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手筋編
ホワイトデーのお返しは?
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中等部を卒業し、高等部への進学準備のための長い春休み。畠山京子は仕事に精を出していた。
圃畦塾の経営はこの一年でだいぶ軌道にのり、生徒数もスタッフ数も増えた。株式会社KーHOも本格的に秋田に進出する。棋士としても三大女流戦を全て制した。『畠山京子50年計画』通りに進んでいて順調そのもの。罰が当たらないか心配になるほどだ。
今日の仕事は、棋院で若手棋士を中心に毎日行っている指導碁だ。誰でも希望可能だが人数制限があるため事前予約が必要。
その指導碁に、あの岩井司がやってきた。
棋院のホームページを逐一チェックしていたのだろう。担当職員曰く、「畠山先生の指導碁枠、すぐに埋まりましたよ」だそうだ。そのうちのその一枠をこのストーカーが潰し……埋めてくれたようだ。
「畠山さん、久しぶり」
正月以来になる。その間、合法ストーカーも寄越さなかったので、京子はすっかり「やっと諦めたのかな」と気を緩めていた。
が、あれだけ侮辱し、三嶋からもキツいお小言を貰ったのに、全く懲りていなかったようだ。筋金入りのストーカーだ。
今日のお坊っちゃまのファッションは、ジャケットにネクタイという出で立ちだった。そのままクラシック音楽のコンサートに行けそうだ。
「お久しぶりです、ストーカーさん」
京子に指導碁を申し込んだ人がもう2人、司と一緒に並んでいるのに、その二人にも聞こえるようにわざと大きな声で司に挨拶し返す。
「変わらないなぁ」
司は京子の毒舌を笑顔で返す。
「ええ。おかげさまで。あなたもお変わり無いようで」
京子は「お変わり無いようで」の部分を目一杯の嫌味を込めて言った。
「元気そうで良かったよ」
司がいつものように定型文を読み上げる。嫌味の受け流しのテクニックは、京子より上かもしれない。
「元気なように見えますか?緑玉戦予戦突破し損ねたのに」
クリスマスパーティーの翌日に行われた緑玉戦予戦準決勝。京子の相手は中舘英雄門下の大沢克敏七段だった。つまり優里亜の兄弟子だ。京子の手について相当研究したような打ち回しだった。もしかしたら中舘門下で優里亜を中心に畠山京子対策を練っていたのかもしれない。終始、京子が苦手とする『初見』『閃き』の手を打ってきた。169手目を見て白番畠山京子は投了した。
ついでに、先週卒業式の翌日に行われた金剛石戦予戦Bブロック決勝も、終始相手は京子の苦手とする形にしてきて、171手目で投了した。棋士になってまだ4年目で実力が足りないことは重々承知しているが、京子の知らない所で『畠山京子包囲網』が出来ているのかもしれないという印象を受けずにいられなかった。
「ああ。その事で謝罪に来たんだよ。あの時は本当にすまなかっ……」
「今頃ですか?新年会の時でも謝罪は出来ましたよね」
色々世間一般の常識から外れている筋金入りのお坊っちゃまは、自分が他人から嫌われているなどと、これっぽっちも考えた事など無いのだろう。
司の隣に座っている二人はジロジロと司を見ている。しかし、そんな目もこのお坊っちゃまには些末のようだ。気にする様子もなく、お坊っちゃまは話を続ける。
「実は畠山さんに話したいことがあって今日、来たんだ。この指導碁が終わったら、少し時間をもらえないかな?」
司の言う「話したいこと」の内容は大体想像がついている。
年明けから連日のように岩井グループの談合や政治家への賄賂などなどといった岩井グループの不正や不祥事のニュースが流れてくるからだ。
ただしそのニュースは、緑玉戦敗戦にブチギレた京子が『アラクネ』に依頼して暴いたものだ。
江田グループと違い、岩井グループは叩けば叩くほど埃が出てきて、3ヶ月経った今でもマスコミの餌食になっている。グループ存続も危ぶまれているほどに。
ただ、京子にとって誤算だったのは、未だ懲りずにこうして京子の元に司が訪ねて来た事だ。鬱陶しいことこの上ないが、もしかしたら「もう畠山さんには会わない」という内容の可能性も少しはあるので、話ぐらいは聞いてやらないでもない。
「お話は5分で済ませて下さい。まだ仕事がありますので」
嘘である。そうでも言っておかないと、限りある時間を無駄にされそうだからだ。
「わかった」
司は短く答えた。
司の両隣で話を聞いていた指導碁を受ける二人は「やっと指導が始まる」と、ほっとしていた。
●○●○●○
司と一緒に指導碁を受けていた二人はすぐに帰ってしまった。「畠山京子、怖い」という表情をしていたように映った。もしかしたらネットが炎上しないかな?などと思ったが、今はそんなことはどうでもいい。
目の前の敵、岩井司だ。
日本棋院地下1階にある資料館に京子は司を連れてきた。司のために会議室を借りるのが馬鹿馬鹿しかったので、ここにした。それに密室にストーカーと二人だけになったら、何をされるかわかったもんじゃない。
昼食時ということもあってか、資料館の客はまばらだった。このくらいが丁度いい。しかも都合のいいことに、今いる客は京子を知らないようで、ジロジロ見られる事は無かった。
「どんなご用件でしょう?」
京子はいつでも逃げられるように階段に背を向けて腕組みをし、司を威嚇する。幸い、司はまだ京子より背が低いままだった。
「そんなに固くならずに……」
「無理です」
京子は短く答える。いつものようにつらつらと長文の嫌味を言うのではなく、短く端的に言う。「お前と喋るつもりは無い」とはっきり言うより、この方が司には効果的だった。司は前置きを端折って話を始めた。
「畠山さんもニュースで知ってると思うけど、今、家が大変で、避難も兼ねて、僕は4月から親戚のいる京都の高校に通う事にしたんだ」
「そうですか。ということは、離れて暮らしている私がどんな生活をしているか、これからも合法ストーカーを送りつけてくるのでしょうか」
京子は眉間に皺を寄せ、司に敵意剥き出しで迫る。
「しないよ!もう家にはそんな余裕は無いからね。今まで嫌な思いをさせて、本当にすまなかった」
司が京子に頭を下げる。
旧華族のお坊っちゃまが、平民に簡単に頭を下げるのは如何なものか?と京子は思う。謝罪、というより「こうすれば許してくれるんだろ?」という上から目線の感じもするからだ。相当甘やかされて育ったお坊っちゃまなんだな、と京子は思う。京子が司を毛嫌いする最大の理由だ。
「お話はお済みですか。でしたら仕事に戻らせてもらいます」
京子は隙を見せないよう、司に背中を向けないように横向きで階段を上る。
(背中なんか見せた日にゃ何をされるか、わかったもんじゃない!抱きついてきて公共の場でも押し倒してきそうだ、このお坊っちゃま)
京子のこの勘は当たった。
司は京子が横向きで階段を上るや否や、京子の肩を掴んできた。顔を近づける。
京子の唇に司の唇が迫る。
頭の中に警戒アラームが鳴り響いた。
●○●○●○
京子が司に指導碁を行っていた時、富岳は『埼玉研』研究会だった。
いつものように大宮の福祉センターの会議室に集まった三嶋、若松、木幡の3人は、いつもと様子の違う立花富岳に気づいた。
なにやら血色がいい。時々ボーッと考え事をしている。碁盤を見つめる目は虚ろで明らかに焦点は合っていない。
そして何よりおかしいのは、あれほど意気込んで臨んだ緑玉戦を負けてしまったのに、それほど悔しがっているようには見えない所だ。
「おーい、フガクーン!戻っておいでー!」
若松が富岳の目の前で手を振る。
「え?なんですか?」
今の所、呼び掛けには応じる。救急車は必要無いようだ。
「どうしたんだよ?ボーッとして」
若松が手を振るのを止めてから言った。
「珍しいな。碁を打ってるのに上の空なんて」
木幡は心配そうに富岳の顔を覗き込む。
「「何かあったのか?」」
若松と木幡、二人揃って同じ質問を富岳にぶつける。
三嶋は富岳がどう答えるか、黙って見守る事にした。三嶋には予想がついていた。「卒業式に何かあった」のだと。
先週の研究会では、いつも通りだった。それが卒業式と緑玉戦を終えた後の、今週のこの呆けた表情。緑玉戦の時にこうなる何かがあったとは考え難い。なので卒業式だとしか考えられない。
三嶋は焦った。岡本門下の研究会での京子の様子はいつもと同じだった。富岳の顔を赤らめる原因を作ったのは京子ではない。
つまり、京子以外の誰か。富岳と同じ中学校に通う女子の可能性が非常に高い。
富岳は「高校に行かない」と言う程、学校生活は非リア充だと思っていたのに、まさかのこのタイミングでの伏兵の出現。
このままだと三嶋の密かな楽しみ、「京子と富岳をくっつける」作戦が潰えてしまうかもしれない。
富岳が徐に口を開く。三嶋は耳を傾ける。
「んーと……、女子が男子の頬っぺたにキスするのは、どんな心情なのかなーと……」
「ほっぺにチュウ!?されたのか!?」
若松が富岳に詰め寄る。
「中学生が!?そんなハレンチな!!不純異性交遊だ!!」
彼女いない歴イコール年齢の木幡は、先を越されて悔しそうだ。
三嶋は、心の中で頭を抱える。
(やっぱりそうかあああー!やばいぞ、これは。今まで気にも止めてなかった女子でも、こういう事をされると、気になったりするもんなんだよな。男は!)
「で、どうするんだ?富岳は」
三嶋は恐る恐る訊ねる。
「どうするって?」
「その子と付き合うのか?」
若松と木幡も身を乗り出す。特に彼女いない歴=年齢の木幡は、答え次第では富岳を取って食いそうだ。
「まさか!パリピですよ!?カラオケだのゲーセンだの、煩い場所が大好きな人種ですよ!?同じ空間に居ることすら困難な人間とは付き合えませんよ!」
富岳は右手を左右にブンブン振って否定した。
この大袈裟な仕草は京子に似ている。と言ってやろうかと思ったが、三嶋は口を噤む。まだ京子の名前を出すタイミングじゃない。
「でも、その女の子から連絡来るんじゃないのか?」
木幡が質問した。
「いいえ。連絡先、交換してないんで」
富岳はまた手を左右にブンブン振る。
木幡も富岳に何か質問したそうだが、何を聞けばいいのか、わかりかねている様子だ。
今度は三嶋が富岳に質問する。
「それじゃあ、その女の子とどう付き合っていくか、もう富岳の中では答えは出てるんだな?」
「はい、勿論。連絡の取りようが無いんで」
こう答えた富岳の表情はあっけらかんとしていた。その女子と付き合う手は、完全に無いようだ。
三嶋は三人に気づかれないようにほっと溜め息を吐いた。
「じゃあ、なんで碁に身が入らないんだ?」
三嶋の質問に、富岳は戸惑う。
「言われてみればそうですね。なんでだろう?」
言ってしまいたい衝動に駆られる。「お前、京子に惚れてるからだよ」、「京子に後ろ暗い秘密が出来てしまったからだよ」と。しかし、まだ言っていいタイミングではない。
ここで言ってしまったら、富岳の性格からして、反発して、さらに京子との溝が深くなってしまいそうだ。
富岳のスマホが鳴った。富岳がどう答えるか聞きたかったが、仕事のメールかもしれないので、譲った。
「棋院からです。明日、指導碁の仕事が入りました」
「そうか。突然だな」
「例のお坊っちゃまです」
三嶋が思わず「は?」と大声を出してしまった。
「どうかしたんですか?」
三嶋の大声に驚いた富岳が聞いた。
「あ。いや、すまん。なんでもない」
確か今日、というか時間的にまさに今、京子が棋院でお坊っちゃまに指導碁を行ってるはずだ。いや、もう昼だから終わった頃か?先週の研究会で、京子が「ストーカーが棋院に来る」と愚痴っていたのだ。
(あの野郎。あれだけ説教したのに。相当メンタル強いな。なんとかして京子からあのお坊っちゃまを引き剥がせないかな?)
普段、新聞もテレビのニュースも見ないので、三嶋は岩井家の現状を知らなかった。
●○●○●○
いつのもように岩井から寄越されたハイヤーに乗り込むと、富岳が連れて来られたのは九十九里浜にある岩井家の別荘だった。
いつものように岩井邸で指導碁を行うものだと思って車に乗り込んだ富岳は、暫くしていつもと違うルートを走っていることに気付き、焦った富岳が運転手に行き先を聞いて、自分はこれから千葉に行くのだと知った。
なぜこんな所に連れて来られたのか、予想はついている。今、岩井グループは世間の注目の的になっているからだ。岩井邸にも連日マスコミが詰めかけているのだろう。
それでも指導碁に富岳を呼ぶ。親は大変な時なのに、お坊っちゃまは気楽なもんだな、いくらくらいお小遣いを貰ってるんだろう?と富岳は思う。
東京の屋敷よりはだいぶこぢんまりとしているが、この別荘もかなり手の込んだ作りになっていた。海に近いらしく、車を降りると潮の香りが漂い波の音が聞こえてきた。玄関を入るとサロンがあり、ピアノもある。応接室も広くは無いが立派な作りだった。
いつものようにコーラを飲んで待っていると、司が姿を現した。いつものように、そのままクラシック音楽のコンサートに行けそうな出で立ちだ。
ただ一つだけ、いつもと違う所があった。
髪型が、いつもと違った。いつもは前髪を上げて額を見せるようにしているのに、今日は前髪を下ろしている。一瞬、誰が部屋に入って来たのかと思ったくらい、印象が変わっていた。ただ、前髪を上げていても下ろしていても、イケメンはイケメンだ。
「遠くまでお越しいただき、ありがとうございます」
そしていつものように張り付けたような挨拶を交わす。
「いい所ですね。海の無い県で育ったので、海が近いとテンション上がります」
本当の事だ。コンクリートに囲まれて育った富岳は、自然を感じられる場所が好きだ。
「ここを気に入って貰えたようで、良かった」
司は、初めて富岳と会った時と同じ爽やかな笑顔を見せた。
(笑ってないと精神の安定を保てないんだろうか?)
捻くれ者の富岳は勘ぐる。
(いや、逆かもしれない)
「こんな風に笑顔を見せる余裕がある」と考えれば、このお坊っちゃまは今、ここで生活しているのかもしれない。東京に居づらくなって避難しているのかもしれない。
司はソファに腰かけるとコーラに口をつけ、話し始めた。
「実は、春から親戚のいる京都の高校に通うことになりまして」
「そうでしたか」
やはり東京には居づらくなったようだ。
「それで、立花先生には1~2ヶ月に一度でいいので京都に指導碁に来て頂きたいと思っているのですが」
(はぁ!?京都に来いと!?)
親が大変な時に、自分は京都に避難する挙げ句、金をかけて俺を指導碁に呼ぶと!?
いやいや、その前に!
「えーと。私は構わないんですけど、東京から京都へだと、交通費をそちら側で負担して頂くことになります。ですので関西の棋士から指導を受けられた方が宜しいかと……」
という訳だ。俺だったら、こんな大変な時にこれ以上親に負担はかけたくないけどな。
「そうなんですけど、指導を受けるのは一人に絞った方がいいと聞いたので。沢山の方から指導を受けると、人によって手が変わるので良くないと聞いたものですから」
その通りだけど……。
何だろうな、このお坊っちゃま。プロになるためでも無し、大会に出場するためでも無しに、碁の勉強はしたいって。
(他に何か目的がある?俺を京都に呼びつける目的って、なんだ?)
考えたが、何も理由が思い浮かばない。
が、富岳はそれ以上にお坊っちゃまの髪型がいつもと違うのが気になる。髪型を変えた理由も気になる。こちらも理由が「かっこつけ」以外に何も理由が思い浮かばない。
これ以上、考えても堂々巡りだ。
(仕方ない。ここは相手に乗るか)
富岳は交通費の支給を条件に、司の指導を引き受けた。
話は終わり、指導を始めた。
司への指導は久しぶりだった。年が明けて例の騒動が始まり、3ヶ月が経とうとしているのに、まだ沈静化する兆しが見えない。
3ヶ月振りだが司の棋力は落ちることなく、力をキープしていた。
指導を終え、司が雑談を始めた。
「琥珀戦準優勝、惜しかったですね」
先月行われたペア碁戦。お坊っちゃまは配信で観戦していたようだ。
「ええ。畠山……さんに、いいようにしてやられました」
くじ引き前、「なんであんたの方が背が高くなってんのよ!」と、おでこをぶん殴られたのを思い出す。
こんなことを思いだしたのは多分、お坊っちゃまの髪型がいつもと違うせいだ。
「そうそう。その畠山さんなんですけど」
司が言葉を切る。
「はい?」
「キスしたよ。昨日、彼女と。棋院の階段の所で」
富岳は思わず口に含んだコーラをゴクンと音を立てて飲み込んでしまった。
(はぁ!?畠山が?ストーカー呼ばわりしていた男と!?)
あり得ないだろー!!!
あの畠山があれだけ毛嫌いしている男に隙を作る訳がない!
そうだ。おかしい。畠山に限って、嫌いな男から簡単にキスされるとか絶対無い!
ということは、このお坊っちゃまが嘘を吐いている。
(でも、なぜ嘘を吐く必要が?)
富岳は司の顔をまじまじと見つめる。
司も富岳の顔を見つめる。
(あっ……)
今日、ずっと抱えていた違和感の答えが出た。
『いつもと違う今日のお坊っちゃまの髪型』
『そして、お坊っちゃまの嘘』
富岳は突然、吹き出した。
「……なんだよ。突然」
司は富岳を睨む。
「す……すみません。どうして今日は、髪型がいつもと違うのかなって、ずっと思ってて……」
富岳は持っていたグラスをテーブルに置いた。それがスイッチになったかのように、笑いが止まらなくなってしまった。手で口元を隠すが、どうしても体が揺れてしまうので、笑っているのがバレバレだ。
「僕の髪型がなんだっていうんだ?」
司がさらに不機嫌そうに富岳に問う。
「いえ。畠山から頭突きを食らって、大丈夫だったんだ、と……」
◇◇◇◇◇
司が京子の唇に自分の唇を重ねようとした瞬間、京子の頭の中で超高速物理演算が始まった。
【!WARNING!この状況から回避せよ!】
『現在の二人の立ち位置』
『二人の体格差』
『司の得手不得手』
『京子の得手不得手』
これらの情報から京子は0.09秒で一つの答えを導きだした。
司の唇が触れる寸前、京子は自分のおでこを司の額めがけて勢いよく打ちつけた。
資料館に「ゴッ」という鈍い音が響いた。
司は両手で額を押さえて、倒れ込んでしまった。
京子は床にうつ伏せになる司を見下ろす。
「あら。これくらいで卒倒するなんて、もしかしてお坊っちゃまは頭突きされたのは生まれて初めてですか。余程大事に大事に育てられたんですね」
京子はしゃがみ、まだ痛がって起き上がれないでいる司の髪を掴み、自分の目線の高さに無理矢理持ち上げた。そして男のように低い声で、司にこう言った。
「大事なスポンサー様のご子息様なので今まで我慢していましたけど、さすがに堪忍袋の緒が切れました。あなたはもう二度と東京に戻って来れないようにして差し上げますので」
唾でも吐きかねない勢いで、京子は掴んでいた司の髪を離した。まだ痛むようで、司は起き上がらなかった。
「では、永遠にさようなら」
京子は司に背を向けると、階段を上がっていった。
◇◇◇◇◇
髪型が違ったのは、額の痣を隠すためだった。まだ額が痛むのか、司は額に触れた。
「なぜ頭突きされたと?」
「ああ、それですか。それは、畠山も愛読している小説に出てくるんですよ!」
推理小説『紅の薔薇』シリーズだ。以前、韓国に向かう飛行機の中で、読書前の京子に富岳が犯人の名前を言ってしまった推理小説の、シリーズ最新作7作目だ。
「女たらしの資産家男から求婚されたじゃじゃ馬ヒロインが、あまりのしつこさにブチギレて男に頭突きを食らわせるシーンがあるんですよ」
そのシーンを読んだ時、富岳の脳裏に京子が司に頭突きするイメージが浮かんだのだ。
(まさか畠山が実写で再現するとはなー。見たかったなー)
富岳の顔が思わず綻ぶ。読むのを止めてしまったのかと思っていたけど、『紅の薔薇』を読み続けているようだ。
富岳の緩んだ表情を見て、司の頬が引き攣る。
「以前、畠山さんの好みを聞いた時、そんな話は出てこなかった」
「あ……。えっと……。あの小説は、資産家がわんさか殺される内容でして、倫理的にどうかと思いまして……」
司はさらに富岳を睨む。散々司を笑い者にした事といい、今といい、富岳は失礼な事をしたという自覚があるので、背筋を伸ばし、謝罪した。
「大変失礼しました。その小説、読んでみますか?お貸ししますよ。次の指導碁の時に持ってきます」
「いいや、結構。買いますよ」
自分で稼いだ金じゃ無いだろうに。自分の親が大変だと知らないんだろうか?危機感が無さすぎる。こんな奴が将来、大企業トップになって、大丈夫なんだろうか?
(まぁ、他人事だしな)
それにしても、お坊っちゃまは病院送りにならなくて良かった。間違いなく棋戦一つ消えただろう。
(畠山の奴、ちゃんと力加減したんだな。そうか。力加減を間違えれば自分にもダメージが残るしな。俺達棋士の、大事な商売道具だもんな。頭は)
話も終え、今日の指導碁はお開きとなった。富岳は乗ってきたハイヤーで埼玉に帰された。
もしかしたら司から命令されて、嫌がらせで秩父の山奥に置き去りにされるかと思ったが、取り越し苦労に終わった。
家に帰り、風呂に入り、夕飯を終え、部屋で一息吐き、今日の出来事を思い出す。
(なんでお坊っちゃまは「畠山とキスした」なんて嘘を吐いたんだろう?)
考えても考えても、答えどころか予想すら富岳には何も思い浮かばなかった。
圃畦塾の経営はこの一年でだいぶ軌道にのり、生徒数もスタッフ数も増えた。株式会社KーHOも本格的に秋田に進出する。棋士としても三大女流戦を全て制した。『畠山京子50年計画』通りに進んでいて順調そのもの。罰が当たらないか心配になるほどだ。
今日の仕事は、棋院で若手棋士を中心に毎日行っている指導碁だ。誰でも希望可能だが人数制限があるため事前予約が必要。
その指導碁に、あの岩井司がやってきた。
棋院のホームページを逐一チェックしていたのだろう。担当職員曰く、「畠山先生の指導碁枠、すぐに埋まりましたよ」だそうだ。そのうちのその一枠をこのストーカーが潰し……埋めてくれたようだ。
「畠山さん、久しぶり」
正月以来になる。その間、合法ストーカーも寄越さなかったので、京子はすっかり「やっと諦めたのかな」と気を緩めていた。
が、あれだけ侮辱し、三嶋からもキツいお小言を貰ったのに、全く懲りていなかったようだ。筋金入りのストーカーだ。
今日のお坊っちゃまのファッションは、ジャケットにネクタイという出で立ちだった。そのままクラシック音楽のコンサートに行けそうだ。
「お久しぶりです、ストーカーさん」
京子に指導碁を申し込んだ人がもう2人、司と一緒に並んでいるのに、その二人にも聞こえるようにわざと大きな声で司に挨拶し返す。
「変わらないなぁ」
司は京子の毒舌を笑顔で返す。
「ええ。おかげさまで。あなたもお変わり無いようで」
京子は「お変わり無いようで」の部分を目一杯の嫌味を込めて言った。
「元気そうで良かったよ」
司がいつものように定型文を読み上げる。嫌味の受け流しのテクニックは、京子より上かもしれない。
「元気なように見えますか?緑玉戦予戦突破し損ねたのに」
クリスマスパーティーの翌日に行われた緑玉戦予戦準決勝。京子の相手は中舘英雄門下の大沢克敏七段だった。つまり優里亜の兄弟子だ。京子の手について相当研究したような打ち回しだった。もしかしたら中舘門下で優里亜を中心に畠山京子対策を練っていたのかもしれない。終始、京子が苦手とする『初見』『閃き』の手を打ってきた。169手目を見て白番畠山京子は投了した。
ついでに、先週卒業式の翌日に行われた金剛石戦予戦Bブロック決勝も、終始相手は京子の苦手とする形にしてきて、171手目で投了した。棋士になってまだ4年目で実力が足りないことは重々承知しているが、京子の知らない所で『畠山京子包囲網』が出来ているのかもしれないという印象を受けずにいられなかった。
「ああ。その事で謝罪に来たんだよ。あの時は本当にすまなかっ……」
「今頃ですか?新年会の時でも謝罪は出来ましたよね」
色々世間一般の常識から外れている筋金入りのお坊っちゃまは、自分が他人から嫌われているなどと、これっぽっちも考えた事など無いのだろう。
司の隣に座っている二人はジロジロと司を見ている。しかし、そんな目もこのお坊っちゃまには些末のようだ。気にする様子もなく、お坊っちゃまは話を続ける。
「実は畠山さんに話したいことがあって今日、来たんだ。この指導碁が終わったら、少し時間をもらえないかな?」
司の言う「話したいこと」の内容は大体想像がついている。
年明けから連日のように岩井グループの談合や政治家への賄賂などなどといった岩井グループの不正や不祥事のニュースが流れてくるからだ。
ただしそのニュースは、緑玉戦敗戦にブチギレた京子が『アラクネ』に依頼して暴いたものだ。
江田グループと違い、岩井グループは叩けば叩くほど埃が出てきて、3ヶ月経った今でもマスコミの餌食になっている。グループ存続も危ぶまれているほどに。
ただ、京子にとって誤算だったのは、未だ懲りずにこうして京子の元に司が訪ねて来た事だ。鬱陶しいことこの上ないが、もしかしたら「もう畠山さんには会わない」という内容の可能性も少しはあるので、話ぐらいは聞いてやらないでもない。
「お話は5分で済ませて下さい。まだ仕事がありますので」
嘘である。そうでも言っておかないと、限りある時間を無駄にされそうだからだ。
「わかった」
司は短く答えた。
司の両隣で話を聞いていた指導碁を受ける二人は「やっと指導が始まる」と、ほっとしていた。
●○●○●○
司と一緒に指導碁を受けていた二人はすぐに帰ってしまった。「畠山京子、怖い」という表情をしていたように映った。もしかしたらネットが炎上しないかな?などと思ったが、今はそんなことはどうでもいい。
目の前の敵、岩井司だ。
日本棋院地下1階にある資料館に京子は司を連れてきた。司のために会議室を借りるのが馬鹿馬鹿しかったので、ここにした。それに密室にストーカーと二人だけになったら、何をされるかわかったもんじゃない。
昼食時ということもあってか、資料館の客はまばらだった。このくらいが丁度いい。しかも都合のいいことに、今いる客は京子を知らないようで、ジロジロ見られる事は無かった。
「どんなご用件でしょう?」
京子はいつでも逃げられるように階段に背を向けて腕組みをし、司を威嚇する。幸い、司はまだ京子より背が低いままだった。
「そんなに固くならずに……」
「無理です」
京子は短く答える。いつものようにつらつらと長文の嫌味を言うのではなく、短く端的に言う。「お前と喋るつもりは無い」とはっきり言うより、この方が司には効果的だった。司は前置きを端折って話を始めた。
「畠山さんもニュースで知ってると思うけど、今、家が大変で、避難も兼ねて、僕は4月から親戚のいる京都の高校に通う事にしたんだ」
「そうですか。ということは、離れて暮らしている私がどんな生活をしているか、これからも合法ストーカーを送りつけてくるのでしょうか」
京子は眉間に皺を寄せ、司に敵意剥き出しで迫る。
「しないよ!もう家にはそんな余裕は無いからね。今まで嫌な思いをさせて、本当にすまなかった」
司が京子に頭を下げる。
旧華族のお坊っちゃまが、平民に簡単に頭を下げるのは如何なものか?と京子は思う。謝罪、というより「こうすれば許してくれるんだろ?」という上から目線の感じもするからだ。相当甘やかされて育ったお坊っちゃまなんだな、と京子は思う。京子が司を毛嫌いする最大の理由だ。
「お話はお済みですか。でしたら仕事に戻らせてもらいます」
京子は隙を見せないよう、司に背中を向けないように横向きで階段を上る。
(背中なんか見せた日にゃ何をされるか、わかったもんじゃない!抱きついてきて公共の場でも押し倒してきそうだ、このお坊っちゃま)
京子のこの勘は当たった。
司は京子が横向きで階段を上るや否や、京子の肩を掴んできた。顔を近づける。
京子の唇に司の唇が迫る。
頭の中に警戒アラームが鳴り響いた。
●○●○●○
京子が司に指導碁を行っていた時、富岳は『埼玉研』研究会だった。
いつものように大宮の福祉センターの会議室に集まった三嶋、若松、木幡の3人は、いつもと様子の違う立花富岳に気づいた。
なにやら血色がいい。時々ボーッと考え事をしている。碁盤を見つめる目は虚ろで明らかに焦点は合っていない。
そして何よりおかしいのは、あれほど意気込んで臨んだ緑玉戦を負けてしまったのに、それほど悔しがっているようには見えない所だ。
「おーい、フガクーン!戻っておいでー!」
若松が富岳の目の前で手を振る。
「え?なんですか?」
今の所、呼び掛けには応じる。救急車は必要無いようだ。
「どうしたんだよ?ボーッとして」
若松が手を振るのを止めてから言った。
「珍しいな。碁を打ってるのに上の空なんて」
木幡は心配そうに富岳の顔を覗き込む。
「「何かあったのか?」」
若松と木幡、二人揃って同じ質問を富岳にぶつける。
三嶋は富岳がどう答えるか、黙って見守る事にした。三嶋には予想がついていた。「卒業式に何かあった」のだと。
先週の研究会では、いつも通りだった。それが卒業式と緑玉戦を終えた後の、今週のこの呆けた表情。緑玉戦の時にこうなる何かがあったとは考え難い。なので卒業式だとしか考えられない。
三嶋は焦った。岡本門下の研究会での京子の様子はいつもと同じだった。富岳の顔を赤らめる原因を作ったのは京子ではない。
つまり、京子以外の誰か。富岳と同じ中学校に通う女子の可能性が非常に高い。
富岳は「高校に行かない」と言う程、学校生活は非リア充だと思っていたのに、まさかのこのタイミングでの伏兵の出現。
このままだと三嶋の密かな楽しみ、「京子と富岳をくっつける」作戦が潰えてしまうかもしれない。
富岳が徐に口を開く。三嶋は耳を傾ける。
「んーと……、女子が男子の頬っぺたにキスするのは、どんな心情なのかなーと……」
「ほっぺにチュウ!?されたのか!?」
若松が富岳に詰め寄る。
「中学生が!?そんなハレンチな!!不純異性交遊だ!!」
彼女いない歴イコール年齢の木幡は、先を越されて悔しそうだ。
三嶋は、心の中で頭を抱える。
(やっぱりそうかあああー!やばいぞ、これは。今まで気にも止めてなかった女子でも、こういう事をされると、気になったりするもんなんだよな。男は!)
「で、どうするんだ?富岳は」
三嶋は恐る恐る訊ねる。
「どうするって?」
「その子と付き合うのか?」
若松と木幡も身を乗り出す。特に彼女いない歴=年齢の木幡は、答え次第では富岳を取って食いそうだ。
「まさか!パリピですよ!?カラオケだのゲーセンだの、煩い場所が大好きな人種ですよ!?同じ空間に居ることすら困難な人間とは付き合えませんよ!」
富岳は右手を左右にブンブン振って否定した。
この大袈裟な仕草は京子に似ている。と言ってやろうかと思ったが、三嶋は口を噤む。まだ京子の名前を出すタイミングじゃない。
「でも、その女の子から連絡来るんじゃないのか?」
木幡が質問した。
「いいえ。連絡先、交換してないんで」
富岳はまた手を左右にブンブン振る。
木幡も富岳に何か質問したそうだが、何を聞けばいいのか、わかりかねている様子だ。
今度は三嶋が富岳に質問する。
「それじゃあ、その女の子とどう付き合っていくか、もう富岳の中では答えは出てるんだな?」
「はい、勿論。連絡の取りようが無いんで」
こう答えた富岳の表情はあっけらかんとしていた。その女子と付き合う手は、完全に無いようだ。
三嶋は三人に気づかれないようにほっと溜め息を吐いた。
「じゃあ、なんで碁に身が入らないんだ?」
三嶋の質問に、富岳は戸惑う。
「言われてみればそうですね。なんでだろう?」
言ってしまいたい衝動に駆られる。「お前、京子に惚れてるからだよ」、「京子に後ろ暗い秘密が出来てしまったからだよ」と。しかし、まだ言っていいタイミングではない。
ここで言ってしまったら、富岳の性格からして、反発して、さらに京子との溝が深くなってしまいそうだ。
富岳のスマホが鳴った。富岳がどう答えるか聞きたかったが、仕事のメールかもしれないので、譲った。
「棋院からです。明日、指導碁の仕事が入りました」
「そうか。突然だな」
「例のお坊っちゃまです」
三嶋が思わず「は?」と大声を出してしまった。
「どうかしたんですか?」
三嶋の大声に驚いた富岳が聞いた。
「あ。いや、すまん。なんでもない」
確か今日、というか時間的にまさに今、京子が棋院でお坊っちゃまに指導碁を行ってるはずだ。いや、もう昼だから終わった頃か?先週の研究会で、京子が「ストーカーが棋院に来る」と愚痴っていたのだ。
(あの野郎。あれだけ説教したのに。相当メンタル強いな。なんとかして京子からあのお坊っちゃまを引き剥がせないかな?)
普段、新聞もテレビのニュースも見ないので、三嶋は岩井家の現状を知らなかった。
●○●○●○
いつのもように岩井から寄越されたハイヤーに乗り込むと、富岳が連れて来られたのは九十九里浜にある岩井家の別荘だった。
いつものように岩井邸で指導碁を行うものだと思って車に乗り込んだ富岳は、暫くしていつもと違うルートを走っていることに気付き、焦った富岳が運転手に行き先を聞いて、自分はこれから千葉に行くのだと知った。
なぜこんな所に連れて来られたのか、予想はついている。今、岩井グループは世間の注目の的になっているからだ。岩井邸にも連日マスコミが詰めかけているのだろう。
それでも指導碁に富岳を呼ぶ。親は大変な時なのに、お坊っちゃまは気楽なもんだな、いくらくらいお小遣いを貰ってるんだろう?と富岳は思う。
東京の屋敷よりはだいぶこぢんまりとしているが、この別荘もかなり手の込んだ作りになっていた。海に近いらしく、車を降りると潮の香りが漂い波の音が聞こえてきた。玄関を入るとサロンがあり、ピアノもある。応接室も広くは無いが立派な作りだった。
いつものようにコーラを飲んで待っていると、司が姿を現した。いつものように、そのままクラシック音楽のコンサートに行けそうな出で立ちだ。
ただ一つだけ、いつもと違う所があった。
髪型が、いつもと違った。いつもは前髪を上げて額を見せるようにしているのに、今日は前髪を下ろしている。一瞬、誰が部屋に入って来たのかと思ったくらい、印象が変わっていた。ただ、前髪を上げていても下ろしていても、イケメンはイケメンだ。
「遠くまでお越しいただき、ありがとうございます」
そしていつものように張り付けたような挨拶を交わす。
「いい所ですね。海の無い県で育ったので、海が近いとテンション上がります」
本当の事だ。コンクリートに囲まれて育った富岳は、自然を感じられる場所が好きだ。
「ここを気に入って貰えたようで、良かった」
司は、初めて富岳と会った時と同じ爽やかな笑顔を見せた。
(笑ってないと精神の安定を保てないんだろうか?)
捻くれ者の富岳は勘ぐる。
(いや、逆かもしれない)
「こんな風に笑顔を見せる余裕がある」と考えれば、このお坊っちゃまは今、ここで生活しているのかもしれない。東京に居づらくなって避難しているのかもしれない。
司はソファに腰かけるとコーラに口をつけ、話し始めた。
「実は、春から親戚のいる京都の高校に通うことになりまして」
「そうでしたか」
やはり東京には居づらくなったようだ。
「それで、立花先生には1~2ヶ月に一度でいいので京都に指導碁に来て頂きたいと思っているのですが」
(はぁ!?京都に来いと!?)
親が大変な時に、自分は京都に避難する挙げ句、金をかけて俺を指導碁に呼ぶと!?
いやいや、その前に!
「えーと。私は構わないんですけど、東京から京都へだと、交通費をそちら側で負担して頂くことになります。ですので関西の棋士から指導を受けられた方が宜しいかと……」
という訳だ。俺だったら、こんな大変な時にこれ以上親に負担はかけたくないけどな。
「そうなんですけど、指導を受けるのは一人に絞った方がいいと聞いたので。沢山の方から指導を受けると、人によって手が変わるので良くないと聞いたものですから」
その通りだけど……。
何だろうな、このお坊っちゃま。プロになるためでも無し、大会に出場するためでも無しに、碁の勉強はしたいって。
(他に何か目的がある?俺を京都に呼びつける目的って、なんだ?)
考えたが、何も理由が思い浮かばない。
が、富岳はそれ以上にお坊っちゃまの髪型がいつもと違うのが気になる。髪型を変えた理由も気になる。こちらも理由が「かっこつけ」以外に何も理由が思い浮かばない。
これ以上、考えても堂々巡りだ。
(仕方ない。ここは相手に乗るか)
富岳は交通費の支給を条件に、司の指導を引き受けた。
話は終わり、指導を始めた。
司への指導は久しぶりだった。年が明けて例の騒動が始まり、3ヶ月が経とうとしているのに、まだ沈静化する兆しが見えない。
3ヶ月振りだが司の棋力は落ちることなく、力をキープしていた。
指導を終え、司が雑談を始めた。
「琥珀戦準優勝、惜しかったですね」
先月行われたペア碁戦。お坊っちゃまは配信で観戦していたようだ。
「ええ。畠山……さんに、いいようにしてやられました」
くじ引き前、「なんであんたの方が背が高くなってんのよ!」と、おでこをぶん殴られたのを思い出す。
こんなことを思いだしたのは多分、お坊っちゃまの髪型がいつもと違うせいだ。
「そうそう。その畠山さんなんですけど」
司が言葉を切る。
「はい?」
「キスしたよ。昨日、彼女と。棋院の階段の所で」
富岳は思わず口に含んだコーラをゴクンと音を立てて飲み込んでしまった。
(はぁ!?畠山が?ストーカー呼ばわりしていた男と!?)
あり得ないだろー!!!
あの畠山があれだけ毛嫌いしている男に隙を作る訳がない!
そうだ。おかしい。畠山に限って、嫌いな男から簡単にキスされるとか絶対無い!
ということは、このお坊っちゃまが嘘を吐いている。
(でも、なぜ嘘を吐く必要が?)
富岳は司の顔をまじまじと見つめる。
司も富岳の顔を見つめる。
(あっ……)
今日、ずっと抱えていた違和感の答えが出た。
『いつもと違う今日のお坊っちゃまの髪型』
『そして、お坊っちゃまの嘘』
富岳は突然、吹き出した。
「……なんだよ。突然」
司は富岳を睨む。
「す……すみません。どうして今日は、髪型がいつもと違うのかなって、ずっと思ってて……」
富岳は持っていたグラスをテーブルに置いた。それがスイッチになったかのように、笑いが止まらなくなってしまった。手で口元を隠すが、どうしても体が揺れてしまうので、笑っているのがバレバレだ。
「僕の髪型がなんだっていうんだ?」
司がさらに不機嫌そうに富岳に問う。
「いえ。畠山から頭突きを食らって、大丈夫だったんだ、と……」
◇◇◇◇◇
司が京子の唇に自分の唇を重ねようとした瞬間、京子の頭の中で超高速物理演算が始まった。
【!WARNING!この状況から回避せよ!】
『現在の二人の立ち位置』
『二人の体格差』
『司の得手不得手』
『京子の得手不得手』
これらの情報から京子は0.09秒で一つの答えを導きだした。
司の唇が触れる寸前、京子は自分のおでこを司の額めがけて勢いよく打ちつけた。
資料館に「ゴッ」という鈍い音が響いた。
司は両手で額を押さえて、倒れ込んでしまった。
京子は床にうつ伏せになる司を見下ろす。
「あら。これくらいで卒倒するなんて、もしかしてお坊っちゃまは頭突きされたのは生まれて初めてですか。余程大事に大事に育てられたんですね」
京子はしゃがみ、まだ痛がって起き上がれないでいる司の髪を掴み、自分の目線の高さに無理矢理持ち上げた。そして男のように低い声で、司にこう言った。
「大事なスポンサー様のご子息様なので今まで我慢していましたけど、さすがに堪忍袋の緒が切れました。あなたはもう二度と東京に戻って来れないようにして差し上げますので」
唾でも吐きかねない勢いで、京子は掴んでいた司の髪を離した。まだ痛むようで、司は起き上がらなかった。
「では、永遠にさようなら」
京子は司に背を向けると、階段を上がっていった。
◇◇◇◇◇
髪型が違ったのは、額の痣を隠すためだった。まだ額が痛むのか、司は額に触れた。
「なぜ頭突きされたと?」
「ああ、それですか。それは、畠山も愛読している小説に出てくるんですよ!」
推理小説『紅の薔薇』シリーズだ。以前、韓国に向かう飛行機の中で、読書前の京子に富岳が犯人の名前を言ってしまった推理小説の、シリーズ最新作7作目だ。
「女たらしの資産家男から求婚されたじゃじゃ馬ヒロインが、あまりのしつこさにブチギレて男に頭突きを食らわせるシーンがあるんですよ」
そのシーンを読んだ時、富岳の脳裏に京子が司に頭突きするイメージが浮かんだのだ。
(まさか畠山が実写で再現するとはなー。見たかったなー)
富岳の顔が思わず綻ぶ。読むのを止めてしまったのかと思っていたけど、『紅の薔薇』を読み続けているようだ。
富岳の緩んだ表情を見て、司の頬が引き攣る。
「以前、畠山さんの好みを聞いた時、そんな話は出てこなかった」
「あ……。えっと……。あの小説は、資産家がわんさか殺される内容でして、倫理的にどうかと思いまして……」
司はさらに富岳を睨む。散々司を笑い者にした事といい、今といい、富岳は失礼な事をしたという自覚があるので、背筋を伸ばし、謝罪した。
「大変失礼しました。その小説、読んでみますか?お貸ししますよ。次の指導碁の時に持ってきます」
「いいや、結構。買いますよ」
自分で稼いだ金じゃ無いだろうに。自分の親が大変だと知らないんだろうか?危機感が無さすぎる。こんな奴が将来、大企業トップになって、大丈夫なんだろうか?
(まぁ、他人事だしな)
それにしても、お坊っちゃまは病院送りにならなくて良かった。間違いなく棋戦一つ消えただろう。
(畠山の奴、ちゃんと力加減したんだな。そうか。力加減を間違えれば自分にもダメージが残るしな。俺達棋士の、大事な商売道具だもんな。頭は)
話も終え、今日の指導碁はお開きとなった。富岳は乗ってきたハイヤーで埼玉に帰された。
もしかしたら司から命令されて、嫌がらせで秩父の山奥に置き去りにされるかと思ったが、取り越し苦労に終わった。
家に帰り、風呂に入り、夕飯を終え、部屋で一息吐き、今日の出来事を思い出す。
(なんでお坊っちゃまは「畠山とキスした」なんて嘘を吐いたんだろう?)
考えても考えても、答えどころか予想すら富岳には何も思い浮かばなかった。
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