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第5章
§38‐4 異変
しおりを挟む回廊を歩き執務室に到着した。扉前に控える護衛騎士が扉をノックすると、ジェイドの「どうぞ」という涼やかな声が聞こえる。
「おかえりなさいませ、ライゼル様」
「ありがとう。ご苦労様」
扉を開いてくれた護衛騎士に礼を言い、執務室に入る。グレンは机に乗った大量の資料に立ち向かっているところだった。
結婚式に際して遅れていた政務があり、ここ数日は休む暇もないほど追われていた。しかし、紙の山もだいぶ低くなり、昨日からは落ち着いてきたという。
「ただいま」
「おかえり」
顔を上げたグレンが、ふっと目を細める。
俺はグレンの傍に寄り、ただいまのキスをする。
側近の皆はすっかり見慣れたようで、何の指摘も飛んでこない。
「どうだった」
「バノーテが情報をまとめた資料をくれたんだ。とても強そうだったし、一度手合わせしてみたいと思ったよ」
「そうか」
言葉少なに相槌を打ち、俺の髪に触れる。俺はバノーテと話したことを思い出せるだけ伝える。
「ユーディア王国に関する噂と、国境付近に出現した魔獣についての報告書か……しっかり目を通したほうがよさそうだな」
グレンはユーディア王国の噂をまとめた報告書の半分をジェイドへ、残りを自分の机に置いた。
「こっちは俺たちで確認するよ」
「頼む」
国境付近に出現した魔獣についての報告書は、俺とタイク、ブラスの3人で振り分ける。
各々が振り分けられた資料を確認し、問題ない報告と精査すべき報告に分けていく。
報告書に目を通すこと一刻ほど。俺は1週間ほど前に出現したという蜘蛛型魔獣についての報告で紙をめくる手を止めた。
その蜘蛛型魔獣は、よく目撃される個体と体色が大きく異なり、毒々しい紫色だったという。
通常の個体は黒っぽい体色だ。色だけでも随分珍しい。
さらにその個体が吐いた物質により、草木が瞬時に蒸発するように枯れたという。
通常個体と異なる見た目、能力か。いかにも魔獣を実験体にした結果としてそれらしいのではないだろうか。ユーディア王国の噂が現実味を帯びる。
その冒険者パーティーが遭遇した個体は1体だったが、通常個体よりも動きが俊敏で見た目が変わっていたので深追いはせずギルドへ報告をあげたようだ。
捕らえられていたら調べることもできるのだが、冒険者たちの命には代えられない。彼らの判断は正しい。
「みんな、この報告書を見てくれないか」
俺は4人に資料を見せ、俺の所感を伝えた。
他にも通常個体と見た目が異なっていたり変わった能力をもっていたりする魔獣の報告を探したが、現状は見当たらなかった。
「この蜘蛛型魔獣については騎士団と冒険者ギルドに周知をする。また、今後は騎士団も冒険者ギルドと連携し、国境付近の調査に当たる。合わせて各領地の代表者を城に集め、緊急時の民たちの避難について会議を行う。ジェイド」
「至急、各領地に召集をかけます」
グレンの澱みない明確な指示を受けたジェイドが早速部屋を出ていく。
「タイクとブラスも、城内や騎士団のみんなと協力して事に当たってくれるかな。俺はグレンと一緒にいるから護衛の心配は大丈夫」
「相分かりました」
「御意!」
タイクは城内のまとめ役でもあり、ブラスは騎士団の状況を報告してもらうためにもフーベルたちと一緒にいてもらったほうがいい。
俺の言葉に従い颯爽と部屋を出て行った二人を頼もしく思いながら、ソファの背にもたれかかる。ずしり、と疲れが肩にのしかかる。
「ふぅ……」
「さすがに疲れたか」
「うん、身体がっていうより、頭を使った感じだな」
グレンは俺の右隣に移動し、もたれかからせるようにその広い胸で抱きしめてくれる。
温かな体温のおかげで心のざわめきが少し落ち着く。彼の匂いは、なぜこんなに安心するのだろう。
「ライゼルが動いてくれるおかげでとても助かっている。ありがとう」
低い声に鼓膜を揺らされる。心地よい音に頷き、グレンの頬に手を添える。少し硬い髭の感触が指先に伝わる。
「俺だけじゃない。みんなグレンの役に立ちたいと思っているから、遠慮なく頼ってくれ」
「遠慮などするものか。頼り倒してやるさ」
「ははっ、いいね、その意気だ!」
軽口に笑い、ちゅっ、と啄むキスをする。
離れようとした俺の頭の後ろにグレンが大きな手を差し入れて止める。その強引さに、心臓が跳ねた。
今度はグレンから深く味わうようなキスが返ってくる。舌が絡み、熱が移る。思考が溶かされていくようだ。
誰もいない執務室で、神妙な話をした後だというのに。
「んっ……だめだ、ここじゃ」
かろうじて、理性をかき集めて押し返す。
「……すまん」
名残惜しそうに唇が離れ、熱っぽい瞳が俺を映す。
「……夜に、な」
俺の小声を拾った耳が直立になる。
「約束だぞ」
「あぁ、約束な」
大きな身体を目一杯使い、俺を抱きしめる。 感じる苦しさは、愛おしさに変わっていく。
しばらくそのままでいたグレンは腹を括った表情に変わり、俺を離すと机にまっすぐ向かった。
その表情は段々と鬼気迫った雰囲気に変わっていき、「今夜は私室に仕事を持ち帰らないようにする」という並々ならぬ決意がありありと漂ってくるのだった。
期待に応えるためにも、俺も覚悟を決めなくてはならないだろう。
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