっておりますの!」
「まぁ、そうなんですね!ではランチの時に、ぜひ」
「はい!」
明るく会話をかわし、エリザベスはにこやかなまま席に着き、ミラにまた話しかけていた。
サラは視線を逸らしたマーシャに軽く会釈をして通り過ぎ、自分の席に着く。
すぐに、アイラが話しかけていた。
ランチの話は聞こえていたらしく、盛り上がっている。
ヒロインはクラスにすっかり馴染んでいるようだった。
…ゲームのヒロインは友人もなく一人で過ごしていたというのに。
騎士団総長の息子である伯爵令息とも親しいようだ。
ヒロインが誰のルートに進んでいるのか不明なままであることが不安であるが、王太子でさえなければ構わない。
美形教師ではないことは、講義を取っていないことで窺えた。
来年留学してくる隣国の王子とのことはわからないが、今年中に決着が着けばどうでもいいことである。
それ以外とはすでに接触しているので密かに気になっているのだが、サラが学園内でイベントを起こしている様子はない。
中庭で見かけることもないし、礼拝堂に出向くこともない。
図書室でも見かけたことはなかった。
マーシャは選択授業の関係でできる空き時間になるたびに、イベントが起こるであろう場所へと出向くのであるが、ヒロインが現れることはなかった。
ヒロインどころか、攻略対象すらも出会わないのである。
王太子が現れるはずの温室に行っても、図書室にも、中庭にも、現れない。
ゲームがバグっているのか、とも考えたが、マーシャが生徒会に入れなかった時点でおかしいのだ。
おかげで、生徒会で親交を深める予定が消えてしまった。
来年には王太子は卒業してしまう。どうしても今年入りたかったのに、ヒロインに邪魔されたのであった。
…あのヒロインも、転生者なのだろうか?
初めてその可能性に気づき、マーシャは戦慄した。
そうだ、何故今まで気づかなかったのか。
ゲームの内容を知っているのであれば、幼い頃から冒険者として活動していたのも頷けるし、生徒会入りする為に勉学に励んでいたのだとしても納得である。
とすると、生徒会メンバーに狙っている対象がいるということだろう。
してやられた、という気持ちが起こり、マーシャは悔しくなった。
イベントについては不明なままだ。
何故イベントが起こらないのか。
知らない間に済ませているのか。
…全く噂にも聞こえて来ないのである。
学園において誰にも見られない場所、などそうそう存在しなかった。
必ず誰かがいる。
生徒であったり、従業員であったり。
貴族の通う学園で間違いが起こらないよう、配慮はされていた。
だからこそ、このゲームは攻略対象者とお近づきになり何度も密会するようになると噂が流れ、ライバル令嬢に邪魔をされるのだから。
…確認をしなければならない。
ヒロインは転生者なのか。
誰を狙っているのか。
腹を割って話す必要があるのではないか。
自分が王太子狙いであることを話し、協力してもらうというのはどうか。
もしヒロインが別のキャラを狙っているのなら、こちらも協力してやっても良いのだ。
互いに協力関係を築ければ、攻略が楽になる。
ヒロインが王太子を狙っている場合には…仕方がない、こちらも諦めるつもりはないので、正々堂々勝負するしかなかった。
この場合の正々堂々とは、侯爵家の権力を全て使ってでも勝ちに行く、という意味である。
虐めはしない。
自分の価値を貶めるようなこと、するわけがないのだった。
まずはヒロインと二人で話せる場所が欲しい、と考える。
ランチに誘うか、自宅に招くか。
学園内では、必ずどこかに目がある。
「交流を深めたい」という理由で自宅に招けばいいのかもしれない。
屋敷には味方しかいないのだから、問題はないだろう。
今日も王太子に出会えないまま庭園を出ようとすると、ちょうど入口から入ってきた美形教師と目が合った。
「おや、こんなところで会うとは、運命かな?」
「まぁモーガン先生、ご休憩ですの?」
ヒロインに言うべき台詞をマーシャに言って、教師は近づいて来る。
「時間があるなら四阿で話でもどうだい?」
「…ええ、少しなら」
エスコートされて向かった四阿は、この教師とのイベントの為の場所だった。
ヒロインが教科書をなくして慌てていると、悪役令嬢に「庭園で見かけましたわよ」と言われ、ぼろぼろになった教科書を抱えて四阿で落ち込んでいるところに、この男がやって来るのだ。
落ち込むヒロインを優しく慰め、気分転換に観劇でもどうだい?と誘われるのである。
まさかね、と思いながら四阿で向かい合うと、教師は心配そうに眉を下げて見つめてくるのだった。
「…先生、どうされましたの?」
「噂を聞いたよ。大丈夫かい?」
「…噂、ですか?」
「知らない?…ああ、じゃぁいいや。気にしないで」
「そんな、聞いてしまったら気になりますわ。…そういえば、今日は朝からずっと遠巻きに見られて不快でしたの。ご存じなら教えて下さいまし」
促すと、教師は背後に控えるメイドと護衛を見、マーシャに視線を戻す。
「でも、君の保護者は望んでいないようだよ」
振り返ると、首を振る二人がいた。
「…あなた達は知っているのね。ひどいわ、何故教えてくれないの?」
「…申し訳ございません、お嬢様。旦那様に止められておりますので」
「お父様に?」
「…これ以上は申し上げられません」
やはり何かがあったのだった。
教師に向き直り、マーシャは頭を下げる。
「教えて下さい、先生。…彼女達は父から止められておりますけれど、先生は関係ございません。わたくしが聞いたのはあくまで噂。彼女達に責はありませんの」
「お嬢様…」
背後から涙混じりの声が聞こえるが、マーシャは真っ直ぐ教師を見つめた。
教師は労わるような視線を向けて、頷いた。
「では話そう。…第二王子殿下と、魔術師団長の次男と、君の弟の三名が冒険者としてパーティーを組んでいるのは知っているかな」
「はい。順調にランクを上げていると聞いております」
弟から直接自信満々に聞かされたのだから、知っていた。
ついにCランクになったのだと言われ、その速さに驚愕したのは記憶に新しい。
思い出すと不快になるが、表情には出さないよう、注意を払う。
教師は頷き、そしてため息をついた。
「三名が昇級試験で不正を働き、実力なし、としてCランクを剥奪され、Dランクに落ちたようだよ」
「……はい?」
どういうことか。
マーシャが首を傾げると、教師は痛ましげに顔を歪めた。
「昨日の朝のことだよ。ダンジョン前の広場に王太子ご一行と第二王子ご一行が現れ、昇級試験について話をしていたと。そして二十階、攻略していた別パーティーが見ていたそうだ。第二王子ご一行が敗退して広間から逃げ帰って来る様を」
「…そんな」
「王太子ご一行は監視の為についていたようだね。…そして実力なしと判断された。その場で言い渡され、土下座せんばかりの勢いで何かの間違いだと言い訳をしていたという話だ。なんせ王族の醜聞だ。噂はすごい勢いで広がっているよ。…第二王子と同じパーティーだから、君の弟も目立ってしまったね、可哀想に」
「…弟が」
俯いて、両手を握り合わせる。
ひどい醜聞だった。
それで両親は朝食に姿を見せなかったのか。
学園に着いた瞬間から、注目されていたのか。
なんて愚かな弟なの。
あんなに偉そうな口を利いておいて、この様なのか。
思わず笑いだしそうになる口元を引き締める。
「大丈夫かい?」
教師が優しく、マーシャの手を取った。
震えるそれを包み込むようにして、教師はそっと顔を覗き込んでくる。
マーシャは顔を背けた。
「ご家族のことだ、複雑だろうね」
「…いえ…いえ、王太子殿下のご判断が正しいのです。英断ですわ…」
「君は偉いね」
「いいえ…。わたくしは」
「そうだ。気分転換に、観劇でもどうだい?良かったら一緒に行かないか」
マーシャは驚いて、顔を上げた。
ここで誘って来るのか。
目を瞬いていると、教師は照れたように視線を逸らす。
「喜劇なんだけどね、知り合いが席を用意してくれて。…もちろん二人っきりなんて言わないさ。後ろの保護者の方々も一緒にね」
後ろを見ると、止めるべきか、と戸惑う様子の二人がいた。
保護者、と呼ばれること自体は不快に思っていない二人に笑みが漏れる。
「ふふ、二人がついて来てくれるなら、安心かしら?」
声をかければ、二人は互いに顔を見合わせ、戸惑ったまま口を開く。
「ですがお嬢様、旦那様に一度ご相談下さいませ」
「…そうね、そうよね。…先生、お返事は少しお待ち頂いても?」
「もちろんだよ。いい返事を期待しているよ」
嬉しそうに笑う美形を見るのは眼福だな、とマーシャは思うのだった。
次の授業があるのでそこで別れ、一人廊下を歩く。
噂の内容を知ったことで、心は軽くなっていた。
愚かな弟。
「すぐにAランクになって見せますよ」だなんて大言壮語を吐いておきながらこの体たらく。
ざまぁ、と言いたい気分だった。
これで弟は大人しくなるだろう。
うっとうしい存在に煩わされることがなくなって、マーシャは踊り出したい程にご機嫌だった。
ヒロインを自宅に招くこと。
観劇に行けるよう、両親を説得すること。
どちらもきっと、上手く行く。
マーシャは表面上はしおらしく振る舞いながら、本日の授業を終え、帰宅するのだった。
朝食は可能な限り家族で共に、という約束であるのに、食堂にはマーシャしかいなかった。
どうしたのかとメイドに問えば、両親は夜遅くまで仕事で起きていた為、と言われ、坊ちゃまはいつものことです、と返された。
「何かあったのかしら?」
「いいえ、お嬢様。お嬢様はいつも通り、お過ごし下さいませ」
明らかに何かがあったと言わんばかりの執事の言葉だったが、マーシャは深く問うことはしなかった。
マーシャの父は筆頭侯爵家の当主であり、常に忙しなく仕事をしている人だった。
家にいない日も多い。
祖父の代では法務大臣という以外には侯爵家の中でもそれほど力を持っておらず、目立たない存在であったのが、父の代で商売に成功し、さらに付呪具の取り扱いを始めて権勢を拡大した。
父の仕事に口出しするつもりはない。
執事が何もない、というのなら、聞くべきではないのだった。
だが様子がおかしいのは家だけではなかった。
学園に登校し、馬車を降りた瞬間から複数の視線を感じた。
そちらに目を向ければ顔を背けられ、ひそひそと話す声が聞こえる。
メイドと護衛も気づき、マーシャの前後を守るように歩いたが、不躾な視線とひそひそ話は教室に入っても続いた。
「ごきげんよう」
冷静を装って声をかければ、視線の合った子息や令嬢は挨拶をするが、遠巻きにされている実感があった。
一体何なのか。
筆頭侯爵家の令嬢ともなれば注目を浴びるのは常であり、ひそひそ話をされるのも慣れてはいたが、この状況はなんなのだろう。
メイドと護衛が心配そうな目線を寄越しながらも教室の端へと下がり、しばらくするとエリザベスが入ってくる。
「ごきげんよう、エリザベス様」
「ごきげんよう」
常と変わらぬ様子で挨拶を返してくれたことに安堵するが、話しかける前にミラが教室に入って来た。
「おはようございます、エリザベス様」
「ごきげんよう、ミラ様。聞いて下さる?実はわたくし、一昨日昇級試験を受けましたのよ!」
「まぁ…!そのご様子では上手くいかれたのですね…!?」
「ええ!本当に嬉しいわ!」
「おめでとうございます!」
「ありがとう、ミラ様!」
昇級試験、と聞いてマーシャは冒険者の話か、と見当がついた。
エリザベスも冒険者を始めたのだなと思い、話しかけることにする。
「まぁ、おめでとうございます、エリザベス様。冒険者を始められたんですの?」
マーシャに問われ、エリザベスはにこりと頷く。
「ありがとうございます。ええ、再開致しましたの」
「そうなのですか。ちなみにランクは?わたくしCランクですので、何かアドバイスを差し上げることができるかもしれなくてよ」
親切心で言ったのだが、エリザベスは笑顔のまま首を振った。
「お気持ちだけ、頂きますわ。幸運なことに、他にアドバイスを下さる方がいらっしゃいますの」
「…あら、そうですの。助けが必要なことがあれば、いつでも声をかけて下さいましね」
「ありがとうございます」
そしてまた、ミラの方へ向いて話し始めた。
ダンジョンの攻略をしているらしい内容が気にはなったが、サラが入って来てエリザベスが立ち上がった。
「サラ様、ごきげんよう!」
「エリザベス様、おはようございます。ミラ様、おはようございます」
「ごきげんよう、サラ様」
「サラ様、今日のランチ、皆でご一緒致しませんか?」
「嬉しいです。ぜひ!」
「良かった!ではサロンに話をしておきますわね!」
「ありがとうございます」
「とんでもございませんわ!一昨日のお話をさせて頂きたいの!ミラ様も興味津々ですのよ」
「ええ、とても気になっておりますの!」
「まぁ、そうなんですね!ではランチの時に、ぜひ」
「はい!」
明るく会話をかわし、エリザベスはにこやかなまま席に着き、ミラにまた話しかけていた。
サラは視線を逸らしたマーシャに軽く会釈をして通り過ぎ、自分の席に着く。
すぐに、アイラが話しかけていた。
ランチの話は聞こえていたらしく、盛り上がっている。
ヒロインはクラスにすっかり馴染んでいるようだった。
…ゲームのヒロインは友人もなく一人で過ごしていたというのに。
騎士団総長の息子である伯爵令息とも親しいようだ。
ヒロインが誰のルートに進んでいるのか不明なままであることが不安であるが、王太子でさえなければ構わない。
美形教師ではないことは、講義を取っていないことで窺えた。
来年留学してくる隣国の王子とのことはわからないが、今年中に決着が着けばどうでもいいことである。
それ以外とはすでに接触しているので密かに気になっているのだが、サラが学園内でイベントを起こしている様子はない。
中庭で見かけることもないし、礼拝堂に出向くこともない。
図書室でも見かけたことはなかった。
マーシャは選択授業の関係でできる空き時間になるたびに、イベントが起こるであろう場所へと出向くのであるが、ヒロインが現れることはなかった。
ヒロインどころか、攻略対象すらも出会わないのである。
王太子が現れるはずの温室に行っても、図書室にも、中庭にも、現れない。
ゲームがバグっているのか、とも考えたが、マーシャが生徒会に入れなかった時点でおかしいのだ。
おかげで、生徒会で親交を深める予定が消えてしまった。
来年には王太子は卒業してしまう。どうしても今年入りたかったのに、ヒロインに邪魔されたのであった。
…あのヒロインも、転生者なのだろうか?
初めてその可能性に気づき、マーシャは戦慄した。
そうだ、何故今まで気づかなかったのか。
ゲームの内容を知っているのであれば、幼い頃から冒険者として活動していたのも頷けるし、生徒会入りする為に勉学に励んでいたのだとしても納得である。
とすると、生徒会メンバーに狙っている対象がいるということだろう。
してやられた、という気持ちが起こり、マーシャは悔しくなった。
イベントについては不明なままだ。
何故イベントが起こらないのか。
知らない間に済ませているのか。
…全く噂にも聞こえて来ないのである。
学園において誰にも見られない場所、などそうそう存在しなかった。
必ず誰かがいる。
生徒であったり、従業員であったり。
貴族の通う学園で間違いが起こらないよう、配慮はされていた。
だからこそ、このゲームは攻略対象者とお近づきになり何度も密会するようになると噂が流れ、ライバル令嬢に邪魔をされるのだから。
…確認をしなければならない。
ヒロインは転生者なのか。
誰を狙っているのか。
腹を割って話す必要があるのではないか。
自分が王太子狙いであることを話し、協力してもらうというのはどうか。
もしヒロインが別のキャラを狙っているのなら、こちらも協力してやっても良いのだ。
互いに協力関係を築ければ、攻略が楽になる。
ヒロインが王太子を狙っている場合には…仕方がない、こちらも諦めるつもりはないので、正々堂々勝負するしかなかった。
この場合の正々堂々とは、侯爵家の権力を全て使ってでも勝ちに行く、という意味である。
虐めはしない。
自分の価値を貶めるようなこと、するわけがないのだった。
まずはヒロインと二人で話せる場所が欲しい、と考える。
ランチに誘うか、自宅に招くか。
学園内では、必ずどこかに目がある。
「交流を深めたい」という理由で自宅に招けばいいのかもしれない。
屋敷には味方しかいないのだから、問題はないだろう。
今日も王太子に出会えないまま庭園を出ようとすると、ちょうど入口から入ってきた美形教師と目が合った。
「おや、こんなところで会うとは、運命かな?」
「まぁモーガン先生、ご休憩ですの?」
ヒロインに言うべき台詞をマーシャに言って、教師は近づいて来る。
「時間があるなら四阿で話でもどうだい?」
「…ええ、少しなら」
エスコートされて向かった四阿は、この教師とのイベントの為の場所だった。
ヒロインが教科書をなくして慌てていると、悪役令嬢に「庭園で見かけましたわよ」と言われ、ぼろぼろになった教科書を抱えて四阿で落ち込んでいるところに、この男がやって来るのだ。
落ち込むヒロインを優しく慰め、気分転換に観劇でもどうだい?と誘われるのである。
まさかね、と思いながら四阿で向かい合うと、教師は心配そうに眉を下げて見つめてくるのだった。
「…先生、どうされましたの?」
「噂を聞いたよ。大丈夫かい?」
「…噂、ですか?」
「知らない?…ああ、じゃぁいいや。気にしないで」
「そんな、聞いてしまったら気になりますわ。…そういえば、今日は朝からずっと遠巻きに見られて不快でしたの。ご存じなら教えて下さいまし」
促すと、教師は背後に控えるメイドと護衛を見、マーシャに視線を戻す。
「でも、君の保護者は望んでいないようだよ」
振り返ると、首を振る二人がいた。
「…あなた達は知っているのね。ひどいわ、何故教えてくれないの?」
「…申し訳ございません、お嬢様。旦那様に止められておりますので」
「お父様に?」
「…これ以上は申し上げられません」
やはり何かがあったのだった。
教師に向き直り、マーシャは頭を下げる。
「教えて下さい、先生。…彼女達は父から止められておりますけれど、先生は関係ございません。わたくしが聞いたのはあくまで噂。彼女達に責はありませんの」
「お嬢様…」
背後から涙混じりの声が聞こえるが、マーシャは真っ直ぐ教師を見つめた。
教師は労わるような視線を向けて、頷いた。
「では話そう。…第二王子殿下と、魔術師団長の次男と、君の弟の三名が冒険者としてパーティーを組んでいるのは知っているかな」
「はい。順調にランクを上げていると聞いております」
弟から直接自信満々に聞かされたのだから、知っていた。
ついにCランクになったのだと言われ、その速さに驚愕したのは記憶に新しい。
思い出すと不快になるが、表情には出さないよう、注意を払う。
教師は頷き、そしてため息をついた。
「三名が昇級試験で不正を働き、実力なし、としてCランクを剥奪され、Dランクに落ちたようだよ」
「……はい?」
どういうことか。
マーシャが首を傾げると、教師は痛ましげに顔を歪めた。
「昨日の朝のことだよ。ダンジョン前の広場に王太子ご一行と第二王子ご一行が現れ、昇級試験について話をしていたと。そして二十階、攻略していた別パーティーが見ていたそうだ。第二王子ご一行が敗退して広間から逃げ帰って来る様を」
「…そんな」
「王太子ご一行は監視の為についていたようだね。…そして実力なしと判断された。その場で言い渡され、土下座せんばかりの勢いで何かの間違いだと言い訳をしていたという話だ。なんせ王族の醜聞だ。噂はすごい勢いで広がっているよ。…第二王子と同じパーティーだから、君の弟も目立ってしまったね、可哀想に」
「…弟が」
俯いて、両手を握り合わせる。
ひどい醜聞だった。
それで両親は朝食に姿を見せなかったのか。
学園に着いた瞬間から、注目されていたのか。
なんて愚かな弟なの。
あんなに偉そうな口を利いておいて、この様なのか。
思わず笑いだしそうになる口元を引き締める。
「大丈夫かい?」
教師が優しく、マーシャの手を取った。
震えるそれを包み込むようにして、教師はそっと顔を覗き込んでくる。
マーシャは顔を背けた。
「ご家族のことだ、複雑だろうね」
「…いえ…いえ、王太子殿下のご判断が正しいのです。英断ですわ…」
「君は偉いね」
「いいえ…。わたくしは」
「そうだ。気分転換に、観劇でもどうだい?良かったら一緒に行かないか」
マーシャは驚いて、顔を上げた。
ここで誘って来るのか。
目を瞬いていると、教師は照れたように視線を逸らす。
「喜劇なんだけどね、知り合いが席を用意してくれて。…もちろん二人っきりなんて言わないさ。後ろの保護者の方々も一緒にね」
後ろを見ると、止めるべきか、と戸惑う様子の二人がいた。
保護者、と呼ばれること自体は不快に思っていない二人に笑みが漏れる。
「ふふ、二人がついて来てくれるなら、安心かしら?」
声をかければ、二人は互いに顔を見合わせ、戸惑ったまま口を開く。
「ですがお嬢様、旦那様に一度ご相談下さいませ」
「…そうね、そうよね。…先生、お返事は少しお待ち頂いても?」
「もちろんだよ。いい返事を期待しているよ」
嬉しそうに笑う美形を見るのは眼福だな、とマーシャは思うのだった。
次の授業があるのでそこで別れ、一人廊下を歩く。
噂の内容を知ったことで、心は軽くなっていた。
愚かな弟。
「すぐにAランクになって見せますよ」だなんて大言壮語を吐いておきながらこの体たらく。
ざまぁ、と言いたい気分だった。
これで弟は大人しくなるだろう。
うっとうしい存在に煩わされることがなくなって、マーシャは踊り出したい程にご機嫌だった。
ヒロインを自宅に招くこと。
観劇に行けるよう、両親を説得すること。
どちらもきっと、上手く行く。
マーシャは表面上はしおらしく振る舞いながら、本日の授業を終え、帰宅するのだった。
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