【完結】アリスゲーム

百崎千鶴

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第33話 花言葉

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「花屋さん、どこ……?」

 人影一つ見当たらず、静寂に包まれた空間でただ心臓が嫌な音を立てる。
 頬を伝う冷や汗もそのままに、勝手に店内を歩き回り座敷に上がり込んだ。

「花屋さん? ねえ、笑えない冗談はやめて?」

 外出しているだけかもしれない……そんな淡い希望は一瞬で打ち砕かれる。
 彼と別れてからここへ戻るまではほんの数分程度しか経っておらず、私と一切すれ違わずさらに姿を見られないでどこかへ出かける事など不可能なのだ。

「花屋、さん……? ねえ、」

 何度呼びかけても返事がかえってくることはなく、嫌な予想ばかりが心の中を支配する。
 いや……違う。これは、

(現実……?)

 花屋さんまで、消えてしまった?

「い、や……いや……っ」

 頭が割れそうなほどの痛みに襲われる中――走馬灯のように、いつかの記憶が蘇った。



 ***



 あの時たしか、花屋さんは……私の前に跪いて紳士のように手をすくい取り、微笑みながら優しい声で言葉を紡いだ。

「なあ、アリス。なにか、好きな花はあるか?」

 彼の問いに対して、『私』は声を弾ませてこう答える。

「うん。アリスは、ばらがすき」 

 私が満面の笑みを浮かべているのに対して、花屋さんは少し驚いたように目を丸めていた。
 けれどすぐに花の咲くような笑みを浮かべ、大きな手で私の頭を撫でながら首をかしげる。

「薔薇……ははっ、アリスはすごいな。物知りで、大人のレディみたいだ」
「そう?」
「それで……何で、薔薇が好きなんだ?」

 彼の問いに『私』は一瞬言葉を詰まらせて唇をきゅっと閉じ、迷うように目線を漂わせてから躊躇いがちに口を開いた。

「……だって、だって……ばらのはなことばは『あいじょう』なんでしょう? それに、とくべつなひとにしか、あげないってきいたから……」

 語尾にかけて少しずつ小さくなる声。『私』の話を聞いてる内に、花屋さんから笑顔が消える。

「……」
「あのね、はなやさん。アリスは……いつか『あいじょう』をもらえる、おんなのこになりたいの。いいこになって、かしこくなって、やくにたって、そうしたら……きっと、あいしてもらえるでしょう?」

 花屋さんを見上げる『私』の目には、今にもこぼれ落ちてしまいそうなほどに涙が溜まっていた。
 それなのに『私』は歯を食いしばり、スカートの裾を両手で思い切り握りしめて堪えている。

「……アリス?」
「……だいじょうぶ。アリスは、ちゃんとがまんできるよ」

 まだ世の中のことをほとんど知らない。そんな年齢で、涙を我慢しなきゃいけないと思い込み、堪える方法を知っていた。
 そんな私を見た花屋さんはただ、片手で『私』の頬にそっと触れる。

「……よし、アリス。それじゃあ……アリスが次にこの国へ来た時には、たくさんの薔薇をプレゼントしよう。約束だ」
「えっ……でも、はなやさん……ばらは、」
「アリス。俺にとってアリスは……とっても愛しくて、何よりも大切で、特別な女の子だよ」

 私の言葉を遮った花屋さんの表情と声音は、とても真剣なものだった。

「……アリス、が……?」
「ああ、そうだ」 

 涙の滲む私の目尻を、彼はいつもの優しい手つきで拭ってくれる。
 それから花屋さんは右手を私の頬にそえたまま、空いた片手で髪をそっと撫でつつこう言った。

「俺がアリスを愛するから、もう泣かないでくれ」

 さざ波のように穏やかな声音だというのに、彼はひどく傷ついた顔をしている。
 それは多分、花屋さんが優しすぎるせいだ。あの時の彼はきっと、自分を責めていたのだろうと思った。
 あなたは、何も悪くないというのに……いいえ。それどころか、

「うん……うん。ありがとう、はなやさん。アリスはもう、なかないよ」
「ありがとう。アリスは本当にいい子だな」
「……アリスは、あっちのせかいにかえっても『いいこ』でいられるかな……?」

 不安げに俯く『私』を、花屋さんは力強く抱きしめる。
 まるで、大切なものを守ろうとでもしているかのように。

「……アリス、お願いだ。どうか……俺を、忘れないでいてくれ……アリスの事を、いつも大切に思ってる。何があっても、アリスを愛してる。いつでもアリスの味方だ。アリスには、俺がついてる。だから……どんなに辛くても、もし死にたくなっても。それだけは、忘れないでくれ……お願いだ」
「うん……わすれないよ、はなやさん。ぜったいに、わすれないから」
「なあ、アリス……俺は、信じて待っていてもいいか?」
「うん、まってて。アリスはここに、またかえってくるから」

 泣いているのか……わずかに震える声で言葉を落とした花屋さんの頭を、小さな両手で抱きしめて――あの日あの時、私はそう言ったんだ。

「わすれないよ」

 そう。
 私が、言ったんだ。

「ぜったいに、わすれないからね。はなやさん」



 ***



(そうだ……私が、そう言ったくせに……忘れて、彼を……裏切って、傷つけた……)

 だからこの国で再会した時、花屋さんはあんなに憤りをあらわにしていたんだ。

(当たり前じゃない、そんなの……怒って、当たり前よ……)

 涙で歪む視界に映るのは、つい先ほど彼にもらった一輪の赤い花。
 瞬間、

(……ああ、そうだ)



 ***



「とりあえず……今は、アリスにはこの花をあげよう」
「……? これは、なんのおはな?」

 幼い私の手の中にあるのは、今の『私』がもらったものと全く同じ、赤い花。
 その茎を潰さないように気をつけながら握っている私の問いに対して、花屋さんの綺麗な唇は緩やかな弧を描く。

「アネモネだ」
「あねもね……?」
「そう、アネモネ。色によって花言葉は違うが、俺がアリスにあげたいのは赤色だな」
「どんなはなことばなの?」

 首をかしげる私を見て、花屋さんは「知りたいか?」と意地悪そうな笑みを向け、

「しりたい!」

 問いに対して私が何度も頷けば、彼はからからと笑って頭を撫でた。

「……君を愛す」



 ***



(……そうだ。やっと、思い出した……)

 花屋さんが、私と会うたび必ず薔薇を差し出してきたのは……昔、幼い頃の『私』と交わした約束を守ってくれていたから。
 そして、薔薇をプレゼントしてくれていた理由は、きっともう一つあったんだ。

(そうだ……そう、よ……花屋さんは、)

 ひたすら――私に、愛情を伝え続けてくれていたのだろう。
 愛される女の子になりたいと願った私に、

『俺がアリスを愛するから、もう泣かないでくれ』

 あの人は、ずっと。

「……なや……さ、ん……はな、や、さ……っ、花屋、さん……っ」

 溢れ出した涙が頬を伝い落ち、畳にしみを作っていく。

「なん、で……わたし、」

 どうして私はいつも、大切なことに気づくのが遅いのだろうか。

「はな、や、さん……花屋さん……っ! ごめん、なさい。ごめ……っ、な、さ……花屋さん……!」

 涙をあの指で拭ってくれることも、あの手で頭を撫でてくれることも、笑いかけてくれることも――もう、そんな日が来ることは二度とない。
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