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しおりを挟むフローチェに別れを告げ、絶対に帰ると心に決めて向かったのは、国境沿いの村だった。兵には拠点が必要で、村民に戦闘以外を任せられるし、兵がいることで村民は守られる。すでに被害を受け始めていた村は、王都からの兵を崇めるように迎え入れた。
アルヴィンは立場的に、村長と話をすることが多かった。用件の最後には毎回「私の娘ならいつでも差し出します」と言われ、意味が分からず適当にあしらっていた。当然だろう、まだ十分に歩けもしない頃に、婚約者が決まっていた。生涯でアルヴィンが意識した女性は、フローチェただひとりだ。
数回の交戦を経て、村の外れで捕虜を生活させるようになると、嫌でも分かった。捕虜の女性を、自国の兵が犯している。食事の際などに聞こえる兵の会話からも、疑いようのない事実だった。
アルヴィンがそういったことをするのは全く有り得ないことだが、戦場での疲弊をどこに向けるかと問われれば、性的に発散するくらいしか娯楽がないことも、男がそういう生き物であることも、理解せざるを得なかった。
捕虜で発散しなければ、村民に向くのだろう。むしろ、村民の方が素直に聞き入れてしまうのかもしれない。アルヴィンは村長の申し出を断りつつ、兵が捕虜で発散することを辞めさせなかった。捕虜の女性にも、恋人や家族がいただろうに。
圧倒的に若く実践経験の少ない王子が、口を出せることは少ない。兵の多くが野営をする中、王子だからと用意された村近くの小屋で、遠くから響いてくる悲鳴を聞きながら、静かに涙を流した。
◇
終戦が決まり、国境周辺に敵は見えなくなった。「明日には村を出る」と村長に告げた日の夜中、ふと異変を感じ目を覚ますと、刃物を向けた女性がいた。ここに来て5年、初めこそ周囲には常に兵がいたが、いつの頃かアルヴィン自身が断り、応じてもらっていた。
「…見なかったことにする。立ち去れ」
アルヴィンは身体を起こし、明らかに栄養の足りていない、骨の浮いた女性を真っ直ぐ見据えて言った。ここでアルヴィンが人を呼べば、この女性は確実に殺されてしまう。身なりは汚れ、布は擦り切れ、際どい部分まで肌が見えている。捕虜だったのだろうが、すでに解放された身のはずだ。
「誰が立ち去るか。そうやって見て見ぬふりをして、仲間が何人犯され殺されたと思う!」
軍事訓練を受けていない女性からの攻撃など、取るに足らない。だが、アルヴィンは動けなかった。振り下ろされた刃物を避けるには、出遅れてしまった。犯されていることは耳に入る会話や悲鳴で分かっていたが、殺されていたとは想像していなかったのだ。
捕虜は命の保障をする代わりに、こちらの言いなりになる人質で、武装した者とは戦争への考え方は異なる。敵への同情は、判断を鈍らせる。戦場では必要のない感情だと、この5年で痛いほど知ったというのに。
倒れ込んだ寝台の上で、返り血を浴びた女性が小屋の外に駆けていくのを見送った。段々と、意識が遠のいていく。
「…殿下、何やら話し声がしましたが…っ、殿下、殿下!」
「おい、何事だ!」
「医療班をここへ! 急げ!」
バタバタと騒がしくなる小屋で、アルヴィンは静かに目を閉じた。
◇
目を開けると、見覚えのある綺麗な白い天井が見えた。数日経っているのだろう、すでに王宮へと運ばれ、医務室に寝かされていた。
身体の右側から痛みを感じ、眉間に皺を寄せると、その動きにも違和感がある。身体を起こそうとしても、肘がつかない。
処置に限度のある戦場で、精一杯の手当をしてもらったはずだ。それほどまで深く刃物が身体に入ってしまうほど、唐突に襲われたことに衝撃を受けたのだ。
腹筋と左腕で身体を起こした後、部屋の装飾を見ても上手く焦点が合わない。片目が見えていないのか。
戦場にいたことで、怪我には慣れていたし、自らが傷つき命を落とすことも覚悟していた。王子である以上、兵の中での役割は前線で戦うことではなく、皆を称え鼓舞することだった。身分的に敵から命を狙われるのは当然で、戦いの初期には王都に戻ることを考えなくなった。
考えれば考えるほど、アルヴィンのことを少し揶揄うように笑うフローチェの存在が、大きくなってしまう。あの村にいる間、彼女を必死に頭から追い出していた。
会いに行っても、いいのだろうか。約束を守ってくれていれば、ここにいるはずだ。戦後処理など、王都に帰ってきたからこそ出てくる仕事も浮かびつつ、自覚したために強まってきた痛みをまずはどうにかしてもらおうと、アルヴィンは医者を呼んだ。
状況の説明を受け、自らの姿も鏡で確認した。王宮にいた頃の面影はなく、別人と言われてもおかしくはない。むしろ皆、納得すると思えるほどに、自分の記憶とも異なった姿だった。
村で一応の護衛担当だった兵には謝られ、頭を上げてもらうのに苦労した。王宮内を自由に歩き回る許可が出るまで、数日かかったが、動けるようになっても自室へ足は向かなかった。
痛みはまだ残るが、ずっと医務室で寝ているわけにもいかない。国王に謁見した際、告げられた。
「婚約者殿は、お前をあの部屋で待ち続けている、アルヴィン」
「……」
「処遇は、お前が決めていい」
フローチェは、この5年と少し、待ってくれていた。だが、その事実を素直に喜ぶことはできなかった。このような姿になってしまうのであれば、別の男と結婚していて欲しかった。今のアルヴィンは、戦勝を持ち帰った英雄と呼び立てられているが、その心は疲れ切っていた。
「…私はもう、人前には立ちたくありません。王位継承の辞退と婚約破棄を申し入れます」
「…並の令嬢なら、受け入れるだろう。分かった、手配しておく。とにかく、ご苦労だった。よく休め」
「お言葉、感謝いたします」
身体の均衡を取ることに苦労しつつ、視界に入った父の顔は、記憶よりも年老いて、憔悴して見えた。国内でも大なり小なり事件が起こっていたのは、簡単に想像がついた。
◇
『誰が何と言おうと、アルヴィン殿下と過ごすこと以外に、私の幸せなどありません』
『どんな姿になっても、貴方と添い遂げる自信があるわよ』
反芻すると、目の前が滲んで見えなくなった。片目で焦点が合わず見にくくなったアルヴィンが頼みさえすれば、フローチェはきっと、机に積み上げられた書類を読むのを喜んで手伝ってくれるだろう。彼女が、学院の次席だったのだから。
決して、あのような言葉を望んだわけではない。だが、心のどこかで、フローチェなら今の姿も受け入れてくれるだろうと、期待している部分はあったと認めるしかない。戦場帰りとは思えないほど脆く崩れ、この5年、誰にも見せなかった泣き顔を、フローチェには晒した。
戦場にいた頃の自分をあまり思い出したくはないが、フローチェが聞きたがるなら仕方ない。フローチェを納得させるのは至難の業で、皆が手を焼いていたのが、アルヴィンの脳裏に蘇る。穏やかで、幸せで、何も知らずにずっと一緒に居られると、信じていた頃の話だ。
王子として社交界に出るようになってからも、婚約者は決まっていたのに、国内外さまざまな貴族から令嬢を紹介された。付き合いで、別の女性の手を取ることもあったが、アルヴィンの心を掴んだのは、今も昔もフローチェだけだ。
芯がすっと通っていて、納得できるまで事を突き詰めようとする彼女に、惚れこんでいると自覚したのは、一体いつの頃だったか。だからこそ、フローチェの幸せを願いたい。その隣に誰がいようとも、今の自分は遠くから見守っていられればいい。そう思って、毅然と伝えるために、かつての自室を訪れたというのに。
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