Existence

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第一話 序章

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 繁華街から少し離れた場所に、古い雑居ビルがいくつも並んでいる細い路地があった。夜でもあまり人通りの少ないその怪しげな通りに一際古びた細長い雑居ビルがある。その狭いビルの地下には、建物と同じように古臭い看板と所々剥げているドアが幾つかあった。地下の一番奥のドアの向こうには、もう長いこと続いているであろう老舗のバー。客はいつも少なく、ここにやって来る客達は常連ばかりだ。不況の煽りで最近はその数少ない常連客達の足も遠のき、さらにここのバーは辛気臭い場所になっていた。

「なぁ、兄ちゃんちょっといいかい」

 先ほど初めてこの店に訪れた三十代位のスーツ姿の男の声が小さなバーの店内で響いた。グラスは既に空になっていた。店内にいた若いバーテンはおかわりかと思い客に近づいていく。客は既に違う店でたくさん飲んでいたのであろう。ここに来た時から既に酔っており、顔が真っ赤になっていた。男の話し方は相手を見下したような態度であり、かなり年若く見えるバーテンに右手でちょいちょいと手招きしていた。

「なんでしょう」
「ここのマスターってさぁ、兄ちゃんなのかい?」

 相当酔っているのか、口調がたどたどしい。上体も左右に時折揺れていた。顔や首、手も真っ赤にしており、極力関わりたくない感じの男であるということを若いバーテンは悟っているようであった。

「いえ、まだ見習いで。マスターはもう少ししたら戻ってくると思いますよ」
「そうだよなぁ、あんたみたいなガキがねぇ、店持てるって、んなわけないよなぁ。にしてもさぁ、前髪長くてあんま見えないけど、結構かわいい顔してるよね。幾つ?」

 上から下まで値踏みするような視線を送っている。そして酔払い客は若いバーテンの男を見ながらバカにしたように笑った。バーテンは男の態度に反応して、たちが悪いとでも言いたげな表情を浮かべている。客が言う通り、バーテンは一瞬女性のようにも見える線の細さで、肌もかなり白かった。白いというか青白いという感じである。髪も元々短くしていたものが何ヶ月も切らずにいたよう感じで、かなり首に伸びた髪がかかり、前髪は目をほとんど隠しているような状態だ。そのせいで余計に女性っぽく見えた。バーテンは口には出さなかったものの、手に持っていた洋酒を棚にしまい、そしてこの酔払いをどうしようかと思案しはじめているようだった。

「十八です、そして男です。だから全く可愛くないですよ、店内が暗いからそう見えるだけです」
「ふうん、もっと若く見えるけどねぇ。こんなとこにいたらいけない位の年齢に見えちゃうけどっ。あと本当にかわいいと思うよっ、いや綺麗っていうほうが合ってるか」

 そう言うと、男は立ち上がってバーテンの顔を覗き込んできた。

「どう? このあと俺と一緒に遊ばない?」

 男は笑いながら定まらない手つきでバーテンの銀色のような色をした伸びっぱなしの髪を触ろうとしてきた。触られそうになる寸前でさっと交わすと、まだ洗っていなかったグラスを手にとる。かわされて少しムッとした男はまた口説き始めた。それは本気で言っているのか、からかっているのかバーテンには分らなかった。けれどもどちらにしたって、嫌な客であることには変わりはない。

「遠慮しておきます、朝方までここで仕事なんで」

 あまりにしつこい誘いを軽くため息をついてから素っ気無く答えた。そして次第に込み上げてくる怒りの感情を抑えながらグラスを洗いだした。

「なんだ、つめてぇな。俺がせっかく誘ってやってるのにさ、もっと愛想よくしろよ。それに綺麗な顔してんのになんだよ、そのつまんなさそーな顔はよ。自分がちょっと綺麗だからってお高くとまってんのか?」

 どんどん男の語気が強くなる。それでも目を合わせず、返事をしないでいるバーテンに対してついに客は怒り出した。

「なぁ、そうなのかよっ!」

 突然怒鳴ったかとおもうと、客はカウンターを思い切り叩き、カウンター内へと無断で入ってくる。そして唐突にバーテンの胸倉を掴むと、酒臭い息を顔に吹きかけてきた。バーテンは壁側のほうへ顔を背けて一瞬息を止める。そっぽを向かれた客は彼の拒絶反応を見て、胸ぐらを掴んだまま軽々と持ち上げた。数秒ほど足が宙を舞った。客のガタイがいいせいもあるが、この店の若いバーテンはとても細い。

「離してください」

 強めの口調と同時に足が床につく。瞬間的にバーテンは腰を落として両膝を少し曲げると掴んだ客の手に力をこめた。目つきは悪く、酔払いと同じくらい沸点が低そうだった。すぐにでも殴りかかりそうな気配をだしている。だが客とバーテンという関係を気にしているのか、大ごとにはしたくない様子であった。

「落ち着いてください。酔い覚ましにコーヒーでもお入れしますか」
「コーヒーなんてどうでもいいんだよっ、俺が誘ってやってんのになんだよその態度は! 馬鹿にしてんのか? 俺を馬鹿にしてんだろ! いいか、俺はお前みたいなガキよりもずっと年上でちゃんとした会社員なんだ、てめぇみたいにろくに勉強もしないでこんなちんけな店で酒だしてる奴よりも遥かにえらいんだよ。その俺の誘いを断って、人を見下したような顔しやがっ……がっ!」

 客は最後まで言い終える前に変な声を出すと、その場でしゃがみ込んだ。

「おい、ちんけな店とはなんだ。てめぇ何言ったかわかってんのか。ふざけんなよ、あぁ!? てめーみたいな人間が一番ちんけだろーが、このクソがっ!」
「うぐっ!」

 若いバーテンは先程までの口調を180度変えて物凄い形相で切れていた。もう自身の立場は関係ないという風だった。客に胸倉を掴まれたところまではまだ大丈夫だった。彼自身をなじってきたときも、まだ、平静を装うことができた。だが店のことを馬鹿にされた途端、若いバーテンの怒りの感情は一気に外に噴出してしまっていた。
 相手の顔に思い切り頭突きをして、しゃがみ込んだところで、すかさずわき腹に蹴りをいれた。

「てめぇみたいな奴は出て行け、そして二度と来るな! さっさと失せやがれ」

 男は頭突きと蹴りを受けて、先ほどまでの勢いははがれ落ち、変な悲鳴を上げながら店の出口へと急いで向っていく。丁度その時、店のドアが開いてここのマスターにぶつかりながら男は逃げていった。

「おい、何があったんだ!? 慧牙」
「あ……、すみませんついカッとなって」

 白髪交じりの五十歳近いであろうと思われるマスターは険しい顔つきで、スーパーの袋をカウンターに乱暴に置くと、気まずそうに突っ立っている慧牙と呼ばれた若いバーテンの方へと大股で近づいていく。慧牙は自然と視線を床へと向けた。

「今出て行った客に何をしたんだ?」
「あいつが酔って絡んできたんです。それで、この店をちんけな店って言いやがってそれで……」
「殴ったのか?」
「殴ってません、ちょっと頭突き食らわして、蹴りを一発入れただけです」

 慧牙の説明を聞いて、マスターは途端に手を額に当てると、がっくりと肩を落とした。この若いバーテンに対して、相当あきれているようであった。

「……何考えているんだ、慧牙。お前は短気だから、客には絶対に手を出すなよってあれほど言ってあっただろう。どうして俺の言う事が聞けないんだ」

 声に力がなかった。怒鳴られると思っていた慧牙は僅かに拍子抜けして、そしてそんな態度の彼に対して動揺をおぼえる。マスターはあきれ果てたままの状態でカウンターの椅子に腰掛けると、両肘をついて顔を覆ってしまった。その様子に初めて、自分のした事の重大さに気づいた。

「最初は客に手を出すつもりはなかったんです。けれど、さっきの客は相当酔っていて性質の悪い奴だったから……。マスター、本当にすみません」

 うな垂れているマスターに対して何度も頭を下げる。けれども彼は全く何も話さず、ただ両手で顔を覆って何も話そうとしなかった。

「もうしません、すみませんでした」

 傍に近寄って再度、真剣に謝る。あの客に申し訳ないとは思わなかったけれど、この店で暴力を振るってしまったことは心から反省していた。うな垂れているマスターの様子を伺っていると、覆っていた手が静かに離れた。そして、ズボンのポケットに手を突っ込むと煙草を取り出して口に咥える。

「マスター、ほんとにもうしませんから」
「……慧牙、悪いが今日限りで店を辞めてもらう」
「えっ」

 驚きのあまり、慧牙は固まった。

「お前が店で客と揉めたのはこれまでに何度もあった。けれど、今までは一度も手を出すことはなかった。だが今回は違う、お前は客に暴力を振るった。これは絶対にあってはならんことだ。いや、遅れてきた俺も悪い。まだ見習いのお前を一人で店をまかせてしまったからな。気づくべきだったんだ。これまで暴力を振るわなかったのは俺がいたからだと、俺がこれまで何度か寸でで止めてきたから大事にはならなかった。ちょっとでもお前から目を離した俺の責任だが、すまない。もう、お前の面倒は見切れない。今日限りで辞めてくれ」

 マスターは慧牙の目を見ず、ただ黒いカウンターに置かれた灰皿を見つめながら疲れたような様子で言った。そして言い終えると煙草に火をつけ、強く吸うと紫煙を一気に周囲に出した。周囲が白くなるのと同時に慧牙の頭の中も真っ白になった。まさか、たった一度の暴力で店をクビになるとは思いもしていない慧牙だった。

「ちょっ、待ってください。俺もう本当にこの先客に手を出しませんから。それにあの客は相当酔っていたから、翌日にはどこでやられたかも忘れてますよ、多分……」
「そういう問題じゃない!」

 慧牙の言った言葉が癇に障ったのか、突然大声でマスターは一喝すると、ここでようやく慧牙のほうに顔を向けた。慧牙を睨みつけている。

「慧牙、お前はこの仕事を馬鹿にしている。そんな甘い考えでこの店の仕事はまかせられん、お前はクビだ。とっとと目の前から消えろ!」
「なんだよ、元はと言えばあの客が悪いんだっ。向こうから突っかかってきたんだよ。それなのになんで俺がこんな目に合わなければならないんだよ、もう暴力は振るわないって言ってんだろが」

「うるさい、とにかくお前はクビだ。早くここから消えろ、そしてもう二度と来るな」
「わかったよ、誰がこんな店で働くか。もうこねぇよっ、マスターも俺のこと馬鹿にしやがって、ふざけんな!」

 慧牙は怒りに身を任せてカウンターを拳で叩くと、カウンターの下に置いてあった私物を取りだした。そしてマスターに負けないくらいの怒りの形相で睨み返し、着替えをしないまま店の外へと飛び出す。

「そういうところがダメなんだ」

 店を出る瞬間、マスターの言葉が慧牙の背中に鋭い矢のように突き刺さった。誰かに頼って生きるのが嫌で嫌で仕方なかった。
 生まれつき体力がなく病気がちだった。しかも生まれつき髪が銀色で肌の色も極端に白い。眉や睫、体毛も髪の毛まではいかないがグレーがかった銀色で、おまけに瞳は外人みたいに水色だ。慧牙だけがこのような容姿で、おまけに体も弱かった。そのせいもあって慧牙は小さい頃から常に誰かの世話になっていた。世話をしてくれたのが家族だったなら、こんな風に思わなかったのかもしれない。けれども慧牙がまだ幼かった時に両親は他界した。

 ――それからか? 俺がこんな性格になったのは。

 高校卒業してすぐに家を出て、仕事を探した。自分の容姿があまり目立たない所。慧牙は夜の世界に行った。夜の世界といっても小さなバーのバーテンだ。とにかく薄暗い店内が自分の見られたくない部分を隠してくれると思ったからであった。働くようになってからは、あまり体調が悪くなることもなかった。昼間寝て、夕方から起き出して朝方までの仕事。休みの日はほとんど家からでずに寝てばかりだった。自炊もほとんどしない生活なのに、以前の様に不思議と体を壊さなかった。俺はこの世界で生きていこうと思ったんだ。それなのにクビになるなんて。まぁ、いい。仕事は幾らでもあるだろう、また違う店を探せばいいだけの話だ。悔しさと怒りが混ぜこぜになり、慧牙は寒い夜を早足で去っていった。
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