Existence

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第二十四話 小憩

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 冷たく、強い風が絶えず吹きつけてきて、自然と体が後方へと押しやられる。

 飛び立ってから数分もしないうちに、顔は寒さによる痛みを訴えて始め、しっかりと着込んだはずの防寒着も虚しく体の熱は急速に奪われていった。

 後ろにいるレイヴィルは慣れた手つきで時折、手綱を動かしながら黒鳥を操っていた。

 前に乗っている慧牙はレイヴィルにとって黒鳥を操るのに邪魔ではないようだった。一方、飛竜に乗ったイノアとターヴィ、そしてセヴェリは慧牙達の後方を飛んでいるのか、姿は見えない。

 途中、イノア達は本当について来ているのかと不安になり、慧牙は絶えず当たり続ける風圧を感じながらも姿勢を右側へと傾けて後方を確認してみた。すると右後方に一匹の飛竜の姿が視界に入った。その背に乗っているのはイノアだった。同じように今度は左のほうへと姿勢を傾けてみる。だが左側にはターヴィだけで、セヴェリの姿は見えなかった。

「おい、セヴェリの姿だけ見えねぇけど」

「セヴェリは俺達の真後ろだ」

 レイヴィルに教えられて、慧牙は真後ろを確認したかったがすぐ後ろにはレイヴィルがおり、セヴェリの姿だけは確認することができない。他の兵士達に比べると随分と頼りない体つきで、慧牙とさほど変わらない身長。見かけもそうだが、性格も気弱だった。

 この旅がどの程度危険なものか慧牙には分らないが、そんなセヴェリも一緒についてくるということになんとなく不安を覚えていた。

「あとどの位飛ぶんだ?」

「日が暮れる前には着く予定だ」

「暮れる!? 途中で休憩とかすんだろ!?」

「そんな時間はない。ピズ・コ・サイまでは一度も休憩はしない」

 最悪だった。

 あまりにも最悪過ぎて、もう何も言えなかった。

 初めてこの黒鳥に乗った時よりも今回の飛行スピードは速かった。上空の気流に乗ったのか、余り羽ばたくことはなく、真っ直ぐに空を切り裂いて飛び続けている。振動は飛竜よりも少ないが、その分受ける風はとてつもなかった。

 もう二度とこんな生き物の背になど乗るものかと慧牙は固く心に誓う。既にこんなにも寒いのに、このような状態が夕方近くまで続くのかと思うと、途中で絶対に凍死すると考えて慧牙の顔色が更に悪くなる。今すぐにでもレイヴィルに無理だと訴えて、この巨大な黒鳥の背から降ろして欲しかった。

「!?」

「これを顔に巻きつけておけ。寒いのだろう?」

 突然、顔に布のようなものを当てられて慧牙は驚いた。

 黒い毛糸で編まれたマフラーのようなものだった。レイヴィルの手がその黒い織物から離れた途端、風で飛ばされそうになり慧牙は咄嗟に手で押さえつける。

 寒いという単語は一度も発していなかったにも関わらず、彼は慧牙が寒がっている事に気がついたのだろうか。それとも身体の震えが背を通して伝わったのか。

 レイヴィルの好意を素直に受け取ることに対して抵抗はあったが、この寒さには耐えられない。慧牙は難しい顔をしながらもその長細い織物を目だけ残して顔に巻きつけた。

 よくよく考えてみれば、レイヴィルからは勘に触るような言葉を何度も吐かれたが、これまでに何度か助けられた事を思い出す。

 島で襲ってきた兵士から救ってくれたこと。夜中に高熱と持病の喘息を起こして、苦しんでいた時にはレイヴィルが来てくれた。

 あの時、誰も気がつかなければ慧牙は今こうしてここにはいなかったかもしれない。レイヴィルのこれまでのそんな行動を思い返すと、妙な気分になった。でもどこか納得できない、素直に助けてもらったことに感謝できないのだった。

 ふいに蘇るあの時の言葉が頭の中を駆け巡った。

 "殺してやりたい程憎んでいる"、そうレイヴィルに言われた。

 会って間もない慧牙を殺したい程憎んでいる、そこまで憎まれるほどレイヴィルに何かをした覚えはない。レイヴィルは慧牙を神の子だと思い込んでいる。そして長い間、フレア族の神である女王シューリアを憎んできたのだろう。その恨みが突然現れた慧牙に対して、一斉に牙を剥いたのであった。

 はっきり言って甚だしいほどの迷惑だった。

 勝手に思い込んで、勝手に憎しみをぶつけてくる。慧牙は自分のこれまでの言動もあまり行儀のいいものではなかったと分ってはいたが、それでも突然他人からそのような事を言われたのには堪えた。そしてそれ以上に、ズメウに来た事で死んでしまった兵士達がいるという事実は更に追い討ちをかける。慧牙はそこまで考えて、すぐにその考えを打ち消した。

 どうにもならない、起ってしまったことはもう元には戻せない…。レイヴィルが殺したい程、俺を憎んでいるのなら…、それでも構わない。

 ふとその時、後ろにいたレイヴィルの身体が慧牙に接近してきた事に気がついた。先ほどまでは背中がレイヴィルに当たるか当たらないか位の距離であったが、今は完全にレイヴィルの身体が慧牙の背中に密着していた。

「…てめぇ、マジで何考えてんのかわかんねぇ」

「何か言ったか?」

「なんでもない!」

 憎んでるならもっと、ぞんざいに扱えよ。なんなんだよ、この中途半端な親切は…。

 そういえば初めてこの黒鳥に乗せられた時も、こんな感じでくっついていたと思い出す。あの時も寒さを和らげる為にこうしていたのだろうか。

「こいつって、確かセリって名前だったか?」

 そういえばこの巨大な黒鳥のことをレイヴィルがセリと呼んでいたことを思い出すと、慧牙は何気なく訪ねた。

「あぁ、でもなぜそれを知っている?」

 やや間をおいて、レイヴィルは不機嫌そうな声で聞き返してくる。

「ズメウに初めて来たときに、あんたが言ってただろ? セリって」

「そういう事には記憶力がいいらしいな」

「どういう意味だよ」

 後ろは振り返らずに慧牙は顎を少しだけ上げて、凄むような声で言った。

「そのままの意味だ、大したことではない事に関しては記憶力はいいらしいが、自分が神の子であるということは覚えていないのだろう?」

「はっ!? 覚えてないって、俺は人間として育ったんだよ。……って、俺は人間だ」

 今までに何度、神の子だと言われただろう。

 その度に反論してもレイヴィルはこちらの話を聞こうともしない。一方的に決め付けて、自分自身以外の言葉は全く意に介さない。

 黒鳥の名前の話からなぜ突然、話の矛先がこちらに向いてくるのか。奇襲のショックから、慧牙はもう神の子ではなくて普通の人間だ、と言うのを避けていた。思わず口に出そうになる言葉を意識して抑えていたが、レイヴィルという男は執拗に神経を逆なでするような事を言ってくる。

「シューリアが我が子に対して自身の一族の事を隠すのはおかしい。向こうの世界で人間の姿で育てられたようだが、だからと言ってそんな重要な事を隠すとは考えられん。ということはお前が忘れているだけではないのか?」

「どこをどうすればそんな理屈が浮かんでくるんだ! 俺の母親は元々病弱で、俺が八歳の時に病気で死んだんだ! …つーかさ、一体何なんだよ。てめぇが言ってるのって、俺の母親が仮にもしそのドラゴンっていう女王だったとして、てめぇはそのドラゴンを憎んでるんだろ!? ってことは俺の母親を憎んでるってことだよな!?」

「……」

 死んだ母親も貶されているような気がしてきて、それまで抑えていた感情が一気に昂ぶる。これまでの怒りとは何かが違うことに自身も気づきながらも、レイヴィルに怒りをぶつけた。いつもならすぐに言い返してくるレイヴィルの言葉はない。さすがに彼自身も言いすぎたと感じたのだろうか。

「なんでそんなに憎んでるのか知らねぇけど、自分の親を憎んでるなんて言われて、平気な子供なんているわけねぇだろ。それに殺してやりたいほどなんて言われて、俺だけならいいけど、それって俺の母親もってことだろ!? ふざけんな! ほんとにもういい加減にしてくれよ! どうして俺の言ってることを信じてくれないんだ!?」

 話し始めて初めて気がつく。これまでレイヴィルは何度も神を憎むような言葉を言ってきた。今までは神と自分の母親をどうしてもイコールで繋げることはできなかったけれど、繋げて考えるとレイヴィルは慧牙の母親を憎んでいる、ということになる。そんな言葉を聞いて不快にならない子供はいないだろう。慧牙も同じ気分になっていた。

「お前の話を信じたいとは思う。多分、ケイガの言っている事に嘘はないのだろう」

「だったら!」

 レイヴィルの顔を見ようと、身体ごと振り返る。金色の瞳が真っ直ぐにこちらを見ていた。自分の言ってることを信じてもらいたかった、そのきっかけを逃したくない。

「だが足にある刻印はどう考えてもシューリアの子であることを証明している。それは紛れもない事実なんだ。いいだろう、シューリアは違う世界で人間として暮らし、ケイガを生んだのだろう。そして、その事実は子供には教えなかったのだな」

「……だから、俺は」

 やはりどんなに説明しても信じてくれないのだろうか。それまでの怒りが急激に落胆へと変わっていく。

「族長に会えば何か分かるかもしれない。それまでは悪いが付き合ってもらうぞ」

 慧牙の言っていることは理解している、だけどレイヴィルもまた引けない事情があるのだった。どうして自分の足にそのような刻印ができてしまったのか。慧牙にしてみればこれは絶対に何かの間違いだと信じたかった。どう考えてもおかしかった、レイヴィルの胸にある刻印と、慧牙の足に出来た刻印。それは二人が互いに相手の伴侶であることを示している。そのことがまず一番おかしかった。

「……わかったよ」

 心から納得はできない、だけどレイヴィルの言葉も簡単に切り捨てることもできず、慧牙は渋々返事を返す。

 レイヴィルという人物がいまいち掴めなかった。さり気なく気遣いを見せることもあれば、話をするとこちらの怒りをわざと引き出すかのような事を言ってくる。一瞬でもやさしいところもあるんだなと思った自分が馬鹿だったと慧牙は思いながら、目の前に広がる白い世界に視線を向けた。冷たい風が容赦なく顔にぶつかってきて、無意識に目を細める。

「耐えられなくなったら言え」

「はっ?」

 風の音で聞き取れなかった。先ほどまでは慧牙もレイヴィルもかなり大きな声で話をしていあのだが、今聞こえてきたレイヴィルの言葉は小さく、慧牙は思わず振り返る。

「途中で休憩することは予定に入れていなかったが、あまりに辛い時は俺に言えと言ったんだ」

「誰がするか、ちょっと寒いくらい平気だ」

 なんだまた突然やさしくなりやがって。俺はお前が嫌いんだよ、誰が好き好んで嫌いな奴にお願いしなきゃなんねーんだ。

 あからさまに不機嫌そうな顔つきになる。どうしてもレイヴィルと話をするとイライラが募ってばかりだった。

「そうか」

「あぁそうだよ!」

 レイヴィルに啖呵を切ってから間もなく、慧牙を乗せた黒鳥と飛竜は一度地上に降り立った。慧牙は一度も弱音を吐かなかったが、手綱を握っていた手が寒さで悴んで離れてしまったのだった。その様子にすぐ気がついたレイヴィルは一度黒鳥を地上に降ろすと、紐でレイヴィルと慧牙を強く結ぶと何重にも重ねた毛皮を慧牙に着せたのだった。おかげで途中からレイヴィルは背中に大きな荷物を背負ったような状態で再び飛行を開始した。

 ◇

 ズメウの駐屯地を出発してから切り立った山々の上空を通り、また何もない雪原が広がる大地を何時間も飛び続ける。そして再び新たな山々を越えた。

「着いたぞ」

 日が暮れる前、ほぼ一日かけてたどり着いたアリーシェの南に位置するピズ・コ・サイという地域。レイヴィルの声でようやく目的地に辿り着いたことを知った慧牙はレイヴィルの背中から顔をひょいと前方に出した。その途端、慧牙は目の前に広がる光景に目を奪われた。

 これまで見てきた石で造られた円形の小屋と、広い雪原位しか見るものがなかったズメウの駐屯地と違って、そこはちゃんとした町並みが広がっていた。三角屋根の家々が立ち並び、その家にはどれも茶色い瓦のような屋根がつけられている。周囲には町を取り囲むように幾つもの細長い三角錐の奇妙な塔が建てられていた。上空からでは気づかなかったが、町の至る所に白い枝の木々も見られた。このルアグアーレという世界に来て、やっと人間の住んでいる場所に来れたと何やら感慨深い気持ちになった。

 町のすぐ近くの何もない大地に黒鳥と三匹の飛竜が降り立った。慧牙は黒鳥からすぐに飛び降りると盛大に伸びをした。長時間座っていたせいで腰とお尻が痛む。思わず腰を思い切り拳で何度か強く叩いた。ずっと羽織っていた何枚もの重たい毛皮を脱ぎ捨てて、改めて久しぶりに見る町を眺めた。

「こんな町があったんだな、安心した」

 やっと文明に触れることができた慧牙は独り言のように呟く。リリー島では要塞しかなく、ズメウの駐屯地も兵士達はたくさんいたが景色は殺風景で円形の味気ない白い小屋がただ並んでいるだけであった。人の暮らしが全く見えてこない世界に長く居た慧牙にとって、これは大きな一歩であった。

「私達を未開人か何かだと思っていたのですか? このような町はまだ他にもありますよ。アデレ村はここよりももっとずっと華やかな町ですし」

「そうなのか、俺はてっきりあんた達はアマゾンとかの奥地に住んでいるような原住民のように思ってた」

「あまぞん?」

「いや、なんでもない」

 イノアに聞き返されて、慌てて返事をする。イノアや他のフレア族が聞いても理解できないだろうが、慧牙の住んでいた世界から見るとルアグアーレはあまりにも文明が遅れているからだった。その事を馬鹿にする気など一切なかったけれど、慧牙の思っていた事を説明したらイノアは不快に思うかもしれないと判断したのだった。

「長時間の飛行大変だったでしょう? それ、持ちますよ」

「ん、あぁ。ありがとう」

 何枚もの重たい毛皮を抱えていた慧牙の手から、セヴェリが毛皮を受け取るとそれらを自分の背負っていた大きなリュックにしまい込む。

 レイヴィル達が黒鳥と飛竜の背に乗せていた荷を降ろすと、今まで乗っていた黒鳥が勢いよく再び舞い上がった。それに続いて飛竜達も翼を大きく動かし始める。どうやら黒鳥達は自分達の主人をここにおいて、元の場所に戻るようであった。

「よし、じゃあ俺ちょっとソリの準備してくる。リーダー達は酒場で待っててくれ」

「頼んだぞ」

 飛竜達が空に舞い上がると、ターヴィが元気よく一人で町の方へと歩いていった。

「今日はここに泊まるんだろ?」

 慧牙もセヴェリから荷物を受け取りそれを肩に抱えると、イノアに向って尋ねた。

「そうしたいのは山々なんですが、ソリの準備が出来次第すぐにまた出発です」

「えっ……だってもう日が暮れるだろう? 夜に出発って危ないんじゃないか?」

 冗談じゃないと思った。朝早くから日暮れまでずっとこの寒い世界の空を飛んできた。休憩と言えるようなものは一切なく、途中で用を足すために何度か地上には降りたが、用が済めばすぐに移動をしてきたのだ。ずっと黒鳥の背に乗っているだけではあったが、慧牙はかなりの疲労を感じていた。それに夜になればもっと気温は低くなるだろう。この世界に温度計なんてものは存在していないが、確実に零下二十度位はいってるだろうと慧牙は思っていた。夜になればもっと気温は下がるはずだ。

「確かに夜の移動は危険を伴いますが、私達は一刻でも早くアデレ村に行かなければなりません。大丈夫ですよ、夜通し移動するわけではありませんから」

「空を長時間飛んですぐにソリって、お前達だって疲れるだろ」

 自身もそうだったが、当然イノア達だって疲れているはずだ。慧牙とは違いこの極寒の土地に順応しているとはいえ、世界は違えど同じ人間だ。イノアの言葉に慧牙はセヴェリの様子を伺う。けれどもセヴェリもイノアやレイヴィルと同じようにごく当たり前のような表情で、視線が合った慧牙を見て僅かに首を傾げていた。

「時間がない、行くぞ。俺達は遊びにきたわけではない。それにここで少し休憩もとれるのだから文句を言うな」

 渋っている様子の慧牙に冷たく言い放つと、レイヴィルは町の方へと一人でさっさと歩き出した。

「マジかよ……」

 町の中はまるで絵本の世界から抜け出してきたような光景だった。白い世界に茶色の三角屋根に白い外壁の小さなかわいらしい家々。町の所々にはこれまた雪と同じく真っ白い木々が生えていた。白樺の木のようでもあるが、よく見ると葉も白い。こんな木を見たのは初めてだった。改めてここが自分のいた地球ではないと感じる。町を行きかう人々も、これまで男しか見ていなかったが、ここで初めて女性の姿も見ることができた。

 ここでこの町の人達はどんな仕事をして暮らしているのか。慧牙には想像もつかなかった。周りは何もない、雪と氷だけの世界。こんな寒さでは作物を植えることも無理だろう。だとすると、ここでの主な食べ物は狩猟した動物達なのだろうか。ズメウにいた時、ほとんどの食事はチーズ味の肉入りスープと、チーズの塊をもらっていた。パンや米などの穀物は一切出てこなかった事を思い出す。チーズは好きな部類の食べ物ではあったけど、ここに来てから毎日チーズで慧牙は黄色い物体が嫌いになりかけていた。

「米くいてーな」

 誰にも聞こえないようにボソリと呟く。全てが自分のいた世界とは違う、食事も服装も寝床も他にもいろいろなもの、全部が違いすぎた。

 町の中を歩いていると、外から来た人間が珍しいのか皆一様にこちらを見てきた。この町の住人達と変わらない足首まである長い毛皮の外套を着ているが、ズメウの駐屯地と同じように皆黒い髪で、顔立ちを見ても慧牙と一緒にいるレイヴィル達と同じようだ。イノアは他のフレア族とは違い黒っぽい灰色の髪だが、慧牙だけが銀髪であり、それがこの町の住人にとっては珍しいのだろうかと感じた。

 町の人達の中にはレイヴィルを見かけると慌ててお辞儀をする者や、イノアやセヴェリを見て軽く手を上げる者達もいる。けれども決して声をかけてくる者はいなかった。レイヴィル達の事は知っているが、一歩距離を置いている感じだった。

 とある建物の前でやってきたレイヴィルは、看板など何もないその建物の中に当たり前のように入っていった。続いて慧牙もイノアに促されてその中へと足を踏み入れる。入った途端、強烈な酒の匂いと嫌いになりかけているチーズの匂いが鼻を刺激した。

 建物内は薄暗く、かなり混んでいるようだった。大勢の男達が酒の飲み、盛大な笑い声をたてたり話に興じている。まだ夜にもなっていない、夕暮れ時から大の大人達がこんなところで酒を飲んでいた。慧牙達は店内奥の空いているテーブルに着くと、すぐに中年の女性が注文を聞きに来た。

「リーラと何品か適当に料理をお願いします」

 通路側の席についたセヴェリがすぐに注文をだした。

「ケイガ、喉の調子はどうですか?」

「え? 喉?」

 店内の雰囲気を物珍しそうに見ていた時、ふいにイノアに話しかけられて慧牙は驚いたような声を上げた。

「ズメウに来た夜に呼吸が出来なくて苦しんでいたでしょう? あの時、一応治療はしましたがその後はどうですか?」

「あぁ、喘息のことか。大丈夫、あれ以来出てないから」

「ぜんそく? というのですか?」

 すっかり忘れいたことだった。そういえばイノアに治療してもらってから喘息の発作が収まっていた。それ以来発作の兆候のようなものも全く出ていない。苦しい時は嫌だと思っていた感情も、苦しみが消えてしまえばその事さえも忘れてしまう。イノアに聞かれて初めて持病のことを思い出していた。

「そうだよ。でももう平気だから、イノアの力で完治したのかもしれない。ほんと、あれから全然平気なんだ、ありがとな」

「それならよかった。ですが、また苦しくなったらすぐに教えてくださいね。慧牙に何かあっては大変ですから」

「なんでだよ」

 イノアは自分の身体を心配して言っている。それは分っているし、心配されてしまうほど苦しんでいたのも確かだった。けれども慧牙にしてみると、そのイノアのやさしさが僅かに鬱陶しく感じられる。そんな気持ちが口調に現れた。人から心配される、ということがどうにも慧牙にとっては不快でならないのだ。

「ここで直接的な言葉は出せませんが、慧牙は私達フレア族にとって最も大事な存在なのです」

 大事って、ならもし俺が神の子だとかじゃなければ心配しないってことか? いや違うな。イノアはそうじゃなかったとしても、心配するような性格だ。でも、いいから放っておいてくれ。

「大事って、俺はそんなたいそうなもんじゃねぇよ。それに自分の面倒は自分で見るからいい」

「けれどあの発作が起きても、自力で治すことはできないでしょう?」

「治せねぇけど、軽いものだったら薬なくても大人しくしてりゃよくなるし。大丈夫だよ、今のところ全然そんな兆候ねぇし」

「ならいいですけど。ですが少しでもおかしいと感じたらすぐに教えてください」

「…わかったよ」

 正直、頼むからそんなに心配しないで欲しい。慧牙は少しばかりふてくされたように返事をすると、肘をテーブルにつけて顎を手にのせて再び店内の様子を伺い始めた。少しして、女性が木でできた大きなカップを両手で幾つも持って運んできた。それに続いて料理も次々と運ばれてくる。どれもが皿いっぱいに山盛りに盛られている。三皿出てきた料理はどれもがこってりとした肉料理で、大きな木製のカップには並々と黒っぽい酒が注がれていた。「頂きましょうか」というイノアの声で、皆が思い思いに食事を始めた。

 どろどろとした赤いソースにまみれた何の肉だか想像もつかない硬そうな塊を取り皿に取る。フォークで勢いよく挿すと、そのままかぶりついた。想像通りの脂っこい料理だった。脂が多いせいか、口に入れた途端慧牙は顔をしかめた。肉は好きだし脂っこいものも結構好きなほうだが、これは予想を超える脂っこさだった。ズメウの駐屯地で飲んでいたスープもチーズがたくさん入った濃いものであったし、固形の食べ物もチーズの塊ばかりで途中から頭痛を覚えていた。フレア族というのは極寒の地に住んでいる為なのか、高カロリーのものを好んで食べるのだろうか。

 けれども空腹には耐えられず、今日丸一日何も食べていなかった慧牙はひどい脂っこさに眩暈を覚えながらも食べていた。セヴェリやイノアも今日は何も食べていなかったのだろうか、黙々と食べている。ただ一人、レイヴィルだけは酒である黒いリーラという飲み物ばかりを飲んでいた。

「食べないのか?」

 そういえば酒場に入ってからレイヴィルは一言も発していないことに気づいて、何気なく声をかける。慧牙にしてみればレイヴィルは口を開けば勘に触ることしか言わないから、今みたいにずっと無口でいてくれた方が精神衛生上よかったが、全く話さないというのも気になった。レイヴィルはリーラを飲みながら何か考え事をしているようにも見える。

「俺は酒さえあればいい。お前は今のうちに食えるだけ食っておけ。それでなくても細い身体なんだからな」

 向かいに座っている慧牙に一瞥をくれて、レイヴィルはまた黒い液体を一口飲むと何食わぬ顔で言った。

「うるせぇな、好きでこんな体になってるわけじゃねぇんだよ。食っても太らない体質なんだ」

「それでも身体を鍛えることは出来るだろう? 筋肉もあまりないし、これまで怠けた生活でも送ってきたんだろう」

「てめぇに何がわかるんだよ! だからこれは体質だっての、身体鍛えてもあんま筋肉つかなかったし」

 やはり話しかけなければよかった。昼間に慧牙の言葉に多少なりとも反省したのかと思いきや、またしてもレヴィルは腹の立つことを口にする。

 怠けた覚えなどこれまで一度もなかった、とは言い切れない。生まれた時から身体が弱く、喘息も持っていた為、学生時代はいつも発作を起こしたりして学校を休むことは多かった。自分でも身体の細さは気になっており、鍛えようとしたこともあったがその度に熱が出たりして思うようにはいかなかった。

 次第に身体を鍛えることはあきらめて、全部身体が弱いせいだと思い込んでいた節はある。勉強もいつも学校を休んでばかりだったから、次第に追いつけなくなり、頑張ってもすぐに身体を壊してしまい、また引き離されるんだと思うと勉強に対する意欲も湧かなかった。

「言い訳はいいから、早く食え」

「でめぇが変なことぬかすからだろ!」

 ふっかけてきて、こちらが怒り出すとすぐに切り捨てる。慧牙はそんなレイヴィルに耐えられなくなり、テーブルを強く両手で叩くと悠々とエールを飲み続けているレイヴィルを睨みつけた。

「あまり大声を出さないでください。周りの客達が見てますよ」

「くそ……、話しかけるんじゃなかった」

 レイヴィルの横に座っていたイノアに注意されて、慧牙はまだレイヴィルを睨みつけたまま腰を降ろすと、肘をついて壁側に顔を向けた。セヴェリは困ったような様子で、そっぽを向いてしまった慧牙に話しかけるべきかオロオロしていた。

「お待たせ! ソリの調達できたからもういつでも出発できるぞ」

 その時、ソリの手配を終えたターヴィが酒場へと機嫌の良さそうな顔で入ってきた。少し余裕のあった二人用の長椅子に無理矢理入ってくると、セヴェリの体が自然と慧牙を押した。

「ターヴィ、お前も食っておけ。この先暫くはまともな食事が出来ないのだからな」

「そうだな、でも俺は酒だけあれば満足だ。おーい、おばちゃんリーラだ! リーラ三杯持ってきて!」

 カウンターの奥にいた中年の女性に元気よく声をかけると、背に掛けていた剣を外してテーブルの横に立てかける。

 ターヴィは給仕の女性が持ってきたリーラを待ってましたと言わんばかりに受け取ると、一気に飲み干した。そして脂の乗りに乗った肉料理をつまみに立て続けに三杯飲み干してしまった。

 外に出ると既に辺りは暗くなっていた。家々の壁に取り付けられた光る石だけがぼんやりと周囲を照らし出し、辺りは幻想的な空気に包まれていた。酒場で充分に暖まったはずの慧牙であったが、外に出た途端に寒さを感じて身を震わせる。

「寒い! さっきよりもっと寒くなってるじゃねぇか!」

「アリーシェ大陸の中でも二番目に寒い地域ですからね。ズメウはまだ暖かいほうなんですよ」

 急いで厚手の手袋を履きながら言うと、その様子を見ていたイノアが苦笑しながら説明してきた。

「ソリって、犬ぞりなんだろ? 五人もいるんじゃ、もの凄い数の犬を連れてくのか」

「犬? 犬なんて長距離の移動には使えませんよ。大陸の端から端まで移動するのですから」

「じゃあ何にソリを引かせるんだよ」

「あれですよ」

 酒場から再び来た道を戻りながら、イノアは町の出口の方向を指差す。丁度三角錐の塔が建っているすぐそばに大きな荷車のようなものと、馬らしき動物が何頭かいるのが見えた。

「馬? でも、……あれ角があるぞ」

「ユニコーンです、ユニコーンにソリを引いてもらうんですよ」

 頭がクラッとして、慧牙は立ち止まる。巨大な黒鳥、飛竜、その次はユニコーン。なんだか本当にこの世界についていけなかった。この先もまた現実ではあり得ない生き物が出てくるのだろうか。慧牙はそんなことを考えながら、角の生えた真っ白い馬、ユニコーンを呆然と眺めていた。

「ユニコーンって……だよな、そうだよな。ここはファンタジーな世界だったな」

「さぁ、急ぎましょうか。少し酒場で長居してしまったことですし」

 近くに近寄るとユニコーンは馬と変わりない姿をしていた。角以外を覗いては。二頭のユニコーンは大きな荷車に繋がれており、もう一頭は何も繋がれてはいなかった。レイヴィルはソリの番をしていた商人らしき男性に懐からお金を渡すと、そのユニコーンに跨り町の外へと走り出した。

 そんな様子を眺めながらも、慧牙とイノア達は荷物を積み終えるとソリに乗り込んだ。屋根はついておらず、木製の大きなソリは大人が五、六人位は余裕で乗れそうな程の広さがある。車輪の変わりに長細い板が取り付けられておて、見た目は大きなスキー板のようだった。スキーを履いた木の足に大きな箱が取り付けられたような乗り物。ターヴィがユニコーンを操るらしく、箱の前側に取りつけられた席につくと手綱を握った。

「出発するぞ?」

「お願いします」

 ターヴィは後ろにいるイノアに声をかけると、威勢のいい掛け声と共に手に持っていた鞭でユニコーンの臀部を数度叩きつける。その途端ユニコーンは嘶きを上げて歩き出した。

「あったけぇ」

 屋根のない向きだしのソリでこれから何日もかけて大陸を移動する。どう考えても途中で絶対凍死するなと思っていた慧牙は、驚きの声を上げた。ソリの中は大きな毛皮で敷き詰められていたが、そこから熱が伝わってきて思わず手袋を脱いで、手を直に床部分に当てていた。

「ソリの下には熱を発する石を敷いてあるんです」

「最初っからこれで行けばよかったんじゃないか?」

 これなら凍死せずに済むと安心すると同時に、慧牙は何故初めからこれで移動をしなかったのかとイノアに訪ねた。

「ユニコーンはズメウには居ないんですよ。ユニコーンが生息している地域はここピズ・コ・サイから東側の地域にしかいないんです。ちなみにユニコーンは一ヶ月程何も食べなくても生きていけるんです、すごいでしょう?」

 イノアが答えるよりも早く、嬉しそうな顔をしながらセヴェリが答えてくれた。彼の表情は明るく、ユニコーンを見る視線が熱いことに気づく。どうやらセヴェリはこのユニコーンという動物が好きらしい。

「すみません、ケイガ。私はあなたと一緒にいるうちに私達フレア族と同じ感覚を持っていたようです。フレア族以外の人間はこの地に住めないということをすっかり失念していました。事前に分っていれば、フォン・シ・ゾムに到着するまでの間、あのように毛皮に包まれてまるで荷物のようにさせることはなかったんですが。一応もっと暖かい防寒着は持ってきてますので、寒かったら言ってください」

 申し訳なさそうにイノアが言った。

 何重もの毛皮に頭から包まれてレイヴィルにしがみついていた姿は傍から見て失笑をかうものだったかもしれない。そんな自分を想像して、慧牙は少しだけ顔を赤らめると手袋を履きなおした。

「あいつは? そういえば一人で出て行ったきり戻ってこないけど」
「レイヴィルは一人でユニコーンに乗って先に向っています。私達の進む道に危険がないかどうか確認しにいっているんですよ」
「ドラゴンファングのリーダーなんだろ? そんな奴が自ら先陣切るのか」
「そういう人なんです、レイヴィルは」
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この世界は僕に甘すぎる 〜ちんまい僕(もふもふぬいぐるみ付き)が溺愛される物語〜

COCO
BL
「ミミルがいないの……?」 涙目でそうつぶやいた僕を見て、 騎士団も、魔法団も、王宮も──全員が本気を出した。 前世は政治家の家に生まれたけど、 愛されるどころか、身体目当ての大人ばかり。 最後はストーカーの担任に殺された。 でも今世では…… 「ルカは、僕らの宝物だよ」 目を覚ました僕は、 最強の父と美しい母に全力で愛されていた。 全員190cm超えの“男しかいない世界”で、 小柄で可愛い僕(とウサギのぬいぐるみ)は、今日も溺愛されてます。 魔法全属性持ち? 知識チート? でも一番すごいのは── 「ルカ様、可愛すぎて息ができません……!!」 これは、世界一ちんまい天使が、世界一愛されるお話。

公爵家の末っ子に転生しました〜出来損ないなので潔く退場しようとしたらうっかり溺愛されてしまった件について〜

上総啓
BL
公爵家の末っ子に転生したシルビオ。 体が弱く生まれて早々ぶっ倒れ、家族は見事に過保護ルートへと突き進んでしまった。 両親はめちゃくちゃ溺愛してくるし、超強い兄様はブラコンに育ち弟絶対守るマンに……。 せっかくファンタジーの世界に転生したんだから魔法も使えたり?と思ったら、我が家に代々伝わる上位氷魔法が俺にだけ使えない? しかも俺に使える魔法は氷魔法じゃなく『神聖魔法』?というか『神聖魔法』を操れるのは神に選ばれた愛し子だけ……? どうせ余命幾ばくもない出来損ないなら仕方ない、お荷物の僕はさっさと今世からも退場しよう……と思ってたのに? 偶然騎士たちを神聖魔法で救って、何故か天使と呼ばれて崇められたり。終いには帝国最強の狂血皇子に溺愛されて囲われちゃったり……いやいやちょっと待て。魔王様、主神様、まさかアンタらも? ……ってあれ、なんかめちゃくちゃ囲われてない?? ――― 病弱ならどうせすぐ死ぬかー。ならちょっとばかし遊んでもいいよね?と自由にやってたら無駄に最強な奴らに溺愛されちゃってた受けの話。 ※別名義で連載していた作品になります。 (名義を統合しこちらに移動することになりました)

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
「普通を探した彼の二年間の物語」 幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

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