【完結】雨音にひそむ恋のはじまり

佐倉穂波

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エピローグ

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 梅雨入りの気配が近づいたある日、直樹は会社を早退し、紬と約束していた古本屋へ向かった。
 道すがら、雨はしとしとと静かに降り注ぎ、アスファルトを淡く濡らしている。
 傘をすべる雨粒の音が、まるで子守唄のように優しく耳をくすぐった。

 古本屋の前に立つと、木製の看板が雨に濡れて、深みを帯びた色に変わっていた。
 軒先には、小さな風鈴が吊るされており、時折風に揺れては、涼やかな音を鳴らす。

「いらっしゃいませ。雨、降ってますね」

 軒先から顔を出した紬が、嬉しそうに笑う。
 その笑顔は、どこか懐かしい雨の日の記憶をふっと蘇らせるようで、直樹も自然と口元がゆるんだ。

「この雨の日の雰囲気、やっぱり好きだな。紬さんに会った日のこと、思い出す」

「私も。あの日、あの雨がなかったら、たぶん……こうしてないですもんね」

 ふたりは、店内の奥のソファに並んで腰かけた。
 そこは読書用の小さなスペースで、くたびれたクッションと温かみのあるランプが置かれている。
 ガラス越しに、雨粒がぽつりぽつりと落ち、外の景色が淡くにじんでいた。

 古い本の匂いと、雨の日ならではのしっとりとした空気が、ふたりを包み込む。

「紬さん、聞いてほしいことがあるんだ」

 直樹の声は、いつになく真剣だった。

「どうしたの?」

「今日……退職願。出した」

 その言葉に、紬は小さく息をのんだ。

「……本当に?」

「うん。まだ不安もあるけど、自分の人生をちゃんと生きたいって、ようやく思えた。毎日、自分をすり減らすだけじゃなくて……好きな人と、ちゃんと笑える時間を大事にしたくなったんだ」

 “好きな人”――その言葉に、紬の頬がじんわりと熱くなる。
 嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけざわついた。
 雨音がふたりの間の沈黙をやわらかく埋める中、紬はそっと目を伏せた。

「……私、前の恋でちょっと傷ついたことがあって。だから、人を好きになるのが、怖くなってたって話をしましたよね」

 ぽつり、と紬が言った。
 窓の外では、あじさいが雨に濡れ、しっとりと色を深めている。
 その静けさが、彼女の声と気持ちを、やさしく受け止めているようだった。

「いつの間にか、“本の中の恋”のほうが安全だって、自分に言い聞かせるようになってて……現実から目を反らしていたんです」

「そっか」

 直樹は、それ以上何も言わず、そっと彼女の手に触れた。
 その指先は少しひんやりしていたけれど、すぐにぬくもりが広がった。
 触れた手から伝わる気持ちは、言葉よりも真っすぐで、静かに紬の胸にしみていく。

「でも、直樹さんと会ってからは、怖いだけじゃなくなって……好きって、あったかくて、嬉しくて……ちゃんと信じてみたいって思えるようになったんです」

 その言葉に、直樹の瞳がやわらかく細まる。
 彼の表情には、どこかほっとしたような安堵と、こらえきれない喜びがにじんでいた。

「ありがとう、紬さん。俺も、同じ気持ちだよ」

 ふたりの手は、静かに握られたまま。
 雨の音が、まるで祝福の拍手みたいに静かに響いていた。
 本棚の隙間から漏れる灯りが、ふたりの影をそっと重ねている。

「ねえ、直樹さん。……もし、新しい仕事が落ち着いたら」

「うん?」

「……今度は、晴れの日にも、うちの古本屋に来てくれますか?」

 その言葉に、直樹はすぐに笑ってうなずいた。
 雨音の合間に、その笑い声がほんの少しだけ弾けて響く。

「もちろん……でも晴れの日に紬さんがいないなら、ちょっと寂しいかも」

「これからはいます。晴れの日でも、これからは私、店に出ようと思ってるんです」

 紬の目が、まっすぐに直樹を見つめていた。
 その瞳の奥には、迷いの代わりに、未来への小さな決意が宿っている。

「ちゃんと、自分のやりたいことにも向き合っていきたいから」

 ガラス窓を流れる雨粒が、きらりと光をはじいた。
 ふたりが未来の話を、同じ空の下で語ること。
 それは、どんな雨にも負けない、確かな絆を結ぶための一歩だった。
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