Existence

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第十話 混乱

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 自分のいた世界とはかけ離れた見知らぬ場所で、兵士の格好をした外国人に思いきり殴られた。

 一瞬、意識が飛びかける。物心ついた時から喧嘩っ早くいつも傷を作ってきた慧牙にとって、一発殴られるぐらいでは動じない。どんなに強そうな相手であっても、喧嘩に関しては恐怖を感じた事はなかった。やられればやられるほど頭に血が上り、奇妙な高揚感に包まれて相手の頭を地面に叩きつけるまでの時間を楽しんでいるほどであった。

 おかしな出来事が重なったせいで、精神が知らぬ間に乱されていたせいなのかもしれない。この檻の中が暗いせいで兵士の拳をよく見えなかったのが原因なのかもしれない。慧牙はいつもみたいにケンカで高揚し始めるどころか、逆にじわじわと湧き上がってくる焦りを感じることしかできなかった。

 やられたらやり返す、それが今までの慧牙のやり方だった。なのに地面に座り込んだまま起き上がることができない。これまで喧嘩した相手にこんなにも大きな外国人はいなかった、ということだけかもしれない。ただ一つはっきりと分かったのは、これは完全に夢ではないということであった。

 焦燥感に駆られて慧牙は暗闇の中で兵士を睨みつける。この後、どうすればいいのかと。僅かな時間の中で考えるしかなかった。

 手錠を嵌められた状態で、自分よりもずっとガタイのいい兵士を打ち負かすことはできるのだろうか。もし仮に打ち負かすことができたとして、ここから脱出できたとして、一体どこに逃げればいいのか。

 全く検討もつかなかった。

 そして兵士の腰に下げられている剣を抜かれてしまったら、完全に自分は負けるだろうと感じていた。その剣が本物かどうかは分らない。だけど偽物であったにしても、兵士が動く度に重そうな金属が擦れる音は軽い素材などではないなと分かる。

 あの剣で叩きつけられれば相当のダメージを食らうだろうと考えた。下手をすれば……そこまで考えて慧牙は頭を振ると、考えるのをやめてヨロヨロと立ち上がる。口の中に溜まっていた血を勢いよく地面に吐くと、兵士に向って突進していった。

 兵士のすぐ目の前まで行き、両手を思い切り振り上げた。兵士の頭を狙い拳を振り下ろす。けれどもあまりにも分り易すぎる慧牙の行動を見て、兵士はうすら笑いを浮かべながら片手で慧牙の攻撃を封じ込もうとした。

 兵士の手が慧牙を捕らえる寸前、突然上体を屈めて右足で鎧を纏った兵士の左足を掬った。まさか足元を攻撃されるとは思っていなかったのか、兵士は途端に姿勢を崩すと奇妙な声を上げた。よろめいたのを見逃さず、すぐさま兵士に体当たりを食らわす。慧牙の予想ではこれで兵士は地面に手をつけるはずだった。体格にかなりの違いはあるけれど、ふいをつけば自分よりも大きな相手を負かすことはできると判断していた。

 まずはとにかく、何としてもここから出る必要があった。それには今、目の前にいるおかしな言葉を話す兵士を倒すか、もしくはこのでかい兵士をかわしてここから逃げるしかなかった。こんな不利な状況で、真っ向から喧嘩して勝てる相手だとは思っていなかった慧牙はなんとか隙を作って、今開かれている檻から出ることが先決だった。

「! くそっ、離せっ!」

 かなりの勢いで兵士に体当たりを喰らわしたにも関わらず、兵士は地面に手をつけることはなかった。大きくよろめきはしたが、足はしっかりと地面についており、兵士の脇を走りぬけようとした慧牙はがっしりと押さえ込まれてしまった。

「そんな弱い体当たりが俺に効くとでも思ったのか? 不意をつくところまでは良かったが、お前みたいなチビがぶつかってきたとしても、倒れるわけないだろう。まだ痛い目にあいたいようだな」
「離せっていってんだろ! それに何言ってやがんだ、さっきからふざけたことばっかしゃべってんじゃねーよ! てめぇらの言ってることは分かるが、なんでこんなことするのかさっぱりわからねぇんだよ! ちゃんと説明しやがれ!」

 身体を抱え込まれて、身動きの取れない慧牙は兵士から逃れようと暴れる。兵士は暴れだした慧牙を大人しくさせようと、手錠を鎖を掴んで天井に向って持ち上げた。足が宙を舞う。先ほどの傷に手錠が食い込み、顔をしかめた。

「いっ! ……! 離せっ!」
「気の強い奴だ。少し痛い目にあわないと分らないらしいな。どこから来たのか知らんが、我々の聖なる土地に不法に侵入した罪は重いぞ。隊長が戻るまで貴様の尋問は待つ予定だが、今から始めてやろうか」

 兵士は無防備になった慧牙の腹目掛けて、重いパンチを一発入れてきた。その瞬間、衝撃で呼吸が数秒間止まる。胃から何かが込み上げてきて、慧牙は必死にそれを堪えた。

 このままじゃまずい。力の差がありすぎる、それに手錠を嵌められてたんじゃ、マジでこいつにやられる。他になんか方法はないのかよ。

「さっきから何を騒いでいるんだ? ……おい、そいつを調べるのは隊長が戻ってきてからだと言っただろう、勝手なことをするな」

 慧牙達の騒ぎを聞きつけたのか、知らぬ間に同じような格好をした兵士がきていた。開かれた檻の中に入ってきたもう一人の兵士は慧牙を片手で押さえ込んでいる兵士よりもさらに背が高く、鎧を着ていても逞しい体つきであるのは一目瞭然だった。痛みを堪えながら細目でもう一人増えてしまった兵士を見て、慧牙は心の中で舌打ちをした。

「罪人が訳の分らない言葉で騒いで、おまけに逃げ出そうとしたんです」
「不用意にここを開けるからだろう。誰がここを開けていいと言った? 勝手なまねをするな」
「ですが」
「言い訳は聞いていない。なぜお前はここを許可なく開けたんだ? 隊長が戻るまで勝手な行動はするなを命令を受けていただろう?」
「すみません、けれどこの罪人があまりにも不相応な態度で威嚇してきたものですから。言葉が通じないのなら、行動で分らせようと思いまして……。それと、こいつは言葉からしてヴァイテの民ではないかと思います」
「そんなことは貴様に聞いていない。それにヴァイテの民など地中深くに潜ったまま出てこない土竜みたいなものだ。土竜が言葉など話すのか? 鼻で土を掘り返しているだけであろう。それとも、お前はこれまでに話す土竜に会ったことでもあるというのか?」
「いえ。ですが全くと言っていいほど聞いた事のない言葉ですし、邪神の民どもの言葉とも違う。邪神の民の話す言葉は聞き取りづらいですが、我々とほとんど変わらない言葉ですし、それ以外に違う言葉を話すものなどいないものですから」

 そこまで言うと最初に来た兵士は手を降ろし、慧牙を下へ降ろした。

「邪神の民の言語と我々の言語を同じだと言うのか? ふざけたことを言うな。慈悲深く、この世で最も偉大なる我らの神、聖神スピリトゥス様の忠実な民である我らユーリャ族と、邪神であるドラゴンを崇める狂った東の民どもを同じだと言うのか?」
「いえ、そういうわけでは」

 邪神ってなんだ、邪神の民?

 格好と同じように兵士達の会話も同じく慧牙にとっては全く理解できない内容だった。

 本当に映画か何かの劇の中に置かれているような気分になってくる。劇であればこれは芝居であって、ただ演じているだけにすぎない。台本に書かれている台詞を話しているだけだ。だけど、劇の中で本気に人を殴ることはあるだろうか、顔を殴られて口内から血が出て、腹を強く殴られて痛みに堪えている慧牙にとってこれは劇でもなんでもなくただ現実に起っている出来事でしかない。

「こいつはあの民どもとは見た目は違うが我らの聖なる土地へ勝手に、しかも単独で乗り込んできたんだ。東の民に違いない、あの者どもは野蛮で頭が悪いからな。ヴァイテの民は土竜だから海を渡ることはできない。こいつがおかしな言葉を使うのは知性のかけらもないからだ。まともに言葉すら覚えられない者も多いのだろう。おい、お前。ここに居ていいのは我らの神とユーリャ族だけだ、それを承知でここに来たらどうなるか分っているだろうな?」

 後からやってきた兵士は慧牙の顔を覗き込みながら、気味の悪い笑みを浮かべる。間近に顔を近づけられて、慧牙はまだ痛む腹で顔を歪めながらも、憎しみを込めてその兵士にも唾を吐いてやった。

 瞬間、右の頬に強い衝撃が走る。続けて腹に再び衝撃が走った。一人の兵士に押さえ込まれて、身動きの取れない状況でもう一人の兵士が狂ったように慧牙に暴力を振るう。何度も殴られて慧牙はぐったりとしている。怒りに身を任せて殴り続けた兵士は最後に慧牙の首を強く掴んできた。

「生意気なガキだ、二度と唾が吐けないように口を縫ってやろうか?」

 今、この兵士はなんといったのだろう。冗談にしてはひどく出来の悪い冗談だ。この狂った兵士達から逃れて、ここから出るためにはどうすればいいのか。完全に頭の中は混乱していた。とにかく今すぐどうにかしないと、このままでは殺される。

「……は、離せっ」
「なんだ、ちゃんと分かる言葉を話せるじゃないか。なぁおい、こいつは今、離せと言っただろう?」
「え? あ、でも先ほどまでこの罪人は聞いた事もない言葉を話していたんですが……そうか、俺を混乱させる為にわざとおかしな言葉を使って、その隙に乗じてここから逃げようとしていたな!」

 後から来た上官らしい兵士に嘘をついたと思われるのを恐れたのか、慧牙を捕らえていた兵士は慧牙を思い切り突き飛ばすと怒声をあげた。両手で腹を押さえながら苦しそうに慧牙は二人の兵士を見上げる。

「ここ——どこなんだよ……あと、今すぐここから出せよ」

 不思議だった。初めて聞いた言葉を使って自分の伝えたいことを話すことができる。どうしてそんなことができるのか理由も分らず、慧牙は半ば混乱しながらも、早くここから出たい一心で兵士達の話す言葉で説明を始めた。

「俺は気づいたら、ここにいたんだ。聖なる土地なんて……そんなのは何も知らない。どうしてこんなとこに閉じ込めるんだ。俺は邪神だとかの民じゃない。俺はただの日本人だ。——お前達は、一体何者なんだっ」

 言い終える寸前、慧牙は血を吐いた。

「気づいたらここにいただと? ここは陸続きの土地ではない。聖地であるここは島だ。ここに来るには船でしか来られない。もしくは空だ。気づいたら辿り着いたという言い訳は苦しいぞ。貴様はヴァイテの民ではなく、東の民、フレア族だろう!? また性懲りもなく我らの聖地を奪いにきたのだろう!」

 慧牙を突き飛ばした兵士は話しているうちに怒りが増したのか、腰に携えていた剣を抜くと目の前に切っ先を突きつけてきた。言葉が通じるようになり、やっと事態が進展するものと思っていた。なのに成り行きはさらに悪化してしまったようで、ここから出るどころか慧牙の命がさらに危うくなった。

「だから、俺は何もしてないって。ここって島なのか? そんなことも俺は知らないんだ。家にいたはずなのに、気がついたらここにいたんだ——。その、ヴァイテとか、フレアとか言われても全く知らない。奪いにきたのとか言われても、ほんとにわかんないんだよっ」

 たどたどしく初めて使う言語で説明するも、剣を突きつけている兵士はさらに切っ先を慧牙に近づけてくる。さんざん慧牙を殴った上官の兵士も止める様子はなく、不審そうな顔つきで慧牙の様子を伺いながら口を開いた。

「着ているものも見慣れない服だ。言葉は聞き取ることはできるが、邪神の民とも我らの言葉とも発音がおかしい。ヴァイテの民ではないことは確かだが、一体どういう目的で単独でここに来たのだ。探したが仲間はいなさそうだったしな。神から託された聖地にどうやって侵入したのやら。もしかしたら……なんだ!?」

 突然、頭上で爆発音が聞こえた。爆発音とともに慧牙のいる牢屋も小刻みに揺れる。兵士達はお互いの顔を見合わせると、慌てた様子で慧牙をそのままに踵を返した。

「あいつらだ! しつこい奴らだ!」
「てめーら逃げんのかよ!」

 ここでこの兵士達がいなくなってしまっては、ここから出られる手段が絶たれてしまう。かと言って、このまま兵士達がこの場にいても命の危険はあったが、いなくなってしまっては困るとばかりに慧牙は立ち上がると、剣を突きつけていた方の兵士の背中に飛び掛った。

「邪魔だ、離せっ! お前はあとでたっぷりと尋問してやる」

 背後から飛び掛ってきた慧牙をいとも簡単に振り払うと、兵士は再び檻の鍵をかけてどこかへと行ってしまった。またも爆発音が聞こえ、一人残された慧牙の身体にもその振動が伝わってきた。

 今度はなんだ!? 何が起ってるんだ、あいつらって誰なんだ? って、そんなことより俺をここから出せよっ!

 またしても何かが起った。次から次へと起る出来事についていけない。ついていけないけれどもまずここから出ることが先決だと慧牙は思い、鉄格子を掴むと渾身の力で揺さぶった。

「戻ってこい! ここから出せっ、さっきから何度もいってるだろが! いい加減にしねぇとてめーら全員ぶっ殺すぞ、くそが!」

 何度も何度も人間の力では到底外せない鉄の格子を揺さぶり続けた。無駄だと分っていても他に手段が浮かばない。慧牙はただ目の前にある鉄格子を揺さぶり続けた。

 どれだけ揺さぶっただろうか、腕の筋に痛みが走った時だった。鉄格子の一部がグラリと動いたような感覚を覚えた。慧牙はすぐ手を止めると、もう一度確かめるように鉄格子を揺さぶってみる。するとちょうど鍵がかかっている部分の鉄格子が他の場所よりも大きく動いた。暗い中、慧牙は目を凝らして鍵のかかっている部分を注意深く確認してみた。

 兵士は焦っていたのか鍵は中途半端な状態でかけていたようだ。錠前がプラプラと揺れている。慧牙は錠前を手に取ると、ゆっくりと掛け金を引き抜いた。錠前が音を立てて地面に落ちてた。

 兵士達の来た方向に向って走る。辺りは暗いが奥には灯りが見えて、慧牙はそれを目指して走った。すでにここに兵士達の姿はなく、他の檻もあったが中に人がいるような気配は感じられなかった。灯りのすぐ近くまで辿り着き、その灯りが木製の簡素な机の上に置かれたランタンであると分ると、慧牙は再び驚いた。

 電気も通ってないとこなのか? 本当にここは一体どこなんだ。

 ふと気がつくと、慧牙のジャケットが机の上に置かれていることに気がついた。今の今まで自分が着ていたダウンジャケットを盗られていたことに気がついてなかった。咄嗟にジャケットを掴んで着ようとした。けれども手錠を嵌められていることに気がつく。慧牙はあの兵士達が再びここにやってこないかと周囲を警戒しながらも、恐る恐る机の引き出しを開けてみた。するとそこには慧牙の予想通り鍵が入っていた。祈るような気持ちでその鍵を素早く取ると、手錠の鍵穴に入れてみた。カチリと小さな音が聞こえる。

 手錠を外すことができた慧牙は、すぐに手錠を地面に叩きつけるとダウンジャケットを着た。そして地下牢から上階へと上がると、再び爆発音が鳴り響いた。地下と同じように大きな石を積み上げて出来ている細長い通路を歩く。ここは地下とは違って、壁にある蝋燭の炎で視界は比較的良かった。初めて見るどこかの建物内を歩く、人影はない。通路の突き当りに扉があった。この奥に先ほどの兵士がいた場合どうしようかと躊躇したが、ここで立ち止まっているわけにもいかず、慧牙は一呼吸してから扉をゆっくりと開けてみた。

 警戒しながら、扉の奥に入る。そこにも人影はなく、もぬけの殻だった。ガランとした広い部屋の中には長テーブルと椅子が数脚あるだけで、石壁には小さな窓が何個かある。長い槍や剣などが壁に立てかけられていた。小窓にはガラスが張られておらず、外気が室内に流れ込み冷たい風が慧牙の頬を触った。

 外で何やら叫び声が聞こえてきた。何が起っているのか分らない。だけど何か尋常ではないものを感じた。慧牙は他の扉よりも大きな扉を部屋の中で見つけると、そこを開けてみた。辺りは暗く、慧牙は自分が気を失っている間に夜になっていたと気づく。実家にいた時は明け方近かった。それから考えると一日のほとんどを全く知らない場所で過ごしたことになる。ふいに家族の顔が浮かんだ。

 あいつら、俺のこと探してるだろうな。

 そう思うと、苛立ちが募ってきた。特に実の弟である琉牙のことが気にかかる。また心配されるのかと考えると、なんとも言えない怒りが沸いてきた。早く家に戻らないと面倒なことになる。家族に心配されるのが一番嫌だった。イラつきながら慧牙はダウンジャケットのポケットに入れてあったはずの携帯を取り出そうとした。けれどもポケットの中身は空で何も入っていない。

「盗りやがったな」

 先ほどの兵士達に取られたと瞬間的に判断すると、慧牙は苛立ちを抑えきれず感情をそのまま口に出していた。すぐ近くで聞こえてくる兵士達の声や爆発音、慧牙はこの場所から逃げるように林の中へと走っていった。

 暗い林の中を方角も分らぬまま走り続けた。外気は冷たいけれども冬の寒さではなく、少し肌寒い程度だった。冬用のダウンジャケットを着ていなくても大丈夫そうな気温だ。

 慧牙は連絡の取れる場所を探そうと走り続けた。林の中をどの位進んだのか分らない、とにかくあの建物から離れて民家や公衆電話があればそこで連絡を取りたかった。そして林の切れ目に差し掛かった時だった。

「なんだよ……どうなってんだ!?」

 再び思ってることが口をついてでる。自分を檻に閉じ込めた兵士達と同じような格好をした者達が夜空に向かって何故か必死に弓を射っていた。その姿が点々と燃え上がる炎に照らしだされている。

 そこは昼に見た黒く大きな岩があった草原だった。騒ぎから逃れるように逃げてきたつもりだったが、逆に慧牙はその騒ぎの中心に入り込んでしまっていたようであった。

 あの建物からはそう遠くはない。草原のそこかしこに炎が上がっているのが見えた。咄嗟に夜空を見上げると、月が出ている。今までに見たこともないほどのたくさんの星が瞬き、その美しさに慧牙は息を飲んだ。けれどもそんな感傷はすぐに終わりを告げる。

 夜空に月が二つあるように見えた。星ではない、月と同じ位の大きさのもう一つの月があるのだった。夜空にある二つの月、一つは青白く、もう一つは赤っぽい色を放っている。慧牙は目がおかしくなったのかと手で擦った。

 その時、夜空に大きな鳥のようなものが現れた。

「何してんだ」

 どうやら地上にいる兵士達はその鳥と戦っているように見えた。訳が分からず初めて目にする光景に釘付けになる。

 その時、慧牙のすぐ目の前まで走ってきた弓を構えた一人の兵士が悲鳴を上げてばたりと地面に転がった。どこからともなく飛んできた槍に体を貫かれ、人形のようにパッタリと仰向けに倒れた兵士。それは檻の中で最初に慧牙の様子を見に来た兵士であった。

「!?」

 動かなくなった兵士へと向けられた視線は固定されてしまい、慧牙は飛び交う怒号の中で夢遊病者のようにヨロヨロと前へ歩き出した。鎖骨辺りから腰へと槍が突き刺さった兵士は大量の血を流し、目を見開いたまま絶命している。

 ——死んでいる、目の前で人が死んでいる。

 つい先ほどまで話をしていた人間が今、目の前で死んでいた。その瞬間、自分が今どんなに危険な場所にいるか把握した。慧牙は体内の血液が一気に流れる感覚を覚えた。頭の中が光の速さで覚醒する。

 ここから逃げないと殺される!

 逃げ場を探すため、大きく見開かれた瞳がせわしなく動いた。突然、頭上から鳥の羽ばたくような音がして、咄嗟に夜空を見上げる。先ほど見た大きな鳥が慧牙のすぐ近くまで来ていることに気づいた。そして、そこにはもっと強烈な光景が広がっていた。

「なんなんだよ、なんで人が……」

 目を凝らしてその巨大な鳥を凝視すると、その鳥の背には人らしきものが見えた。これほどまでに大きな鳥は見たことがない。その巨大な鳥の背に人が乗っているのだ。あまりの光景に慧牙はその場で固まってしまった。大きな鳥に乗った者は手に弓を持ち、同じく弓で応戦している兵士達を交しながら、次々と放つ弓を兵士に命中させていった。

 ありえない光景が目の前で繰り広げられている。右手の方向で何かに引火したのか、大きな爆発音とともに空に向かって新たな炎が立ち上がった。その炎に巨大な鳥が照らし出される。恐怖を感じながらも異様な光景に魅入られていると、鳥の背に乗っている人物の髪が靡いた。長い髪をそのままに、巨大な鳥に乗った者が真っ直ぐこちらに向かってくる。背筋にこれまでに感じたことのない悪寒が走り抜けた。

 鳥の背に乗った人物が弓を構えて真っ直ぐに自分を狙っていた。逃げられない、慧牙は次に襲ってくるであろう弓矢になす術もなくその場で固まってしまった。

「貴様! どうやって牢から出てきた!?」

 その時、背後から声が聞こえて慧牙は身を強張らせながらも振り返る。すぐ後ろには先ほど牢にいたもう一人の兵士が長い剣を振り上げながら、今にも慧牙に切りかかろうとしていた。前方からは弓、後方からは剣が迫ってきていた。どうしていいのか分からず固く目を瞑った。

 空を切り裂く弓矢の音と兵士の唸り声が轟いた。
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