身に覚えはありませんか?

三嶋トウカ

文字の大きさ
17 / 25
夏:第1便~第3便

第14話:【第3便】濃厚ブラウンシチュー_4

しおりを挟む

 もう一度皿の前に座った瞬間、香りが鼻をくすぐった。
 焦がしたルウの深い甘みと、肉の旨味が重なって、それだけで胸の奥がほっと温かくなる。

「……すごいいい匂い」

 独り言がどんどん漏れる。
 フォークを取る指先が少し震えた。食べる前から、もう幸せの予感しかしていない。

 スプーンを入れると、シチューの表面がゆっくりと波打った。とろみが濃くて、重さが心地いい。
 優しくすくい上げると、具材の角がスプーンの中で静かに崩れた。

「とろけてる……」

 思わず笑ってしまう。

 まずは、野菜。じゃがいもはスプーンの重みでほぐれ、口に入れると熱と一緒に甘さが広がった。ねっとりしているのに舌触りが滑らかで、煮崩れた部分がルウの旨味を吸い込んでいる。

「うん、完璧」

 続いてにんじん。芯がほとんど残っていないほど柔らかく、噛むたびに甘みと香りがじゅわっと溶け出した。ほんのりワインの酸味が混ざって、味に奥行きがある。
 玉ねぎは、形が残っているのに舌に触れるとすぐに溶けた。

「これ、すごいな……」

 ほぅ、と息を吐く。
 野菜だけでこんなに満足するのは、久しぶりだった。

 そして、やっとメインの肉。
 スプーンを差し込むと、抵抗がほとんどない。ほろりと崩れて、繊維がふわっと広がる。

「うわー……やわらか……」

 唇の上でほぐれた瞬間、濃厚な肉汁が舌の上に溶け出した。脂がまろやかで、くどくない。肉そのものが甘く、ルウの苦味と絶妙に混ざる。

「お店のより好きかも」

 これは、自画自賛できる。

 もう一口。
 今度はスープの部分を多めにすくう。口に含んだ瞬間、香りの層がいくつも重なった。
 最初にくるのは焦がしルウの甘い香ばしさ、次に立ち上がるのは、野菜が煮詰まったような柔らかい甘味。そしてその奥から、骨の髄が溶けたような深い旨味が、舌の奥をゆっくり押し上げてくる。

「ブイヨン、すご……」

 言葉がこぼれた。
 濃厚なのに重たくない。香りの立ち方が、どこか人肌の温度に似ている。

「手間かけてるなぁ」

 感心しながらもうひと口。スープの粘度が少しずつ変わっていることに気づく。とろみが軽くなって、味がまろやかに広がる。
 それが、まるで煮込むほどに素材が生きているみたいに感じた。

 私は一度スプーンを止めて、鍋の底に溜まったルウを少しすくい上げた。
 光に透かすと、金色と赤褐色の層が混ざり合っている。

「こんな出汁、どうやって取ってるんだろ」

 不思議そうに首を傾げるけれど、それ以上は考えない。
 美味しいものを美味しいと言える夜が、一番幸せだから。

 スプーンをまた口へ。
 肉が完全にルウと一体化している。噛むたびに、肉からルウがにじみ出て、ルウから肉の味が返ってくる。
 舌の上で混ざり合うその感覚が、まるで誰かと呼吸を合わせるみたいに自然だった。

「これが濃厚ってことかも」

 そのまま、ワインをひと口。酸味が全体をきゅっとまとめ、再びスプーンを持つ手が止まらなくなった。
 それが落ち着いてからの、もう一口。口の中に広がるのは、スパイスのほのかな刺激。カカオのような深い苦味が、肉の甘さを包み込むようにして消えていく。

「うん、うん、完璧完璧」

 頷きながらスプーンを動かす。
 パンを割って、シチューを染み込ませる。表面のパリッとした部分と、中の柔らかさが合わさって、口の中で小さく音がした。噛むたびに、バターの香りが鼻に抜ける。
 ルウの熱でパンが少し湿って、それがまた、何とも言えず美味しい。

「これ、誰かに食べさせたいな」

 そう呟きながら、またパンを千切る。
 誰か――その「誰か」が誰なのか、口に出してみたものの思い浮かばない。
 それでも、この味を誰かと分け合う光景がはっきりと頭に浮かぶ。
 笑い声、スプーンが皿に当たる音。目に見える湯気。その記憶はあまりに自然で、まるで今もここにあるみたいだった。

 熱が落ち着いてきたシチューは、最初よりもさらにとろみを増している。ルウが具材に染み込み、口に入れるたびに新しい味になる。
 スプーンの動きが止まらない。
 肉の繊維が舌の上でほどけて、脂が静かに馴染んでいく。

「はぁぁ、幸せ……」

 頬が緩み、息が漏れる。

 もう一度、肉をすくう。光に透かすと、断面が綺麗で、赤茶色の中に細い筋がいくつも走っている。

「やっぱり、手が込んでるなぁ」

 感心しながら口に入れる。噛むたびに、柔らかさと深いコクが広がる。
 温度が舌を撫でて、喉の奥にゆっくり落ちていく。飲み込んだ瞬間、心の底からため息が出た。

「美味しい……」

 ワインを一口。酸味と香りがシチューの甘さを締めてくれる。アルコールの熱が喉を通り抜ける。それと一緒に、さっきまで感じていた疲れが消えていくようだった。

 皿の底が見え始めたころ、ルウの表面に浮かぶ脂がゆっくり波打っていた。照明の光を反射して、まるで呼吸しているように見える。

「見た目まで完璧だよね」

 私は嬉しくて、残りをすくい取る。
 パンを最後の一切れまで使って皿を拭う。皿の底のルウを全部集めて、名残惜しそうに口へ運ぶ。舌に残る苦味、脂の甘味、全部が一つになって、ほんの一瞬、涙が出そうになるほど美味しかった。

「ごちそうさまでした!」

 手を合わせて、しばらく目を閉じる。
 香りがまだ鼻の奥に残っていた。肉も野菜も溶けてしまったのに、味だけが身体の中に残っている気がする。

 私はスプーンを皿の上に置き「また食べたいな」と思わず呟いた。
 その声が部屋の中で小さく反響して、静けさの中に溶けていった。

 テーブルの上の皿。
 空になったルウの跡が、どこか手の跡のようにも見えたけれど、私は気にしなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。

音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。 だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。 そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。 そこには匿われていた美少年が棲んでいて……

旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます

おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。 if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります) ※こちらの作品カクヨムにも掲載します

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

処理中です...