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蛙と人魚①
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客間から出て、再びリノリウム製の廊下を歩いていく。研究所の一階はどうやら客間や書斎、仮眠室と言った彼の生活スペースになっているようで、扉にはめ込まれたガラス窓から見えるのは、病院や学校のそれと似た印象の部屋たちだ。
しかし、地下へ続く階段を降りるにつれて、その印象は激変していく。まず、最初に聞こえたガシャンガシャンと言う金属音が、明らかに大きくなった。その音の主たちが近づいてきているという証拠だ。そして、その内にごぽごぽと低い水音が聞こえるようになってきた。
水棲の何かが、いるのだろう。
何よりも、言葉にしがたい沢山の生き物の気配が漂って来た。例えるなら、森林の中にいるような。パッと見渡した限りでは自分以外の生き物はいないけれど、近くに必ず彼ら生物は存在していて、私を見ているような。
背筋の毛が逆立つ感覚を味わいながらスヴェン氏の後ろをついていくと、頑丈そうな鉄の扉に行き止まる。スヴェン氏は白衣のポケットから鍵束を取り出すと、慣れた手つきでその中の一つを選び取り、扉を開けた。その先には、開けた空間があった。
青いライトで照らされたその場所は土が敷かれていて、どうやって維持しているのか草が茂っている。ところどころ水たまりが存在し、湿地を思わせる泥と水の香りがした。
草の間を注意深く見渡していく。
「……あ」
そしてとうとう、“それ”と目が合った。
遠目にぼんやりと見れば、それは座った人間だ。身長と体格からして少年だろう。しかし、こちらを見ているその、少し飛び出ているように見える瞳は……あれは、蛇だろうか? いや違う。膝を斜め前に折り曲げて、腰を低く落とすその特徴的な座り方と総合して、それらの特徴が『蛙』に限りなく近い事に気づく。
蛙のような少年は、暫くこちらを見ている様子だったが、数秒の後に小刻みに瞳孔が動き目を逸らされる。そして、ぴょん、と足を伸ばして跳ね上がった。
彼は、広間を抜ける通路に向かって跳ねていく。
あまりの事に何も言えずにいると、スヴェン氏がこちらを振り返り、にこりと笑う。
「どうやら、彼はお姉さんのところに私たちを案内してくれるようですね」
「は? お姉さん?」
「ええ。この先に、彼の姉がいるのです」
行きましょう、と何てこと無いように言って、スヴェン氏は少年の背を追って歩き出す。
スヴェン氏越しに少年の後姿を観察する。白いブラウスに黒のショートパンツを履いている姿は、育ちの良い少年を思わせる。しかし、跳ねるたびに露わになる脚の全体像には、明らかな違和感がある。
「あ、関節が三つある……?」
「ええ。一番下の関節、あそこから下までは、脛や太ももと同じくらいの長さがありますが、あれは彼の足……土を踏む、靴を履く部分という意味での”足”なんです。あれが蛙の跳躍力を生み出すための特徴の一つです」
博物館や動物園の管理人のように、流暢な解説がスヴェン氏の口から紡がれていく。
しかし、その内容の毛色が、途中から不意に変わった。
「彼は、とても姉思いの優しい少年でした。バレエのセンスが秀でていて、将来を有望視されていたようです。本人もダンサーになることを夢見ていました。そして、その夢を誰よりも応援していたのが、彼女」
再び、青白い光が満たす開けた空間に出る。スヴェン氏の話と少年に気を取られていて気づかなかったが、地下に降りた時に聞こえた水音が、すぐ傍で響いていた。
巨大な水槽だ。最初は空の水槽のように見えた。ただただ大量の水が張られたガラス製のプールを見ているような。
しかし、ガラス張りになった部分の陰、死角から栗色の髪の毛が海藻のように揺れながら伸びてきた。
その後すぐだ。バンッと水かきのついた青白い手が水槽を叩く。
「ひっ!」
覗き込んできたのは、ぎょろりとした目の少女だった。
間もなく、少女の全容が明らかになる。
――少女は、所謂”人魚”であった。
青灰に光る鱗に飾られた尾鰭が、足の代わりに少女の下肢についていた。白い肌は、よく見ると普通の人間のそれとは少し違う。少々光沢があり、エナメルのように光を反射していた。
少女はこちらから目を逸らさず、警戒するように早めに泳ぎ回っていたが、やがて私たちと水槽の間にいる蛙の少年の姿に気づいた。
すい、と人魚は蛙に近づいていく。蛙もまた、じっと人魚の事を見ていた。
人魚は蛙の前から動かない。蛙もまた、少しも動かない。非常に静かな時間だった。
「……彼女が、この子のお姉さんなんですか?」
スヴェン氏は満足気な表情で肯いた。
「美しい光景でしょう」
美しい、のだろうか。彼らの間には、確か姉弟の絆が残っているのだろうと思う。異種の動物同士が触れ合う姿を恋だと言うような、人間の解釈に過ぎないのかもしれないが。こうして見つめ合う姿を見ると、愛のようなものを感じる、かもしれない。
けれど、彼らには以前、人間の姉弟としてのコミュニケーションがあったのだ。それが失われて、今の状況にある。それを思うとやはり私には、それを手放しで美しいとは言えない。
ふと、水槽の横に小さな棚が設置されている事に気づく。一つは分厚いファイルで『013管理記録』と背表紙に書かれている。これは名前の通りなのだろう。
目を引いたのはもうひとつ、いや正確には二つ、か。封が切られた手紙が二通、飾られている。
「ご自由にご覧ください」
私の視線に気づいたスヴェン氏が言う。
私は、その手紙吸い寄せられるように歩み寄り、手紙を開いた。
スヴェン・クリンガー先生へ
初めてお手紙を差し上げます。
僕は、先生に下肢の手術をしていただいたミレナの弟です。カレンと申します。
姉は今、水槽から抜け出して家中を這いまわっています。先生の言う通り、姉は見違えるほどに動くようになりました。
でも、僕が大好きだった優しくて思慮深い姉は、あれ以来どこからに行ってしまったようなのです。先日などは水槽に戻す際に、姉は獣のような甲高い咆哮を上げて、思い切り僕の足の肉を齧り取りました。大事な筋が傷ついたようで、上手く歩けません。
僕がテストで満点を取った時、バレエのコンクールで入賞した時、誰よりも喜んでくれていた姉さんの姿は、見る影もありません。
先生、どうか姉を以前のように戻してはいただけないでしょうか。
父と母は、姉を生涯屋敷に閉じ込めておく算段を立てておりますが、今度どうにか姉を先生の元へ連れて行きます。
カレン・バーク
優しい少年カレンへ
お手紙をありがとう。
お姉さんが元気になったようで、一先ずは安心しました。
でも、君が大切に思っていたお姉さんには悪いことをしてしまったのかもしれない。
以前に説明した通り、お姉さんの下肢は骨組みはイルカの骨、皮はサメの皮膚を模した人工皮膚から出来ていて、それらを動かすための神経はお姉さんの元の脚のものとイルカのものを繋ぎ合わせたものです。また、骨盤や肺もお姉さん本来の姿に近づけるために少し手を加えさせてもらいました。
僕の手術でお姉さんは、美しい人魚の姿になりました。しかしお姉さんが強く遺伝子を受け継いでいるセイレン族の雌であるマーメイドは、古い文献でも獰猛さが強調されています。
遺伝子に刻まれた気質が甦り、その結果としてお姉さんのこれまでの性格が変化したように見えたのかもしれません。しかし、今の彼女もまた、彼女本来の姿であることに違いはありません。
しかし、僕にも優しい兄がいるので、君の感じた衝撃と悲哀は非常によく理解できます。
お姉さんを以前のように優しく穏やかな様子に戻して欲しいという君の願いを、確かに聞き届けました。君たちの来訪を待っています。
追伸 君にも可哀想な事をしましたね。大切な足の代わりにはならないかもしれませんが、丁度良いもの入手したので、念のため準備しておきます。
スヴェン・クリンガーより姉思いの少年へ敬意を込めて
しかし、地下へ続く階段を降りるにつれて、その印象は激変していく。まず、最初に聞こえたガシャンガシャンと言う金属音が、明らかに大きくなった。その音の主たちが近づいてきているという証拠だ。そして、その内にごぽごぽと低い水音が聞こえるようになってきた。
水棲の何かが、いるのだろう。
何よりも、言葉にしがたい沢山の生き物の気配が漂って来た。例えるなら、森林の中にいるような。パッと見渡した限りでは自分以外の生き物はいないけれど、近くに必ず彼ら生物は存在していて、私を見ているような。
背筋の毛が逆立つ感覚を味わいながらスヴェン氏の後ろをついていくと、頑丈そうな鉄の扉に行き止まる。スヴェン氏は白衣のポケットから鍵束を取り出すと、慣れた手つきでその中の一つを選び取り、扉を開けた。その先には、開けた空間があった。
青いライトで照らされたその場所は土が敷かれていて、どうやって維持しているのか草が茂っている。ところどころ水たまりが存在し、湿地を思わせる泥と水の香りがした。
草の間を注意深く見渡していく。
「……あ」
そしてとうとう、“それ”と目が合った。
遠目にぼんやりと見れば、それは座った人間だ。身長と体格からして少年だろう。しかし、こちらを見ているその、少し飛び出ているように見える瞳は……あれは、蛇だろうか? いや違う。膝を斜め前に折り曲げて、腰を低く落とすその特徴的な座り方と総合して、それらの特徴が『蛙』に限りなく近い事に気づく。
蛙のような少年は、暫くこちらを見ている様子だったが、数秒の後に小刻みに瞳孔が動き目を逸らされる。そして、ぴょん、と足を伸ばして跳ね上がった。
彼は、広間を抜ける通路に向かって跳ねていく。
あまりの事に何も言えずにいると、スヴェン氏がこちらを振り返り、にこりと笑う。
「どうやら、彼はお姉さんのところに私たちを案内してくれるようですね」
「は? お姉さん?」
「ええ。この先に、彼の姉がいるのです」
行きましょう、と何てこと無いように言って、スヴェン氏は少年の背を追って歩き出す。
スヴェン氏越しに少年の後姿を観察する。白いブラウスに黒のショートパンツを履いている姿は、育ちの良い少年を思わせる。しかし、跳ねるたびに露わになる脚の全体像には、明らかな違和感がある。
「あ、関節が三つある……?」
「ええ。一番下の関節、あそこから下までは、脛や太ももと同じくらいの長さがありますが、あれは彼の足……土を踏む、靴を履く部分という意味での”足”なんです。あれが蛙の跳躍力を生み出すための特徴の一つです」
博物館や動物園の管理人のように、流暢な解説がスヴェン氏の口から紡がれていく。
しかし、その内容の毛色が、途中から不意に変わった。
「彼は、とても姉思いの優しい少年でした。バレエのセンスが秀でていて、将来を有望視されていたようです。本人もダンサーになることを夢見ていました。そして、その夢を誰よりも応援していたのが、彼女」
再び、青白い光が満たす開けた空間に出る。スヴェン氏の話と少年に気を取られていて気づかなかったが、地下に降りた時に聞こえた水音が、すぐ傍で響いていた。
巨大な水槽だ。最初は空の水槽のように見えた。ただただ大量の水が張られたガラス製のプールを見ているような。
しかし、ガラス張りになった部分の陰、死角から栗色の髪の毛が海藻のように揺れながら伸びてきた。
その後すぐだ。バンッと水かきのついた青白い手が水槽を叩く。
「ひっ!」
覗き込んできたのは、ぎょろりとした目の少女だった。
間もなく、少女の全容が明らかになる。
――少女は、所謂”人魚”であった。
青灰に光る鱗に飾られた尾鰭が、足の代わりに少女の下肢についていた。白い肌は、よく見ると普通の人間のそれとは少し違う。少々光沢があり、エナメルのように光を反射していた。
少女はこちらから目を逸らさず、警戒するように早めに泳ぎ回っていたが、やがて私たちと水槽の間にいる蛙の少年の姿に気づいた。
すい、と人魚は蛙に近づいていく。蛙もまた、じっと人魚の事を見ていた。
人魚は蛙の前から動かない。蛙もまた、少しも動かない。非常に静かな時間だった。
「……彼女が、この子のお姉さんなんですか?」
スヴェン氏は満足気な表情で肯いた。
「美しい光景でしょう」
美しい、のだろうか。彼らの間には、確か姉弟の絆が残っているのだろうと思う。異種の動物同士が触れ合う姿を恋だと言うような、人間の解釈に過ぎないのかもしれないが。こうして見つめ合う姿を見ると、愛のようなものを感じる、かもしれない。
けれど、彼らには以前、人間の姉弟としてのコミュニケーションがあったのだ。それが失われて、今の状況にある。それを思うとやはり私には、それを手放しで美しいとは言えない。
ふと、水槽の横に小さな棚が設置されている事に気づく。一つは分厚いファイルで『013管理記録』と背表紙に書かれている。これは名前の通りなのだろう。
目を引いたのはもうひとつ、いや正確には二つ、か。封が切られた手紙が二通、飾られている。
「ご自由にご覧ください」
私の視線に気づいたスヴェン氏が言う。
私は、その手紙吸い寄せられるように歩み寄り、手紙を開いた。
スヴェン・クリンガー先生へ
初めてお手紙を差し上げます。
僕は、先生に下肢の手術をしていただいたミレナの弟です。カレンと申します。
姉は今、水槽から抜け出して家中を這いまわっています。先生の言う通り、姉は見違えるほどに動くようになりました。
でも、僕が大好きだった優しくて思慮深い姉は、あれ以来どこからに行ってしまったようなのです。先日などは水槽に戻す際に、姉は獣のような甲高い咆哮を上げて、思い切り僕の足の肉を齧り取りました。大事な筋が傷ついたようで、上手く歩けません。
僕がテストで満点を取った時、バレエのコンクールで入賞した時、誰よりも喜んでくれていた姉さんの姿は、見る影もありません。
先生、どうか姉を以前のように戻してはいただけないでしょうか。
父と母は、姉を生涯屋敷に閉じ込めておく算段を立てておりますが、今度どうにか姉を先生の元へ連れて行きます。
カレン・バーク
優しい少年カレンへ
お手紙をありがとう。
お姉さんが元気になったようで、一先ずは安心しました。
でも、君が大切に思っていたお姉さんには悪いことをしてしまったのかもしれない。
以前に説明した通り、お姉さんの下肢は骨組みはイルカの骨、皮はサメの皮膚を模した人工皮膚から出来ていて、それらを動かすための神経はお姉さんの元の脚のものとイルカのものを繋ぎ合わせたものです。また、骨盤や肺もお姉さん本来の姿に近づけるために少し手を加えさせてもらいました。
僕の手術でお姉さんは、美しい人魚の姿になりました。しかしお姉さんが強く遺伝子を受け継いでいるセイレン族の雌であるマーメイドは、古い文献でも獰猛さが強調されています。
遺伝子に刻まれた気質が甦り、その結果としてお姉さんのこれまでの性格が変化したように見えたのかもしれません。しかし、今の彼女もまた、彼女本来の姿であることに違いはありません。
しかし、僕にも優しい兄がいるので、君の感じた衝撃と悲哀は非常によく理解できます。
お姉さんを以前のように優しく穏やかな様子に戻して欲しいという君の願いを、確かに聞き届けました。君たちの来訪を待っています。
追伸 君にも可哀想な事をしましたね。大切な足の代わりにはならないかもしれませんが、丁度良いもの入手したので、念のため準備しておきます。
スヴェン・クリンガーより姉思いの少年へ敬意を込めて
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